「この男をご存知ですか?」
そう言って執事のラドウィックが
「キージス・エルガー。名前を聞いたことがあるようなないような……」
人事調査書類というやつなのだろう。私と同じ大学を出てネイダーズ鉄鋼鋳造社の技師として働いている人物らしい。所属年からみて同級生だろう。それ以外の詳しい情報はなし。
「
「顔を合わせたことがあるかもしれないけど、誰かはわからない」
「……本当ですね?」
ラドウィックがずいと顔を寄せてくる。いや嘘をつく理由はないだろう。
「うん」
ここで逆に怯えたり挙動不審になればむしろ怪しまれるではないかと思って堂々と言っているが、これはこれで怪しくなるかもしれないな。ではどうすればいいんだ。
「彼があなたを探っています」
「どうして?」
いや、心当たりが特にない。そりゃまあ私のような才女に惹かれる可哀想な男がいる可能性は否定できるものではありませんし、フィーマからは時折そういう面倒な関係を逃れるための方法について講義を受けております。フィーマのほうはどうやらそういう関係の人がいたりいなかったりするようだが、具体的にどうであるかはわからない。
屋敷の女主人としては使用人がそういうことにうつつを抜かすことについて一言咎めるぐらいが責務なのかもしれないが、それを言い出すと彼女のやっていることが危なすぎるので実に良くない。こっそり家に知人を呼んで本を貸していたり、労働時間に外出して遊んでいたり、変な本を買ってきていたり、奇妙な副業をしていたり。まあ最近仕事をろくにできていない私に比べればよほどいいな。
「その問いかけはなぜ彼があなたを探っているのだろうかという動機についてでしょうか? それともなぜ我々がそれを知っているか、ということでしょうか?」
私ではなく我々、ね。つまり私の身元とか入ってくるお金絡み。この暮らしを支えている金がなくなれば私は大変なことになるんだぞ。どうしてくれるんだこのエルガーとかいう男。
「両方」
「前者は不明。後者については、
「おや、機能するんだ」
「彼についてこちらから探りを深く入れているわけではありませんが、どうしましょうか?」
「ラドウィックに任せる……と言いたいけれども、彼の背後を考えることはできる?」
「ネイダーズ鉄鋼鋳造社は海軍と繋がりが深いと聞いていますが、それ以上については噂を尋ねることすらしておりません」
「いいよ、聞いて。ただ、ラドウィックがまずいと思ったら素直に引くこと」
「……常識的な判断だと思われます、お嬢様」
なんていうか、私がラドウィックに彼の専門分野で指示するというのは嫌なものだな。私だって物理の話でラドウィックに何かを言われたら何を知ったように、と思うかもしれない。
「しかしなんで今更?」
「核からの熱量の可能性あたりではないですか?」
「あれは無理だよ、まだ計算もろくにできていないし、図面は本当に提案に過ぎない。
数値の精度が高まるたびに炉の大きさは変わっている。少なくとも水では作れないだろうというのは確定。では他の物質を使えばいいかとなると、どうやら不純物が悪さをしているようだということになっている。
ではそれを除去できるかと言われると難しいのだ。純度を上げるための熱は石炭では届かないのでそこをどうにかと色々されているが、注文するにも特注になるのでまだ時間がかかりそうだ。なお
「そう思わない人はいます」
「そういう人が興味を持つと思う?」
「世の中にはいるのですよ、怪しいものであっても手を出す人が」
「……まあ、そうか」
もし動力式定電圧製造装置が胡散臭く思われなければ、もう少し実用性のあるものができていたかもしれない。結局蒸気機関で回すことになって効率が悪く全部電池でいいじゃないかとなったかもしれないが、地域によっては水力とかで回せたかもしれない。仮定の話にどこまであるかもわからない。というか交代電圧の発生装置は水力で動いているところがあったはずだな。
基本的に交代電圧は熱ぐらいにしか使えない。放電灯とかうるさくて眩しすぎる代物は一応熱でいいか。あれをうまく家庭用に小さくできればよかったのかもしれないが、そもそも家までの配線が不可能だからな。きっとこれは照明用の気体会社が顧客を取られないようにという陰謀に違いない。
とはいえ、それでも使える分野はある。例えば熱とか。回転運動を導線内の電子の往復運動に変換し、それを熱として取り出す。そうすれば石炭だけでは届かない熱を生み出し、人造黒鉛を作れるのだ。とはいえそんなものはかなり高価である。使い道としても特殊高熱化学のためのるつぼとかぐらいだ。加熱しなくてもそれなりにうまくいくらしい事例はあるが、そうすると効率は下がる。そしてまだ測定は続いているので、それが揃うまでは私は何も言わないし賭けるつもりもない。
「というわけでお嬢様、数日暇を頂きます」
「わかった。仕事はできるところについてできるだけかわりにやっておく。予算については好きに使って」
「あまりなかったと記憶していますが」
「……それでも数十
「そういう人物は別の人からの心付けをも受け取るものですが、かしこまりました。帰らないこともあるかもしれません」
「それなら私とフィーマが夕食をいっぱい食べることができるから問題ないよ」
私の励ましになっているかわからない言葉にラドウィックは頷いて、外套を羽織り、そろそろ春が来そうという時期だがまだ寒い外へと歩いていった。
最三小判昭和44年1月28日(昭和39年(行ツ)第92号)民集23巻1号54頁