おかしな館の宿泊プラン 作:蔓延る
ちゃぶ台の向こうに、男が立っていた。
配信者は顔を伏せたまま、その足元だけを見ている。黒いズボンの裾と、畳の上に並んだ裸足。少し前まで何もなかった場所に、今は人間の脚が2本ある。
「……まだいる?」
声を抑えて尋ねると、カメラマンは手元のモニターをもう一度確認した。
「いる。動いてない」
メインカメラは男を画面の中央に捉えたままだった。配信画面には、配信者からは見えない男の全身がはっきりと映っている。
:顔
:ちょっと待って顔
:何これ
:穴?
:目どこだよ
:顔へこんでない?
:これ本当に人の顔?
:ずっとカメラ向いてるぞ
コメントの流れが一気に速くなる。
男の顔には、目や鼻や口と呼べるものが見当たらなかった。顔の中央が大きく内側へ落ち込んでいる。傷で抉れたようにも、何かに押し潰されたようにも見えない。本来なら顔があるはずの部分だけが奥へ沈み、その先に暗い窪みが続いていた。
どれほど深いのかも分からず、どこまでが顔なのかさえ画面越しでは判然としない。
それでも、男がどこを向いているのかだけは妙にはっきりしていた。
窪んだ顔は、真正面からカメラのレンズへ向けられている。
「……何してる?」
配信者の視線は足元から動かない。
「立ってるだけ」
「こっち向いてる?」
「向いてる」
「俺?」
カメラマンはそこで一度言葉を切り、モニターの中の男とカメラの位置を見比べた。
「いや……カメラだと思う」
「カメラ?」
「顔の向きがずっとこっち。お前より少し右」
それを聞いた配信者の口が閉じた。
:やっぱレンズだよな
:配信者見てない
:カメラ見てる
:目ないのに?
:見てるって言っていいのかこれ
:でもずっと真正面なんだよ
:俺ら見られてない?
:やめろ
:視聴者認識してるとか言うな
男は動かなかった。カメラマンが持ち手を変えても、配信者が座り直しても、身体の向きひとつ変えない。
「今どれくらい?」
「2分ちょい」
「まだ2分かよ……」
配信者は座布団の上で足を組み直したが、顔だけは上げなかった。
そのまま5分が過ぎ、8分を越え、10分近くになった頃には、カメラマンの腕にも疲れが出始めていた。持ち手を変えるために一度カメラを動かし、レンズの位置が数十センチずれる。
その瞬間、コメント欄がまた騒がしくなった。
:今動いた?
:顔ちょっと追った?
:俺もそう見えた
:いや体は動いてない
:カメラ動かしたからそう見えただけじゃね
:でもまだレンズ真正面だぞ
:もう10分超えてる
カメラマンも黙ってモニターを見つめる。
男の身体は、確かに動いていない。それでも窪んだ顔だけは、変わらずレンズの真正面を向いているように見えた。
「まだいる?」
「いるよ」
「ずっと同じ?」
「ほぼ。カメラから顔外してない」
「なんなんだよ、こいつ」
それ以上、会話は続かなかった。
男が立っているだけなのに、別の話を始める気にもならない。2人が黙った分だけ、コメントが絶え間なく画面の端を流れていった。
23時58分。出現してから、およそ15分が経っていた。
カメラマンが配信確認用の端末へ一瞬だけ目を落とし、数行のコメントを確認してからモニターへ視線を戻した。
その手が止まる。
「……消えた」
配信者は顔を上げなかった。
「いない?」
「いない」
「本当に?」
「待って。確認する」
カメラマンはモニター越しに部屋をゆっくり見回した。ちゃぶ台の向こうから窓際、棚の前、部屋の隅まで映していくが、男の姿はどこにもない。
「もういないと思う」
「顔上げるぞ?」
「うん」
そこでようやく、配信者がゆっくりと顔を上げた。
畳も、ちゃぶ台も、座布団も何も変わっていない。15分近く男が立っていた場所にも、足跡ひとつ残っていなかった。
「……長ぇ」
配信者は肩を落とし、そのまま座布団へ深く座り込む。
「15分くらい?」
「そのくらい。ほぼずっと同じ場所」
「しかもカメラ見てたんだろ?」
「そう見えた」
:見てたぞ
:ガッツリこっち向いてた
:最初から最後までほぼカメラ目線
:本人見てみ
:顔やばいぞ
:配信者まだちゃんと見てないのか
コメントを見た配信者が端末を手に取り、少し前まで配信を巻き戻した。
画面の中では、自分の背後に男が立っている。
そこで初めて、真正面からその顔を見た。
「……何これ」
端末を持つ手が止まる。
画面いっぱいまで拡大してみても、目らしいものも鼻らしいものも、口らしいものも見つからない。顔の中心へ向かって落ち込んでいく、暗い窪みだけが映っていた。
「穴……なのか、これ」
カメラマンも横から覗き込む。
「俺はへこんでるように見える。奥がどうなってるかは分かんないけど」
「これでずっとレンズ向いてたの?」
「少なくとも顔の向きはね」
:そこが一番おかしい
:目ないのにカメラ分かるの?
