明日までに原稿は郵便で届けると総帥に約束して、渋るところ彼にはなんとか帰ってもらった。いやあ、旧サーロウ邸に住んでいるとは何度か言ったことがあったが直接やってくるとは思っていなかった。
「……さて、ミス・バクスター」
「はい」
私は執事のラドウィックに向き合う。色々と言い訳をしたいが、どうしても自分が更に追い詰められる気配しか感じられない。少なくとも総帥に対して友人としてならともかく女中としてはやってはいけないことを山程した後だからな。
「今日の分の仕事はしましたか?」
「あー……」
言われたことが想定外で、そして想定外になっていることがまずいもので、私は脳髄で回す思考を止めてしまった。電池とか発光体の網の交換、それに煤の掃除。女中がやるべきことはいっぱいある。
うちの屋敷は汽缶からの湯が水圧式の送水機で巡るようになっておりそこまで冷えるわけでもないので暖炉の手入れは最小限、気灯についても覆いとか気流とかをしっかり考えられているので掃除もそこまでしなくていい、上階に石炭を送るための小型昇降機もあるから階段を昇り降りする手間も少ない、とかなり整備されたところであるが、それはそれとしてやるべきことは多いのだ。本当なら蔵書の管理もしなくてはいけないのだが、それは私ではなく女中補のお仕事。
女中長の丁寧な計画によって、春の間の清掃計画は順調に進行中である。しかしそれは午前中の少なくない時間をしっかりとした清掃とか日常の家事に費やした結果であって、つまり少しでも手を抜くと目標未達になるわけで。
「……今すぐ、作業をしなさい」
呆れたような、しかし共犯者のような響きを込めて執事が言う。まあここで怒られてよかったなと思う。後から女中長に色々言われるよりよほどいい。なにせ彼女は丁寧に、理詰めで、なぜ私がそのような作業をしなかったことが全体の計画に影響するのか語ってくるのだ。
「わかりました!」
というわけで私は自分の分担範囲を片付けていく。そもそも人の出入りが少ないのと、誰かに見せるわけでもないので手間はそこまでないが、それでも女中長と女中補が帰ってきた時にはすっかりくたびれていた。それでもなんとかやるべきことを終わらせたのだから、偉いものだと思う。
「……お嬢様?」
そうやって外が暗くなり、気灯をいくつかつけた広義の客間で椅子に座り込んだ私を覗き込んでくるのは女中補のフィーマ・サーロウ。つまりは自称この屋敷と蔵書の後継者であり、実質的な図書室長であり、その他色々と文筆関連の技能と副業がある人である。私より少しだけ歳下だが、隣を歩いていると同い年扱いされることもあるぐらいの子。
「疲れているだけ。……髪、切った?」
職業女性の髪は常に短いというわけではないが、髪が短い女性は専門職に就いていると言ってもおかしくない、という話はある。清潔を維持し、労働時の災害を防ぐためということだ。あと保険金が安くなるという噂もある。女中長のミセス・ブラッケンは今は髪を伸ばしているが、現役時代はちゃんと切っていたらしい。
「『衛生検査派出所』で『適切な看護管理』をしてもらっただけです、いやぁ
耳の下ぐらいまで伸びている、ふわりとした栗色の短髪を手で払いながらフィーマは言う。私の黒髪をうまく丸めるのも面倒なので、
「訓練学校の卒業生でもないくせによくまあ大きな顔できるわね……」
「お嬢様も執事にそろそろ切って貰ったらどうですか?」
「最近男装することもないから伸ばしていたけれどもそうしたほうがいいかもね……あと、そうだ。あとで原稿を見て欲しい」
「女中の仕事ではないですよね、それ」
「給金を出すから」
「どれぐらいです」
「
「もう一声」
「ミセス・ブラッケンを見習いなさい、交渉はしすぎると悪評に変わるわよ」
旬のものを買えば安く済む、というのは多くの家政書に書かれていることであるが、じゃあ実際にそういうものを値切らずきちんと買い、掛け払いを期日前にしっかり払う事を忘れない人はまずいない。
うちではそういうところを多少減らすよりも気前よく払っていいということにしているのだが、そこまで余裕もない所も多いのだ。雑誌一つ購読したら消える額で使用人にとやかく言うのは無駄が多い気もするのだが、これは多分金持ちの傲慢というものだろう。
「二枚でどうでしょうか」
さも妥協しましたといいたげな表情と声色で、さらりと倍額を要求してくる。しかしそれぐらいの価値はあるからな。総帥が説明の専門家であれば、彼女は文章の専門家である。読んでいて詰まることがない、悪く言えば相手に疑念を持たせる間もなく主張を送りつけることについては相当な腕前だと私は考えている。
「
「交渉成立です」
そう言ってフィーマは私に手を差し出してきた。柔らかく握り返す。物書きをしている特有の
ちょうどその時、澄んだ電鈴の音が屋敷に響いた。食事の時間だ。私は重い身体を起こして、地下の台所へと足を運んだ。
2236. 紳士は概して自分で髭を剃ることを好むが、必要とあれば
The Book of Household Management, by Mrs. Beeton, 1861.
家政管理の本、ビートン夫人著、1861年