[ 7月16日(木) ]
「俺と付き合ってください!」
四限目が終わり、ようやく昼食にありつけると思っていた矢先、名前も知らない隣のクラスの男子生徒に呼び出された。何の用かと思いながら人気の少ない渡り廊下までついてきたものの、まさか開口一番で告白されるとは思っておらず、私は一瞬だけ言葉を失ってから、ほとんど反射的に頭を下げた。
「ご、ごめんなさい」
自分でも驚くくらい即答だったが、妙に期待を持たせるよりはいいだろう。男子生徒は少しだけ肩を落としたものの、しつこく理由を聞いてきたり、困らせるようなことを言ったりはせず、ただ気まずそうに笑った。
「....そっか。急に呼び出してごめん」
「ううん、気にしないで」
断ってしまった手前、ほかに何か言った方がいいのかとも思ったけれど、気の利いた言葉は浮かばなかった。下手に慰めるのも違う気がして、そのまま黙っていると、彼も何を言うでもなく足元へ視線を落とす。
気まずいというほどではない。ただ、さっきまでとは明らかに違う沈黙が二人の間に残っていた。遠くから聞こえてくる教室の話し声や笑い声が、やけに大きく感じる。すると目の前の彼は口を開くと、“あのさ”と静かに前置きをした。
「好きな人っているの?」
予想していなかった問いに、私は一瞬返事に詰まった。
「好きな人...?」
「もしかして、もう誰かいるのかなって思って」
「いや、そういうわけじゃないけど....」
そこまで答えてから、私は自分でも続きをどう言えばいいのか分からなくなった。
クラスでは誰と誰が付き合ったとか、別れたとか、そんな話はいくらでも耳にするし、友人が好きな男子について延々と話しているのを聞くこともある。恋愛そのものが遠い世界の出来事というわけではないのに、いざ自分のこととして考えようとすると、途端にその輪郭はぼやけてしまう。
ただでさえ掴みどころのなかったものが、ここしばらくの期間でさらに複雑になっていた。
不意に脳裏をよぎる顔に、胸の奥がわずかにざわつく。
もう終わったことなのに、今でも淡く残っているものがあって、思い出すたびにどこか苦いものが胸の底へゆっくりと滲んでいく。すべてが随分前のことのように感じるのに、実際にはまだ数ヶ月しか経っていない。そのせいなのか、忘れたつもりでいても完全には消えてくれず、ふとした拍子にこうして浮かび上がってくる。
“恋情”というものに少しは触れたはずなのに、知る前よりも余計に分からなくなってしまった気がした。
「.....たぶん、いないかな」
少し考えてからそう答えると、男子生徒は「そっか」と小さく笑った。その表情にはどこか納得したような、それでも少しだけ残念そうな色が混じっていて、私はなんとなくそれ以上何も言えなくなる。しばらくして彼が“変なこと聞いたかな”と謝るので、私は首を横に振った。
「少しでも藤井さんのことが、知りたくて...」
─────“知りたい”
その強烈な渇望を私も知っている。
相手が何を見て、何を思い、何を望んでいるのか。言葉の裏に何があって、どうしてそんなふうに笑うのか。ほんの少しでもいいから、その人のことを知りたいと思う気持ちなら、私にも覚えがあった。
知ったところでどうしたいのかなんて、自分でもよく分からない。それでも、見えないものほど確かめたくなって、ひとつ知ればまた次が気になってしまう。目の前の彼も、私に対してそんな感情を抱いているのだろうか。
「引き止めてごめん」
「ううん、またね」
そう返すと、彼は少しだけ困ったように笑った。その表情を最後に、私は教室へ戻ろうと踵を返した。
知りたい、という欲求は何処からくるのだろう。
知らないままでも生きていけることなんて、きっと幾らでもある。それでも人は、見えないものに名前をつけたがって、分からないものに理由を求める。曖昧なまま残しておけばいいことまで、わざわざ確かめようとする。
知りたいから近付くのか、それとも、近付きたいから知ろうとするのか。
考えれば考えるほど、その境目は曖昧になる。
そんなことをぼんやり考えているうちに、いつの間にか教室の前まで戻ってきていた。
「おかえり〜」
