昇降口には、もうほとんど人の姿がなかった。
すっかり遅くなってしまったせいか、少し前まで校舎のあちこちから聞こえていた部活動の声も、今はもうほとんどない。ときおり遠くから部活動を終えた女子生徒たちの弾んだ笑い声が聞こえてくるくらいで、広い昇降口は妙にしんとしていた。
外は日が沈みかけている。
昇降口のガラス戸越しに見える空は、地平線に近いところだけがまだ橙色に明るく、その上には燃えるような赤い雲が広がっていた。けれど、校庭や校門の辺りはすでに薄暗い。逆光になった木々や校舎の輪郭が黒く沈み、昼間とはまるで違う景色に見えた。
自分の靴箱の前で上履きを脱ぎ、ローファーを取り出す。履き替えようとしたところで、スカートのポケットが震えた。携帯を取り出してディスプレイを確認すると、首を傾げた小さな黒猫の待ち受け画面に見慣れた名前が表示されている。ローファーにつま先を入れたまま、親指でスライドを開いて電話に出た。
「もしもし」
『俺だけど』
兄の声だ。名乗らなくても分かるくらい聞き慣れた声に、私は携帯を耳に当て直した。角に付けたドーナツや片耳にリボンを付けた猫型キャラクターのキーホルダーが揺れ、チャラリと小さな音を立てる。そのままローファーにも足を滑り込ませ、踵まで収めながら口を開いた。
「なに?」
『今どこだ?』
「今から帰るとこ」
『迎えに行く』
間髪入れずに返ってきた言葉に、思わず眉を寄せる。こちらの返事を聞く気なんて最初からないらしい。まるで当然のことみたいに言い切るあたり、電話をかけてきた時点ですでに迎えに来るつもりだったのだろう。
くつくつ、と何かを煮込んでいるような音が受話口の向こうから聞こえる。多分、晩ご飯を作っている最中なのだろう。朝ご飯の当番は私だけれど、晩ご飯はだいたい兄が担当してくれている。たまに足りない材料を買ってきて、と学校帰りにお使いを頼まれることもあるけれど、どうやら今日はそれとは違う用事らしい。
「いいよ、友達と一緒だから」
『...あんまり遅くなるなよ』
少し間を置いて返ってきた声に、了解とだけ答えると、そのままボタンを押して通話を切る。友人と濁したのは、これ以上を伝えると何処のどいつだの男か女かだのと根掘り葉掘り聞かれて面倒だからだ。まったく、いつまで経っても過保護なんだからと呆れながら、私はスライドを閉じて携帯をポケットへ戻した。
開け放たれた昇降口から、ひんやりとした風が入り込んだ。頬にかかった髪がふわりと揺れる。外はもうだいぶ薄暗い。赤みの残っていた空も少しずつ色を失い始め、昇降口の照明に照らされた床だけが、白っぽくぼんやりと浮かび上がっていた。
「先輩?」
「あ、ごめん今行く」
昇降口から顔を覗かせた切原に呼ばれ、私は慌てて上履きを靴箱へしまうと、鞄を肩に掛け直して彼のもとへ向かった。校舎を出ると、切原は自転車のハンドルに片手を添えたまま、私が隣に並ぶのを待っていた。歩き出すのに合わせて前輪がゆっくりと回り、タイヤが舗装された道を擦るかすかな音が足元に続く。
「電話っすか?」
「うん、兄から」
「へぇ、お兄さんいるんすね」
「双子のね」
藤井
母は家を留守にすることが多く、父が亡くなってからというものの、兄たちは父親代わりというか、父親面というか、何かと私の世話を焼くようになった。おかげで寂しい思いをした記憶はほとんどない。けれどその分、二人揃って少々過保護なのが玉に瑕だ。
「俺も姉ちゃんがいるんスよ」
「切原くん弟っぽいもんね」
何気なくそう返すと、隣を歩いていた切原の肩が分かりやすく落ちた。どうやら褒めたつもりはなかったけれど、本人としてはあまり嬉しくないらしい。不満そうに唇を尖らせる姿が、ますます弟っぽく見えてしまって、思わず口元が緩む。
「仲良いの?」
「悪くはないっスけど」
歯切れの悪い返事に横目を向けると、切原は少しだけ視線を逸らし、なんとも言えない顔で頬を掻いた。仲が悪いわけではないものの、素直に“仲がいい”と言うのも照れくさいらしい。