:機械認識してんのかな
:視聴者認識説
:やめろって
:15分俺ら見てたことになるぞ
:人間でも15分カメラ目線は怖い
配信者はしばらく画面を見ていたが、やがて端末を伏せた。
「視聴者見てたとか、そういうの考えるのやめよう。確かめようもないし」
「まあ、カメラ向いてた以上のことは分かんないね」
「それだけで十分だわ」
男の霊は、それ以降現れなかった。
◇
日付が変わってしばらくした頃。
先ほどまでの緊張も少しずつ薄れ、2人はまた普段の配信に近い調子へ戻っていた。配信者はちゃぶ台へ頬杖をつき、流れてくるコメントを拾っている。
「だから顔の窪みの中まで見ろとか無理だから。目合わせんなって言われてんのに、わざわざ近づいて確認するわけ――」
そこで声が途切れた。
カメラマンはすぐには気付かず、そのまま返す。
「そこまでやったら検証じゃなくて自殺行為でしょ」
返事がない。
数秒してから不審に思ったのか、カメラマンが配信者へレンズを向けた。
「……何してんの?」
配信者は、頬杖をついた姿勢のまま止まっていた。口は言葉を発していた途中の形で、視線もコメントを映している端末へ固定されている。
瞬きすらしていない。
「おい?」
カメラマンが近づき、肩へ手を置いて軽く揺する。
返事はない。視線もそのままで、眼球さえ僅かにも動かなかった。
:これ金縛り?
:止まってる
:え、目も動いてなくね
:配信止まった?
:スタッフ動いてるぞ
:カメラも動いてる
:こいつだけ止まってる
:瞬きしてない
:マジで静止画みたい
「……金縛りか?」
カメラマンが顔の前で手を振ってみても反応はなく、名前を呼んでも何も返ってこない。
固定カメラの映像では、その異常さがさらに目立っていた。カメラマンは普通に動いており、窓際のカーテンも空調の風を受けて僅かに揺れている。
その真ん中で、配信者だけが完全に停止していた。
その状態が1分ほど続いた頃。
「――ないだろ……っ」
突然、止まる直前の言葉の続きが口から飛び出した。
同時に身体が前へ傾き、頬杖を外した手がちゃぶ台につく。
「っ……あー……」
配信者は何度か瞬きをすると、次に指、手首、肩と、ひとつずつ確かめるように動かしていった。
カメラマンがすぐ横へしゃがむ。
「大丈夫?」
「動く。大丈夫」
「1分くらい止まってたよ。マジで全然動かなかった」
「分かってる」
配信者は手を握ってから開き、まだ少し速い呼吸を整える。
「全部聞こえてた。お前が肩触ったのも分かった」
「意識あったんだ?」
「あったよ。普通に時間も経ってた」
カメラマンが固定カメラへ目を向ける。
「外から見ると、本当に時間止まったみたいだったけど」
「こっちはずっと動かそうとしてた。指も首も目も、瞬きすら無理だった」
:意識あったのか
:それきついな
:目動かなかったぞ
:1分間ずっと?
:完全固定じゃん
:普通の金縛りと違くね
:起きたままなるってこういうことか
「1分って感覚も合ってる?」
「多分そのくらい。時間飛んだ感じはない」
配信者はようやく背筋を伸ばした。
「身体だけ丸ごと止められた感じだな」
「これ寝てる時にも来るんでしょ?」
「寝てる時ならまだマシかもな。起きてて全部分かってる方がきついわ」
そう言って端末へ手を伸ばしたところで、コメント欄の流れが急に変わった。
:後ろ
:棚
:右後ろ
:火
:燃えてるぞ
:棚見ろ!!
