放課後、私は音楽室にいた。
今日の放課後は吹奏楽部が遠征で校内にいないらしく、昼休みに吹奏楽部の友人からその話を聞いた瞬間、久しぶりにピアノを弾けるかもしれないと思ったのだ。
普段なら、この時間の音楽室は合奏やパート練習で賑やかだから、部外者の私がふらりと入り込めるような場所ではない。けれど今日は、廊下の端にあるこの教室だけが取り残されたように静まり返っていて、開け放した窓から聞こえてくる校庭の声だけが、妙に近く感じられた。教室を出る前に帰り支度は済ませてきたため、持ってきたスクールバッグを邪魔にならないようピアノの椅子のそばに置く。今日はここで少しピアノを弾いたら、そのまま帰るつもりだった。
窓際まで歩いていき、窓枠に頬杖をつく。
少し傾き始めた陽射しの下、校庭ではいくつもの部活動が練習に励んでいる。サッカー部の掛け声、野球部の金属バットがボールを弾く乾いた音、それらが遠くで入り交じり、時折吹き込んでくる風が白いカーテンをゆっくり揺らしていた。
ぼんやりとその光景を眺めていると、
〈ピッ──〉
鋭い笛の音が響いた。
考えるよりも早く、反射的に視線がそちらへ向かう。
トラックのスタートライン付近に、ランニングウェアを着た陸上部員たちが並んでいた。合図と同時に地面を蹴り、一斉に前へ飛び出していく。どうやら短距離のタイムを測っているらしく、一人がゴールラインを駆け抜けるたび、記録係の部員がストップウォッチへ視線を落とし、次の走者がスタート位置へついていた。
フォームの癖も、スタート前の張り詰めた空気も、走り終えた直後に息を整えながら記録を確認する仕草も、どれも懐かしい。走ることだって、今でも嫌いじゃないはずなのに、こうして遠くから見ていると、胸の奥に薄い膜のようなものが張っていく。懐かしいとも、羨ましいとも、戻りたいとも言い切れない、中途半端な感情だけが輪郭を持たないまま胸の底に沈んでいた。
ほんの少し前まで、自分もあの中にいた。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな引っかかりが生まれた。懐かしいだけなら、きっとこんな気持ちにはならない。
もう自分には関係のない場所だと分かっているのに、目を逸らすこともできず、ただぼんやりとトラックを見つめ続けていた。
────『たるんどるっ!!!』
校庭を突き抜けるような怒号が響き渡った。
「....あ」
聞き慣れすぎた声に、思わず顔を上げる。陸上部とは反対側、金網に囲まれたテニスコートへ視線を移せば、そこには見慣れた面々が遠目に見えた。
この距離では流石に会話までは聞こえないけれど、真田の険しい表情と切原の身振り手振りを見るだけで、だいたいの構図は想像できた。思わず唇が緩む。さっきまで胸の中に居座っていた重たいものが、ほんの少しだけ薄れた様な気がした。また何かやらかしたのかな、とぼんやり考える。あの子は本当に懲りないなと思うと、それだけで少し可笑しくなった。
しばらくテニスコートを眺めてから窓辺を離れ、音楽室前方の傍に置かれたグランドピアノへ足を向ける。この学校のグランドピアノは、かなり年季が入っている。艶のある黒い塗装には細かな擦り傷があり、鍵盤も真新しいもののような白さではない。それでも定期的に調律されているらしく、音には濁りがなく、古い楽器特有の柔らかな響きがあった。このピアノは、私のお気に入りだ。
今の家にはグランドピアノどころか電子ピアノさえないから、こうして誰もいないタイミングでもなければ、放課後に好き勝手弾くことなんてできない。そのせいで、吹奏楽部の予定と自分の予定がうまく重なった日は、時折こうして音楽室に入り浸っているのだ。
椅子を少し引き、腰を下ろす。
蓋の開いた鍵盤へ手を伸ばし、人差し指で適当に白鍵を押した。
ポン。
少し間を置いて、またひとつ。
ポン、ポーン。
特に曲を奏でるわけでもなく、片手の指先だけで鍵盤と戯れるように音を鳴らしていると、その一音一音が誰もいない教室の壁や天井へぶつかって、静かに消えていく。
