管用合金 1
「駄目だ、わからん」
数冊の化学工業の専門書に目を通して、私は息を吐いた。これは化学というより職人技だ。となれば、今の先端的な知識はなかなか本に載る形ではまとめられていない。
一応最低限の教養があるし、物理学についてはだいたい分かる。その上で、彼らは相当な無茶苦茶をやっているのだ。次元がどう考えても合わない式を平気で使ってきたりとか。
物理には次元解析という考え方がある。ああはいはいお待ちください、それがなぜ成立するかについては物質量の存在性についての複雑な哲学理論に依存しているのであって、そのような実証がない限りはそれはただの経験則の域を出ないとか、そういうことを言いたいのでしょうか?
まあそうですね、確かに本当にそういうものが常に成り立つのか、と言われると難しいところがありますよ。そもそも手元でやるような問題に使う物理学は
そういう大雑把な物理屋の私であっても、化学工業における「数理的手法」というものには驚かされる。彼らがある式を作る方法を説明しよう。まず対数換算した座標に実験値を置いていく。そして方眼紙の上にぼんやりと見えてきた曲線を二次式ぐらいで近似する。そうすると次元付き指数の肩に次元付きの多項式がついてくるのだ。正直言ってそれが何を意味しているのか、物理学的に述べることはまず不可能だろう。
例えば非常に簡単な傾いている配管内の水の流れを考えよう。室温で、かつそこまで速くない流れであるとする。こうなると流れる過程で失われる熱量とか摩擦とか、あるいはそれらで釣り合いが取れて実際に観測される流体の速度は、配管の大きさ、水の触れる配管部分の凹凸とかによる摩擦、あと傾き程度で表現できることになる。
ここの係数を理論的に求める計算が色々とされてきたが、今のところ最も信頼されている式の指数部分の係数は0.63と0.54である。ええ、物理的には一切の意味を持たない数字ですよ。
かと思えば、非常に精緻な計算をしてくることもあるのだ。蒸留における分離効率の時は光学的に得られた振動の情報と微視熱力学から丁寧に導出してくることもある。以前に見た硫化
そしてこのあたりを解決しないと核熱炉が作れないのである。当然だ。汽缶工学、熱工学、制御理論、その他多くの問題の塊なのだ。一応屋敷にはこのあたりの本がある程度あるんですけどね、古めのものも混じっているので読むときにはそのあたりの補正もかけておかねばならない。
この屋敷の前の住人、サーロウ教授は諸藩王国における工業大学の教授であった。教科書の執筆者としても有名で、彼の教科書の中には今でも使われているものがある。というか私が
「ねえフィーマ、サーロウ教授ってどういう人だったの?」
私は小説本を読んでいた同僚の女中補、フィーマ・サーロウに尋ねる。この屋敷の持ち主を主張しているし、私も彼女を尊重したいのだが、それでも法とか金銭的問題がそれを許してくれない、そういう関係だ。
「……人付き合いが悪くて、読みもしない本を積み上げて、学生たちを住まわせながらあまり彼らのことを気にしていませんでした」
「似たような人を聞いたことはあるわね」
「お嬢様がこの屋敷に住んで居心地がいいとしたら、それは大叔父様のおかげだと思いますよ」
「間違いない」
この屋敷は彼の趣味が詰まっている。物理的な本とかではなく、建築とかの話だ。家から出なくても生活に問題がないように、社交をしない前提で、そして数人の使用人を雇うことが前提となっている場所。
屋敷の構造からして、使用人と家主の距離が近いのだ。だからサーロウ教授は誰かと会いたくなかったと言うより、関わらなくても大丈夫なようにしたかったとかだろうか。いや、このあたりは私の価値観とか感覚が混ざってしまうな。
「……私が子供の頃、ここに遊びに来ても大叔父様は怒ることもなく、ただずっとこの暖炉の前で何かを読んでいました。たぶんそれなりにうるさくしていましたし、ここで働いていた学生たちの邪魔をしていたとは思いますが」
「相手とどう接すればいいのか考えるのが苦手な人がいるのよ、世の中には。私も同業者とか友人とか使用人とかという枠があればいいけれども、そうではない付き合い方なんてわからない」
「お嬢様が一般的な使用人に向けるような態度を私に対して取ってくれれば、私ももう少し副業に精を出せたんですがね」
「……最近は、やってないの?」
私はフィーマに聞く。
「ちょっとしたその場でできるような執筆ならたまにやりますが、本一冊とかはもうやらないでしょうね。きちんと考えなければならない文に向き合うためには、今の生活はぬるすぎて」
「追い詰められたほうが、いいものが書けるの?」
「ええ。少なくとも、私は昔のほうがその手の文章を書きやすかったと思います。一人、また一人とこの屋敷を学生が去っていって、気体管の契約料を払えるかどうかになっていた時には、手がかじかんでいても、心は熱を持っていました」
当時の彼女の書いたものを、私はたぶんしっかり読んだことがない。読む機会がないわけではなかったはずだ。彼女が文章を書いた新聞とか、あるいは雑誌とかがあることは知っている。そこに目を向けることが、私はできていない。そして、今もまた目をそらしている。
核熱炉を作るための試みは、もう時間の問題になりつつあった。どの陣営も測定を進めて炉の大きさを大まかには特定し、あとは実際に作るだけ、となっていた。そして実際の問題であるその炉から熱を取り出して蒸気を作り羽根車を回すというほうについては、
You asked me to send you a reminder about TUBE ALLOYS—disclosure of information to United Kingdom and Canada.
H. ホプキンス氏
管用合金──英国およびカナダへの情報開示──について頼まれていた備忘です
MARTIN, J. M. [The prime minister's principal private secretary (Martin) to the president's special assistant (Hopkins)]. January 23, 1943.
首相首席個人秘書官ジョン・ミラー・マーティンより、大統領特別補佐官ハリー・ロイド・ホプキンスへ、1943年