頭上を何かが通り過ぎていくような低い音がして、ふと顔を上げた。
少し遅れて、それがヘリコプターのプロペラ音だと気づく。一定の間隔で空気を叩くような音は、しばらく校舎の上を横切るように響いていたが、やがて遠ざかるにつれて次第に小さくなっていった。
そこでようやく、我に返る。
いつの間に、こんなに暗くなっていたのだろう。
窓の外に目を向ければ、あれほど眩しかった西日は半分以上姿を消していて、窓の外では、夕暮れの茜色から淡い紫へと移ろうグラデーションが空いっぱいに広がり、その下では校庭に落ちた影が少しずつ濃さを増していた。先ほどまで聞こえていた部活動の掛け声も随分とまばらになり、昼間とは別の場所のように静かになっている。
仁王がこの音楽室を出ていってから、もうかなり時間が経っているらしい。
あの後、なんとなく立ち上がるきっかけを失ってしまっていた。
別に、何かを考えようとしていたわけではない。
気を紛らわせるように何度かピアノを弾いてみたり、窓際の机に腰掛けて暮れていく空をぼんやり眺めたり。それにも飽きると、スクールバッグから読みかけの小説を取り出して続きを読んでいた。
けれど、どれも長くは続かなかった。
本を読んでいても、気がつけば同じ一文を何度も目で追っているし、ピアノに触れていても、ふとした拍子に先ほど交わした会話や父のことを思い出してしまう。
そうしているうちに、随分と時間が過ぎてしまったらしい。
机の上に置いていたスライド式の携帯を開いて時刻を確認すると、午後18時半を少し回っていた。
小さく呟いて、本を閉じる。
さすがに、そろそろ帰らなければならない。
机から腰を上げると、開けたままにしていた窓へ向かった。外から入り込む風は、先ほどよりも少しだけ冷たくなっていた。窓の鍵を掛け、ピアノの傍らに置いていたスクールバッグを拾い上げると肩に掛ける。
静まり返った音楽室を、最後にもう一度だけ振り返る。友人との別れを惜しむようにグランドピアノを一瞥すると、そのまま廊下へ出て、背後でスライド式の扉を静かに閉めた。
途端に、音楽室の中とは違うひんやりとした空気が肌に触れる。
人気のなくなった校舎は昼間よりもずっと広く感じられ、長く伸びた廊下には、自分の足音だけがやけに大きく響いていた。窓の向こうでは夕暮れの色もすっかり薄れ、校庭には夜の気配が少しずつ降り始めている。一方で、廊下には等間隔に並んだ蛍光灯が白く灯り、人気のない廊下を明るく照らしていた。
スクールバッグの肩紐を掛け直し、そのまま昇降口へ向かって歩き出す。
何気なく通り過ぎた教室も、階段の踊り場も、この時間になるとどこかよそよそしい。ほんの数時間前まであれほど騒がしかった校舎が嘘のようで、その静けさに髪を引かれるように自然と足取りが重くなった。
けれど、頭の中だけはまだ音楽室に置き去りにされたままだ。
気を抜けば、さっきまで押し込めていたものが一度に溢れ出しそうで、無意識に考えることそのものを避けるように足を動かした。
まるで、弾き終えたはずの曲の余韻だけが、いつまでも耳の奥に残っているようだった。
そんなことを考えながら階段を下りていると、下の階から誰かが上がってくる足音が聞こえてきた。規則的に近づいてくるそれを特に気にも留めず、そのまま踊り場へ差しかかったところで何気なく顔を上げる。
そこで、足が止まった。
「おや、まだ残ってたのか」
階段を上がってきたのは、美術担当の金子だった。
思わず身体を強張らせると、彼は残りの数段をゆっくり上がってきながら、口元だけを不自然に持ち上げるような笑みを浮かべた。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥に嫌なものが広がっていく。
金子の笑い方は、昔からどうにも苦手だった。にこやかにしているつもりなのだろうが、目元にはほとんど変化がなく、口角だけが妙に深く吊り上がるせいで、こちらの反応を面白がって眺めているようにしか見えない。
「...金子先生」
「こんな時間まで何してたんだ、千尋」