やがて背筋を伸ばし、両手を鍵盤の上へ置いた。
すぅ、と小さく息を吸う。
そして、ゆっくりと指を落とした。
【“エリック・サティ” ──
私が好きな曲のうちの一つ。
柔らかく、優雅で、それでいてどこか官能的なスロー・ワルツ。
右手が旋律をなぞり、左手が静かに拍子を刻んでいく。
複雑で技巧的な音楽がもてはやされた時代に、サティはむしろ音を削った。必要以上に飾らず、ひとつひとつの音が持つ輪郭をそのまま残すような曲を書く。
奇妙な題名の曲と、奇妙な生活を送り、音楽界から煙たがられながら、それでも後の時代に影を残した男。ドビュッシーが恐れ、ピカソが愛した作曲家。
私は、そんなサティの音楽が好きだった。
単純に聞こえるのに、弾いてみると不思議と難しい。
余計な音が少ないからこそ、一音誤魔化せばすぐに分かってしまうし、速さで押し切ることもできない。音と音の隙間まで曲の一部で、そこにどれだけ呼吸を置けるかで、まるで表情が変わってしまう。
だから、焦らずにゆっくりと鍵盤を弾ませる。
窓から入る風と、遠くから聞こえる部活動の声、その隙間へピアノの音を落としていくように。先ほどまで胸の奥にあった靄も鍵盤へ指を滑らせている間だけは、少しずつ遠ざかっていくような気がした。
曲が中盤へ差しかかったところで、ふと視界の端で何かが動いた。
─────…人影。
指が空中で止まる。
最後に押した鍵盤の余韻だけが、音楽室の中へ細く伸びていった。
前方の扉の奥に誰かがいる。
開け放したドアの向こうに背を預けるようにして立っていた人物は、演奏が止まったのを察したらしい。ひょっこりと覗かせた顔を見て、安堵の息を吐く。
「....すまん、邪魔したかの」
仁王は悪びれる様子もなく音楽室へ入ってくる。扉のところでしばらく聞いていたのか、それとも本当に今来たばかりなのかは分からないけれど、こちらが演奏を止めたことに対して一応気まずそうに頬を掻いていた。
「脅かさないでよ」
「いや、丁度通りかかってな」
ポケットに手を入れながらゆっくりとこちらへ歩いてきた仁王は、ピアノの側まで来ると足を止め、少し意外そうな顔で私の手元へ視線を落とした。こちらが不満げに言っても、仁王は特に気にした様子もなく肩を竦める。それから鍵盤へ目を向け、さっきまでここから音が流れていたことを確かめるように眺めた。
「まさか、弾いとるのがお前さんとは思わなかった」
「?」
何がそんなに意外なのか分からず見上げたまま首を傾げると、仁王はわずかに身じろいだ。すると、何かを誤魔化すように視線を逸らしてから、遅れて小さく喉を鳴らした。
「ピアノ弾けるんじゃな」
「あんまり上手には弾けないけど」
「そうか?素人の俺には上手いように聞こえたぜよ」
予想していなかった素直な感想に、どう返せばいいのか一瞬迷う。ピアノを本格的に学んでいたのは小学校の数年間だけで、それ以降は教室にも通っていないから、今では昔覚えた曲や気に入ったものを時々弾いたり我流で気に入った曲を弾く程度だった。
それでも、鍵盤に触れれば指が自然と動くくらいには感覚が残っているし、こうして一人で楽しむ分には困らないのだが。
「...褒めてるの?」
「褒めとるじゃろうが、思いっきり」
呆れたように言われ、思わず眉を寄せる。
素直に称賛を受け入れられないのは、こちらの性格というより、日頃の仁王の行いのせいだと思う。いつ何時ふざけているのか分からない人間から突然真正面に褒められたところで、反射的に裏を疑ってしまうのも仕方ない。
「部活は?」
ピアノから手を離しながら尋ねる。窓の外からは、グラウンドを走る運動部の掛け声や、遠くでボールを打つ乾いた音が途切れ途切れに聞こえてきていた。先ほどテニス部が問題なく部活を行っていた姿は見えてたし、とっくに放課後の部活動は始まっているはずなのに、目の前の仁王はまだ制服姿のままで、ラケットどころか鞄すら持っていない。
「それがよ、お前さんは知らんじゃろうが二限目の時間にちょっとな」
