[ 7月15日(水) ]
午後16時27分。
つい最近、梅雨が明けた。
窓の外へ目を移せば、数日前まで続いていた長雨が嘘のように、淡い初夏の日差しが白い校舎を明るく照らしていた。雨に洗われたばかりの空は澄みきっていて、ところどころに浮かぶ白い雲まで、いつもより輪郭がくっきりして見えた。
開け放した窓から吹き込む風はまだどこか涼しく、雨上がりの湿った土と青葉の匂いを運びながら、長い廊下をすっと抜けていった。磨かれた床には窓枠の影が薄く伸び、風が通るたび、壁際の掲示物がかすかに揺れる。
本格的な夏は、まだ少し先。
けれど、日に日に濃くなる空の青さも、遠くから聞こえ始めた蝉の声も、もうすぐ季節が変わることを静かに知らせていた。
「藤井センパーイ!」
「切原くん」
終礼のHR後、面倒な清掃時間を終えて早々と帰ろうと廊下を闊歩していた時だった。聞き慣れた声に足を止めて振り返れば、廊下の向こうから一学年後輩の切原赤也がこちらへ駆けてくる。振り返った拍子に、肩のスクールバックに装着されたキーホルダーの束と大きめのウサギのぬいぐるみが揺れた。
今日の格好は、白い長袖のシャツを肘の手前まで無造作に捲り、その上から薄手でグレーの半袖ベストを重ねている。朝方はまだ少し肌寒いうえ、白いシャツ一枚では下着が透けるのが気になるため、この時期はまだベストを手放すことはほとんどない。首元には暗い紺色を基調に白のラインが走るストライプのネクタイを緩めに結び、腰から下には深緑色の落ち着いた淡いチェック柄のプリーツスカート。校則通りならもう少し長いはずの裾はウエストで何度か折られ、細い太もも付近まで短くなっていた。
そこへ合わせているのは、学校指定の黒いソックス。脛の半ばまでを覆うその色合いも相まって、甘さのあるチェック柄のスカートに対して、全体としてはどこか落ち着いた印象にまとまっている。
やがて追いついた切原は、軽く息を弾ませながら千尋の隣へ並ぶ。背中には、身体の幅よりもひと回り大きなラケットバッグ。半袖シャツにネクタイという夏服の制服姿のままそれを背負っているところを見るに、どうやらこれから部活へ向かうところらしい。
「よかった、まだ帰ってなかった」
「今まさに帰るところだったけど」
「じゃあちょうどいいっスね」
「何が?」
そう返しながら再び歩き出すと、切原も当然のようについてくる。わざわざ上級生のフロアを走って追いかけてきたところを見るに、ただ挨拶をしに来たわけではなさそうだ。
嫌な予感がして、思わず眉を寄せる。
けれど切原は、そんな反応などまるで気にした様子もない。先ほどまで廊下を走っていたせいで呼吸はまだ少し乱れているくせに、歩幅を合わせながら横からぐっと顔を覗き込んでくるその表情だけは、なぜか妙に嬉しそうだった。
「部活、来てくださいよ」
「やだ」
「即答!?」
思ったよりも大きな声に、少し先を歩いていた数人の生徒が何事かとこちらを振り返った。けれど切原はそんな視線など気にも留めず、逃がすまいとするように隣へぴたりとついてくる。どうやらこのまま素直に帰してくれる気はないらしい。
同じ保健委員になったことで顔を合わせるようになってからというもの、ここ最近の切原は、会うたびに決まってテニス部のマネージャーにならないかと声をかけてくる。
最初のうちは冗談半分なのだと思っていたが一度や二度ならまだしも、廊下で会えば誘われ、委員会で会えば誘われ、しまいには昼休みにまでわざわざ教室を覗きに来るようになったのだから、どうやら本人なりに本気らしい。
「ちょ、待ってくださいって!」
「待たない。帰ります」
「なんでっスか!」
「帰宅部だから」
「それ毎回言うじゃないスか!」
「事実だもん」
会話を切り上げるようにそう返して、階段へ足を向ける。帰る意思をこれだけはっきり示しているのに、諦める気配はまるでない。
夏休みを目前に控えたこの時期、男子硬式テニス部が大会前でいつにも増して忙しいことくらいは知っている。