「ん?」
先にカメラマンが振り返る。
「火――」
「うわっ!?」
配信者が弾かれたように立ち上がった。
棚の端から炎が上がっている。最初は小さかったはずの火が、もう棚板を舐めるように横へ広がり始めていた。
「ちょ、待って、マジで燃えてる!」
配信者は反射的にちゃぶ台の上のペットボトルを掴み、慌ててキャップを捻る。
「待って! 水じゃない!」
カメラマンの声が飛んだ。
「は!?」
「酒! 日本酒!」
一瞬遅れて、配信者の顔に理解が浮かぶ。
「あっ、そうだ!」
半分開いたペットボトルを慌ててちゃぶ台へ戻す。勢いで倒れかけたそれを片手で押さえると、そのまま棚へ駆け寄った。
炎のすぐ近くに置かれていたワンカップを掴む。
「これだよな!?」
「それ!」
蓋を乱暴に剥がし、中身をそのまま棚へぶちまけた。
じゅっ、と短い音がして、炎が一気に消えた。
「……消えた?」
配信者は空になった容器を握ったまま棚から半歩下がる。カメラマンもレンズを向けたまま数秒様子を見ていたが、火が戻る気配はない。
:消えた
:あぶねえええ
:水かけるとこだったぞ
:スタッフナイス
:ルール思い出してよかった
:そりゃ火見たら水行くわ
:日本酒マジで効いた
:水だったらどうなったんだ
:試すな絶対
「いや、火出たら普通は水だろ……」
配信者がちゃぶ台のペットボトルを見る。
「俺も一瞬そっち行きかけたけど、ラミネート思い出した」
「助かったわ。完全に頭から飛んでた」
2人でもう一度棚を確認する。焦げた跡は残っているものの、再び火が上がる様子はなかった。
「これで1号室の説明、全部起きた?」
「男、金縛り、棚の火……一応全部だね」
「本当に一晩で全部来るんだな」
配信者は空のワンカップを棚の横へ置き、壁の時計を見る。
午前1時を回っていた。
「じゃあ、あとは館全体の方か」
1時50分。その時間だけは、2人とも忘れていなかった。
◇
午前1時40分を過ぎる頃には、2人が時計を見る回数も明らかに増えていた。
1号室固有の現象とは違い、今度は館に泊まる全員へ共通して伝えられているルールだ。
1時50分から2時20分までは、廊下へ出てはいけない。
外付けのトイレは1号室から直接入れるため、この時間でも使うことはできる。それでも2人とも、わざわざこの30分に余計な動きをしようとはしなかった。
「あと3分」
カメラマンが卓上時計を確認する。
「今度はカウントしていいぞ」
「さっきは嫌がってたのに」
「今回は時間分かってた方がいい」
配信者は廊下側の窓へ目を向けた。カーテンは閉じたままで、亮からもなるべく見ない方がいいと言われている。
:カーテン開けるなよ
:廊下出るな
:トイレはセーフなんだよな
:トイレは部屋直結
:救援ボタンもあるからな
:あと2分
「窓はこのまま。何が来ても開けません」
配信者がコメントへ向けて言う。
やがて1時49分を過ぎ、そのまま館内には何も起こらないまま1時50分を迎えた。
時計の表示が変わっても、すぐには何も起きない。
2人が黙って耳を澄ませていると、十数秒ほど経ったところで館の奥から低い振動が伝わってきた。
ご、と、何か非常に重いものが動いたような音がする。
続いて、木材が深く軋んだ。
「……階段?」
カメラマンが声を落とす。
配信者も音のする方へ顔を向けた。
間を置いて、また床が軋む。今度はその位置が少し高い。さらにもう一度と続き、何かが地下から一段ずつ階段を上がってきていることが分かった。
:地下から?
:これ階段だよな
:上がってきてる
:音重すぎ
:人の足音じゃない
:さっきまでの足音と全然違うぞ
最後にひときわ大きく床が軋み、音の場所が階段から1階の廊下へ変わった。
そこから一歩ごとに古い床板が深く鳴り始める。
怪物は館の奥から玄関側へ向かっていた。その途中にある1号室へ、重い音が少しずつ近づいてくる。
「来てるな」
配信者の声も自然と小さくなった。
「カーテン、そのままね」
「触らんよ」
足音はさらに近づき、やがて1号室のすぐ前まで来た。
カーテン越しに透けていた廊下の照明が、一気に消える。
窓の一部ではなく、上から下まで全体が暗くなった。何か巨大なものが、廊下側の窓を丸ごと塞いでいる。
2人とも声を出さず、そのまま通り過ぎるのを待った。
:でか
:窓全部暗くなった
:人のサイズじゃないだろ
:カーテン開けんな
:まだ前にいる?
:動いた?
数秒後、カーテンの向こうに光が戻った。
怪物は1号室の前を通り過ぎ、そのまま玄関側へ進んでいく。玄関までは数歩しかなく、足音はすぐに止まった。
直後、引き戸が大きく鳴る。
がたん。
配信者の肩が跳ねた。
「玄関だ」
続けて、がた、がた、と戸が揺れる。
ほとんど部屋のすぐ外で、何かが玄関を開けようとしている。
:近っ
:玄関すぐそこだろ
:開けようとしてる
:外出る気?
