おかしな館の宿泊プラン 作:蔓延る
配信開始予定時刻の少し前から、待機画面には人が集まり始めていた。
【心霊宿泊】実際に死人が出ている事故物件宿に1泊します
:タイトルからもう不穏
:今日は泊まりか
:いつもの心霊スポット探索じゃないん?
:死人出てるってマジ?
:概要欄に「遺書持参」ってあるんだけど
:持参???
:旅行の持ち物に遺書入るのおかしいだろ
:釣りだろ
:カメラマンも泊まる?
:スタッフ逃げろ
:まだ始まってねえよ
:朝までやるなら見るわ
予定時刻を少し過ぎたところで、待機画面が消えた。
最初に映ったのは、午後の日差しを受けた古い館だった。
2階建て。外壁はところどころ色褪せ、屋根にもそれなりの年月が見える。ただし廃墟ではない。窓ガラスはすべて残っており、玄関前も綺麗に掃除されている。
館の周囲には、かつて畑として使われていた広い土地が広がっていた。今では人の手もあまり入っていないらしく、まばらに伸びた草が風を受けて揺れている。
画面の端から配信者が歩いてきた。
館の全景が背後へ収まる位置で足を止めると、レンズへ向けて軽く手を上げる。
「はい、どうも。ということで今日は――」
一歩横へずれ、背後を親指で示した。
「こちらに泊まります」
:おお
:でけえ
:思ったより普通
:もっと廃墟みたいなの想像してた
:明るいと全然怖くないな
:今なら帰れるぞ
「まだ着いたばっかりだからね。今帰ったら、本当にこの建物を見に来ただけになるから」
コメントを確認した配信者が笑う。
画面が僅かに上下した。
「ここまで車出して機材持ってきたのに、それで帰られたら俺も困るよ」
カメラの後ろから、少し呆れた男の声が入る。
配信者がそちらへ顔を向けた。
「でもお前、来る途中からずっと『普通のホテルにしない?』って言ってたじゃん」
「企画として面白そうなのと、自分が泊まりたいかは別だからね」
:カメラマン生存確認
:いつものスタッフか
:巻き込まれてて草
:スタッフ側の意見が正しい
:2人なら安心だな
:2人まとめて死ぬだけでは
:縁起悪すぎる
配信確認用の端末を見たのか、カメラマンが笑う。
「『2人まとめて死ぬだけでは』だって」
「何でそういうコメントだけ拾うんだよ」
配信者は苦笑してから、改めて館へ向き直った。
「で、今回の企画なんですけど。普段みたいに心霊スポットへ行って、数時間撮影して帰る感じじゃありません。今日はちゃんと宿泊客としてチェックインして、ここで朝まで過ごします」
カメラが配信者から外れ、館を下から上までゆっくり映していく。
「ここ自体が今も営業してる宿泊施設です。予約も普通に取ってあります。ただし予約はネット限定。電話とか、当日いきなり来て泊めてくださいっていうのは無理」
事前の手続きを担当したカメラマンが補足する。
「予約取ったのは全部そっちだよな?」
「そう。宿泊者2人で、撮影と生配信ありってところまで申告してある。注意事項も予約する時に一通り読んだよ」
「結構あった?」
「かなり。途中から普通の宿の予約してる感じじゃなかったね」
:スタッフ有能
:ちゃんと配信申告済みか
:ネット限定なんだ
:飛び込み不可なの逆にちゃんとしてる
:注意事項多そう
:その中に遺書持参があるんだよな
:忘れてない?
:忘れてたら草
「ちなみに遺書は忘れてません」
配信者がコメントへ先回りする。
「ちゃんと持ってきてます」
:持ってきてんの!?
:待ってもう書いたの?
:「ちゃんと持ってきてます」じゃないんよ
:旅行バッグに遺書入ってるの?
:財布スマホ充電器遺書
:最後だけ持ち物じゃねえ
:笑ってたけど急に怖くなったわ
配信者の横で、カメラが小さく揺れた。
「昨日こいつ、書くのずっと後回しにしてたけどね」
「当たり前だろ。旅行の準備しながら遺書書く気分考えてみろよ」
:昨日書いたのかよ
:自宅で!?
:前日の夜に遺書を書く配信者
:明日の旅行楽しみだな!→遺書を書く
:字面が終わってる
:カメラマンも書いたんだよな?
:当然スタッフも宿泊者だからな
:スタッフ何書いたか気になる
:聞くな
「中身は見せないですからね。そこは普通に個人情報なんで」
配信者が話を切り替えるように館へ手を向けた。
「料金は基本3万5千円。そこから泊まる部屋の危険度とか、その他諸々が追加されていく料金体系です」
「今回は1号室。この館だと一番危険度が低い部屋を取ってる」
カメラマンの声に、配信者が頷いた。
「初回ですからね。いきなり一番ヤバい部屋に突っ込むんじゃなくて、まず一番危険性の低いところから泊まってみようって企画です」
:35000スタート!?
:高っ
:命懸けで金払うの意味分からん
:一番安全な部屋選んでて草
:いや初見なら正解だろ
:危険度高いほど料金上がるの?