まただ。
名字ではなく名前で呼ばれたことに、無意識のうちにスクールバッグの肩紐を握る手へ力が入った。
金子は以前から、こういうところがあった。話しかける時には必要以上に距離を詰めてきて、会話の流れとは関係なく肩や背中へ手を置こうとすることもあれば、他の教師なら名字で呼ぶ場面でも、女子生徒に対してだけは妙に馴れ馴れしく名前を使う。
最初の頃は、単に生徒との距離感が近い教師なのだと思おうとしていたけれど、先日、日直の時に用事を言いつけられ、美術室で二人きりになった際に後ろから急に髪を触れられ、そのまま耳元で“綺麗な髪だな”と低く囁かれてからというもの、さすがにそう片づけることはできなくなっていた。
それ以来、廊下の向こうに姿を見つければ進路を変え、美術室へ用事がある時もなるべく一人では行かないようにしていたのに、まさかこんな時間、それもほとんど人の残っていない階段で鉢合わせるとは思っていなかった。
「...もう帰るところです」
余計な話を広げられないよう必要なことだけを答え、そのまま横を通り過ぎて階段を下りようとする。
けれど、こちらが一歩踏み出したのとほとんど同時に、金子も僅かに身体の向きを変えた。
ほんの少し位置をずらしただけなのに、下へ続く階段へ向かうには彼のすぐ横を通らなければならなくなり、私はそこで足を止めざるを得なかった。
「車で送ってあげようか」
「......、」
「もうすぐ暗くなるし、一人じゃ危ないだろ」
まるで当然のように言いながら、金子はまたあの気色の悪い笑みを浮かべた。返事を待つでもなく一歩こちらへ近づくと、顔を覗き込むように身体を屈めてくる。
近い。
そう感じた瞬間、考えるより先に身体が半歩後ろへ退いていた。
それを見ても金子は距離を戻そうとはせず、むしろこちらの反応を面白がるように目を細め、口元の笑みをさらに深くする。
「そんな露骨に避けなくてもいいだろ?」
冗談めかした口調でそう言うと、金子はにやりと口角を上げた。
こちらが距離を取ろうとしていることには気づいているはずなのに、それを本気の拒絶だとは思っていないらしい。まるで私が照れているだけだとでも言いたげなその笑い方が、ひどく癇に障った。
「...友人が待ってるので、失礼します」
もちろん、嘘だった。
けれど今は、それがどれほど見え透いた言い訳でも構わなかった。ただ一刻も早くこの場を離れたいという衝動だけが次第に強くなっていき、それを悟られないよう声だけは努めて平静に保つ。それだけ告げて、今度こそ横を抜けようとした。
「おい」
呼び止める声とほとんど同時に、視界の端で金子の手が動いた。
肩へ触れようとしたのか、それとも髪へ手を伸ばしたのかは分からない。ただ、こちらへ近づいてくる指先を認識した瞬間には、反射的に身体を引いていた。
「....触らないでください」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
階段の踊り場に、不意に沈黙が落ちる。
蛍光灯を背に立つ金子の表情は薄い影に沈み、その口元に浮かんでいた笑みが、ほんの一瞬だけ消えた。階段の踊り場に、不意に沈黙が落ちる。蛍光灯を背に立つ金子の表情は薄い影に沈み、その口元に浮かんでいた笑みが、ほんの一瞬だけ消えた。
次の瞬間、逃げる間もなく腕を掴まれる。
「っ...」
掴まれた、と理解した時にはもう遅く、反射的に腕を引いても金子の指は簡単には離れない。
「先生はただ心配して─────」
「藤井センパイ」
不意に、背後から声がした。
「!」
金子が弾かれたように顔を上げる。その拍子に手首を掴んでいた力が緩み、私はすぐさま腕を引いた。
振り返ると、上の階の廊下に面した階段口に切原赤也が立っていた。こちらを見下ろす表情はいつもと変わらない。けれど、その目だけが妙に鋭く見えた。
「何してるんすか?こんなとこで」
「...切原くん」
名前を呼んだ途端、自分でも気づかないうちに詰めていた息が、少しだけほどけた。
赤也はそんな私の様子には触れず、いつもの調子のまま階段を下りてくる。