その言葉に、一瞬ほんのわずかに肩へ力が入った。
その口ぶりからして、少なくとも褒められるような事情ではなさそうだと察して続きを待っていると、案の定、本人は悪びれるどころか妙に楽しそうな顔をした。
「美術なんて退屈じゃからな、教科書に落書きしとったのがバレたんじゃ」
聞けば、二限目の美術の授業中、美術史の授業に退屈した仁王はプリントの余白へ、担当の金子先生そっくりの似顔絵を描いていたらしい。妙に横へ流した前髪と、本人が気に入っているらしい気取った髪型、それに授業中たびたび髪を整える仕草までしっかり盛り込み、どこかナルシストめいた雰囲気をこれでもかというほど誇張したらしい。
しかも、黙って描いていればまだしも、その自信作を授業中に突然肩を叩いて前の席の丸井へ見せた結果、丸井が盛大に吹き出し、二人まとめて教師の目に留まったという。
丸井はその場でゲンコツ。
主犯である仁王は放課後の反省文。
普通に自業自得じゃないか。むしろ丸井の方が可哀想かもしれない。
仁王は思い出すだけでも愉快だと言わんばかりに喉の奥で笑っている。反省文という名の罰を受けた当人が、どうしてここまで楽しそうにしていられるのか甚だ疑問だった。
「自信作だったんじゃが、金子のやつカンカンでな」
反省文を書かされた人間とは到底思えない、愉快そうな口調だった。どうやら怒られたことよりも、教師から予想以上の反応を引き出せたことのほうが仁王にとっては重要らしく、口元には未だ満足げな笑みが残っている。
けれど、話を聞いているうちに、仁王に振り回されて次第に苛立ちを募らせていく金子の姿が、妙にはっきりと頭に浮かんできた。仁王はきっと怒られている最中ですら、どこか面白がるような表情をしていたのだろうし、先生が声を荒らげるほど、何食わぬ顔でわざと余計にその神経を逆撫でするようなことを言ったに違いない。
その光景が安易に想像できて、思わず声を出して笑った。
「顔を真っ赤にしてな、面白かったぜよ。お前さんにも見せてやりたかった」
「金子先生の顔?それとも落書き?」
「両方じゃ」
この男、一ミリも反省していないようである。
むしろ反省するどころか、こちらがその場に居合わせなかったことを残念がっている節すらあり、私は小さく息を吐いた。仁王という人間に一般的な反省を求めること自体、ひょっとすると間違っているのかもしれない。
「反省文はちゃんと書いたの?」
「いや、“
「フェリーニの?」
『8½(Otto e mezzo)』は、イタリアの映画監督フェデリコ・フェリーニが手がけた古いモノクロ映画だ。イタリアの映画監督フェデリコ・フェリーニが手がけた代表作のひとつで、彼の名を世界的に知らしめた作品としても有名だ。創作に行き詰まった映画監督を主人公に、現実と記憶、夢や妄想が入り混じる独特な構成で描かれていて、映画史に残る名作として今でもよく名前が挙がる。
「お、よく知ってるな。古い映画なのに」
「仁王こそ、渋いね」
そう返すと、仁王は“まぁな”とでも言いたげに片眉を上げ、どこか得意げに笑った。美術の授業中に落書きをしていた人間が、放課後にはフェリーニの映画について反省文代わりの考察を書いていたというのだから、相変わらず何を考えているのかよく分からない。けれど、その妙な振り幅がいかにも仁王らしい気もして、つい小さく笑ってしまう。
そんな私を見ていた仁王は、ふと何かを思い出したように視線をピアノへ移した。先ほどまでの悪戯っぽい表情を少しだけ引っ込めると、鍵盤のあたりを眺めながら何気ない調子で口を開く。
「それで、さっきの曲名教えてくれんか」
「え?」
「さっきお前さんが弾いてた曲じゃ」
そう聞かれて、すぐに答えようとした口が一瞬だけ止まる。別にやましい曲でも何でもないのに、よりによって日本語にすると少し直接的な題名だから、改めて人に向かって口にするとなると妙に言いづらかった。
「...貴方が欲しい」
「お?」