「まじ女王様ってカンジで。鬼怖いっス」
「ふふ」
思わず笑うと、切原は“笑い事じゃないっスよ”と眉を寄せながらも、どこか慣れたように肩をすくめた。口では散々な言いようだけれど、その話しぶりからして本気で嫌っているわけではないらしい。
「真田とどっちが怖い?」
「やめてくださいよ、悪夢見そうなんで」
げんなりした顔でそう返す切原が可笑しくて、また少し笑ってしまった。そんな他愛もない話をしながら数分ほど歩くと、やがてほとんどの生徒がそれぞれの帰路へ分かれていく路地に差しかかる。
「切原くんも家こっちなの?」
「あ、いや先輩ん家まで送ります」
「え、でも...」
当然のようについてくる切原に遠慮してみたものの、“いいから”と押し切られ、結局そのまま一緒に歩くことになった。住宅街に入ると人通りはすっかりなくなり、等間隔に並ぶ街灯だけが細い道をぼんやり照らしている。昼間なら気にも留めないような風の音や、遠くを走る車の音まで妙にはっきり聞こえて、自然と隣を歩く切原の足音も耳に残った。
辺りに人影はほとんどないものの、どこからか夕飯の支度をする音や香ばしい匂いが漂ってきた。明かりの灯った家の窓からは子どもの笑い声やテレビの音がかすかに漏れていて、静かな道の中にもそれぞれの家の生活の気配が感じられる。
「...遠回りじゃない?」
念のためもう一度聞いてみると、切原は前を向いたまま“平気っスよ”と短く返した。
「俺が一緒に帰りたいだけなんで」
あまりにもさらっと言うものだから、一瞬返事に困る。本人に深い意味はないのだろうけれど、そういうことを何でもないように言えるところは、少しずるいと思う。車道側を歩く切原の横顔が、通りすがりの車のライトに照らされる。その横顔は、いつもの後輩よりもどこか大人びて見えた。
さっきまで何でもないように話していたはずなのに、ふとした瞬間だけ知らない表情を見せられたような気がして、思わず目を逸らす。
「テスト勉強は捗ってる?」
ふいにできた間を埋めるように、頭に浮かんだ話題をそのまま口にした。
「げ、嫌なこと思い出させないでくださいよ」
露骨に顔をしかめるあたり、どうやら切原にとっては触れてほしくない話題だったらしい。その反応を見る限り、あまり順調とは言えなさそうだ。
「...明日、勉強教えようか?」
「えっ」
驚いた声が隣から上がったかと思えば、それまで並んで歩いていた足音がふっと途切れた。今日のお礼みたいな、と言い訳みたいに続ける私を他所に、切原はぱっと表情を明るくした。さっきまでテストの話を嫌そうにしていたのが嘘みたいに、分かりやすく目を輝かせている。
「マジでいいんすか?」
「私でよければ」
そう答えると、切原は嬉しそうに笑って、さっきまでより少し軽い足取りで隣を歩いた。けれど、すぐに何か思い出したように表情を曇らせる。
「あ、でも、先輩の試験勉強の邪魔になるんじゃ...」
中学三年と二年では当然テスト範囲も違うし、私には私でやらなければならない勉強がある。それを思い出したのか、さっきまで嬉しそうにしていた切原は急に遠慮がちになって、切原はどこか申し訳なさそうにこちらを窺った。
「いいよ、いつもそんなに勉強してないし」
「...嫌味っすか?」
「なんで?」
思いがけない返しに首を傾げると、切原は信じられないものを見るような目を向けてきた。
「だって先輩、学年トップなんでしょ?」
「ああ...」
言われてようやく意味を理解する。別に自慢したつもりはなかったのだけれど、切原からすれば十分嫌味に聞こえたらしい。
とはいえ、テスト前だからといって特別なことをしているわけではない。週に何度か塾にも通っているし*1授業さえきちんと聞いていれば、大抵のことはその場で理解できる。だから試験が近づいたからといって、改めて机にかじりついて勉強することもほとんどない。せいぜい前日に教科書をぱらぱらと眺めて、忘れているところがないか確認する程度だった。
「じゃあ今のなし」
「遅いっスよ」
