従僕に案内された部屋では、丸っこいと形容すべき男が椅子に座っていた。丸い眼鏡、禿げた頭。落ち着いてはいるが、それでもなんとなくある種の貪欲さが目に宿っている気がした。とはいえこういう初対面での偏見は大抵は失敗につながるので七割ぐらい差し引いて捉えるとしよう。
「君がバクスター君だね?」
彼は立ち上がり、私に握手を求めてきた。総帥は忙しいのかな。まあいいや。部屋の隅に従僕がいるので何かあったら証言してくれるだろう。それに実務家同士、面倒な作法なんかに煩わされるべきではない。話しているのは多少訛りのあるクウェーンズ。こちらが
「はい。ええと、総帥から来るように言われてとりあえず来たところです。準備もあまりできなくて申し訳ない」
彼の手は分厚い。物書きではないな。実験屋か? 私は声を抑えめに、少しかすれた感じにすることを意識する。このあたりは大学時代に練習していたし、今でもたまに訓練をしているので慣れたものだ。
「おお、これはすまない。改めて自己紹介を。ミスヴィッツという。今は
「ミスヴィッツ……!?」
フィーマが驚いたように言った。私でも知っているぐらいの有名人だからな。高圧合成化学で非常に賢い探索技術を編み出した第一人者である。すなわち大量の高圧装置を用意し、膨大な実験によって適切な条件を見出すのである。いやもちろんそれ以外の化学であるとか圧力下での平衡論とかの応用も当然ありますが、それ以上に数をこなすことの重要性を突きつけた人物だ。
「おお、後ろのお嬢さんは私のことを知っているようで」
「ええ、少し化学が好きなので。握手してもらえますか?」
「もちろんだとも」
ミスヴィッツは上機嫌になっている。フィーマの振る舞いについては、私の観察力ではどれだけ演技なのかはよくわからない。とはいえ、こうされて嫌にはならないだろう。
「長靴でお世話になっています。改めまして、サーロウ記念図書館館長代理、フィーマ・サーロウです」
「遅くなりました、私が館長のペレディル・バクスターです」
色々と酷い挨拶の開始になってしまった。とはいえ本来はこの人は企業の研究機関上がり、現場の人なので多少は許してもらえるだろう。
「そういう褒められ方をされたのは初めてかもしれないな。あまり嬉しくない評価をされることも最近は多かったもので」
彼は笑って言う。この人がいなければ高圧化学合成が二十年か三十年遅れていたと言ってもいいだろう人物だ。そして彼のおかげで
「それで、総帥から何か聞いていませんか?」
私はミスヴィッツ氏に尋ねる。
「ああ、例の雑誌の話だよ。私もちゃんと目を通したわけではないんだがね、うちでも化学系で似たようなことをしているから協力できるならしたいと思って、ここの総帥にそんな話をしたら担当者を呼ぶと言ったんだよ。午後は別の予定があるからということだったが……」
「彼も忙しいですからね。ミスヴィッツ氏も大変でしょう」
「いやいや、今はこっちの学会で講演を聞きに来たついでさ、国際交流は大切だよ」
国際交流ねぇ。陣営同士ではなく、陣営の一部の組織が連絡を出してくるあたり向こうも一枚岩ではない。とはいえ我々はそもそもまとまるだけの力がないんだがな。笑えない話である。
「……ところで、私がやろうとしている雑誌の領域はご存知ですか?」
「核物理学だろう? うちでもやってはいるんだがね、いかんせん量が少ない。酸だの塩基だので対応しようにも難しいし、なにせ数分間で壊れてしまう。液体空気で凍らせればいいというわけでもないのだ」
「大量の
私の言葉にミスヴィッツ氏は頷いた。
「そうだ。ただね、私としてはもっと先を見ている。高圧容器については知っているかね?」
「……私よりも彼女のほうが詳しそうなので、彼女に聞いても?」
そう言うと彼は驚いたような顔をした。なんだよ、紳士より女中のほうが化学に詳しくて何が悪い。とはいえ女性がその手の分野に詳しいことは少ないという前提を考えればむべなるかな、というやつだ。第一印象を使いすぎるとこういうところで失敗するので程々にしよう、と私も考える。
「基本的には分厚い鋼鉄の容器が必要になります。しかし内部の気体と鋼鉄の
そう言ってフィーマは私からミスヴィッツ氏に視線を向けた。
「そう。分厚くなるのだ。透過線でも見通せないほどに」
「だから
私は呟く。そういえばそんなことを昔に書いたな、と思い出していた。
「まあ、どこまでうまく行くかはわからないものさ。ただね、これは試して、試して、そして試せば答えが出るものだ。悩むよりも手を動かせばいい。統計処理は得意な人に任せるとも」
「その実験を効率良く、そして同じ条件でやるのが難しいのです。統計処理のためには良質な結果が必要、というのは良く知られた事実ですが、あなたはその基盤を作った方だ」
私の言葉に彼は嬉しそうに口角を上げた。ああ、立場とかいうものがあるのだろうな。若い人から褒められるのはそれは楽しいだろう。いいことだけれどもね。我々も老人にはちゃんと敬意を払うべきである。それはそれとして乗り越えさせてもらうのだが。
エチレンの固体重合体は、(a) 当該気体のいかなる部分における温度も爆発的分解が起こる温度に達することが防止されている状態で、少なくとも1200気圧の圧力に圧縮されたエチレンを摂氏100〜300度の温度に置くことで、あるいは(b) 初期に存在する許容酸素量がエチレンの爆発的分解を引き起こすには不十分である状態で、少なくとも500気圧に圧縮され、かつ3パーセントを超えない少量の遊離酸素を伴ったエチレンを、反応を誘発するのに十分な高温に置くことで製造される。
Imperial Chemical Industries, R. O. Improvements in or relating to the Polymerisation of Ethylene. GB 471590 A. 1937.