石炭時代の終りと淑女   作:小沼高希

6 / 8
無荷核粒子の存在可能性 6

「さて、夜遅くなる前に終わらせますか」

 

 私は午前用の、つまり汚れてもいい前掛けをつけて背筋を伸ばす。屋敷の地下室には執事と女中長の寝室、台所、そして印刷室があるのだ。

 

 印刷室といってもあるのは手で活字を組むような旧式の活版印刷と、高機能打字機(ステイヴライター)である。高機能というか、何でもかんでも詰め込みすぎというか。普通に鍵を叩いて文字を紙に叩き出すこともできるし、孔紙帯(ホールテープ)の入出力もできる。誤字検出用の文末符号も出せる。まあそれなりのお値段がしたのだが。

 

 本当は孔紙帯(ホールテープ)から版を作れるようなしっかりした印刷機が欲しいのだが、それはさすがに無理である。なので複製については基本は打字機(ステイヴライター)で打って、数式部分はフィーマが手作業で組んでいる。

 

 私が作業をしている間、気灯の下でフィーマはのんびりと本を開いていた。

 

「それは何?」

 

 ちょっと手を止めて私は尋ねる。

 

「甘ったるい恋愛小説ですよ」

 

「……あまり興味が出ない」

 

「そうですよね、買うのは数学(テルケン)物理学(ワールドケン)ばっかり。大叔父様と似てつまらない人」

 

「一応各陣営の旗艦誌は取ってるし、それを読めるぐらいの知識は持てるようにしているわよ」

 

混合学(ミングリングケン)とか生物法(ライフェラー)は斜め読みじゃないですか、知っているんですよ」

 

「むしろあなたがそちらの方に興味を持つのが私としては独特なのよね」

 

 さて、休憩終わり。あまり読書の邪魔をするのもよくないだろうし、私も私の仕事をする必要がある。真空保温瓶からちょっと紅茶を出して、飲んで、続き。

 

 全部の論文に触れつつ、特定の者を持ち上げないようにするのは難しい。無荷核粒子(アンラーデン・キュルネルモート)についての重大な示唆が得られたのはいいが、それは別にすべての謎を解決したわけではない。むしろ増やしたまであるのだ。

 

「というわけでできたから確認して」

 

「はーい」

 

 軽い感じでフィーマは言うが、紙を見る目は真剣だ。

 

「あ、あとこれ読んでもいい?」

 

「どうぞ、栞をずらさないでくださいね」

 

 最近流行の一冊本だった。複数冊の長編を読めない集中力を欠いた若者向けのもの扱いされているが、そもそも途中で出なくなるとか一巻だけ盛り上げるだけ盛り上げて逃げる作家とかがいたのでそのあたりの信頼が毀損された当然の結果である、みたいなことを前にフィーマが言っていた。

 

「……うわぁ、都合のいい男」

 

 主人公の女性教師を助けた紳士が愛の言葉を囁いたり出かけたり食事をしたり。お、恋敵も出てきている。なんとも嫌な造形で、そして一方的な愛が紳士には届かないという完全な負け役。流し読みでありながら内容が理解できるという素晴らしい文体である。

 

「辛い現実を埋め合わせるとなるとそうなるんです」

 

「フィーマに辛い現実が?」

 

「そりゃ、まあ」

 

 そう言った彼女は文字を隠す定規をずらしながら原稿を読み、赤鉛筆であちこちに印をつけていた。全体の構造をこの後練るのでひとまず書き出したものであるが、かなり酷い出来らしいな。大学時代もこの打字機(ステイヴライター)を使っていたわけだが、あの時も書き直しが多かった。手書きのほうが楽じゃないかと教授によく言われたが、その後で手書きを出したら打字機(ステイヴライター)の原稿にしてくれとお願いされることがほとんどだった。まったく、言葉を翻すのはよくないことだ。

 

「……私に解決できることであれば、対応するから」

 

「ならちゃんとこの屋敷の所有権を私にください」

 

「それはできない」

 

「わかってますよ、どうせ私は都合が悪くなれば推薦状も持たずに追いやられる身なんだ」

 

 そう言いながら、彼女はできた修正を私に回してきた。

 