むっとしたように言いながらも、本気で気を悪くした様子はなく、切原の口元にはうっすら笑みが浮かんでいた。
確かに今の学校では成績上位にいることが多いけれど、毎回一位を取っているわけではない。というより、気が乗らない時にはテストそのものを休んでしまうことがあるせいで、全教科を受けられず順位表から外れることも珍しくなかった。
もっとも、全教科をきちんと受けた試験に限っていえば、これまで一度も学年トップを逃したことはなかった気がする。とはいえ、先月で転校してきてようやく一年が経ったばかりだ。受けた試験の回数自体、そう多いわけではない。それでも、その結果がかえって柳の闘争心を焚きつけてしまっているようだった。
けれど、上には上がいる。今の学校で何度かトップになったことはあっても、転校する前に通っていた関西の学校はそれなりの進学校で、特進クラスにいた私より成績のいい人なんていくらでもいた。だから、自分が特別頭がいいという感覚はあまりない。柳には悪いが、テストの順位だって周りが思っているほど大したものには感じていなかった。
「うらやましい」
「...私のはズルみたいなものだから」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
口にした後で、自分でも少し驚く。切原はただ、思ったことをそのまま口にしただけだ。嫌味でもなければ、探るような響きもない。ただ純粋に、羨ましいと思ったのだろう。
「...先輩?」
不思議そうな声に、はっと顔を上げる。
我に返って、そこで初めて黙り込んでいたことに気づいた。
「ごめん、なんでもない」
誤魔化すように前を向いたものの、一度口にしてしまった言葉は簡単には消えてくれず、胸の奥には妙な引っかかりだけが残った。少し考えてから、感じが悪かっただろうかと遅れて後悔する。
あまりにもまっすぐ褒められたせいかもしれない。
昔から、そういう言葉を向けられるのは少し苦手だった。
考えてみれば、こんなふうに何の含みもなく褒められたことなんて、これまでほとんどなかった。だからなのか、素直に受け取るより先に、つい突き放すような言葉が出てしまったのかもしれない。
「俺、結構前からセンパイのこと知ってたんすよ」
「...?」
その言葉に、ふと切原へ視線を向けた。
切原はその顔を見ながら、ほんの一瞬だけ昔のことを思い返すように黙り込んだ。
————まあ、それもそうか。
あの日の彼女にとって俺は、たまたま屋上から見下ろした先で喧嘩をしていた、名前も知らない下級生の一人でしかなかったはずで、わざわざ記憶に残しておくような相手でもなかっただろう。
けれど俺のほうは、そう簡単には忘れられなかった。
立海に入学してからしばらく、俺はクラスの中であまり馴染めずにいた。
別に友達が一人もいなかったわけじゃないし、最初から一人でいるつもりだったわけでもなかったけれど、昔から気が短い上に、頭に血が上れば目まで赤くなるなんて面倒な癖があったせいで、一度そこを面白がられてしまえば後は早かった。
といっても、クラス中から避けられていたわけではない。
絡んでくるのは、いつも決まった連中だった。
「また目ぇ赤くなるんじゃね?」
「キレたらやべーぞ、こいつ」
最初のうちは軽口だったはずなのに、反応すればさらに面白がられ、無視すれば今度生意気と陰で言われるようになって、そのうち休み時間になっても俺の机の周りだけ妙に人が寄りつかなくなった。
こっちだって好き好んで誰かに混ざりたいわけじゃない、と意地を張ってはいたけれど、だからといって何とも思っていなかったわけでもなく、教室の端で聞こえてくる笑い声に自分の名前が混じれば、それだけで腹の奥がむかついた。
そんな頃、六月に入って少し経った日の昼休み、俺は何人かの男子に校舎裏へ呼び出された。
最初から碌な用じゃないとは思っていたし、わざわざ行く必要だってなかったはずなのに、逃げたと思われるのも癪で、結局一人で向かった。
