[ 7月16日(木) ]
ふと、人の気配がした。
目を覚ますと、寝返りを打ったのか天井ではなく、クリーム色をした優しい色の仕切りカーテンが視界に広がる。誰か来たらしいと思いながらも、わざわざ起きるほどでもないと再び目を閉じる。また眠りに就こうとしたが、いつまで経っても誰かを出迎えるはずの男性の養護教諭の声が聞こえず、少し気になると眠気はどこかへ消え去った。
眠気はないもののまだボンヤリする頭をのろのろと起こして、白いシーツに包まれた薄いブランケットを退かす。大きく伸びをして、傍に脱ぎ捨てた上履きを履いてから立ち上がると仕切りのカーテンへ手を伸ばした。
「....幸村くん」
「やぁ、また会ったね」
予想していなかった昨日ぶりの顔を見つけて、思わず瞬きをする。幸村精市はベッドから少し離れた場所に立っていた。辺りを見回していたらしく、こちらに気づくといつもの穏やかな笑みを浮かべる。肝心の養護教諭はというと、ちょうど席を外しているようで、いつも座っている椅子だけがぽつんと取り残されていた。
「どうしたの?」
「君こそ。顔色が悪いよ」
「ただのサボりだよ」
ふと時計を見上げると、時計の針は午前11時30分を回っていた。私が保健室に来たのは、一限目が終わった後の休み時間。本当なら二限目だけ寝て過ごすだけだったはずだったが、どうやら寝過ごしてしまったようだった。今から戻れば四限目にはギリギリ間に合うかな、と考えたところで思考を止める。
「どこか怪我したの?」
「...よく分かったね」
「見たところ顔色は悪くないし、頭痛や腹痛なら付き添い人がいるはず」
そう言いながら、さっきまで幸村が立っていた場所へ視線を移す。そこには消毒液やガーゼ、包帯などが並べられた薬品棚があり、私が声を掛けるまで、彼は何かを探すようにその中を覗き込んでいた。
「それに、サボるようなタイプじゃないから」
私と違ってね、と付け加える。幸村は少し意外そうに目を細めたあと、感心したようにこちらを見た。ほんのわずかな仕草や状況だけでそこまで見抜かれるとは思っていなかったのか、その表情には驚きよりも興味の色が滲んでいる。
「....紙で少し指を切っただけなんだ」
痛くはないのだけど、と幸村はどこか気まずそうに視線を逸らした。
「ぼうっとしてたみたいで」
「じゃあ、絆創膏がいるね」
どこの棚に何があるかは、すでに把握済みだ。薬品棚の前へ向かうと迷うことなく扉を開け、必要なものを順に取り出していく。その傍ら、本来なら養護教諭と向かい合って診察を受けるために置かれているスチール椅子に座るよう幸村に軽く促した。
消毒液と綿棒、それから絆創膏を揃えると、彼のすぐ近くにある机の上へ並べる。一瞬、向かい側にある養護教諭の椅子へ座ろうかとも思ったけれど、私がそこに収まるのはなんとなく妙な気がして、そのまま立って手当てをすることにした。
「傷見せて」
「ちょっと大袈裟すぎないか」
「怪我したのは利き手?」
「いや...」
差し出された左手を手に取って見ると、人差し指に先にうっすらと小さい切り傷があった。血は止まっているけれど、案外大怪我よりこういう傷の方がピリピリとして結構気になるものだ。傷口を確かめるために指先を支えながら、ふと自分の手と見比べる。
幸村はどちらかといえば中性的で整った顔立ちをしているから、勝手に手も華奢なのだと思っていた。それなのに実際に触れてみると、掌も指も私のものよりひと回り大きく、骨ばった感触も思いのほかしっかりしている。
案外、ちゃんと男子の手なんだ。
そんな妙な感想が頭を過ぎった。
「良かった。テニスには問題なさそう」
「軽い切り傷だよ」
利き手ではないとはいえ、だからといって気にならないとは限らない。試合中というのは、普段よりもずっと神経が研ぎ澄まされる。集中力が高まるぶん、日常なら気にも留めないような小さな違和感が、かえって無視できなくなることがある。
「でも、こういう傷って意外と気になるから」
それは、陸上部にいた頃に何度も経験したことだった。
長距離選手にとって、走力や持久力と同じくらい大切なのが、その日のコンディションをきちんと整えておくことだ。靴擦れひとつ、僅かな筋肉の張りひとつでも、積み重なればレース中の集中を乱す原因になる。競技は違っても、それはきっとテニスだって同じだろう。ましてや幸村のように全国を目指している選手なら、なおさら小さな違和感を軽く見るべきではないと思った。