:金払って怪異体験するテーマパークじゃん
「まあ、そういうの込みの宿だから、普通のホテルと値段だけ比べても仕方ないんでしょうね」
明るいうちに正面から見る館は、異様というほどではなかった。
1階と2階には同じ大きさの窓が規則正しく並んでいる。玄関も古い住宅によくある引き戸で、血痕が残っているわけでも、御札が外壁を覆っているわけでもない。
「築68年。客室は全部で8部屋。それぞれの部屋で起きる現象が違って、専用のルールもあるそうです」
「予約ページに具体的な現象までは載ってない。詳しい説明は当日、泊まる部屋についてだけ受ける形だった」
「じゃあ、お前も1号室で何が起きるかまでは知らない?」
「そこは調べてないよ。危険度が一番低いってところまで。先に全部知ってたら、現地で説明受ける意味なくなるから」
「それなら俺とほぼ同じか」
:スタッフも知らんのか
:現地説明ガチャ
:ちゃんとネタバレ回避してる
:危険度しか分からん状態で泊まるの怖いな
:遺書だけ先に書かされて内容不明なの草
:草じゃない
カメラが館の下側へ少し傾く。
「あと地下にも泊まれる場所があります。ただ、地下だけは常連客限定。普通にネット予約しようとしても、部屋として選べません」
「そこ、問い合わせもしたんだっけ?」
「したよ。初回でも無理か聞いたけど、断られた」
配信者が勢いよくカメラの方を向く。
「そこまでしてたの?」
「企画になるかなと思って」
:有能すぎる
:スタッフの方が攻めてる
:地下行く気だったのか
:常連限定地下宿泊←字面が犯罪
:次回地下
:まず常連にならないとな
:何回来させる気だ
「俺よりお前の方が攻めてんじゃん……」
配信者が呆れた顔のまま視線をずらした。
「あと、泊まれる建物はこれだけじゃないんですよね」
カメラが右へ振られる。
館から少し離れたところに、大きな和風建築があった。瓦屋根に白い壁。遠目に見るだけなら、古くから残っている屋敷に見えなくもない。
「あれが武家屋敷」
「築23年だとよ」
配信者の顔がカメラへ戻る。
「……23年? 武家屋敷なのに?」
「そうらしいよ?」
:若い
:武家屋敷(築23年)
:俺より年下
:歴史がない
:なんでわざわざ建てたんだよ
「昔の武家屋敷を改装したとかじゃないんだよね?」
「23年前にあの形で新しく建てた建物。あっちも宿泊施設」
「何でそんなもん建てたんだろうな」
「そこまでは載ってなかった」
さらにカメラが横へ動く。
広い土地の一角、少しだけ草が刈られた場所に、小さな建物がぽつんと建っていた。
「あれが管理人さんの小屋です」
カメラマンがズームする。
玄関脇には収納箱や生活用品も見える。宿泊施設というより、普通に人が暮らしている小さな家に近い。
「受付もあそこ。この館には風呂と洗面所がないから、使う時は管理人さんの小屋を借ります」
「夜中に風呂入りたくなったら一回外に出るのか」
「そうなるね。だから明るいうちに済ませた方がいいと思う」
「今日は先に入っとくわ」
:絶対夕方に入れ
:夜中に風呂行くな
:小屋に泊まれ
:管理人の家の方が絶対安全
:もう館いらなくね?
「残念ながら小屋に泊まるプランはありません」
そう返したところで、カメラが少し右へ動いた。
小屋のすぐ横に、白い飲料自販機が1台置かれている。
「……自販機あるじゃん」
:草
:急に文明
:安心感すごい
:ラインナップ見せろ
:コーラある?
:そこ重要?
:朝までなら重要だろ
カメラマンが歩いて近づく。
低い駆動音。水、お茶、缶コーヒー、スポーツドリンク、炭酸飲料。並んでいるのはどれも見慣れた商品だった。
「中身も普通だな」
カメラの向こうからカメラマンが言う。
配信者も横から覗き込んだ。
「ここまで来て一番安心するもの見た気がする」
:普通の自販機確認ヨシ
:こいつだけ最後まで普通でいてくれ
:深夜2時になると中身変わります
:やめろ
:自販機まで疑い始めたら終わり
「そういうこと言うと夜に飲み物買いに来るの怖くなるだろ」
配信者が笑いながら振り返る。
その時、小屋の扉が開いた。
「あ、管理人さん来た」
中から1人の男が出てくる。
こちらに気付くと軽く会釈し、そのまま細い道を歩いてきた。
「こんにちは。今日はよろしくお願いします」
配信者が頭を下げる。
カメラマンもレンズを少し下げた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
:普通だ
:めっちゃ普通
:心霊宿の管理人感ゼロ
:もっと数珠とか持ってると思った
:偏見がひどい
:普通の民宿の管理人じゃん
管理人――亮は、これといって目立つ格好をしていなかった。
生配信のカメラが正面を向いていても、特に気にした様子はない。撮影と配信については予約時点で伝わっている。
「では、先に受付を済ませましょう。そのあと館をご案内します」
「お願いします」
亮が先に小屋へ戻り、2人もその後を追った。
◇
小屋の中には、外から見るよりもはっきりとした生活感があった。
玄関近くの一角が受付になっており、事務机と椅子、その後ろには書類を詰めた棚。壁にはカレンダーと時計が掛けられている。
奥へ続く廊下の先は、亮自身が生活する空間らしい。
「ネットでいただいている予約情報は確認できていますので、当日分の書類だけお願いします」
亮が紙を並べる。
配信者が椅子に座り、カメラマンは斜め後ろから手元を撮った。
氏名。住所。電話番号。緊急連絡先。
「ここまでは普通の宿だな」
配信者がペンを走らせる。
「そこからいきなり怪文書だったら怖すぎるでしょ」
カメラマンの声にコメントが流れる。
:まだ普通
:普通って言うたびフラグになる
:ここから変わるんだろ
:書類でホラー始めるな
1枚目を書き終え、次の紙をめくる。
配信者のペンが止まった。
「……ここからちょっと変わるな」
「それは予約時にも同意したやつ」
カメラが紙面へ寄る。
宿泊中に発生した事故、怪我、死亡について。
施設内で発生する現象。
管理者から伝えられた禁止事項への同意。
下には、宿泊中に死亡した場合を想定した項目まで続いている。
:死亡
:ちゃんと書いてある
:契約書こわ
:スタッフこれ全部読んだの?