全国大会3連覇を狙うような強豪校だ。普段から練習量が多い上に、大会前ともなれば放課後のコートはいつも以上に慌ただしい。ボールを打つ音も、掛け声も、校舎の中にまで届いてくるほどだった。それを知っているからこそ、わざわざ自分から巻き込まれに行く気にはなれない。
「なんで私なの?」
「嫌なんスか?」
「だから断ってるんだけど」
「ケチ」
話が通じない。
千尋は呆れたように息を吐き、そのまま階段を降りる。
もっとも、彼がここまで執拗に食い下がるのには、彼女の知らない事情があった。
発端は、つい先日の氷帝学園との合同練習試合である。アウェーとはいえ、氷帝のメンバーを応援するためにコートを囲む女子生徒の数と、選手たちへ飛び交う黄色い声援は、切原にとって少なからず衝撃だったらしい。
おまけに、同じ二年の日吉若と目が合った際、なぜか妙に勝ち誇った顔をされた*1。以来、切原の中ではひそかに妙な対抗心が燻っている。
当の本人にその自覚はまるでないが、“藤井千尋“は校内でもひときわ目を引く存在で、男子からの人気は断トツだった。陶器のような白い肌に、小さな顔と艶のある長い黒髪。猫のような少し吊り上がった大きな目に、ケアをされた薄いピンクの唇。廊下を歩けば自然と視線を集め、全学年の生徒に顔を覚えられているほどである。
そんな至極くだらない思惑の矛先が自分へ向けられていることなど、当然ながら千尋は知る由もなかった。
「喜んで引き受ける女子は他にもいるよ」
「でも先輩なら絶対目立つし」
「何の話?」
「いや、こっちの話っス」
────怪しい。
横目で切原の様子を窺えば、本人は露骨に視線を逸らした。泳ぐ目は右へ左へと落ち着かず、どう見ても何かを誤魔化している。
「……ふーん」
問い詰めたところで、素直に白状するとも思えない。千尋はそれ以上追及せず、ひとまず前を向いた。そうこうしている内に階段を降りきり、一階の昇降口へ続く廊下へ出る。
一階まで来ると、校舎の空気は先ほどまでとは少し違っていた。授業を終えた生徒たちが一斉に動き始めたせいか、廊下にはあちこちから話し声や笑い声が重なって聞こえ、部活へ向かう者とそのまま帰宅する者とが入り混じっている。
すれ違うたびに肩や鞄が触れそうになる人の流れを縫うように進み、そのまま昇降口へ向かう。開け放たれた扉の向こうから外の空気が入り込み、校舎の中にこもっていた熱気をわずかにさらっていく。靴箱の並ぶあたりまで来ると、生徒たちの足音や革靴を履き替える音まで混ざり始めて、辺りはいっそう騒がしくなった。自身の靴箱の前まで来たところで、不意に人の流れの向こうから聞き覚えのある声が飛んできた。
「おいおい、赤也。お前また口説いてんのかよ」
呆れたような、それでいて明らかに面白がっている声に顔を上げると、少し離れた靴箱の前にクラスメイトの丸井ブン太と仁王雅治の姿があった。
どうやら二人もこれから部活へ向かうところらしい。仁王はすでに外履きへ履き替えて壁際に寄りかかっており、その隣では丸井が片足をローファーに突っ込みながら、こちらを眺めている。丸井の顔には呆れと面白がる気配が半々。対する仁王は、口元に薄い笑みを浮かべているだけだった。
普段は面倒事に首を突っ込みたがらないくせに、こういう時に限って妙に楽しそうなのだから質が悪い。
ふと、仁王の視線がこちらへ向いていることに気付く。けれど、それを気取られるのも癪で、何も気付いていないふりをしてさりげなく目を逸らした。胸の奥で何かがざわつきかけたのを無視するように、息を殺して自分の靴箱へ手を掛ける。
「よう、藤井」
「…プリっ」
「おす」
「べ、別に口説いてないっスよ!」
案の定、切原がすぐさま噛みついた。
「マネージャーになってもらおうとしてるだけっス!」
「それ、何回目じゃ」
仁王のひと言に、切原がぐっと言葉を詰まらせる。
