[ 7月17日(金) ]
ふと、人の気配がした。
目を覚ますと、寝返りを打ったのか天井ではなく、クリーム色をした優しい色の仕切りカーテンが視界に広がる。誰か来たらしいと思いながらも、わざわざ起きるほどでもないと再び目を閉じる。また眠りに就こうとしたが、いつまで経っても誰かを出迎えるはずの女性の声が聞こえず、少し気になると眠気はどこかへ消え去った。
眠気はないもののまだボンヤリする頭をのろのろと起こして、白いシーツに包まれた薄いブランケットを退かす。大きく伸びをして、傍に脱ぎ捨てた上履きを履いてから立ち上がると仕切りのカーテンへ手を伸ばした。
「....幸村くん」
「やぁ、また会ったね」
予想していなかった昨日ぶりの顔を見つけて、思わず瞬きをする。幸村精市はベッドから少し離れた場所に立っていた。辺りを見回していたらしく、こちらに気づくといつもの穏やかな笑みを浮かべる。肝心の養護教諭はというと、ちょうど席を外しているようで、いつも座っている椅子だけがぽつんと取り残されていた。
「どうしたの?」
「君こそ。顔色が悪いよ」
「ただのサボりだよ」
ふと時計を見上げると、時計の針は午前11時30分を回っていた。千尋が保健室に来たのは、一限目が終わった後の休み時間。本当なら二限目だけ寝て過ごすだけだったはずだったが、どうやら寝過ごしてしまったようだった。今から戻れば四限目には間に合うだろうと考えたところで思考を止める。
「どこか怪我したの?」
「...どうして分かったのかな」
「見たところ顔色は悪くないし、頭痛や腹痛なら付き添い人がいるはず」
そう言いながら、さっきまで幸村が立っていた場所へ視線を移す。そこには消毒液やガーゼ、包帯などが並べられた薬品棚があり、私が声を掛けるまで、彼は何かを探すようにその中を覗き込んでいた。
「それに、サボるようなタイプじゃないから」
私と違ってね、と付け加える。幸村は少し意外そうに目を細めたあと、感心したようにこちらを見た。ほんのわずかな仕草や状況だけでそこまで見抜かれるとは思っていなかったのか、その表情には驚きよりも興味の色が滲んでいる。
「....紙で少し指を切っただけなんだ」
痛くはないのだけど、と幸村はどこか気まずそうに視線を逸らした。
「ぼうっとしてたみたいで」
「じゃあ、絆創膏がいるね」
どこの棚に何があるかは、すでに把握済みだ。千尋は薬品棚の前へ向かうと迷うことなく扉を開け、必要なものを順に取り出していく。その傍ら、本来なら養護教諭と向かい合って診察を受けるために置かれているスチール椅子に座るよう幸村に軽く促した。
消毒液と綿棒、それから絆創膏を揃えると、彼のすぐ近くにある机の上へ並べる。一瞬、向かい側にある養護教諭の椅子へ座ろうかとも思ったけれど、私がそこに収まるのはなんとなく妙な気がして、そのまま立って手当てをすることにした。
「傷を見せて」
「ちょっと大袈裟すぎないか」
「怪我したのは利き手?」
「いや...」
差し出された左手を手に取って見ると、人差し指に先にうっすらと小さい切り傷があった。血は止まっているけれど、案外大怪我よりこういう傷の方がピリピリとして結構気になるものだ。傷口を確かめるために指先を支えながら、ふと自分の手と見比べる。
幸村はどちらかといえば中性的で整った顔立ちをしているから、勝手に手も華奢なのだと思っていた。それなのに実際に触れてみると、掌も指も私のものよりひと回り大きく、骨ばった感触も思いのほかしっかりしている。
案外、ちゃんと男の子の手なんだ。
そんな妙な感想が頭を過ぎった。
「良かった。テニスには問題なさそう」
「軽い切り傷だよ」
「だめ」
