「さて、夜遅くなる前に終わらせますか」
私は午前用の、つまり汚れてもいい前掛けをつけて背筋を伸ばす。屋敷の地下室には執事と女中長の寝室、台所、そして印刷室があるのだ。
印刷室といってもあるのは手で活字を組むような旧式の活版印刷と、高機能
本当は
私が作業をしている間、気灯の下でフィーマはのんびりと本を開いていた。
「それは何?」
ちょっと手を止めて私は尋ねる。
「甘ったるい恋愛小説ですよ」
「……あまり興味が出ない」
「そうですよね、買うのは
「一応各陣営の旗艦誌は取ってるし、それを読めるぐらいの知識は持てるようにしているわよ」
「
「むしろあなたがそちらの方に興味を持つのが私としては独特なのよね」
さて、休憩終わり。あまり読書の邪魔をするのもよくないだろうし、私も私の仕事をする必要がある。真空保温瓶からちょっと紅茶を出して、飲んで、続き。
全部の論文に触れつつ、特定の者を持ち上げないようにするのは難しい。
「というわけでできたから確認して」
「はーい」
軽い感じでフィーマは言うが、紙を見る目は真剣だ。
「あ、あとこれ読んでもいい?」
「どうぞ、栞をずらさないでくださいね」
最近流行の一冊本だった。複数冊の長編を読めない集中力を欠いた若者向けのもの扱いされているが、そもそも途中で出なくなるとか一巻だけ盛り上げるだけ盛り上げて逃げる作家とかがいたのでそのあたりの信頼が毀損された当然の結果である、みたいなことを前にフィーマが言っていた。
「……うわぁ、都合のいい男」
主人公の女性教師を助けた紳士が愛の言葉を囁いたり出かけたり食事をしたり。お、恋敵も出てきている。なんとも嫌な造形で、そして一方的な愛が紳士には届かないという完全な負け役。流し読みでありながら内容が理解できるという素晴らしい文体である。
「辛い現実を埋め合わせるとなるとそうなるんです」
「フィーマに辛い現実が?」
「そりゃ、まあ」
そう言った彼女は文字を隠す定規をずらしながら原稿を読み、赤鉛筆であちこちに印をつけていた。全体の構造をこの後練るのでひとまず書き出したものであるが、かなり酷い出来らしいな。大学時代もこの
「……私に解決できることであれば、対応するから」
「ならちゃんとこの屋敷の所有権を私にください」
「それはできない」
「わかってますよ、どうせ私は都合が悪くなれば推薦状も持たずに追いやられる身なんだ」
そう言いながら、彼女はできた修正を私に回してきた。
「……あー、うん。ここはそう、文章を入れ替えたほうがいい」
「ところで質問してもいいですか?」
「どうぞ」
「
「さぁ。機能としては繋ぎ止めていてもおかしくない。機構としては全く見当がつかない」
「えーとこのあたり私の理解が怪しいのですが、まず基本的には原子って
「……ひとまず、それでいい」
おお、私の自制心が仕事をしてくれた。ここで電子の正体は
「で、普通の原子の
「そう。で、足りない重さの分を
「普通に考えたら反発して
「そう。そこについてはうまく説明できていない」
いろいろな実験によって、例えば
つまり普通の物質の
そして今提示されている議論の多くは、そこに力があるはずだから力を作ります、というものだ。近距離では
「……結合の強さとかを見れませんかね」
「計算しないとなんとも言えないけれども、結合自体は相当強いから二原子分子みたいな振動を分光学的手法で見るみたいなことは無理そうね、となれば普通に分光で電子を見ることに頼るしかなさそう」
分光像に現れる線の移動とか分裂とかは、多くの分光学者を悩ませてきた問題である。最近登場した捻れの概念の導入だのそこから生まれる磁界と電界がどう電子に作用するかみたいな話になってくる。そういうのに迫る論文も来月号には入っているからそこからフィーマは連想したのかもしれないね。
したがって、ローレンツの理論に立ち返らなければならない。しかし、これを維持しつつ、かつ耐えられない矛盾を避けようとするならば、収縮と2つの軸の不変性とを同時に説明できる特殊な力を仮定しなければならない。私はこの力を決定しようと試み、それが変形可能かつ圧縮可能な電子に作用し、かつその仕事は電子の体積の変化に比例する一定の外部圧力と同等とみなしうることを見いだした。
POINCARÉ, Henri. Sur la dynamique de l'électron. Rendiconti del Circolo Matematico di Palermo, 1906, vol. 21, p. 129–175.
アンリ・ポアンカレ『電子の力学について』、1906年