空白
空白
空白
空白
─────“君の気持ち嬉しいよ”
─────“泣かないで”
─────“返さなくていいから”
─────“キミが俺とじゃなくても”
─────“幸せになれるよう祈っているよ”
空白
空白
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空白
空白
空白
空白
四限目を終えた校舎は、昼休みに入った途端、それまでの静けさが嘘のように騒がしくなる。教室から廊下へ溢れ出した話し声や、食事を終えた男子生徒が校庭へ急ぐ足音を背に、私は弁当の代わりに残されていた一枚の紙切れをポケットに仕舞い、屋上へ続く階段を上っていた。
昼休みにここまで来ることなんて滅多にない。上へ行くにつれて人の気配も少なくなり、さっきまでの賑やかさが少しずつ遠のいていく。一段、また一段と階段を上るたび、忘れたつもりでいたあの日の記憶が、少しずつ輪郭を取り戻していく。屋上へ近付けば近付くほど、足取りは自然と鈍くなった。
随分と長い時間をかけて上ってきたような気がしたけれど、きっとそれは気のせいだ。ふと気が付くと、私はすでに屋上へ続く扉の前に立っていた。薄暗い塔屋には、乾いた埃っぽい空気が淀んでいる。
その中でドアノブへ手を伸ばすものの、触れる寸前でふと手が止まった。見慣れたはずの扉を前にした途端、ひどく鮮明に蘇ってきたのは、去年の秋の記憶だった。
冷たく乾いた空気。息を吸うたび、鼻の奥がつんとする。風に運ばれてきた金木犀の甘い香りと、前日の雨を含んだ土の匂い。柘榴色の滲むビオラ。
頬のような薄紅色のコスモスと、その花びらに止まったてんとう虫。
白と紫が入り混じったペチュニア。追憶。
葉先から滴る水滴。ベンチに落ちた枯れ葉。
彼の瞳と同じ、淡く紫がかったブルーの孔雀草。
─────私はこの屋上で、幸村精市に玉砕した。
「おや、藤井か」
不意に背後から聞き覚えのある声がして、意識が現実へと引き戻される。
「あ、ヤナギン」
「その呼び方は辞めろと言っているだろう」
振り返れば、数段下に柳が立っていた。片手には弁当を包んだ風呂敷を提げていて、どうやら彼もこれから屋上に行くところだったらしい。彼とは昨年同じクラスで、こうやって顔を合わせるのは久しぶりだったが、不思議と居心地は悪くない。
「それにしても、珍しい所で会うな」
「お宅の後輩に用があって」
「…赤也か」
迷う様子すらなく名前を当てられ、少し肩を竦める。柳はそのまま階段を上がってくると、私の隣まで来て足を止めた。
部員を数多く抱えるテニス部には他にも後輩がいるはずなのに、この程度の情報で赤也に行き着くあたり、日頃の行いというものはなかなか恐ろしい。
「柳は今からお昼?」
「あぁ。生徒会の要件で少し遅れてしまったが」
そう言いながら、柳は腕時計へ軽く視線を落とした。昼休みに入ってからそれなりに時間が経っているものの、まだ急がなければならないほどではない。
そういえば彼は生徒会書記だったな、とぼんやり思い出す。柳の字は綺麗で、恐ろしくほど規則正しい。書記という役目ほど、彼の几帳面さが素直に活きるものもないだろう。
「良かった。入りづらくて」
「そうか」
私がそう言うと、あまり深く追及するでもなく、柳はそれだけ返した。
そのまま屋上へ続く扉に手を掛ける。重たい金属音とともに扉が開いた瞬間、校舎の中に籠もっていた空気を押し流すように風が吹き込んできた。柳に続いて足を踏み出すと、降り注ぐ日差しが眩しくて、一瞬だけ目を細める。
真っ先に目に入ったのは、屋上の中央を大きく占める花壇だった。
遅れて彼らの姿を探すように視線を彷徨わせると、フェンス沿いのわずかな日陰にはテニス部の面々が集まり、それぞれ昼食を広げていた。いつも教室で見るのとは違う顔ぶれが並んでいるせいか、同じ学校の屋上なのに少しだけ別の場所へ来たような感覚がする。
「おう、柳。お客さんもいるようじゃな」
「む、B組の藤井か」
「お邪魔します」
先に気付いたのは、仁王だった。