利き手ではないとはいえ、だからといって気にならないとは限らない。試合中というのは、普段よりもずっと神経が研ぎ澄まされる。集中力が高まるぶん、日常なら気にも留めないような小さな違和感が、かえって無視できなくなることがある。
「利き手じゃなくても、こういう傷って意外と気になるから」
それは、陸上部にいた頃に何度も経験したことだった。
長距離選手にとって、走力や持久力と同じくらい大切なのが、その日のコンディションをきちんと整えておくことだ。靴擦れひとつ、僅かな筋肉の張りひとつでも、積み重なればレース中の集中を乱す原因になる。競技は違っても、それはきっとテニスだって同じだろう。ましてや幸村のように全国を目指している選手なら、なおさら小さな違和感を軽く見るべきではないと思った。
傷の様子を確認すると、手当てに移ろうと消毒液へ手を伸ばす。蓋を開け、綿棒に染み込ませようとした、その時だった。
ほんの一瞬だけ、幸村の表情が揺れた。
眉を顰めたわけでも、露骨に顔を背けたわけでもない。ただ、わずかに視線が逸れて、呼吸が浅くなったように見えただけ。
気のせいと言われれば、それまでの小さな変化だった。けれど、なぜか気になった。
「...大丈夫?」
「.....実は、消毒液とか薬品の匂いが苦手でね」
しばらく黙った後、そう言って幸村は困ったように笑う。確かに、薬品特有の刺激臭で気分が悪くなったり、頭痛を起こしたりする人は珍しくない。単純に匂いが苦手ということだって十分にあり得る。
それでも、なぜだろう。
彼の場合は、そういう理由ではないような気がした。
消毒液そのものが嫌いなのではなく、その匂いに結びついた何かを嫌っているような───そんな、ごく曖昧な違和感だけが胸の奥に残った。
「分かった」
塗るつもりだった消毒液の蓋を閉める。
「え、でも...」
「最近は、こういう小さい傷なら消毒液を使わなくてもいいらしいから」
「....そうなんだ」
「消毒液って殺菌してくれるけど、種類によっては傷を治そうとしてる細胞まで刺激しちゃうんだって」
事情は、あまり深く聞かない方がいいだろう。本人が話したくないことまで無理に聞き出す必要はないし、今はただ、この傷をどうするかだけ考えればいい。
「だから、無理に使わなくても大丈夫」
そう言って消毒液を置くと、代わりに絆創膏を一枚手に取った。
「...ありがとう」
「私もガソリンの匂いとか苦手」
包装を端から剥がしながら、話を逸らすように頭痛くなるからと続けた。少しわざとらしかっただろうか。
傷は人差し指の先に近く、ちょうど物に触れやすい位置にある。血はすでに止まっているとはいえ、このままでは何かの拍子に擦れて、また開いてしまうかもしれない。傷口に触れないよう指先を支え、絆創膏の中央がちょうど切り傷に重なる位置を確かめてからゆっくりと貼りつける。
綺麗な指に沿わせるように両端を巻き、浮いているところがないか軽く押さえた。
ふと、視線を感じて顔を上げると、すぐ近くで幸村と目が合った。
思っていたよりも距離が近い。
そう気づいた途端、ほんの少しだけ心臓が跳ねた。目を逸らしたいのに、目が離せない。色素の薄い彼の瞳は、近くで見ると思っていた以上に澄んでいて、じっと見ていると、そのまま引き込まれてしまいそうだった。意識した所為か、傷口を押さえるために触れている手までさっきより熱を帯びているような気がする。動揺する思考を落ち着かせるように平静を装い、そっと手をした。
「...はい、お終い」
「やるね」
「保健委員だから」
使い終えた備品を手早く片づけ、それぞれ元の場所へ戻していく。保健室には何度も出入りしているせいで、今では薬品や備品の場所だけでなく、この部屋の細かな事情まで大体把握していた。
「先生のお菓子の隠し場所も知ってるし」
「ふふ、流石だね」
