屋敷から出て散歩をするのは、気分転換には良いものだ。特に塩と胡椒の目玉焼き、それに昨日の余った野菜に薄切りの塩漬け肉なんて朝食の後には。質素と言われるかもしれないが、これでも結構量があるのである。むしろ朝からそんな派手なものを作ってもらうのも気が引ける。
灰色の空。丈夫な革靴に薄手の上着。雲に隠れた太陽の下で街を歩く。外の空気は別に清浄というわけではないが、風下になる東側に比べればまだいい。
既製品の女性作業服は、飾りを外して前掛けをつけていなければどこかで仕事をしている女性という形になる。もちろんおしゃれというわけではないが、それでも街中を歩いたところで気にされないもの。
家の前の路地で馬車とすれ違い、雑貨屋だの高級な宿屋だのが並ぶ大通りに出る。近くには大学やら博物館があり、つまりは書店だの製本屋だの貸本屋だの出版社だの病院だのも並ぶ良い場所である。活気の良い若者が公園で遊んでいるのを見ると、私が彼らぐらいの歳だった頃を思い出す。ちょうど
時間感覚がおかしくなったのかと思ったが、ここ一年間でやったことは本を読むことと寝ることと家事だ。それまでの試験のために体力をつけて問題を解き続ける学寮生活は大変なものだった。優雅さをかなぐり捨ててあれだけ熱中したのだ、上位に入れなければおかしいと学寮の寮長の先生に褒められたときは世辞だろうとわかっていても自然に感謝の言葉が口から出たものだ。
そんなことを考えながら少し進めば、もう少しあからさまに商店が並び始める。ガラスの向こうに並ぶ各種の衣装に靴に装飾品。ちょっと背伸びをした女性でも入れるお店を選ぶのは難しいらしいというのが前に暇潰しで読んだ雑誌にあったが、うちの屋敷ではこのあたりに興味を持ちそうな人があまりいない。フィーマも給金を全部本につぎ込む有様だからな。
とはいえ、私としては見せびらかすよりも好きなやり方がある。ガラスの向こうにあるのは机と椅子。椅子には上着が一枚かけられているだけ。社交用というより、実用も兼ねたような代物だろう。これで店の格を示すことができるという自負なしでは成り立たないものだ。きっと私のように自分だけはこの店の良さがわかるという人がここを選ぶのだろう。
そうやって歩く通りの上では路面鉄道が、下では地下鉄道が走っている。第二次鉄道投機時代、とかなんとか。まあそれも既に衰退し始めていて、今はもう誰が損失を押し付けられるかみたいな段階になっているというのはラドウィックの分析である。地下で蒸気機関を走らせるという愚かな試みの失敗の末、結局空気圧とか鋼線とかという形に落ち着いているし、地上でも煤煙が嫌われるので煙突の作れない乗り物では空気を汚さない動力しか使えないというのはこの蒸気の時代に奇妙なことではある。
そして通りを曲がると、一気に雰囲気が変わる。劇場だの趣向を凝らした建物だのが並び、騒がしさの質が変わる。店への呼び込みではなく、もう少し個人的な会話の響き。こういうところに住むのは面倒だろうな、と考えてしまうあたり、私は大物にはなれないのだろう。
かくして辿り着いたのは屋敷から見て南西の方角、ホイットマール地区は
えっ原稿は郵便で送ると言っただろうって? そうですよ、そう総帥とも約束しましたとも。でもですね、これを執事と女中長に言ったら歩いてこいと言われました。たかだか
「どちらへ?」
私が入口を通ると守衛が声をかけてくる。
「ホイットマール男爵閣下に荷物を届けに参りました」
「彼なら出かけている」
「えー……どうしますかねこれ……」
そう言って私は鞄から原稿と
「預かっておこうか?」
「助かります。バクスターから、男爵に頼まれていた原稿を、と言えば伝わるはずです。一応何か書いておきますね」
私は手帳というよりは綴じた紙と呼ぶべきものを取り出して、鉛筆で一文字ずつ丁寧に書く。これぐらいならかろうじて読める、と思う。ただこれを渡した時の守衛の顔を見るにあまり良いものではなさそうだ。まあ、総帥なら言わなくともわかってくれるだろう。
「……うん。わかった。それで嬢ちゃん、他に仕事は?」
「ありません。丁寧にどうも」
そう言って私は
まあ総帥がいたら話が盛り上がって困ることになっただろうからな、よかったとしよう。学会の図書室に寄って今時の分野変化とかを見てもいいのかもしれない。面白いことに紳士であれば少なくない会費を払うだの身元証明だのが必要になるが、こういった服を着ていれば図書室に入ってもどこかの研究室の秘書か
さて、ではのんびりと帰るとしよう。そしてちょっとだけ寄り道をしよう。この近くには学術出版で有名なところがあるし、帰りにちょっと別の通りに行けば書店が並んでいる。屋敷の近くにある本屋にも輸入ものの学術書とか入っていそうだからな。
ロンドン
MURRAY, John. Handbook to London as it is: New edition revised. London: John Murray, Albemarle Street, 1879.
ジョン・マーレー『ロンドン実情手引き』、新版改訂版、1879年