こちらを見透かすような無機質なあの妙な視線。けれど、相変わらずその表情からは何ひとつ読み取れない。
柳の後ろから顔を覗かせるようにして軽く挨拶すると、それまで思い思いに昼食を取っていた何人かが、揃ってこちらへ視線を向けた。
「珍しいお客さんだね」
「藤井さん、どうかしましたか?」
当然、輪の中には幸村もいた。
分かっていたはずなのに、実際にその姿を目にすると、胸の奥がほんの少しだけ落ち着かなくなる。だからこそ、それを悟られないように、わざとにっこりと笑ってみせた。突然現れた私に不思議そうな顔を向けられながらも、こちらの用件は至って単純だ。
「切原くんに用があって」
「げっ」
その一言を聞いた瞬間、奥の輪の方に座っていた赤也があからさまに顔を引きつらせた。
まだ何をされたとも言っていないのに、その反応だけで自分から犯人だと名乗り出ているようなものだった。
「赤也、お前また何かしたのか?」
「じ、ジャッカル先輩!なんで俺が何かした前提なんスか!」
「実際そうでしょ」
一瞬だけ言葉に詰まり、何か言い返そうと口を開きかけたものの、結局うまい言い訳が思いつかなかったのだろう。気まずそうに視線を泳がせたあと、諦めたように肩を落とす。
「バレてるし...なんで分かったんスか?」
「はいこれ」
制服のポケットから折り畳んでいた紙切れを取り出し、そのまま赤也の前へ差し出した。受け取った赤也は不思議そうにそれを開いたが、紙面へ視線を落とした途端、ぴたりと動きを止めた。数秒遅れて眉間に皺が寄り、なんとも言えない表情のまま顔を引きつらせる。
「うわ...赤ペンで修正されてる....」
「ほら、お弁当返して」
紙の上には、間違っていた漢字を赤ペンできっちり書き直してある。別に嫌がらせのつもりではない。昔から、こういう小さな間違いが妙に目についてしまうタチで気づいてしまえば最後、直さずにはいられない性分だった。
「お前腹減ってるからって人のお弁当取っちゃダメだろぃ」
「他人の物を盗るなど、たるんどる!」
「ち、違うっスよ!」
丸井に続いて真田からまで叱責が飛び、赤也は慌てて両手を振った。
悪者扱いされているのが少しだけ気の毒ではあるが、食べるつもりで持ってきたわけではないことくらいは私も分かっていた。弁当箱はきちんと包まれたまま彼の荷物の横へ置かれていて、中を開けた様子もない。
「俺は...ただ、先輩と一緒に食べたくて...」
先ほどまで必死になって抗議していた声が、不意に小さくなった。赤也は皆から逃げるように視線を落とし、どこかばつが悪そうに頭を掻いている。
「....それならそうと言ってくれればいいのに」
「え!いいんスか?」
「今日だけね」
ぱっと明るくなった表情を見ると、どうやら本当にそれだけが目的だったようで、弁当箱を人質にして屋上まで呼び出すという回りくどい方法を選んだ理由だけは、最後までよく分からなかった。そんなに喜ぶことだろうか。思わずそう考えながらも、真正面から嬉しそうな顔をされると、こちらまで少し調子が狂う。とはいえ、無事に弁当も戻ってきたことだし、これ以上追及するほどのことでもない。
「藤井、ここ座れよ」
「うん。ありがと」
丸井が自分の隣に置いていた荷物を退かし、座れるくらいの場所を空けてくれた。促されるままそこへ腰を下ろすと、日陰になったコンクリートは思いのほかひんやりとしていて、じんわりとその冷たさが伝わってくる。時折吹き抜ける風も心地よく、日中の屋上とは思えないほど心地良かった。
膝の上へようやく戻ってきた弁当箱を置き、包んでいた布をほどく。
蓋を開けるまでほんの少しだけ嫌な予感がしたけれど、中身は朝詰めたときとほとんど変わらず収まっていた。卵焼きに春巻き、唐揚げ、それから隙間を埋めるようにいくつかの野菜。どれも特別なものではなく、冷凍食品や家にある材料で適当に作っただけのごく普通の弁当だ。
「うわっ、藤井の弁当うまそ〜!」
「へぇ、手作りなんすか?」
「一応だけど」
