本を小脇に抱えて、笑顔で歩く。いやぁ本の中にも奇妙なものがあるんですね。謄写版刷りの物理学書である。それもあからさまに危ないやつ。著者は知らない人だし、少し見ただけでもわかるぐらいな物理の間違いがあって笑っている。
いやはや、普通の真面目な紳士でしたらこんなものを買うのは恥となるでしょう。しかしちょっと物理に興味のある女中が買うなら売り手の方もこんな奇妙なものをなぜ買うかね、あるいはしめしめ馬鹿なやつだと思ってくれるだろう。
首から紐で下げていた鍵を取り出し、素晴らしい我が家へ。ああ、今日はよく運動した。昼食は新聞紙に包まれた揚げ魚に揚げ芋。冷めないうちに食べれば食べられる範囲にはある。しかしミセス・ブラッケンの料理に比べるとやはりよくないな。油が古い。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
ちらりと私の方を見たミセス・ブラッケンが本棚の掃除をしたまま言う。軽んじられたものだ。
「うん、昼食は食べてきてしまったよ」
「構いませんよ」
とはいえちょっと悪い気はするな。すみません。しかしこの方はいつも毅然としているので見ていて落ち着く。フィーマとかはいい加減なのが素だし、ラドウィックは彼の仕事を考えればあまり信じられない。
いやまあ彼らのことを頼っていないわけではないんですよ。彼らが彼らの能力においてきちんと優れていて、そしてこの屋敷を維持するために私以上に働いていることを私は知っています。彼らへの敬意を日頃の口先の礼と金銭だけでしか伝えられない私の能力不足を呪いたい。
久しぶりに、仕事をした。いいものだった。大学時代の充実はもしかすると課題の存在のおかげだったのかもしれない。これはそれ以外の候補である友情とか趣味とかが皆無だったからというのもあるのだが。
そういえば私にはあまり友達がいない。もちろんそう言ったら総帥は悲しむか、諭してくれるのだろうが、そういう話ではないんだよ。大使館時代も、寄宿学校時代も、大学時代も、私は勝手に私のしたいことをしていた。それが許されたのは幸運だと思うし、その幸運を逃すつもりもないが。
かわりに人間関係はなくなってしまった。寄宿学校では数学の才女扱いされたが、普通に売っている本を時間をかけて読めばその程度の数学は追いかけられるのでやっていた人が圧倒的少数というだけだろう。大学時代の女子学寮も私を天才の再来扱いしてきた。それで一位取れなかったら失望しないでとか言われるんですよ、いやまあ期待してもらえたのは嬉しいんですが、申し訳ないです最初からそこまで上を狙ってはいなかったんですよ。
まあ過去のことを思い出しても意味はない。夕食までは私の時間だ。屋根裏にこもって買った本を読むとしよう。
使用人用の階段から二階へ。二階にあるのは作業室と、この屋敷の主人である若旦那の部屋ということになっている空間。つまりはラドウィックが定期的に手入れをして、あとは私の着替えがある場所だ。そこで本を読んでもいいのだが、あそこはなんか妙に据わりが悪いので必要がなければ入りたくないところだ。
屋根裏の空間はフィーマと共用で、寝台が二つある。あまり本を積みすぎると床が丈夫ではないので危ないと言われているが、寝台を置いているなら追加で本の十冊ぐらい置くのは問題ないだろう。たぶん。それでも定期的にちゃんと本棚に戻しはするが。
図書室のほうはそう頻繁につけたり消したりはしないので手で火をつけるようになっているが、ここの気灯は自動着火式だ。栓を捻ればすぐに部屋が明るくなり、本を読むには困らないようになった。外はそろそろ雨が降りそうな曇りである。午前中に用事を終わらせることができてよかった。
手に持った本を見る。装丁は安っぽい。フィーマあたりに見せたら詳しく分析をしてくれるのだろう。それは誰が何を書いたかを秘密にしたままにしておく技術の裏返しだ。そのあたりは将来的に何かやるなら見習いたいところではある。
内容も初めっから過激だ。電気力学は嘘らしい。理由は磁気が入っていないから。そんな単純なことに気が付かない物理学者は数式ばかり弄っていて現実を見ていない、私は長年電信の分野で働いていたからわかるんだとのこと。ほうほう、実に賢いことで。
いやまあかつては実験でしか電気や磁気を定性的に捉えられなかった時代は確かにありましたし、その時には電気や磁気を担う存在みたいな議論もありましたよ。今でも荷電粒子の研究をやる人は電界や磁界といった概念を普通に使います。便利ですから。