:戸めっちゃ鳴ってる
:開かないな
さらに強く引き戸が鳴ったものの、戸は開かなかった。
「……開かねえな」
「うん」
「鍵、掛かってんのか?」
「分かんない」
理由は分からないが、少なくとも怪物は玄関を開けられないらしい。
しばらくすると引き戸の音が止まり、再び重い足音が響き始めた。玄関を離れた怪物は館の奥へ戻っていき、ほとんど間を置かずに1号室の窓が再び暗くなる。
今度は反対方向へ通り過ぎ、足音はそのまま奥へ遠ざかっていった。
やがて階段が軋む。
「2階行ったか?」
「そう聞こえる」
少しして、天井の向こうから鈍い振動が伝わってきた。右へ進んだかと思えば奥へ行き、また戻る。巨体が2階を歩き回っているらしい。
しばらくして階段が再び軋み始める。
「戻ってくる」
配信者が時計を見る。
「まだ1時56分かよ」
「あと24分あるね」
「長ぇな……」
:30分間ずっといるのか
:一回通って終わりじゃないんだ
:また来るぞ
:カーテン見るなよ
:これ毎日やってんの?
1階へ降りた怪物は、その後も館内を歩き続けた。
奥から1号室の前を通って玄関へ向かい、玄関側から戻ればまた部屋の前を通る。階段を上って2階を歩き回ったかと思えば、しばらくするとまた1階へ下りてくる。
決まった道順があるようには思えない。ただ館の中を、ひたすら徘徊している。
2時を少し回った頃、再び1号室の前を巨大な影が通過した。数歩先にある玄関で足音が止まり、ほどなく引き戸がまた揺れ始める。
「まただ」
配信者が小さく呟く。
:2回目
:また開けようとしてる
:やっぱ外出たいのか?
:なんで開かないんだ
:すぐ横でこれ聞くのキツいな
:絶対部屋出るなよ
何度か大きく揺れたものの、やはり玄関は開かなかった。
怪物はしばらくして諦めたように館の奥へ戻り、その後も1階と2階を行き来し続けた。窓の向こうを通るたびにカーテンが大きな影へ覆われ、2人はそのたびに声を止めて通過を待つ。
やがて2時17分を過ぎた頃、怪物は1階を歩きながら館の奥へ向かい始めた。
2時18分。
今度は玄関側へ戻らず、そのまま階段の方へ進んでいく。
2時19分になると、階段を踏む音が再び聞こえた。
「……地下?」
カメラマンが耳を澄ませる。
今度の軋みは、一段ごとに遠ざかっていた。怪物が地下へ降りている。
音は少しずつ小さくなり、最後に大きな振動が一度だけ館へ伝わった。
それきり、何も聞こえなくなる。
少し遅れて、卓上時計が2時20分へ変わった。
:20分
:終わった?
:時間ぴったり
:地下戻ったぞ
:地下から出て地下に帰ったのか
:確認しに行くなよ
:朝までそのままでいろ
2人ともすぐには喋らなかった。
数十秒待ち、もう何も聞こえないことを確かめてから、配信者が長く息を吐く。
「……終わったか」
「多分ね」
「30分、長ぇ……」
カメラマンもようやくカメラを少し下げた。
「本当に1時50分から2時20分だったね」
「出てきたのも地下で、戻ったのも地下か」
配信者は廊下側の扉を見る。鍵は掛かったままだ。
「まあ、こっちは朝6時まで開けられないけど」
「そのままでいいよ。確認する必要もないし」
「だな」
トイレを使う必要があれば部屋から直接入れるし、何か別の問題が起きて自分たちで対処できなければ救援ボタンもある。
廊下へ出る理由はなかった。
◇
午前6時。
廊下側の窓から入る光は、昨夜までの室内灯とは違う白さを帯びていた。
もう夜は明けている。
昨夜、何度も巨大な何かが通り過ぎた廊下も、今はただの古い板張りの通路に戻っていた。
配信者が壁のラミネートを確認し、続いて時計を見る。
6時03分。
「もういいな」
「時間は過ぎてる」
配信者が鍵へ手を掛ける。
かちり、と音を立てて鍵が外れ、昨夜23時から一度も開けなかった扉が引かれた。
朝の冷えた空気が部屋へ入り込む。
廊下には誰もいない。壁にも床にも目立った変化はなく、あれだけの重さを持った何かが30分間歩き回っていたとは思えないほど、昨日と同じ姿をしている。
「……何もないな」
配信者が廊下へ出ると、カメラマンもその背中を撮りながら続いた。
:生還
:おつ
:朝だ
:ちゃんと生きてる
:1号室でこれ?
:これ一番安全なんだよな?
:次2号室行こうぜ
:地下行け
:鬼しかいねえ
:今日はもう帰らせろ
配信者がコメントを見て笑う。
「朝になった瞬間、次行けって言い出すのやめろよ。こっちは昨日遺書まで持ってきてんだからな」
朝日が差し込む廊下は、昨夜のことなど何も知らないように静まり返っていた。