「探したんすよ。一緒に帰ろうと思って」
そう言うと、赤也は私と金子の間に割って入るように立ち、さりげなく私を背中側へ庇った。
「じゃ、俺ら帰るんで」
赤也はそう言って私を促すように身体の向きを変えたが、金子はその場を退こうとはせず、むしろ呼び止めるように口を開いた。
「いや、俺はまだそいつと話が————」
「退けよ」
それまでの軽い調子を断ち切るような低い声に、金子の言葉が止まる。
赤也の顔からはいつの間にか笑みが消えていて、正面から向けられた鋭い視線に、金子は一瞬言葉を失ったようだった。さっきまで教師相手に最低限の愛想を残していたのが嘘みたいに、その声音にも表情にも隠す気のない苛立ちが滲んでいる。
しばらく睨み合うような沈黙が落ちたあと、金子は気まずそうに視線を逸らした。
驚いた。普段の切原からは想像もつかないほど低く、冷たい声だった。
そういえば以前、丸井から切原の異名は“
金子はしばらく切原を睨みつけていたものの、結局それ以上は何も言わず、苛立ったように踵を返した。階段を上っていく足音が校舎の静けさの中に響き、やがて完全に遠ざかっていく。
それを確認するようにしばらく背中を見送っていた切原は、足音が聞こえなくなってから、ようやくこちらを振り返った。
「先輩、大丈夫っすか?」
さっきまで金子に向けていた鋭さはもうなく、いつもの少し気の抜けたような表情に戻っている。その変わり身の早さに一瞬返事が遅れたものの、私は小さく頷いた。
「...うん、ありがとう」
「いや、別に」
切原はそう言って肩を竦めると、ふと私の手元へ視線を落とした。つられて見れば、掴まれていた手首にはうっすらと赤い跡が残っている。
その瞬間、切原の眉がぴくりと動いた。
「....あいつ、何したんすか」
低く落ちた声には、さっきまでとは違う、抑えきれない怒りが滲んでいた。
「大したことじゃないよ。ちょっと掴まれただけ」
「それ、大したことあるでしょ」
思ったより強い調子で返され、私は少しだけ目を見開いた。
「....ごめん」
「なんで先輩が謝んの?」
私は胸の前で手を重ねるようにして、掴まれていた方の手首を無意識にさすった。
切原の視線がそこへ落ち、赤くなった手首を見たあと、確かめるようにそっと私の手に触れる。
「...震えてる」
言われて初めて気づいた。ほんの僅かだけれど、指先が小さく震えている。
切原はそのまま私の手を見つめていたが、やがて少しだけ眉を下げると、躊躇うように顔を上げた。
「...ごめん。俺、怖かった?」
一瞬、その言葉の意味がうまく飲み込めず、私は黙ったまま切原の顔を見返した。さっきまで金子に向けていた鋭さはもうどこにもなく、むしろこちらの反応を窺うように、少しだけ不安そうな目をしている。
「違う」
思わずそう否定したのとほとんど同時に、私の手から離れかけていた切原の手を反射的に追うように伸ばし、そのまま手をを包むように握った。
「...そうじゃない」
突然手を握られたことに驚いたのか、触れた彼の手が一瞬だけ強張ったような気がした。俯いたままではその表情まではよく見えなかったけれど、しばらくすると、触れた手から彼の力が少しずつ和らいでいくのを感じた。
握った手を振りほどくこともなく、しばらく黙ったまま私を見ていた切原は、やがて何か言いかけるように唇を動かしたものの、結局それ以上は何も聞かなかった。ただ、赤くなった手首へもう一度視線を落とすと、納得しきれないように眉を寄せる。
それでも今は追及しないと決めたのか、やがてふっと力を抜くように息を吐き、気持ちを切り替えるように廊下の方へ顎をしゃくった。
「とりあえず帰りましょ。もう遅いし」
「...うん」
そうして、二人で階段へ足を向ける。すぐ隣に誰かの気配があるだけで、さっきまであれほど重たく感じていた校舎の静けさが、少しだけ遠のいたような気がした。
窓の向こうでは、暮れかけた空を横切るように黒いカラスが一羽飛んでいき、遅れて不気味な鳴き声だけが校舎の中まで響いていた。