でも理論ができるようになると測定をして評価をする必要が出てきて、そうなると象限電圧差計とか零点検出器みたいな電気中心のものになるのです。磁気とかは結局方位磁針の動きになるわけですし、そもそも地球にはそれなりの強さの磁界があるので邪魔になるんですよね。
となると例えば電気によって起こった磁気が電気に影響を与える、とするよりも電気が電気に直接作用する、みたいなほうがやりやすくなる。静止した電荷同士の関係の延長線上に相対的な運動の効果とか、あるいは電界や磁界の物性もあるしね。あとはちょっと亜光速補正とかを入れればちゃんと整って便利な体系が生まれる。さもなくば面倒な山程の方程式を気合で計算し続けることになるのだ。
うわ、それに
発想は悪くないのだと思う。これ自体を丁寧に数式として表現して、それが他の模型だとどういう現象に相当するのかとか、その方法が実際に存在する現象とうまく対応付けられるのかだとか、そういうところをきちんとしているならこの本は
$$\left.\begin{align}p' &= p + \frac{df}{dt}, \\ q' &= q + \frac{dg}{dt}, \\ r' &= r + \frac{dh}{dt}.\end{align}\right\}\tag{A}$$
$$\left.\begin{align}\mu\alpha &= \frac{dH}{dy} - \frac{dG}{dz}, \\ \mu\beta &= \frac{dF}{dz} - \frac{dH}{dx}, \\ \mu\gamma &= \frac{dG}{dx} - \frac{dF}{dy}.\end{align}\right\}\tag{B}$$
$$\left.\begin{align}\frac{d\gamma}{dy} - \frac{d\beta}{dz} &= 4\pi p', \\ \frac{d\alpha}{dz} - \frac{d\gamma}{dx} &= 4\pi q', \\ \frac{d\beta}{dx} - \frac{d\alpha}{dy} &= 4\pi r'.\end{align}\right\}\tag{C}$$
$$\left.\begin{align}P &= \mu\left( \gamma\frac{dy}{dt} -\beta\frac{dz}{dt} \right) -\frac{dF}{dt} -\frac{d\Psi}{dx}, \\ Q &= \mu\left( \alpha\frac{dz}{dt} -\gamma\frac{dx}{dt} \right) -\frac{dG}{dt} -\frac{d\Psi}{dy}, \\ R &= \mu\left( \beta\frac{dx}{dt} -\alpha\frac{dy}{dt} \right) -\frac{dH}{dt} -\frac{d\Psi}{dz}. \end{align}\right\}\tag{D}$$
$$\left.\begin{align}P &= kf, \\ Q &= kg, \\ R &= kh.\end{align}\right\}\tag{E}$$
$$\left.\begin{align}P &= -\rho p, \\ Q &= -\rho q, \\ R &= -\rho r.\end{align}\right\}\tag{F}$$
$$e +\frac{df}{dx} +\frac{dg}{dy} +\frac{dh}{dz} =0.\tag{G}$$
$$\frac{de}{dt} +\frac{dp}{dx} +\frac{dq}{dy} +\frac{dr}{dz} =0.\tag{H}$$
Excerpt from MAXWELL, J. Clerk. A dynamical theory of the electromagnetic field. The Philosophical Transactions of the Royal Society, 1865, vol. 155, p. 459–512.
ジェームズ・クラーク・マクスウェル『電磁場の動力学的理論』、1865より、一部抜粋