案の定、仁王がわずかに眉を上げる。その反応を見た途端、じわりと顔が熱くなるのを感じたものの、ここで変に恥ずかしがれば余計におかしな意味に取られそうで、私は何でもないことのように続けた。
「だから、和訳だと“貴方が欲しい”って曲名なの。フランス語で
「ほお。中々情熱的なタイトルじゃな」
仁王は面白そうに口元を歪めながら、どこか揶揄うような響きを滲ませる。やっぱりそういう反応になるかと視線を逸らしつつ、私は鍵盤の端を指先で軽くなぞった。まさか分かってて聞いたんじゃないよな、と今更疑心暗鬼になる。
「サティの曲だから」
「あぁ、名前くらいは聞いたことあるな」
てっきり誰だと返されるものだと思っていたから、予想外の返事に思わず仁王の顔を見る。けれど本人は特に得意げになるでもなく、知っていて当然とでも言いたげな顔で、いつものように飄々としていた。
ふと疑問が湧く。仁王が普段たまにイヤホンをしている姿を見たことはあるけれど、何を聴いているのかまでは考えたことがなかった。
「仁王ってどういうジャンル聴くの?」
「なんじゃ、急に」
「なんか想像できなくて」
「色々聴くが、ジャズが好きじゃな」
何となく気になって尋ねただけだったが、仁王は少し考えるように顎へ手をやってからすぐに答えた。映画といい音楽といい、意外と古風なものが好きなのかもしれない。近代音楽だけでなく、後のモダンジャズにも影響を与えたサティの名前を知っているというのも、そう考えれば妙に納得がいった。
そんなことを考えていると、仁王はピアノへ視線を戻し、今度は少しだけ身を乗り出した。
「なぁ、もう一回弾いてくれんか」
「いいけど...部活はいいの?」
「真田に遅れるとは伝えてるからな。あと少し遅れるくらいええじゃろ」
仕方ないなと思いつつ、再び鍵盤へ向き直る。椅子に深く座り直し、気持ちを切り替えるように姿勢を整えると、仁王も演奏の邪魔にならないようさりげなく一歩後ろへ下がって、窓際に背を付けた気配がした。
一度息を整え、そっと指を鍵盤へ置く。
静かな音が、再び音楽室へ広がっていく。
先ほどは誰もいないと思っていたから、何も考えずに弾けたのに。今はすぐ近くに仁王がいると思うだけで、妙に指先を意識してしまう。間違えないようにしようと考えるほど、逆にぎこちなくなりそうで、途中からはなるべく彼の存在を頭の隅へ追いやることにした。
曲が進むにつれて余計なことも考えなくなり、いつしかいつも通り音だけを追っていた。
最後の一音を鳴らし、その余韻が消えるまで指を鍵盤に置いたままにする。
「お見事」
「...ありがと」
弾き終えた途端、さっきまで音に紛れていた緊張が戻ってきたようで、なんだか気恥ずかしい。褒められることに慣れていないわけではないのに、こうしてストレートに言われると妙に落ち着かず、誤魔化すように髪を耳にかける。
「じゃが俺が思うに、“貴方が欲しい”って感じではないな」
その言葉に手を止めた。
仁王はすぐには続けず、まだ消えきっていない余韻を拾うように少し考え込んでいる。
「むしろこう...欲しいっちゅうより、手に入らんもんをずっと眺めとる感じじゃな」
一瞬、言葉が出なかった。まさか仁王からそんな言葉が返ってくるとは思っていなかったし、何よりそれは、私がこの曲を初めて耳にした頃から胸のどこかに抱いていた印象と、驚くほどよく似ていた。
「...“貴方を忘れられない”」
「あぁ、それに近いな」
確かめるようにぽつりと呟くと、胸の奥にしまっていた古い記憶が、不意に脳裏に蘇ってくる。
私が初めてこの曲を聴いたのは、今は亡きプロピアニストの父のコンサートだった。まだ幼かった頃の私は、どこか不思議に響きで、それでいて耳から離れないあの旋律に心を奪われ、その後何度も弾いてくれとせがんだ。“お前にはまだ早いよ”と、タイトルの意味を知る父は困ったようにそう言いながも、私の熱意に根負けして子守唄の代わりに良く弾いてくれた。
空白
空白
空白
空白
空白
空白
─────“パパ、この曲は何ていうの?”