:帰れ
:普通の宿泊同意書に死亡は入らん
配信者は数行読んでから、机の向こうにいる亮を見る。
「これ、実際にここへ泊まって亡くなった人はいるんですよね?」
「います。危険性についても、その前提で予約時に同意していただいています」
「人数は公開してない感じですか?」
「そこは出してないですね」
「なるほど……」
:人数非公開
:ゼロならゼロって言うもんな
:深掘りするな
:急に現実味ある
配信者が署名を済ませ、次はカメラマンが同じ書類へ記入する。
2人分の書類を確認した亮が、机の上で紙を揃えた。
「ありがとうございます。あとは、遺書をお預かりします」
「はい。持ってきてます」
配信者が足元のバッグを引き寄せる。
ファスナーを開け、着替えや充電器の入った荷物の中から透明なファイルを取り出した。
その瞬間、コメント欄の流れが一気に速くなる。
:うわ本当に持ってきた
:バッグから遺書出てきたんだけど
:待って待って
:着替えの横に入ってたの???
:「持ってきてます」が怖すぎる
:旅行バッグから出す紙じゃねえよ
:これいつ書いたの?
:ちゃんと2通ある
:スタッフの分もあるじゃん
:急に現実感やばい
:なんか笑えなくなってきた
:財布スマホ遺書の並びやめろ
:忘れ物確認どうやったんだよ
:「遺書入れた?」
:やめろw
:いや笑えねえって
配信者がファイルを開き、中から2通の封筒を取り出した。
カメラマンもレンズを少し下げる。名前の部分だけが映り込まないよう、画角をずらした。
「昨日の夜に2人とも書いてます。中身は当然見せないけど」
「こいつ途中までずっと書かなかったからね」
カメラマンが言う。
「日付変わる前になって、ようやく机に向かってた」
「遺書を早めに書き終えて『準備終わったー』ってなる方がおかしいだろ」
:それはそう
:旅行前日に遺書書いてんの改めてヤバい
:昨日の夜何考えながら書いたんだ
:カメラマンはいつ書いた?
:聞いてどうすんだよ
:前日準備「バッテリー充電、着替え、遺書」
:スタッフ側はチェックリストに入れてそう
:遺書チェック済
:業務連絡にするな
亮が2通を受け取る。
「ありがとうございます。忘れる方もたまにいらっしゃるので、持ってきていただけると受付が早く済みます」
配信者が顔を上げた。
「忘れたらどうなるんです?」
「こちらに用紙がありますので、ここで書いていただきます。遺書を残さずに宿泊することはできません」
:忘れても逃げられないの草
:その場で書かされるのか
:「すみません遺書忘れました」
:人生で絶対言いたくないセリフ
:管理人「こちらで書けますよ」
:コンビニの傘みたいに言うな
:宿泊必須書類に遺書があるのおかしい
:忘れ物の救済措置が遺書用紙なの強すぎ
「忘れて『じゃあ今日は帰ります』じゃないんだ……」
配信者がぽつりと言う。
「予約時に案内していますからね。書いていただければそのまま泊まれますよ」
「親切なんだか何なんだか分かんないな」
亮は2通をほかの宿泊書類と重ねた。
机の引き出しが開く。
遺書が中へ収められる。
配信者の口元から、さっきまで残っていた笑みが消えた。
:提出された
:本当に預けた
:遺書の提出完了
:言い方が会社の書類なんよ
:「お預かりします」が淡々としてて怖い
:その引き出し何通入ってんの?
:それ聞くな
:過去の客の分もあるのかな
:だから聞くなって
:家で書くより預ける瞬間の方がくるなこれ
:急に「死んだ時に使う紙」になった感じする
引き出しが閉じた。
カメラはそのまま、木目の入った引き出しを数秒映していた。
配信者もそこへ目を向けたまま、すぐには立ち上がらない。
「……なんか、預けると一気に実感出るな」
カメラマンもすぐには茶化さなかった。
「家ではただ書類書いてる感じだったしね」
「もう館行こう。ここに座ってると変に意識するわ」
:分かる
:今のはちょっと来た
:配信者急に声低くなったな
:まだ怪異1個も起きてないんだよな
:受付だけで空気変わった
:遺書を預けてから宿泊開始なの強い
:今ならまだ返してもらえるぞ
:返してもらって帰れ
:企画終わるだろ
亮が書類を片づけて立ち上がる。
「受付は以上です。それでは、館へ行きましょう」
◇
館へ入ったのは15時を少し回った頃だった。
亮が引き戸を開ける。
乾いた戸の音とともに、古い木と畳の匂いが外へ流れた。
配信者が靴を脱いで先に上がり、その背中をカメラマンが追う。
玄関から、建物の中央を通る廊下が真っ直ぐ奥へ伸びている。
左右には客室。
古い板張りの床には磨かれた光沢があり、柱や壁にも大きな汚れはない。築68年という年月は随所に見えるが、今も人が使っている建物だということも同じくらい分かる。
「思ってたよりかなり綺麗ですね」
配信者が周囲を見回す。
「宿泊施設ですから、清掃は毎日しています」
亮はそう答えて廊下を進む。
:ちゃんと綺麗
:民宿っぽい
:怪異と汚れは別だからな
:部屋の横のあれ窓?