自分では見慣れた弁当なのに、こうして他人に覗き込まれると少しだけ落ち着かない。別に手の込んだものを作ったわけでもないし、褒められるほど大した出来でもないと思っている分、二人の反応が妙に大げさに感じられた。
「卵焼きと俺のウインナー交換しねぇ?」
「いいよ」
丸井が差し出してきたウインナーを受け取る代わりに、私は弁当箱を少し彼の方へ傾ける。すると丸井は嬉しそうに卵焼きを一つつまみ、自分の弁当へ移した。
入れ替わりに置かれたウインナーへ目を落として、思わず口元が緩む。先端にいくつか切れ込みを入れて足を作った、赤いタコさんウインナーだった。ころんとした見た目が妙に愛嬌があって、思わず食べるのを躊躇する。
「これ可愛いね」
「弟たちにも作ってやってるからついクセでよ」
そう言った丸井は、少しだけ照れたように笑った。
普段の軽い調子からは少し意外で、そんな一面もあるんだ、と心の中で小さく感心しながら、私はタコの形をしたウインナーを弁当箱の端へ収める。
「いつも皆で食べてるの?」
「えぇ、そうですよ。何人かは学食で済ます場合もありますが...」
「仲良いね」
そういえば、以前学食を利用した時にも何人かを見かけたことがある。確かあの時は、丸井とジャッカル、仁王、それから赤也くんの四人だったか。
改めて見回してみると、昼食の中身は見事なくらいばらばらだった。
幸村の前にあるのは、焼き魚の入った意外と質素なお弁当。その隣では、真田が何故か二段の重箱を広げている。ちょっと意味が分からない。柳のお弁当は、見るからに栄養バランスの良さそうな彩り豊かなもの。仁王は購買のカツサンドに紙パックの牛乳だけで、成長期の男子中学生にしては随分少ない。
柳生が手にしているのは、綺麗に包まれた手作りらしいブリトー。おしゃれか。
丸井の前には、すでに半分以上が消えた弁当と、その脇にプリンとジュース。対してジャッカルは、購買の焼きそばパンとカレーパン。そして切原はというと、見るからにボリューム重視のわんぱくメニューだった。
「赤也はたまにしか来ないがな」
「そうなの?」
「ああ。同学年の友人と食べていることがほとんどのようだ。もっとも、部活の話がある日は顔を出すが」
当の本人に目を向ければ、こちらの話には耳を持たず丸井にあげた卵焼きを狙って何やら死闘を繰り広げていた。防戦していた丸井が見せつけるようにそれをぱくりと口へ放り込むと、切原はこの世の終わりみたいな顔をする。何をやってるんだか。
ほんの数分前までなら、今日は教室でいつものように友人と昼食を済ませるはずだった。それが気づけば屋上でテニス部の面々に囲まれ、おかずまで交換しているのだから、昼休みというものは案外予定通りには進まないらしい。
頭上には、梅雨をとうに抜けた真夏の青空がどこまでも広がっている。強い日差しとは裏腹に、日陰を通り抜けていく風は思ったより涼しく、時折髪を揺らして頬を撫でていった。
フェンスの向こうから聞こえる校庭の声や、すぐそばで交わされる他愛のない会話に耳を傾けながら箸を手に取り、私はいつもより少しだけ賑やかな昼食を始めた。そのまま他愛のない話をしながら昼食を進めていると、ふと幸村が赤也の方へ視線を向けた。
「そういえば、もうすぐ一学期末テストだけれど、勉強はしているかい?赤也」
「うっ...だ、大丈夫っスよ」
あからさまに動揺した返事に、周囲から何とも言えない視線が集まる。赤也はそれを誤魔化すように弁当へ箸を伸ばしたものの、さっきまでの威勢はどこへやら、どこか落ち着かない様子だった。
「つか、なんでウチの学校は夏休み前にテストがあるんだろうな」
「終業式前まで勉強とかダルくね?」
「うむ。しかし、夏休みに入る前に己の学力を把握し、試験勉強を通して復習することは悪くはない。実用的な制度だろう」
助け舟を出すように呟いたジャッカルと賛同した丸井に、真田がもっともらしく頷けば、二人とも“そう言うと思った”とでも言いたげな顔で肩をすくめた。
立海大附属中学校では、一学期の締めくくりとして終業式の少し前に期末テストが行われる。夏休み目前だというのに最後の最後まで気を抜けない仕組みで、勉強が苦手な生徒にとってはなかなか酷な話かもしれない。