後ろの扉を開けるなり、友達の一人がにやにやしながら声をかけてくる。その顔を見ただけで嫌な予感がしたが、案の定、すでに二人とも私の席のまわりに机を寄せ合い、それぞれ弁当や購買のパンを広げて昼食を始めていた。
「ただいま」
「早かったね」
「そう?」
できるだけ何でもない顔をして答えながら席へ向かうと、待ってましたとばかりに視線が集まった。
「告白だったでしょ」
「違うよ」
「嘘付き〜。隠さないでよ」
「あの人サッカー部のキャプテンだっけ」
「結構人気なのに。勿体無い」
好き勝手言っているふたりの友人たちの声を聞き流しながら、私は自分の席へ回り込む。告白のことを根掘り葉掘り聞かれるより、今はとにかく昼食優先。朝食のシリアルが少なかった所為か昼休みに入った途端、急に空腹を意識し始めてしまったのだ。
椅子を引こうとして、そこでふと手を止める。
「…あれ?」
「どうしたの?」
机の上を見ても、あるはずのものが見当たらない。
「私のお弁当箱、見てない?」
「え?知らないけど」
告白に呼び出される少し前、鞄から出して机の上に置いたはずだった。登校前に兄の分と一緒に作っておいたお弁当はいつものピンク色の巾着に包んだはずだから、見落とすような色でも大きさでもない。
けれど机の上には前の授業で使用したペンケースが残っているだけで、弁当らしいものはどこにも見当たらなかった。横や椅子の下を覗き込み、念のため机の中まで確認してみたものの、当然そこにも入っていない。
「ここに置いてたんだけど....」
すると、出しっぱなしになっていたペンケースの下から、白い紙の端がわずかに覗いていることに気付く。
「?」
引き抜いてみると、それはノートを雑に破ったらしい小さな紙切れだった。端はギザギザに千切れ、折り目すらついていない。いかにも急いで書きましたと言わんばかりの紙を見た瞬間、なんとなく嫌な予感がして私は眉をひそめながら文字を追った。
──── 〈弁当は預かった!
返してほしければ屋状に来てください!〉 ────
「何それ」
隣から覗き込んできた友達が、私の肩越しに文章を読む。
「弁当は預かった。返してほしければ....屋状?」
私も同じところを見ていたので、指摘されなくても分かっている。おそらく書きたかったのは“屋上”だろう。随分と物騒な書き出しのわりに、最後だけ律儀に敬語で結ばれているあたりも含めて、どうにも緊張感に欠ける。
「これ、“屋上”だよね」
「たぶん」
「漢字、惜しいね」
「惜しくはないでしょ」
友達は口元を押さえたものの、肩が小さく揺れていた。
笑っている場合じゃない。少なくとも私にとっては、昼食そのものが人質に取られている。
「でも、いつの間に?」
「ウチらがトイレ行ってる間にやられたね」
「どんまい」
連れションという女子の習性を利用したのかと一瞬考えるが、悪質ないたずらにしては妙に間が抜けている。計画的犯行というよりは、運の良い通りすがりの犯行だろう。それでも弁当が消えている以上、まったくの冗談というわけでもないらしい。そして何より、昼休みは有限だ。
「行ってくる」
「一緒に行こうか?」
「いいよ。ご飯食べてて」
「でもちょっと気になる」
「面白がる前提なのやめて」
ほんの数分前、ようやく教室に帰ってきたと思ったばかりなのに、今度は屋上まで行かなければならないらしい。扉へ向かいながら時計を見ると、昼休みは当然のように減っていた。
せめて中身まで食べられていませんように、と淡い期待をしながら廊下へ足を向ける。今のところ、心配するべきなのはバレバレの犯人の正体よりそちらだった。
昼食を食べるだけのつもりだった昼休みが、どうしてこんなに落ち着かないことになっているのか。
「……はぁ」
教室のドアを背に、思わずため息が零れる。
ここ最近、屋上には一度も近付いていない。別に避けようと決めていたわけではないのに、気付けば足が向かなくなっていた場所だ。それなのに、よりによって今日、これからそこへ行かなければならないらしい。そう考えただけで、さっきまでとは別の意味で足取りが重くなる。
それでも弁当を取り戻さないわけにはいかない。重い足を引きずるようにして、私は廊下を歩き出した。どうやら今日の昼休みは、まだしばらくまともに休ませてもらえそうになかった。