「……チカ嬢かい?」
そう声をかけられた時、私はここ数年で一番驚いたと言っていいだろう。三年半前の春に総帥が来た時以上の驚きだ。
「……初めまして紳士の方、私はバクスターと申します」
大使館で叩き込まれた挨拶の言葉が口から出てしまう。ああまったく、これで私が大君藩国の言葉を使えるとわかってしまうではないか。
「いや、わしや、アサウィや。大使館に良う顔出しておった」
丸い眼鏡を掛けた東洋人。流暢なキョーダン、宮廷所在地の響きだ。こちとら大使館の藩国閥の都合のせいで叫びながら斬りかかるような南方の無礼者の言葉しか話せないのだぞ。
私の母の故国、極東の大君藩国は西方に劣らない複雑怪奇な制度を持っている。婚姻同盟によって結ばれた皇帝と大君がいて、その下に百に届くかという小規模な軍事統治領たる藩国がある。そして皇帝と大君はそれぞれの藩国を支配する領主の顔色をうかがわないといけないのだ。
皇帝と大君による支配の度合いは、大陸帝国と同じか少し弱いぐらいである。つまり各地域が結構それぞれにやっているのだ。熱帯に植民地を持つところ、閉じた島の平野部、対外交易を支配していたところなどはかなり自由にやっている。というより中央集権が取り逃した地域が自分のところの意見を通しやすくするために海外勢力と手を組んだのだ。
ここで面白いのはそれでもなお皇帝と大君に対しての忠誠が消えていないところである。それができていない地域はたいてい紳士的な諸国家に食い荒らされるのだが、大君藩国はそう思って舐めてかかった諸国と結んだ条約をじわじわと改正していきながら、なぜか極東の一大勢力になっていた。いやもちろん他にも注目すべき勢力はあるのだが、こと物理学分野でまとまった人材がいるとなるとどうしても大君藩国がね。
共同連邦が大君藩国と同盟を組んである程度経つが、その過程でさらりと大陸帝国東部の大公国の「国境警備海軍」と「偶発的な戦闘」を起こして世界中の海軍に恐怖を与えた。数少ない軍艦同士の戦闘の結果いくつもの戦略が変更され、世界は軍艦建造競争の時代に入ったのである。
参考までに私の母は熱帯に植民地を持ち南方貿易もやっていた繋がりでそれなりに海軍を中心として力を持つ藩国の領主の娘である。ああいや、今の代の領主の姉かな? 共同連邦だと公爵とかに相当してしまうのだ。そんな娘を危ない海外に送るなよという話であるが、彼女の任務はとてもうまく成功したおかげで大陸帝国や連合議会のほうと取引していた藩国の派閥を抜いて共同連邦との同盟が成立したらしいのだから世界は奇妙である。
「……いやあの、私の面倒な事情は察しているでしょう」
クウェーンズを使って小声で言う。アサウィさんは十年ちょっと前に官費留学生として共同連邦に来ていたので当然クウェーンズを話せる。留学時代に三脚試験で上位を取ったことでこのような詰め込み型の試験は真の知性を評価するものではないのではなんて疑念を共同連邦の紳士たちに起こさせた程度には天才だ。幸いなことに、しばらく他の留学生を観測したところ彼が例外的であることが明らかとなったために紳士たちは胸を撫で下ろしたのである。
ちなみに彼にはこれといった専門分野はない。文字通りにないのだ。大君藩国には彼に見合った役職がないので大学では数学と物理学と化学と地球物理学を教えているという。
「じゃあバクスター嬢と呼ぼうか、なんでここに? それもこう……」
クウェーンズのほうも流暢だ。完全な上流階級の方ではないが、学術界であれば良いとされる水準にある。むしろあまり気取った言い方をしすぎても問題だろう。異言語として学んでしまうと微妙な調整ができなくなるという話はよく聞く。
「仕事ですよ仕事」
彼の出身地は宮廷所在地のあたりで、つまりは文化的中心地。アサウィの経歴も名門大学校の教授と名家の子であり、つまらないぐらいに名門の道を進んだ人物。逆に言えば、大君藩国が作り上げた対外戦略兵器である。軍艦とまでは行かないが、飛行機ぐらいの金額は平気でかけられているはずだ。
私が差し出した名刺代わりの葉書を見て、彼は合点がいったようだった。よかった。
「……良うやっているようですね」
「そちらの論文も読ませてもらっていますよ、理論系の考察はよく読めていませんが」
これは本当。圧縮された光媒質内部で起こる微小振動力学のあたりはほとんど記号変換であってこれを物理とは呼びたくないという人が多いのも理解できるほどだ。とはいえこのあたりをきちんと計算しないと核に対して中性子が衝突した時の散乱を計算できなくなるので避けられないのだが。
「あなたのとこの出版社には拡散式の計算間違いを指摘できる優秀な人がおる、と」
「まあはい」
「七位?」
「六位と七位の間です、半位ほど上ですよ」
結構私の話は大君藩国に伝わっているらしい。というか伝わっていなければおかしくもあるのだが。一応は共同監視の下で生きているわけだからな。こういう時にラドウィックがいれば話ができてありがたいのだが、いないものは仕方がない。
「まあええけど。しっかし会うとは思ってなかったから驚いたよ」
「私も本名をちゃんと呼ばれたのは久しぶりですからね。ティッカーなんて酷い呼び方もされる」
「発音は慣れないとどうしようもないからなぁ」
私は深く頷いた。なお、アサウィさんは参加者の中で特に優れているというわけではない。能力としては上位なのは間違いないが、共同連邦には彼ぐらいの人間は十人ぐらいいる。
地理的分布に気を使ってあちこちから候補を出して結果として呼ばれることになって南洋諸島とか諸藩王国地域とか連合議会の南部とかからも人が来ているので、一応は世界中の核物理学をやっている人から選んだと言ってもいいぐらいにはなっている。ただそういう辺境の場所だとどうしても論文以上の噂が届くのが遅くなるのだ。そこで届かないものを国際集成とかで多少どうにかしようとしても、限界というものはある。そこまでどうにかする義理はないので、私は最初から詳しいことは考えないようにしているのだ。