「ラドウィック!」
私は手紙を持って銀食器を磨いていた執事のもとに駆けつけた。
「なんでしょうか、お嬢様」
「えーとやられた! 私達の計画がエンツォ悪童団に抜かれてる!」
私の言葉に彼は深く息を吐いた。そして呆れたような視線を向けている。なんだよこっちからすれば結構な事件なんだよ。
「まず前提を整理しろ、ミス・バクスター」
「はい」
冷たい命令口調。とはいえ、私の思考の方向を定めるにはこのぐらいしてもらったほうがやりやすい。頭の中であらましを整理して、肩の力を抜いた時には、ラドウィックは紅茶を淹れてくれていた。
「……さて、その手の中の手紙は誰からですか?」
「ストヤルティ名誉教授から。計画していた核物理学の会議について、どうやらクローツルに知られたらしい」
私の言葉に、ラドウィックは眉を動かした。
「クローツル、というのはあの元大臣の?」
「そう。……ラドウィックは彼を知っている?」
フィーマに頼んで近所の図書館で詳しい経歴を調べてもらっているが、最低限は私も覚えている。
専門分野は建築学、離散数学、応用物理学。建築における弾性体計算の理論を発展させ、
「飯を奢られたことがある。敵に回したくない男だ」
ラドウィックがそういう形で知っているとは驚きだ。しかしラドウィックはかつて各地の文化の振興と調査の名目で色々やっていたわけである。そうすれば「未編入地域」への圧力をかけたがる拡大主義者と親和性はいいのだろうな、というのは理屈では理解できるがそこまで大物と繋がった経験があるとは思っていなかった。
「……結構な関係性の近さでは?」
食事を誰かとするというのは、決して小さな意味ではない。私はあまりそういう機会はなかったが、学生時代に議論をしながら食べたものはたとえ冷めていたとしても格別の味がしたものだ。
「地理的な距離のおかげだ。
「ああ、内海連邦構想……」
私の言葉にラドウィックは頷いた。古き王国制が残る
「具体的に、どこまで話が進んでいて、どこまでが彼に知られたと考えられる?」
「そこまでしっかりした話ではなく、研究者を招聘して会議を開くならどこがいいかとか、予算は各地の学会で分担するか、あるいは企業などに後援をもらうか、みたいな話をしていた。それを踏まえたとしか思えない提案が、クローツルのほうからやってきた」
ストヤルティ名誉教授から送られてきたのは、科学院へクローツルの送った問い合わせの写し。今後核物理学についての国際的な会議を開こうと思っているが、科学院としてはどう思うか、というもの。なお、その手紙では逆電子を発見したゴロヘシュト氏の貢献の話が踏まえられていた。
つまりは科学院は最近碌に仕事ができていないではないか、なら我々が独自にやることに文句は言うまいな、と告げたわけである。
「……彼らに理はあるのかね?」
「言語が
「言質を取られる、ということは物理の世界にはあるのですか? つまり、開催地が圧倒的に強い力を持つであるとか、あるいは主催者の名前に価値がある、というのは」
私はラドウィックの言葉に少し悩む。そもそも私はこのあたりのものに詳しくないのだが、なら誰が詳しいのかというと難しい。総帥も直接運営に携わるわけではないし、あのあたりでは学会が直接名前を出すことも多い。
「……そこまでではない、はず。あまり知られない分野の物理学の会議であれば、主催者が有名人であれば集まる注目はあったとしても、主催者が有名人になることはないと思う」
あくまで私の感覚だが、さすがに大きく外してはいないだろう。ラドウィックも頷いていた。
「それであれば
「……確かに綺麗に纏まるけど、そういうもの?」
「おそらくはクローツルもそこを目指すよう考えていたのでしょう。事前に調整を対面でするのであれば、何らかの形で人を集めて直接話したほうがよろしいかと」
「となると
私は頭の中で関係者を思い浮かべていく。なんというかどうしても
とはいえ、逆に言えばこの会議に呼んだ人物が
アメリカにおける自然科学研究がいくつかの分野で主導的な役割を担おうとつつあるということは、国の富のみならず、裕福なアメリカ人が公衆に対する多くの恩義があるという確信に貫かれているという事情にも基づいている。その国の強力な世論によって支えられるいるこの意識が、国家の関与の必要なしに、公共の目的のために多額の資金が至る所で意のままに使える状態にあるということを成し遂げているのである。
EINSTEIN, Albert, 1921. Einsteins amerikanische Eindrücke: Was er wirklich sah. Vossische Zeitung. 10. Juli 1921, Nr. 320 (Morgen-Ausgabe), 1. Beilage, S. 1.
アルバート・アインシュタイン『アインシュタインのアメリカでの印象: 彼が実際に見たもの』、フォス新聞、1921年