「お嬢様」
食事が終わり、私が
「なんでしょうか、ラドウィック」
「冬明けに、しばらく暇を頂ければと思いまして」
「……いや別にいいけど、期間と行き先は?」
もし彼が辞めるとかであれば普通に推薦状の何枚でも書くのだが、ただ彼のことだから自分で書いたほうがいいものができるとか考えそうだよな。もちろん違法である。まあ、もし彼がそういう事をしたのなら罰金ぐらいは払ってやってもいいのだが。
「
「いやそこまでラドウィックがする必要は……いや、したいの?」
「させていただければ、と」
ラドウィックの声色は真剣だ。とはいえ、私からは断る理由はない。それに彼もここの執事以外の顔もあるだろうし、人生の全てを私の子守に捧げる義理もないわけだ。とはいえ彼は昔の仕事をそこまで語りたがらないし、今の仕事より楽だったというわけではないのだろう。
「……少し詳しく事情を説明して欲しい。私はそのあたりのことをよく知らないし、ラドウィックが信頼できると思っている点であっても、私から見て決定的な問題があるかもしれないから」
私の言葉にラドウィックが頷いた。こういう案件で、ラドウィックが執事みたいな振る舞いを見せるのは珍しい。そんな話をしていればミセス・ブラッケンとフィーマも椅子に座っていた。これだとまるで家族会議だ。
「私の昔の同僚は、色々と苦労をしています。彼らに仕事を提供できれば、と思いまして」
「……適切な投資無しに、情報が手に入ると上の方は思っているので?」
私は念のために確認する。間諜騒ぎみたいなものはあるらしいが、ラドウィックを見る限りおそらくそういう種の仕事をしている人間はどこにでもいるのだろう。そして大抵は苦労しているのだ。彼らのおかげで平和が保たれているといいのだが、実態はどうであることやら。
「陸軍は金がないのです。統計を見てもらってもいい」
「そういう時に王室費とか、野党から色々言われる不透明な資金とか、政府の操り人形みたいな企業を使うべきでは?」
「そういうものは海軍の仕事です」
「やっぱりこの国の軍は碌でもないのでは?」
私の言葉をラドウィックは否定しなかった。とはいえ人を動かすのにはとにかく金がかかるのだろう。私でさえ受け取っている額を全力で回しても三十人かそこらを雇える程度であり、そして本来それは使用人への給与とかとして使われてしまう金なのだ。そして一つの陣営を探るのに三十人ではどう考えても足りないだろう。
「……そういう人達に物理学だの化学だのの素養は?」
「お嬢様に比べれば、ないでしょうな」
「私を基準にして勝てるやつは……あまりいないんじゃないかしら」
というかそういう人材は普通は研究とかの方面に進むべきだろう。もし彼らが遠い異邦でせせこましく本を買ったり新聞を読んだり執事の演技をしているなら人員の無駄と言うものだろう。まあ人がいないからどうにかして一人あたりでできる作業を増やして給料を抑えようと考える
しかし
「そういう役割は現地で大学生に依頼することができるでしょう。しかしその人物を探すこと、信頼できる業者を探すこと、電信の文面を作ることはそういう専門知識がなくとも可能です」
「それはわかる」
別に数学を理解していなくとも実験はできるのだ。もちろん電気力学とかにおいては定式化がかなりうまく行われて数学は物理学の言語である、という意見が確立してしまったのもあり、物理学の一部の分野では理論屋以外が入りにくくなっていることは否めないが。
「……私がここで働けているように、彼らにも働ける場所を、友人として作ってやりたいのですよ」
「国家の必要のために動く人物が、そういう情に惑わされていいわけ?」
「動くためには安全が必要なのですよ。退路を断たれ、怯えた人間は確かに一度は使えるでしょう。戦争中であれば、そういうことも許される。しかし平時であれば、関係は維持されねばならないわけです」
「おや、私はこの手の間諜というものは異国で戦争の火種を起こす類の悪党だと読んだのだけれども」
「否定はしませんが、こちらに延焼されない程度には気を配りますとも」
やはりラドウィックは紳士的な人物である。このような公僕たちに支えられて我らが
「わかった。それはそれとして適宜報告はするように。絵葉書でもいいから」
「かしこまりました。主人のいない間に気楽な旅行を楽しむ執事として振る舞わせていただきます」
「主人から暇を貰ったとかにしておきなさい」
というか最初からラドウィックはそう切り出していたよな。まったく、自分から台本を無視するとは。
「なにかお土産もくださいね」
フィーマが言う。ミセス・ブラッケンも頷いていた。
「……小説本と、何か化粧品でも買ってきましょう」
「経費は?」
私は言う。このぐらいは普通に屋敷から出してもいい。まあ監査の担当はミセス・ブラッケンだが。少なくとも使用人が休暇を取るなら、気楽に過ごせるように気を配るのが雇い主としての務めだろう。
「今までの給与を積み立てております。私的な旅行でもありますので、このぐらいは自分で払わせてもらいますよ」
ラドウィックは笑顔で言った。とはいえ癪に障るので土産代として多めに渡しておくとするか。
EVERITT, Nicholas. British Secret Service during the Great War. 3rd ed. London: Hutchinson & Co., 1920.
ニコラス・エヴェリット『大戦中の英国秘密部』、第三版、1920年