:廊下向きに窓あるの変じゃない?
カメラマンが左へレンズを振る。
「これ、客室の窓ですよね?」
「はい。全室、廊下側にも窓があります」
近くの窓にはカーテンが掛かっていた。
その隙間が僅かに動く。
配信者が足を止める。
「今の部屋、誰かいる?」
「今日も他のお客様が泊まっていますよ」
「ああ、なら映さない方がいいな」
:他の客いた
:向こうからしたらお前らの方が怖い
:カメラ向けんなw
:他にも泊まる奴いるんだな
カメラマンがすぐにレンズを戻す。
「ほかのお客様の部屋には入らないでください。宿泊者同士で話す場合は廊下でお願いします。窓越しに会話したり、物を渡したりはしないようにしてください」
「会話自体は別に禁止じゃないんですね」
「廊下で普通に話す分には大丈夫です」
廊下の先には階段が見えていた。
その少し手前で、亮が足を止める。
「まず館全体で共通の注意事項です」
配信者が亮へ向き直る。
カメラマンも少し下がり、亮と廊下の奥が同じ画面へ収まる位置を取った。
「深夜1時50分から2時20分まで。この30分間は、廊下には出ないでください」
:きた
:共通ルール
:時間ピンポイント
:何が来る?
:絶対部屋から出るな
「これは予約ページにもありましたね」
カメラマンが言う。
「廊下に出るな、ってところまで。理由は書いてなかった」
配信者が亮を見る。
「その時間、何か出るんですか?」
「館の廊下を歩き回るものがいます。それに見つからないよう、部屋で待っていてください」
:もの
:人じゃないんだ
:幽霊?
:この宿なら幽霊は普通扱いだろ
:歩き回るって巡回かよ
「幽霊とは別ですか?」
「違います」
配信者の眉が少し寄った。
「じゃあ、何なんです?」
亮は一度、廊下の奥へ目を向けた。
「説明しづらいですね。ただ、なるべく見ない方がいいと思いますよ」
:管理人が説明できないのか
:逆に見たい
:見るなって言われてるだろ
:カメラだけ出そうぜ
:やめろ
:遺書預けた直後にその話すんな
「もし時間を間違えて出ちゃったら?」
「1階なら玄関から外へ出てください。2階なら廊下の突き当たりにあるベランダへ。そこから小屋へ助けを求めてください」
カメラマンが玄関へ一度レンズを向ける。
「見つかる前にそこまで行けばいい?」
「そうですね」
配信者が続ける。
「見つかった後は?」
「追ってきますよ。外まで逃げてください」
:追ってくる
:即答やめて
:玄関まで近いな
:1号室ならまだマシ?
:そもそも出るな
:絶対1:50前にトイレ済ませろ
配信者も玄関との距離を見る。
「1号室ならかなり近いですね」
「ただ、近いから確認しに出ていいという意味はありません。そもそも廊下へ出なければ問題ないので」
「そこは守ります。逃げ道だけ覚えときます」
◇
「こちらが1号室です」
玄関から入って左側。
亮が扉を開けた。
配信者が先に入り、カメラマンが入口から部屋全体をゆっくり映していく。
畳敷きの和室。
中央にはちゃぶ台。座布団が4枚。壁際には敷布団が4組。エアコン、照明、コンセント、備え付けの電話。
畳も寝具も清潔に整えられている。
廊下側の窓からは、先ほど歩いてきた板張りの通路がそのまま見えた。
「ここだけ見たらただの旅館ですね」
配信者がちゃぶ台の横まで進む。
「普通に寝れそう」
カメラマンも室内を一周するようにレンズを動かした。
:実家感
:これなら余裕
:2人いるしな
:今はな
:夜になって同じこと言えるかな
「『今はな』って言った奴、夜までちゃんと見てろよ」
「その頃には誰のコメントか絶対分かんなくなってるよ」
亮が入口近くの壁へ移動する。
「先に緊急用の設備から説明します」
壁には白い、市販品らしい呼び出しボタンが取り付けられていた。
「救援ボタンです。各客室に4つ、壁1面につき1つ付けています」
カメラマンが順番に部屋の四方を映す。
すべての壁に、同じ形のボタンが1つずつある。
「本当に全部の壁にあるんですね」
「何かあった時に、どこにいても押せるようにしています。小屋の方で何号室から押されたか分かるので、危険だと思ったら使ってください」
:ここに4つか
:位置覚えとけ
:追い詰められてても押せるように?
:その想像やめろ
:スタッフ撮っとけ
:一番近いボタンへ走れ
「場所は全部撮っとく。夜に探すの面倒だから」
「頼むわ。俺こういう時、普通にテンパる自信ある」
「その前に押してね」
カメラマンの返しに、配信者が笑った。
亮が別の壁を示す。
A4ほどの用紙がラミネート加工され、固定されていた。
「次が1号室専用の説明です。各部屋に同じようなものがあります。夜中に分からなくなった場合は、自己判断せずこちらを確認してください」
「あ、これが例のルールか」
カメラマンが反射を避けるように位置を変え、紙面を大きく映した。
【1号室】
【現象】
・金縛り
・男性の霊が出現する場合があります
【宿泊時の注意】
・男性の霊と目を合わせないでください
・23:00~6:00の間、廊下側の扉を開けないでください
・棚が燃えた場合、備え付けの日本酒で消火してください
:待て
:最後
:棚が燃える?