「今回は、負けるつもりはないぞ。藤井」
「うげ」
それまで赤也に向いていたはずの話が、何の前触れもなくこちらへ飛んできた。
顔を上げると、柳はいつもの落ち着いた表情を崩していない。それなのに、言葉の端々から妙な気迫だけはしっかり伝わってきて嫌な予感に思わず箸を持ったまま、また始まったと上体を引く。
「え?」
事情を知らない赤也だけが、私と柳を交互に見ながら不思議そうに首を傾げた。
どうやら話がまったく見えていないらしい。
「はは、藤井さんが転校してきてから、柳は一位を奪還され続けているからなぁ」
幸村が面白そうに笑いながら説明すると、赤也の目が一気に丸くなる。
私も箸を咥えながら、内心少し驚いた。まさか幸村が知っているとは思っていなかったからだ。柳から聞いたのだろうとは思うけれど。
「げ、マジっスか!? 藤井先輩、頭いいんすね」
その言い方に、思わずじとっとした目を向ける。悪いと思ってたんか。
別に隠していたつもりはないけれど、こうして改めて話題にされると妙に居心地が悪い。
「前回も僅差だったからな。次は必ず取り返す」
「張り合わないでよ」
「競争相手がいる方が、互いに良い結果へ繋がる」
「私は別に競争してないんだけど...」
至極真面目な顔で言い切る柳に、何を言っても無駄そうだと早々に諦める。彼の耳にはこちらの言い分などまるで届いていないらしい。一方で赤也は、まだ信じられないものを見るような目でこちらを見ていた。
まだ納得しきれていない様子でこちらを見ていた赤也に、今度は真田の低い声が飛んだ。
「言っておくが、赤点を取った者は合宿には参加できんからな」
「え!?」
赤也は思いきり目を見開き、箸を持ったまま勢いよく真田の方を振り返った。その反応を見る限り、本当に今の今まで知らなかったらしい。
「なんでっスか!? そんなの聞いてないっスよ!」
「当然だ。赤点の場合は夏休みに補習を受けることになるからな。部活動より学業が優先されるのは当たり前だろう」
「そ、そんなぁ...」
さっきまで「大丈夫っスよ」と強がっていたのが嘘のように声が弱くなり、赤也は見るからに肩を落とした。赤点を取ることそのものよりも、合宿へ行けなくなる可能性の方がよほど堪えたらしく、手元の弁当を見つめたまま深刻そうに眉を寄せている。その様子を横目に見ながら、私はふと聞き慣れない単語に引っかかって箸を止めた。
「合宿って?」
「あぁ、27日からテニス部の合宿があるんです」
「半サバイバル形式のな」
仁王がさらりと付け足す。終業式は来週24日の金曜日だから、そこを終えればそのまま夏休みに入る。つまりテニス部は、休みに入ってほとんど間を置かず合宿へ向かうことになるらしい。それにしても、ただの合宿ならまだ分かるけれど、そこに“半サバイバル”という妙に物騒な言葉がくっついているのが気になった。
「...半サバイバル?」
「他校のテニス部と一緒にね」
「全国大会を前に、あえて半サバイバルに近い環境へ身を置くことで、精神面と体力面の両方を鍛えることが目的だ」
「なるほど」
「普段とは異なる環境下で共同生活を送りながら練習を続けることで、集中力や忍耐力、それに不測の事態への対応力も養える」
まさか、そのサバイバル生活がとある無人島で行われようとは露知らず、私は柳の説明を聞きながら、少し本格的な合宿キャンプのようなものなのだろうと一人で納得する。幸村がどこか楽しそうに笑う横で、赤也はそれどころではないらしく、先ほどから難しい顔のまま考え込んでいる。
どうやら彼にとっては、赤点を回避することよりも合宿へ参加することの方が、ずっと分かりやすい原動力になるらしい。理由はどうであれ、これで本当に勉強するなら結果的には悪くないのかもしれない。
【 主人公の呼称一覧 】
〔❶幸村精市=幸村くん〕 〔❷真田純一郎=真田〕
〔❸柳蓮司=柳/ヤナギン 〕 〔❹仁王雅治=仁王〕
〔❺柳生比呂士=柳生くん 〕 〔❻丸井ブン太=丸井〕
〔❼ジャッカル桑原=ジャッカルさん 〕〔❽切原赤也=切原くん〕