間髪を入れずに返した仁王の声音には、もう聞き飽きたと言わんばかりの響きが滲んでいた。切原の勧誘騒ぎなど、もはや珍しくもないのだろう。本気で止める気もなければ、わざわざ口を挟む気もないらしく、どこか他人事めいた顔で二人を眺めている。
────“君達の後輩でしょ、どうにかしてよ”
口に出して訴える代わりに、ありったけの不満を込めた視線を仁王と丸井へ念を送る。こちらはただ大人しく帰宅しようとしていただけなのに、気づけば昇降口で後輩に足止めされ、その張本人をよく知るはずの先輩二人は助け舟を出すどころか、まるで他人事のような顔で成り行きを眺めているのだから、せめて少しくらい責任を持って引き取ってほしい。
もっとも、そんなこちらの胸中など知る由もない二人は、最初のうちこそ何食わぬ顔をしていたものの、あまりにも露骨な視線を感じ取ったのか、さすがに無視を決め込むにも限界があったらしい。
やがて丸井が「なんだよ」とでも言いたげに眉間へ皺を寄せ、面倒事を押しつけられる予感でもしたのか、見るからに嫌そうな顔をする。その隣では仁王もこちらの意図を察したらしく、僅かに片眉を持ち上げると、困っている人間を前にしているとは思えないほど愉快そうに口元を緩めた。
「だって先輩達も欲しいでしょ!?美人女子マネ!」
「だからって、毎回見つけるたびに付きまとってんじゃねーよ」
「付きまとってないっス!」
「十分しつこいじゃろ」
呆れたように肩を竦める丸井と、横から淡々と追い打ちをかける仁王を見て、これ以上ここに留まっていても話が好転する見込みはなさそうだと判断する。少なくとも、切原を説得してこちらを解放してくれるような殊勝さは二人とも持ち合わせていないらしい。
「じゃ、私帰るから」
「ちょ、何どさくさに紛れて帰ろうとしてんスか」
鞄を持ち直してその場を離れようとした途端、すかさず切原が進行方向へ回り込み、再び行く手を塞いでくる。さすが運動部というべきか、こういうときだけ妙に反応が速いのが腹立たしい。
「逆に何がそんなに嫌なんスか?」
「何がって....」
面倒だから、と言ってしまえばそれまでなのだが、切原はどうやらそれでは納得しないらしく、答えを待つようにこちらを見下ろしている。部活動に青春を捧げる人間からすれば、放課後を何の予定もなく過ごす帰宅部という存在のほうが、むしろ理解しがたいのかもしれない。
とはいえ、こちらにもこちらなりの事情があるし、そもそも興味のない部活動へ加入するために理由を並べて説得される筋合いもない。
「それに幸村部長が、藤井先輩いたら連れて来いって」
「.....幸村くんが?」
思わず聞き返してしまったのは、意外だったからだ。
───“幸村精市”
同じ学年で、知らない相手ではない。むしろ立海で彼を知らない生徒を探すほうが難しいくらいには色んな意味で有名人だし、以前は何度か言葉を交わしたこともあった。しかし、それすらも去年の話で、今となってはまともに顔を合わせることはほとんどない。校内ですれ違う程度だろうか。
その名前を聞いた途端、ふと脳裏に浮かんだのは、秋の屋上庭園だった。やわらかな陽射しの下で暖色の落ち着いた色に染まる花々が揺れ、どこからか風に運ばれてきた金木犀の甘い香りが漂う中、すぐ隣には彼がいた。肩を並べてしゃがみ込んでいたあの時の横顔まで鮮明に思い出せるのに、あの日以来、彼とは一度も話していない。
少なくとも、わざわざ後輩を使って自分を呼びに来させるような関係ではなかったはずだ。何か頼まれるようなことをした覚えもなければ、テニス部ともこれまでほとんど関わりがない。
「今、ちょっと迷いましたよね」
「迷ってない」
「いいじゃないスか、部活辞めて暇なんだし───」
「おい、バカ」
言い切るより先に、丸井が眉を顰めながら切原の後頭部を軽く小突く。それとほとんど同時に、隣にいた仁王も呆れたように片足を上げると、切原の踵のあたりを後ろから小さく足蹴にした。
「いってぇ! 何すんスか!」
「ちょっとは言い方考えろっての」