:火事じゃん
:なんで日本酒
:金縛りが一番まともに見える
:「備え付けの日本酒」がパワーワード
配信者が最後の1行を指差す。
「金縛りと幽霊までは分かるんですけど、最後だけ急に火事になってません?」
「順番に説明しますね」
亮が上段を指す。
「まず金縛り。寝ている時だけではなく、起きている状態でも起こります。身体が動かなくなった場合は、慌てず解けるまで待ってください」
「配信中でも普通に起きる可能性があるんですね」
「あります」
配信者がカメラマンを見る。
「俺だけじゃなくて、こいつも?」
「カメラマンさんも宿泊者なので同じです。2人同時になる場合もあります」
レンズが僅かに下がった。
「俺が動ける前提で撮影考えてたんだけど」
:スタッフも巻き添え
:固定カメラ必須
:2人同時金縛り見たい
:撮影止まるぞ
:固定置こう固定
「カメラは絶対固定して置こう。2人とも動けなくなったらそれしか残らないし」
「そこは頼む」
亮がちゃぶ台の向こう側を示す。
「次に男性の霊。この部屋で刺されて亡くなった方です。毎日ではありませんが、23時43分頃になると、この辺りに立っていることがあります」
「23時43分って、かなり細かいですね」
「何度も同じ時間帯で確認されているので、その時間を目安にしています。ただ、43分ちょうどとは限りませんが」
:23:43
:覚えた
:「頃」なの怖い
:何回観測したんだよ
:絶対時計見るやつ
:今からアラーム入れろ
「23時43分前後ね」
カメラマンが確認する。
亮が続ける。
「姿が出ても、目を合わせないでください」
「カメラ越しなら大丈夫ですか?」
「問題ありません。直接視線を合わせなければ大丈夫です」
:じゃあ配信には映せる
:視聴者無敵
:顔見せてくれ
:本人は絶対見るな
:スタッフもモニター越しにしろ
:我々が見届けよう
配信者がレンズを指差した。
「じゃあ本当に出たら俺は下向いてるから、そっちはモニターで撮ってくれ」
「俺も直接見ないようにするよ。同じ部屋にいるんだから」
「そこはお互い守ろう」
亮が入口の扉へ向く。
「それから、23時から朝6時までは廊下側の扉を開けないでください。先ほどの1時50分から2時20分だけではなく、この部屋ではその時間帯すべてです」
「トイレ側は使えるんですよね?」
「そちらは問題ありません」
亮が部屋の隅の扉を開ける。
「……うわ」
カメラマンの声が漏れた。
中にある便器自体は普通の洋式だった。
ただし、その周囲には御札、塩、大幣、払串、鈴、御幣と、何種類もの道具が所狭しと置かれている。
配信者も入口から中を覗く。
「ここだけ見た目の圧がすごいな」
:全部乗せ
:完全武装トイレ
:ここで寝ろ
:何から守ってんだよ
:安全地帯の見た目じゃない
:絶対ここが一番強い
「見た目はこうですが、ここは安全です。部屋で対処できないことが起きた場合は、この中へ入って扉を閉めてください」
「ここに入れば、とりあえず助かると思っていいんですね」
「はい。避難場所として作っています」
亮が便器の向こう側にある、もう1つの扉を開ける。
午後の光がトイレへ差し込んだ。
そのまま館の外へ繋がっている。
少し先には小屋。その横には、先ほど見た自販機。
「外側にも扉があるので、このまま館外へ避難できます。食事を渡す時もこちらを使います」
「23時過ぎても、こっちからなら外には出られると」
「そうです」
カメラマンが外までの距離を映す。
「小屋も見えるし、これは分かりやすいね」
「逃げる時は迷わなくて済みそうだな」
再び1号室へ戻る。
配信者がラミネートの最後を見る。
「で、まだ残ってるのが日本酒」
カメラが棚へ向く。
棚の上には、小さなガラス瓶が1つ。
寄っていく。
「……ワンカップじゃん」
:草
:普通のワンカップ
:コンビニで見るやつ
:御神酒じゃないの?
:神聖さゼロ
:管理人の晩酌用かな?