「内緒だよ」
少しだけ声を潜めてそう付け足すと、幸村は可笑しそうに目を細めた。そんな大した秘密でもないのに、わざわざ頷いてみせるものだから、つられて私も少し笑ってしまう。
「それと、お風呂に入った後は取り替えてね」
「あぁ、本当にありがとう」
絆創膏の巻かれた指をしばらく確かめるように眺めていたかと思うと、幸村は椅子から立ち上がった。
「君は戻らないのかい?」
「もうすぐ先生が戻ってくると思うから...」
一応、勝手に備品を使ったことは伝えておいた方がいいだろう。
それに、私自身も朝ここへ来たときに来室記録を書き、顔色を見た先生から貧血気味かもしれないと言われて、そのままベッドを借りていた身だ。目を覚ましたからといって何も言わずに教室へ戻るのは、さすがに少し気が引ける。先生に一声かけてから戻るつもりだと伝えると、幸村は納得したように小さく頷いた。
「ねぇ」
「?」
扉へ向かいかけていた幸村の足が、不意に止まった。顔を上げると、幸村は扉の前に立ったままこちらを振り返っていた。振り返った彼の表情は、さっきまでより少しだけ慎重に見える。何か言いたげではあるものの、すぐに口を開くことはなく、ほんの僅かに視線を揺らしたあと、考えをまとめるように一度息をつく。
「去年、初めて話をした時のこと覚えてるかな」
「え?」
初めて話した時。
そう言われて、すぐに思い当たる光景があった。
去年の11月頃だろうか。まだ朝の空気がひんやりと冷たくなり始めた頃、朝練へ向かう前に少しだけ立ち寄った校舎脇の花壇で、白く咲いた小さい花を眺めていたあの時のことだ。寒い中で俯くように花弁を垂らして咲く姿が妙に綺麗で、なんとなく足を止めて見入っていたところへ、偶然通りかかった幸村と顔を合わせた。
挨拶を交わしたことも、そのあと少しだけ何かを話したことも覚えている。
けれど──肝心の内容が、どうにも曖昧だった。
会話と呼ぶには短いやり取りだったはずだ。それなのに、何について話したのかと聞かれると、まるでそこだけ薄い靄がかかったように思い出せない。
「俺は全部覚えてるよ」
その言葉に、今度は私の方が何も返せなくなった。
全部、と言われて、思わず言葉に詰まった。記憶にあまり残っていなかったような短いやり取りを、幸村は今でも覚えているという。それも、ただ話したという事実だけではなく、あの時のことを何ひとつ取りこぼしていないような口ぶりで。
そこまで記憶に残るようなことを、私は彼に何か言ったのだろうか。それとも、私にとっては何気なく過ぎてしまったあの時間が、幸村にとってはそうではなかったのか。
「君の言葉も、表情も、ふとした仕草も」
呼び止める言葉を探しているうちに、扉は静かに開かれ、その背中は廊下の向こうへと遠ざかっていく。結局、何ひとつ聞けないまま扉が閉まり、保健室に再び静けさが戻ってきても、私はすぐにはその場を動けなかった。
─────“君の言葉も、表情も、ふとした仕草も”
残された言葉だけが、妙に鮮明に耳の奥へ残っていた。いったい私はあの日、彼に何を話したのだろう。
記憶を辿ろうと、あの日のことを頭の中に浮かべてみる。冷えた空気や、朝露に濡れた花壇、俯くように咲いていた白くて小さな花。そこへ幸村がやって来て、確かに挨拶を交わしたところまでは思い出せるのに、その先へ進もうとすると、まるでそこだけ綺麗に抜け落ちてしまったかのように何も浮かんでこない。
考えれば考えるほど、その空白ばかりが気になった。
窓の外から、風に揺れた木々の葉がざわざわと擦れ合うような音が聞こえる。いつもと変わらない日常の音を聞きながら、私はしばらく閉じた扉を見つめていた。
どうやら私は、自分でも知らないところで、大事な何かを忘れているらしかった。