立海大附属中の陸上部は、男子硬式テニス部ほどではないにせよ、県内ではそれなりに名の通った強豪である。そんな部に一年前、転校と同時に入部し、ほどなくしてエースとして名を知られるようになった生徒が、数ヶ月前の怪我をきっかけに突然退部したとなれば、噂にならないほうがおかしい。
クラスメイトはもちろん、同じ学年どころかほとんど接点のない下級生まで事情を知っているらしく、本人の知らないところでは随分と悲劇的な話に仕立てられているらしい。
怪我で競技を断念したエースが、そのまま部を去った────。
人づてに聞けば、いかにも御涙頂戴の物語に聞こえるのだろうし、実際、周囲から妙に気を遣われることも少なくない。けれど、当の本人にしてみれば、いつまでも腫れ物に触るように扱われるほうがよほど面倒だった。
「いいよ、別に。事実だし」
「えッ」
「じゃあね」
どうやら先輩二人に立て続けに咎められて、ようやく自分の発言が少々無神経だったことに気づいたらしい。さっきまであれほど勢いよく食い下がっていたくせに、急にばつが悪そうな顔をして口をつぐむ。
三人の間に漂い始めた微妙な空気など知ったことではない。これ幸いと鞄を肩に掛け直し、そのまま昇降口の外へ足を向ける。
「あ、せ、センパイ!」
一拍遅れて我に返った切原が、反射的にその背中を追おうと身を乗り出す。けれど、勢いのまま外へ飛び出しかけたところで、すぐ横から仁王の声が飛んだ。
「待て、赤也」
その一言に、切原の足がぴたりと止まる。
「お前さんそのまま追いかけるつもりか」
「……あ」
視線を落とせば、切原の足元はまだ室内履きのままだった。
二年と三年では靴箱の場所が違う。彼女を見つけるなりそのまま話しかけていた切原は、自分の靴箱まで辿り着くことすら忘れていたらしい。
慌てて顔を上げた頃には、当の本人はもう昇降口を抜けている。ちらりと見えた後ろ姿も、すぐに小走りになって遠ざかっていった。
「やめとけって」
慌てて靴を履き替えに行こうとする切原を宥めるように、丸井がその肩を軽く掴む。横では仁王も、すでに随分と遠ざかってしまった背中を目で追っていた。
「今から行ったところで、まず追いつけないだろぃ」
短距離ならまだ切原にも分があるだろうが、千尋の本領は長距離だ。これだけ先に走り出されてしまった以上、このアドバンテージのある不利な状況では今から追いかけたところで追いつくのは難しい。その言葉に、切原は渋々足を止めた。なおも未練がましく昇降口の先を眺めていたが、そこでふと何かが引っかかったらしく、怪訝そうに首を傾げる。
「あれ、でも怪我で走れないんじゃ....」
「さあな」
丸井は気のない返事とともに肩をすくめたが、その隣で仁王は少し考えるように目を細める。
「怪我は治ってるらしいって聞いたぜ」
「じゃあ、走れるのに辞めたんスか?」
素朴な疑問だったのだろう。切原は不思議そうに二人を見比べたものの、その問いに対して今度はどちらもすぐには答えなかった。
丸井は僅かに眉を寄せ、仁王もまた、校庭の外周を走り始めた陸上部の一団へと視線を移す。視線の先では、掛け声に合わせて一定の間隔で駆けていく部員たちが、校庭のトラックに沿ってまばらに列を伸ばしていた。
怪我が治っていることと、もう一度競技に戻ることは、必ずしも同じ意味ではない。けれど、そこにどんな事情があるのかまで彼らが知っているわけでもなかった。
「そこまでは知らねーよ」
やがて丸井がそう言えば、仁王もそれ以上言うことはないとばかりに、小さく肩を竦める。
「辞めた理由なんぞ、本人にしか分からんじゃろ」
切原はまだどこか納得しきれない顔をしていたが、それ以上尋ねることはなかった。ただ、もう誰もいなくなった昇降口の先へ視線をやる。
さっきまで確かにそこにいたはずの背中は、とうに校門の向こうへ消えていた。
その先には、抜けるような青空がどこまでも広がっている。白く膨らみ始めた入道雲がゆっくりと風に流され、照りつける陽射しにも、もう春の名残はほとんどなかった。
夏は、すぐそこまで来ていた。