─────“え?あぁ...〈君を忘れられない〉かな”
─────“どうして忘れられないの?”
─────“お前が大人になったらきっと分かるよ”
空白
空白
空白
空白
空白
空白
淡い記憶の中で、そう言った父が柔らかく微笑んでいたことだけは、今でもうっすらと覚えている。
それから何年も経ち、曲名の本当の意味を知った時には少し驚いた。けれど同時に、父がどうしてあの時あんなふうに濁したのかも、ようやく少しだけ分かった気がした。
「おい、───…」
どうした、と声をかけようとして、仁王は開きかけた口をそのまま噤んだ。
窓から入り込んだ夕方の風が、俯く彼女の黒髪をさらりと攫っていく。西日に透けた髪が頬を撫で、その隙間から覗く横顔には長い睫毛の影が落ちていた。普段なら、どこか掴みどころのない表情をしているのに、今だけはどうしてかひどく遠い場所を見ているようにも見えて、仁王は思わず言葉を失う。
ほんの数秒のことだった。
こちら側からでは伏せられた表情まではよく見えず、それがかえって妙に気にかかったのか、仁王は僅かに眉を寄せると、先ほど飲み込んだ言葉を別の形で口にした。
「…まだ体調でも悪いんか」
「…あれはただのサボり」
不意に現実へ引き戻され、私はしばらく瞬きをしてから口を開く。二限目に教室にいなかったことを言っているのだろうと気づき、さっきまで胸の奥に浮かんでいた古い記憶を押し込めるように、何でもない調子でそう返した。
「今週三回目じゃな」
その言葉に、私は少し遅れて仁王の方を振り返った。冗談を言っている様子もなく、こちらを見ているその顔を確かめるように見つめていると、仁王はさらに続ける。
「毎回同じ授業だけ綺麗に消えとったら、嫌でも気づくぜよ」
「良く見てるね」
「目につくだけじゃ」
確かに私の席は、仁王の席から見れば前方斜め前にある。授業中に視界へ入る位置ではあるし、毎度同じ時間だけ席が空いていれば気づいたとしても不思議ではない。それでも、美術の授業は毎日あるわけでもないし回数まで覚えていたことには少しだけ引っかかって、私は何となく仁王の顔を見つめた。
すると、それまで軽い調子で話していた彼の表情が僅かに変わる。
「…大丈夫か」
「平気だよ」
何が、とまでは聞かなかった。体調のことなのか、授業を抜けていることなのか、それともさっき一瞬だけ黙り込んだ私のことなのか。あえて言葉を足さないことで、答える範囲をこちらに委ねているようだった。
そう思ったものの、問い返す気にはなれず、私は何でもないことのように笑ってみせた。仁王はしばらくこちらを見ていたが、それ以上踏み込んでくることはなく、代わりに小さく息を吐く。
「そろそろ行かないと、真田に怒られるよ」
「…あぁ、そうじゃの」
私の拒絶を感じ取ったのだろう。仁王はそれ以上何も言わず、壁際から身体を起こすと、そのまま音楽室を出ていった。
閉まりかけた扉の向こうへ消えていく背中を目で追いながら、私はしばらくその場を動けずにいた。別に何かを隠したつもりはないし、心配されるような顔をしていた覚えもない。それなのに、あの一瞬だけで何かを見透かされたような気がして、妙に居心地が悪い。
キン、と窓の外から金属バットがボールを弾く乾いた音がひと際大きく響いた。
それにつられるように視線を外へ向けながら、私は小さく息を吐く。
私になんか興味ないくせに。
(……悔しい)
人に悟られないようにするのは、昔からそれなりに得意だったはずなのに。さすがペテン師と呼ばれるだけのことはある。観察眼が鋭いというより、相手が何を隠しているのか、その奥にあるものを暴くのが上手いのかもしれない。
さっきの曲についてもそうだった。
私自身でさえ、ずっと曖昧なまま抱えていたものを、たった数分聴いただけであっさりと言葉にしてしまった。
───“手に入らんもんを、ずっと眺めとる感じ”
その言葉だけが、夕暮れの音楽室に取り残されたように、いつまでも胸の奥に残っていた。