傷の様子を確認してから、手当てに移ろうと消毒液へ手を伸ばす。蓋を開け、綿棒に染み込ませようとした、その時だった。
ほんの一瞬だけ、幸村の表情が揺れた。
眉を顰めたわけでも、露骨に顔を背けたわけでもない。ただ、わずかに視線が逸れて、呼吸が浅くなったように見えただけ。気のせいと言われれば、それまでの小さな変化だった。けれど、なぜか気になった。
「大丈夫?」
「.....実は、消毒液とか薬品の匂いが苦手でね」
しばらく黙った後、そう言って幸村は困ったように笑う。確かに、薬品特有の刺激臭で気分が悪くなったり、頭痛を起こしたりする人は珍しくない。単純に匂いが苦手ということだって十分にあり得る。
それでも、なぜだろう。
彼の場合は、そういう理由ではないような気がした。
消毒液そのものが嫌いなのではなく、その匂いに結びついた何かを嫌っているような───そんな、ごく曖昧な違和感だけが胸の奥に残った。
「分かった」
塗るつもりだった消毒液の蓋を閉める。
「え、でも...」
「最近は、こういう小さい傷なら消毒液を使わなくてもいいらしいから」
「....そうなんだ」
「消毒液って殺菌してくれるけど、種類によっては傷を治そうとしてる細胞まで刺激しちゃうんだって」
事情は、あまり深く聞かない方がいいだろう。本人が話したくないことまで無理に聞き出す必要はないし、今はただ、この傷をどうするかだけ考えればいい。
「だから、無理に使わなくても大丈夫」
そう言って消毒液を置くと、代わりに絆創膏を一枚手に取った。
「...ありがとう」
「私もガソリンの匂いとか苦手」
包装を端から剥がしながら、話を逸らすように頭痛くなるからと続けた。少しわざとらしかっただろうか。
傷は人差し指の先に近く、ちょうど物に触れやすい位置にある。血はすでに止まっているとはいえ、このままでは何かの拍子に擦れて、また開いてしまうかもしれない。傷口に触れないよう指先を支え、絆創膏の中央がちょうど切り傷に重なる位置を確かめてからゆっくりと貼りつける。
綺麗な指に沿わせるように両端を巻き、浮いているところがないか軽く押さえた。
ふと、視線を感じて顔を上げると、すぐ近くで幸村と目が合った。
思っていたよりも距離が近い。
そう気づいた途端、ほんの少しだけ心臓が跳ねた。こんなに近くで彼の顔を見るのは久しぶりだった。目を逸らしたいのに、目が離せない。色素の薄い彼の瞳は、近くで見ると思っていた以上に澄んでいて、じっと見ていると、そのまま引き込まれてしまいそうだった。意識した所為か、傷口を押さえるために触れている手までさっきより熱を帯びているような気がする。動揺する思考を落ち着かせるように平静を装い、そっと手をした。
「...はい、お終い」
「やるね」
「保健委員だから」
火照ってしまいそうな頬を誤魔化すように、使い終えた備品を手早く片づけそれぞれ元の場所へ戻していく。保健室には何度も出入りしているせいで、今では薬品や備品の場所だけでなく、この部屋の細かな事情まで大体把握していた。
「先生のお菓子の隠し場所も知ってるし」
「ふふ、流石だね」
「内緒だよ」
少しだけ声を潜めてそう付け足すと、幸村は可笑しそうに目を細めた。そんな大した秘密でもないのに、わざわざ頷いてみせるものだから、つられて私も少し笑ってしまう。
「それと、お風呂に入った後は取り替えてね」
「あぁ、本当にありがとう」
絆創膏の巻かれた指をしばらく確かめるように眺めていたかと思うと、幸村は椅子から立ち上がった。
「君は戻らないのかい?」
「もうすぐ先生が戻ってくると思うから...」
一応、勝手に備品を使ったことは伝えておいた方がいいだろう。
それに、私自身も朝ここへ来たときに来室記録を書き、顔色を見た先生から貧血気味かもしれないと言われて、そのままベッドを借りていた身だ。目を覚ましたからといって何も言わずに教室へ戻るのは、さすがに少し気が引ける。先生に一声かけてから戻るつもりだと伝えると、幸村は納得したように小さく頷いた。
「そういえば」
「?」
扉へ向かいかけていた幸村の足が、不意に止まった。顔を上げると、幸村は扉の前に立ったままこちらを振り返っていた。その表情はいつもと変わらず穏やかなものだったけれど、どこかこちらの反応を窺うような色が滲んでいる。
「赤也が世話をかけているようだね」
「あぁ...」
何事かと思えば切原のことだった。
どうやら、最近あれこれと付き纏われていることは幸村の耳にも入っているらしい。とはいえ、こちらとしては今のところ本気で迷惑しているわけでもない。