:ここだけ生活感が強い
配信者が手に取る。
カメラマンがラベルへ寄った。
「本当に普通の市販品だね」
「普通の日本酒ですよ」
「祈祷とかもしてないんですか?」
「してないです」
:ただの酒じゃねえか
:なんで効くんだよ
:逆に怖い
:日本酒なら何でもいいのかな
:ワンカップに命預けるの草
配信者がワンカップと棚を交互に見る。
「この棚が燃えたら、中身を全部そのまま掛ければいい?」
「はい。水などは使わず、日本酒を掛けてください」
「普通の火に酒掛けるのは怖いですけどね」
「普通の火事ならそうですね。この棚に出る火は、それで消えます」
配信者の手が止まった。
「……じゃあ普通の火だと思わない方がいいわけか」
「ここで起きる現象については、ラミネートに書いてある対処を優先してください」
:普通の火じゃないの怖
:ワンカップが生命線
:絶対飲むな
:飲め
:↑BAN
:酒守れよ
配信者は瓶を元の位置へ戻した。
「これは触らないで置いときます。棚燃えた時に飲みましたは、さすがに笑えないから」
亮がラミネートへ目を向ける。
「1号室の説明は以上です。分からなくなったらまずここを確認してください。自分たちで対処できないと思ったら、電話か救援ボタンを。無理だと思えばトイレへ避難して構いません」
「了解です。紙にないことを勝手に試すのはやめます」
カメラマンがスマートフォンを出し、ラミネートの写真を撮った。
「俺もこれ保存しとくよ。配信の映像を探すより早いから」
:スタッフ有能
:23時から扉禁止
:23:43前後は目合わせない
:棚燃えたらワンカップ
:トイレ安全
:救援ボタンは四方
:コメント欄も覚えた
:俺らの方が先に叫ぶから任せろ
「俺が忘れてたらそっちも頼むわ」
:任せろ
:顔見ろって言う奴BANしろ
:ワンカップ飲め
:↑こいつからBAN
「夕食が必要なら、備え付けの電話から小屋へ連絡してください。1食1000円です」
「今日は何があります?」
「カレーですね」
「じゃあ2人分お願いします」
「分かりました。できたらトイレ側から持ってきます」
亮は軽く頭を下げる。
「それでは、ごゆっくり」
「ありがとうございます」
亮が部屋を出る。
扉が閉まって数秒後、廊下を歩く足音が窓の向こうを横切った。
カメラマンは閉じた扉をしばらく映したままにしている。
足音が遠ざかってから、配信者が室内を見回した。
「……管理人さんいなくなると、急にこの部屋に2人で残された感じするな」
「実際そうだからね。他の部屋にも客はいるけど」
:急に心細い
:2人いるだけマシ
:まだ15時だぞ
:今なら帰れる
:スタッフ帰ろうぜ
「俺に帰れって言われても困るよ。企画やるって決めたのはこいつだから」
「地下まで問い合わせた奴が急に被害者になるなよ」
◇
夕方までは、大きな変化もなく過ぎた。
カメラマンは部屋の隅に三脚を立て、固定カメラを設置する。
ちゃぶ台。
廊下側の窓。
棚とワンカップ。
そして、亮が男の霊が立つと言った部屋の中央。
それらができるだけ同時に映るよう、何度か角度を調整した。
「これなら大体全部入る。メイン持てなくなっても最低限は残ると思う」
「金縛り対策としては十分か」
配信者はその間に、4つの救援ボタンの位置をもう一度確認する。
「入口側、向こう、窓側……あとこっち。これで全部だな」
「トイレまでの動線には荷物置かないようにしてね」
「それで自分から逃げ道塞いだらただの馬鹿だからな」
:スタッフが保護者
:位置覚えろ
:逃げ道塞ぐなよ
:夜になったらテンパるぞ
16時台には一度館を出た。
2人とも小屋で風呂と洗面を済ませる。
館へ戻る頃には日が大きく傾き、畑の草が長い影を落としていた。館の外壁にも暗い部分が増え、窓の奥には昼間には目立たなかった影が溜まり始めている。
帰りに自販機へ寄った。
配信者はお茶。カメラマンは缶コーヒー。
硬貨が落ち、機械の中を商品が転がる。
:自販機生存確認
:まだ普通?
:ラインナップ変わってない?
:この配信の良心
:何も起きないでくれ
「何も起きてません。普通のお茶です」
配信者がボトルをレンズへ見せる。
「自販機にまで何か起きたら、俺もうこの敷地の何も信用できなくなるよ」
カメラマンが缶を取り出す。
「お前の限界そこなんだな」
◇
18時半。
窓の向こうでは、空に残っていた青もほとんど消えていた。
廊下には照明が点いている。
昼間は素通しだった窓ガラスに室内の明かりが反射し、廊下と1号室の景色が薄く重なって見える。
トイレ側の外扉が、
こん、こん。
2度叩かれた。
配信者とカメラマンが同時にそちらを見る。
:ビビった
:飯だろ
:2人とも反応してて草
:もう警戒してんじゃん
「飯だって。時間的にそれしかないだろ」
「夕食です」
外から亮の声。
「今開けます」
配信者がトイレを抜け、外扉を開けた。
亮が2皿のカレーを載せたトレーを持っている。
背後では小屋の窓と、自販機だけが明るく光っていた。
「ありがとうございます。いい匂いするな」
「熱いので気をつけてください」
2人で部屋へ戻り、ちゃぶ台へ皿を並べる。
湯気とカレーの匂いが、畳の匂いへ混ざった。
一口食べた配信者がすぐに眉を上げる。
「うま。これちゃんと作ってるカレーだ」
カメラマンもメインカメラを固定台へ置き、自分の皿へスプーンを入れた。
「1000円なら全然いいね」
:飯テロ
:美味そう
:管理人料理できるの強い
:心霊宿要素どこ行った
:今のところ平和
:遺書預けたことだけ忘れたい
:忘れさせるな
「ここまで館に入ってからは、思ったより何も起きてないんですよね」
配信者がカメラへ向かって言う。
「まだ18時半だけどね」
向かいのカメラマンがスプーンを口へ運ぶ。
「夜のルール、23時からなんだから」
:スタッフ正論
:まだ始まってないぞ
:フラグ立てるな
:23時まで長いな
「分かってるって。何もないうちくらい普通に飯食わせてくれよ」
2人の笑い声が和室に響く。
窓の外。
照明の点いた廊下には、誰もいなかった。
◇
20時を少し回った頃。
――こつ。
天井から乾いた音がした。
配信者の手が止まり、カメラマンもレンズを上へ向ける。
「今の、上からだよな?」
「聞こえ方は天井だね。2階の客かもしれないけど」
:聞こえた
:2階の客じゃない?