「……あー、うん。ここはそう、文章を入れ替えたほうがいい」

 

「ところで質問してもいいですか?」

 

「どうぞ」

 

無荷核粒子(アンラーデン・キュルネルモート)って、水質(ワータシャフト)核を繋ぎ止めたりするんですか?」

 

「さぁ。機能としては繋ぎ止めていてもおかしくない。機構としては全く見当がつかない」

 

「えーとこのあたり私の理解が怪しいのですが、まず基本的には原子って(キュルネル)があって、その周りに電子がぐるぐるしているという認識でいいのですよね」

 

「……ひとまず、それでいい」

 

 おお、私の自制心が仕事をしてくれた。ここで電子の正体は光媒質(エーテル)の孤立波ではないか、いや渦巻いている光媒質(エーテル)だ、核の周りで物性の変わった光媒質(エーテル)によって作られる定在波だ、水に対しての油のように光媒質(エーテル)とは異なる液滴の小球だとかなんとかいう議論を口に出さないのは正しいな。剛体球仮説については亜光速における圧縮が起こることをうまく説明できないとして切り捨てられているが。

 

「で、普通の原子の(キュルネル)の中には水質(ワータシャフト)核が入っている。電荷は正。そして全体としては電子の数と水質(ワータシャフト)核の数が同じで、電荷が釣り合っているはず」

 

「そう。で、足りない重さの分を無荷核粒子(アンラーデン・キュルネルモート)が担っているわけ」

 

「普通に考えたら反発して(キュルネル)は吹っ飛びますよね?」

 

「そう。そこについてはうまく説明できていない」

 

 いろいろな実験によって、例えば害質(ハームシャフト)(キュルネル)に第一種放射線(アウトビーム)を当てると飛び出してくるものが水質(ワータシャフト)核であることが明らかになった。第一種放射線(アウトビーム)にしては軽すぎるのだ。

 

 つまり普通の物質の(キュルネル)の中には水質(ワータシャフト)核と無荷核粒子(アンラーデン・キュルネルモート)の両方が存在することになる。重さについては説明できたし、これを否定するような話は今のところない。

 

 そして今提示されている議論の多くは、そこに力があるはずだから力を作ります、というものだ。近距離では光媒質(エーテル)の持つ回転以外の弾性が現れるから表面張力が生まれるだの、有効慣性が消失する臨界半径だからだの。まあ前者は何も説明せず、後者はもともと分光学と対立していて、今回の中性子発見でかなり弱くなったのだが。

 

「……結合の強さとかを見れませんかね」

 

「計算しないとなんとも言えないけれども、結合自体は相当強いから二原子分子みたいな振動を分光学的手法で見るみたいなことは無理そうね、となれば普通に分光で電子を見ることに頼るしかなさそう」

 

 分光像に現れる線の移動とか分裂とかは、多くの分光学者を悩ませてきた問題である。最近登場した捻れの概念の導入だのそこから生まれる磁界と電界がどう電子に作用するかみたいな話になってくる。そういうのに迫る論文も来月号には入っているからそこからフィーマは連想したのかもしれないね。




Il faut donc en revenir à la théorie de LORENTZ ; mais si l’on veut la conserver et éviter d’intolérables contradictions, il faut supposer une force spéciale qui explique à la fois la contraction et la constance de deux des axes. J’ai cherché à déterminer cette force, j’ai trouvé qu’elle peut être assimilée à une pression extérieure constante, agissant sur l’électron déformable et compressible, et dont le travail est proportionnel aux variations du volume de cet électron.
したがって、ローレンツの理論に立ち返らなければならない。しかし、これを維持しつつ、かつ耐えられない矛盾を避けようとするならば、収縮と2つの軸の不変性とを同時に説明できる特殊な力を仮定しなければならない。私はこの力を決定しようと試み、それが変形可能かつ圧縮可能な電子に作用し、かつその仕事は電子の体積の変化に比例する一定の外部圧力と同等とみなしうることを見いだした。

POINCARÉ, Henri. Sur la dynamique de l'électron. Rendiconti del Circolo Matematico di Palermo, 1906, vol. 21, p. 129–175.
アンリ・ポアンカレ『電子の力学について』、1906年
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。