「気にしないで」
そう答えて、なんでもないことのように肩を竦めた。少なくとも、わざわざ誰かにどうにかしてもらいたいと思うほどではない。
「賑やかで楽しいし」
ちょっとしつこいけど、と付け加える。ここでわざわざ告げ口をするのも悪くはないが、相手が幸村となると話は別だ。下手なことを言えば、切原があとでこっぴどく叱られることになりかねない。それはそれで少し気の毒だった。暇なのは事実だし、別に嫌いなわけでもない。付き纏われるのも、今のところはちょうどいい暇つぶしくらいに思っている。
「それで?」
「え?」
「君は、うちのマネージャーになってくれる気はあるのかな」
一瞬、思考が止まった。
何を言われたのか理解するまで、ほんの数秒を要する。
まさか幸村の口からまで、そんな話が出てくるとは思わなかった。そういえば以前、切原がそんなことを言っていたような気もする。あの時は軽い冗談くらいにしか受け取っていなかったけれど、どうやらそういうわけでもなかったらしい。
「えっと...」
「知っての通り、うちは大所帯でね。顧問もいないようなものだから、実のところ人手が足りないんだ」
以前、友人から聞いたことがある。数年前、男子硬式テニス部の顧問が部員への暴力沙汰を起こして解雇された。それ以来、形式上は別の教師が顧問を務めているものの、実際の指導は臨時のコーチやOBが担うことも多く、ほとんど部員たち自身で部を回しているような状態なのだという。
それでも───いや、むしろその環境だったからこそなのか、部員一人ひとりの責任感や自主性は強まり、それに伴ってチームとしての結束も深まっていったらしい。その結果、一昨年から二年連続で全国大会優勝という偉業を成し遂げている。聞けば、今では数学教師が顧問を務めているらしいが、赴任したばかりの若い女性教師で、テニスの経験も知識もほとんどないらしい。
「俺も退院して戻ったばかりだからね。今まで部内のことは真田に任せていたんだけど」
幸村は少し困ったように笑った。
「テニス以外のことはあまり得意じゃなくて。マネージャーの仕事や細かい雑務なんかは蓮二や後輩たちで分担していたんだけど、部員も多いし、さすがに負担が大きくなってきているみたいなんだ」
言いたいことは分かった。要するに、部員だけでは手が回らなくなってきているから、専任で動ける人間が欲しいということらしい。ただ、そこまで聞いてもなお、一つだけ腑に落ちないことが残る。
「...どうして私なの?」
切原が相手なら、適当な言葉で誤魔化してしまうこともできただろう。けれど、目の前の幸村に同じことが通用するとは思えない。聞きたいことはいくつもあったが、結局いちばん引っかかっているのはそこだった。
思ったままを口にすると、幸村は少しだけ目を細めた。
「そうだね。誰でも良いという訳じゃないよ」
「どういう意味?」
問い返すと、幸村はすぐには答えなかった。
代わりに、どこかこちらを見定めるようにじっと目を向けてくる。
「俺が入院していた間、誰かが屋上の花壇の手入れをしてくれてたんだ」
まさかそこで花壇の話が出てくるとは思わず、言葉が詰まる。黙り込んだ私を見て、幸村の視線がわずかに探るようなものへと変わった。
「君だろう?」
「......何でわかったの?」
確かに、幸村が入院してからは時折屋上へ足を運び、花壇の様子を見るようになっていた。美化委員は彼一人ではなかったけれど、屋上を含め、学校中の花壇をこまめに手入れしていたのはほとんど幸村だけだった。陽の当たる廊下の棚に置かれた花瓶にも、季節ごとに違う花が生けられていることがあって、あれもきっと彼が花壇から摘んだものだったのだろう。
だから、入院したと聞いた時、真っ先に気になったのがあの花壇だった。
彼のいない花壇は、やはりどこかまとまりを失っていた。花の合間を埋めるように植えられていた葉物まで、手入れを失って無秩序に伸びていた。以前見た時には鮮やかに咲いていた花々は姿もなく、寒い環境に強いはずの花はほとんど勢いをなくし、隅に植えられた血を滲ませたような紅いビオラだけが萎れかけた花弁を抱えてポツンと残っていて。その色だけが妙に目に焼き付いた。
「あ、やっぱり君か。勘だったんだけど」
「..........」
やられた。ハッタリだったらしい。
長く息を吐きながら、片手で顔を覆う。迂闊だった。あんなふうに聞き返した時点で、自分から答えを教えたようなものだ。