:何か落とした?
:まだ普通
「まあ1回なら――」
――こつ。
今度は背後の壁。
2人が同時に振り返る。
「今度は壁だな」
「完全にそっちから聞こえた」
:位置変わった
:上の客じゃないじゃん
:ノック?
:始まった?
:まだ20時だぞ
配信者が壁を眺める。
「こういうのが『普通の心霊現象』ってやつ?」
「予約ページには、家鳴りとかラップ音、軽いポルターガイストは全室で起きるって書いてあったよ。部屋固有の現象には入らないらしい」
:ラップ音が雑魚扱い
:基準がおかしい
:普通の心霊現象とは
:これが説明不要枠なのだいぶ怖いぞ
「ここの普通、だいぶ基準高いな」
「他のホテルで同じ音したら、フロントに言うけどね」
その後も壁や天井から時折音がした。
何も起こらないまま続いたせいか、数回目には2人とも顔を上げなくなっていた。
それからしばらくして。
ぎい。
ぎい。
廊下から足音が聞こえた。
玄関側から、古い床をゆっくり踏みながら近づいてくる。
「誰か来たな」
配信者が窓へ顔を向ける。
「他の客だったら映さないようにするよ」
カメラマンがレンズを下げる。
ぎい。
ぎい。
足音が1号室の前で止まった。
2人が窓を見る。
誰もいない。
カメラマンがゆっくりレンズを持ち上げる。
画面に映るのは、空の廊下だけだった。
「……今、ここで止まったよね」
「聞こえた。誰もいないけど」
:いない
:今ここで止まった
:誰も通ってないぞ
:足音だけ?
:窓あるせいで確認できるの逆に怖い
数秒後。
ぎい。
ぎい。
姿のない足音だけが再び動き、廊下の奥へ遠ざかっていった。
「ちゃんと入ってる?」
「音はかなり拾えてる」
:うわ
:姿ない方が怖い
:音だけ歩いていった
:これも普通判定?
:普通とは
「これもラミネートにないなら、通常枠なんだろうな」
「その呼び方に慣れたくないけどね」
20分ほどして。
また足音。
玄関側から近づき、1号室の前で止まり、そのまま奥へ消える。
「また同じだな」
「ほぼ同じ動きだね」
:2回目
:同じ奴?
:さっきの戻ってきた?
:また玄関側から?
さらにしばらくして、3度目。
やはり玄関側からだった。
途中でカメラマンが口を開く。
「……ちょっと待って」
「どうした?」
「こいつ、戻ってきてなくない?」
配信者が窓を見る。
足音は1号室の前を過ぎ、再び奥へ向かっている。
「1回目も2回目も、奥へ歩いていったよな」
「そう。でも奥から玄関側へ戻る音は一回もしてない」
:あ
:確かに
:全部玄関側から来てる
:奥に行く音しかない
:スタッフ気づいた
:戻ってない
:毎回玄関から湧いてる?
:確認しに行こうぜ
:絶対行くな
「確認しに出るのはやめとこう」
カメラマンが空の廊下を撮りながら言う。
「まだ禁止時間じゃなくても、これを追いかける理由ないし」
「俺もいいわ。向こうから来る分だけで十分撮れてる」
時計は22時17分。
まだ、1号室のルールが始まる時間には早かった。
◇
23時。
カメラマンが卓上時計を映す。
「23時になりました」
配信者は廊下側の扉の前に立っていた。
「ここから朝6時までは、この扉を開けません。何かあって外へ出るならトイレ側です」
:絶対開けんな
:トイレ側はセーフ
:43分まであと43分
:嫌なカウントやめろ
配信者がラミネートを確認する。
「鍵を掛けろとは書いてないんだよな」
「開けなきゃ条件は同じだと思うけど、心配なら掛けてもいいんじゃない?」
「じゃあ一応」
鍵を回す。
かちり。
直後。
――とん。
窓ガラスが鳴った。
配信者の手が止まる。
:今の
:窓
:叩いた
:タイミング良すぎ
:見に行くな
:近づくな
「……廊下側だよな?」
「そっち。ズームするから、そのままでいいよ」
カメラマンが離れた位置から窓を寄せる。
誰もいない。
「何も映ってない」
「じゃあ見に行かなくていいな」
:スタッフ冷静
:鍵掛けたから?