指の隙間からそっと様子を窺えば、幸村は案の定どこか楽しそうにしている。その表情を見た途端、ますます悔しくなって、私はもう一度深く息を吐いた。
「入院していた頃、一度だけ学校に顔を出しにきたことがあるんだ」
あの花壇のことは、わざわざ自分から名乗り出るつもりなど毛頭なかったし、彼に知られることもないと思っていた。それだけに、本人の口から当時の話が出てくると妙に居心地が悪い。
「その日はいつもより体調が良かったから、看護師に付き添って貰ってね。テニス部の様子を見た後、花壇はどうなっているかと気になって屋上に寄ったんだ」
そこで一度言葉を切った幸村は、あの日目にした屋上庭園の記憶を辿るように視線を伏せながら、そのまま静かに続ける。
「水やりだけじゃない。枯れた花を摘んだり、雑草を抜いたり、時期に合わせて植え替えまでしてくれていたみたいだね」
別に、善意でやっていたわけじゃない。暇だったからとか、なんとなく気になったからとか、その程度の軽い気持ちだった。学校中の花壇まで面倒を見るのは不可能だったし、見るつもりもなかった。ただ、せめて屋上くらいならと思っただけだ。
あの日に見たビオラが、そのまま枯れてしまうのが嫌だったのかもしれない。あるいは、幸村が退院して久しぶりに屋上へ来た時、荒れ果てた花壇を前に肩を落とすところを見たくなかっただけなのかもしれない。ガーデニングに興味があったわけでもなければ、そういった作業はむしろ苦手な方だった。それでも、枯れた花を摘んで、伸びすぎた葉を整えて、少しずつ花壇の形が戻っていくのを見ているうちに、思っていたより悪くないと思うようになっていた。
「...ごめん、勝手に触ったりして」
「謝らないで」
間を置かずに返された言葉に、思わず幸村を見る。彼は困ったように笑うでもなく、ただ真っ直ぐこちらを見ていた。
「むしろ、嬉しかったんだ。入院してからずっと気になっていたから。自分がいなくても、誰かがあの花壇を気に掛けてくれていたことが」
穏やかな声だった。それなのに、妙に胸の奥まで残る。その響きを聞いているうちに、そういえば私が最初に彼を好きになったきっかけは、この声だったなと別のことを思い出した。
「感謝してるんだ。すごく」
そんな大したことをしたつもりはないのに、その声で真っ直ぐ言われると、どうにも調子が狂う。返事の代わりに曖昧に視線を逸らしながら、今さら思い出さなくてもいいことまで思い出してしまった気がして、ほんの少しだけ後悔した。
もしかしたら、随分と馬鹿な女に見えていたのかもしれない。振られたくせに未練がましく、少しでも彼の近くにいたくて花壇の世話までしているのだと、そう思われてもおかしくはなかった。けれど、本当にそうだったのかと聞かれれば、自分でもよく分からない。
それでも幸村は、そこにどんな理由があったのかを探ろうとはせず、ただ素直に感謝の言葉を口にした。
「...退院おめでとう」
「ありがとう」
ずっと言えなかった言葉を、ようやく私も口にする。
去年の十二月に入院してから、彼が学校へ戻ってきたのは七月の初めだった。半年以上にわたる闘病生活の末、完治へ繋がった手術でさえ決して簡単なものではなかったらしいと仁王から聞いた時は、もし少しでも何かが違っていたらと考えてしまって、背筋が冷たくなるような思いがした。
恐ろしかった。人生を賭けてきた競技が、ある日突然できなくなるかもしれないという恐怖を、今の私には痛いほど想像できた。
足が思うように動かなくなる。呼吸をしているはずなのに、息ができない。痺れたように指先が震え、身体が自分のものではなくなっていくような感覚に襲われるうち、頭の中まで酸素が足りなくなっていく。
あの時の恐怖を、今でも覚えている。
それなのに最近は、かつて自由に走れた自分の身体の感覚を少しずつ忘れ始めていて、それがどうしようもなく怖かった。
その感覚を、本当の意味で理解できるのは私だけだったし、きっと彼だけだった。競技も事情も違う。それでも、自分の身体に裏切られて、大切なものを奪われるかもしれないあの恐怖だけは、同じ場所に立った人間にしか分からない。
空白
空白
「元気になって、よか、...っ」
空白
空白
最後まで言い切るより先に、声が震えた。
幸村は私を引き寄せると、零れかけた涙が見えないように、そのままそっと自分の肩へ顔を預けさせた。ふわりと、ベルガモットを思わせる懐かしい微かな香りが鼻先を掠める。
それから私が落ち着くまで、幸村は何も言わず、ただ静かに傍にいてくれた。