:ルールに鍵はなかったぞ
:余計なこと考えるな
:開けなきゃいい
「鍵のせいかどうかまで考え始めたらキリないって」
配信者が扉から手を離す。
「とりあえず開けなきゃ――」
ぎゅ。
背後で畳が鳴った。
2人の声が止まる。
カメラマンが即座にレンズを向けた。
そこには畳と座布団。
何もいない。
配信者がゆっくり振り返る。
「……今の入った?」
「音は入ってる。画面には何もいない」
:畳鳴った
:人が踏んだ音だろ
:誰もいない
:固定カメラにも何もいないぞ
:近い近い近い
:もうトイレ行こう
しばらくその場所を見たあと、配信者はちゃぶ台へ戻った。
「まだ43分まで40分以上あるんだけど」
「そもそも43分に出るとは限らないからね」
「それ慰めになってないんだよ」
:今日は出るに1000円
:賭けるな
:火事もまだあるぞ
:忘れてた
:ワンカップ先生
それから、館の音が消えた。
壁や天井を鳴らしていた音も。
何度も廊下を通った足音も。
窓の外で草を揺らしていた風も。
いつ止んだのか分からない。
気付けば、固定カメラとメインカメラの微かな作動音、それに2人の衣擦れだけが部屋に残っていた。
カメラマンが音量メーターを見る。
「……マイクは生きてる。周りが本当に静かになってるだけだね」
配信者も窓の向こうを見る。
「さっきまで何かしら音してたのにな」
:静かすぎる
:これ怖い
:マイク壊れたかと思った
:何も鳴らない方が落ち着かん
:もうすぐ43分か
23時31分。
カメラマンが時計を確認する。
「あと12分。少し前から部屋の中央を外さないようにするよ」
「時間はこっちも見えてるから、あんまりカウントしなくていいぞ」
:スタッフカウント係
:ワンカップ確認
:逃げ道も確認しとけ
:まだ12分もある
23時36分。
カメラマンがバッテリーを交換する。
23時40分。
配信者が棚のワンカップへ目を向ける。
「酒もそのまま。火が出てもすぐ取れるな」
「無くなる理由ないけど、場所確認しとくのはいいと思う」
:消えてたら怖いわ
:あと3分
:出ないに賭ける
:今日は出る
:賭博会場にすんな
23時42分。
コメントの流れる速度が上がっていく。
:あと1分
:目合わせんな
:本人は足元だけ見ろ
:スタッフはモニター越し
:43分「頃」だから油断すんな
:45分くらいまで警戒
:ラミネート確認
配信者が壁のラミネートを見る。
【男性の霊と目を合わせないでください】
「変なコメントで上向かせようとすんなよ」
カメラマンが時計へレンズを向けた。
「42分50秒」
「秒まで言わなくていいって」
「撮影記録なんだから必要でしょ」
「黙って撮っとけよ」
:スタッフ楽しんでるだろ
:51
:52
:53
:視聴者までやるなw
「お前らまでカウント始めるな」
23:42:58。
59。
表示が変わる。
23:43。
カメラが部屋の中央へ戻る。
ちゃぶ台。
座布団。
その向こうの畳。
何もない。
数秒が過ぎた。
:43
:きた
:……
:何もない
:今日は出ない日?
:まだ「頃」だぞ
:油断すんな
配信者の肩が少し下がる。
「……ちょうどには出なかったな」
「まだ数秒だよ」
「ちょっとくらい安心させろよ」
配信者が笑い、ちゃぶ台へ片手を置く。
カメラマンは配信確認用の端末へ視線を落とした。
流れていくコメント。
その途中で、指が止まる。
「……おい」
声色が変わった。
配信者の笑みが消える。
「何?」
カメラマンはレンズの先を直接見ず、モニターへ視線を固定した。
「顔、上げるな」
:いる
:いるいるいる
:画面右
:ちゃぶ台の向こう
:顔上げんな
:目合わせるな!!
:スタッフ気づいた
:下見ろ
:絶対上向くな
配信者の身体が固まる。
「……出た?」
「いる。ちゃぶ台の向こう」
カメラマンがメインカメラを持ち直す。
「足元だけ見て」
配信者がゆっくり視線を落とした。
ちゃぶ台の向こう。
さっきまで何もなかった畳の上。
黒いズボンの裾。
その下に、裸足。
配信者の動きが止まった。
反射的に顔が上がりかける。
「上見るな」
カメラマンの声が鋭く飛ぶ。
視線が止まる。
横の壁には、何度も確認したラミネート。
【男性の霊と目を合わせないでください】
配信者は再び男の足元へ視線を落とした。
「……これで間違いないよな?」
「時間も場所も説明通り。多分そう」
カメラマンは男を直接見ず、横のモニターだけを確認しながら画角を僅かに調整する。
:映ってる
:普通に映ってるぞ
:顔見える
:配信者は絶対見るな
:スタッフも直接見るな
:モニターだけ見ろ
:いつ入ってきた?
:扉開いてない
:窓にも誰もいなかった
配信者が顔を伏せたまま扉を見る。
閉じている。
鍵も掛かったまま。
次に廊下側の窓。
向こうには誰もいない。
ちゃぶ台の向こうへ目を戻す。
黒いズボン。
青白い裸足。
足の甲には、古い痣のような黒ずみがいくつも浮かんでいた。
「動いてる?」
「いや。出てからずっと同じ場所にいる」
「……こっち見てる?」
カメラマンがモニターを凝視する。
一瞬、返事が遅れた。
「顔はこっち向いてる。ただ、目線まで確認するために寄るのはやめとく」
「それでいい。余計なことしないでくれ」
:こっち見てる
:ガッツリ正面
:本人に細かく教えるな
:顔上げるなよ
:そのままでいい
:ルール守れ
:スタッフそのまま撮って
配信者の呼吸がマイクに拾われる。
男は何も言わない。
足の指先さえ動かない。
ただ、ちゃぶ台を挟んだ向こう側に立っている。
固定カメラの赤い録画ランプが、暗くなった和室の隅で一定の間隔で点滅していた。
メインカメラも止まらない。
配信画面には、配信者が決して見ようとしない男の姿が映り続けている。
畳の上に立つ男。
その足元には、
影がなかった。