案の定、待っていたのは一人や二人ではなく、前から俺の目のことを面白がっていた連中が数人、校舎の壁沿いに散らばるように立っていて、俺の姿を見るなり嫌な笑いを浮かべた。
何を言われたのか細かいところまではもう覚えていない。
ただ、悪魔だの気持ち悪いだの、似たようなことをしつこく繰り返されているうちに我慢できなくなって、気がつけば一人の胸ぐらを掴んでいた。そこから先は早くて、殴られれば殴り返し、肩を掴まれれば振り払い、人数の差なんて考える余裕もないまま滅茶苦茶に暴れていたものの、さすがに複数を相手にして無傷で済むほど強くはなく、横から肩を押された拍子に足がもつれ、そのまま背中から校舎の壁へ叩きつけられた。
鈍い音と一緒に息が詰まり、背中に遅れて痛みが走る。
目の前では誰かが何か言っていたけれど、頭に血が上っていたせいでほとんど聞こえておらず、ただ腹立たしさだけがぐるぐると残っていて、次に飛びかかる相手を睨みつけた。
そのときだった。
突然、頭の上から大量の水が降ってきた。
「!?」
何が起こったのか理解するより先に、目の前にいた連中が揃って声を上げた。上から降ってきた大量の水が、髪から制服まで容赦なく濡らしていく。壁際に追いやられ、校舎の影に隠れるようにしゃがみ込んでいた切原だけは直撃を免れたものの、跳ね返った水飛沫までは避けきれず、頬や肩口がじわりと濡れた。
雨なんて降っていなかったはずだ。
そう思って顔を上げようとした、その瞬間。今度は横から勢いよく水が飛んできて、目の前にいた一人の顔へまともにぶつかった。
「うわっ、冷てぇ!」
「なんだよこれ!」
さっきまで俺を囲んでいた連中が慌てて頭を庇い、その騒ぎにつられるように俺も上を向いた。
校舎の屋上、その端から誰かが身を乗り出していた。
屋上の縁から、片手にホースを持った女がこちらを覗き込んでいた。
少し乱れた髪と、眠たげに細められた目を見る限り、どうやらさっきまで寝ていたらしい。
ちょうど背後に太陽があったせいで最初は顔がよく見えなかったけれど、ホースから撒かれた水が風に流され、細かな粒になってきらきら光るたび、その向こうにある表情が少しずつ見えてきた。
彼女は笑っていた。
俺たちが揉めていることに怯えるでもなく、止めなきゃと必死になるでもなく、ただ面白いことを思いついたみたいに楽しそうに笑いながら、今度は別の奴へ向けて遠慮なく水を浴びせていた。
「あ、ごめんなさーい!」
屋上から降ってきた声は、ちっとも悪いとは思ってないような声色で場違いなくらい明るかった。
助けようとしてくれているのか、それとも昼寝を邪魔されたことに腹を立てているだけなのか、俺にはさっぱり分からなかったけれど、どちらにしても普通じゃない。
「おい、何してんだよ!降りて———」
言い終わるより早く、彼女はにっこりと笑ったままホースの先をそいつへ向けた。
次の瞬間、勢いよく噴き出した水が見上げていたそいつの顔面に直撃する。
思わず俺は吹き出した。
ついさっきまで殴り合っていたことも、背中が痛いことも忘れて笑ってしまったせいで、周りから一斉に睨まれたけれど、もうどうでもよくなっていた。
屋上から容赦なく水を浴びせられ続けた連中は、さすがにこれ以上ここにいても仕方がないと思ったのか、何度か悪態をついたあと、濡れた制服を気にしながら散っていった。
残ったのは俺一人で、髪からはまだぽたぽたと水が落ちていた。
濡れた前髪をかき上げながら、なんとなくもう一度屋上を見上げる。
梅雨に入る前の空はやたらと青く、真昼の太陽が眩しいくらい照りつけていて、その光を受けた水飛沫が細かく反射しながら風に散っていた。
その向こうで、彼女がまだ笑っていた。
青空と、眩しい太陽と、光る水飛沫。
その全部の真ん中に彼女がいて、あのときの俺には妙に眩しく見えた。名前も知らなければ、何年生なのかも分からなかった。妙な女子生徒だということだけは分かったけれど、まさか自分より年上だなんて、そのときは考えもしなかったと思う。
ただ、変な奴だと思った。
それなのに、目が離せなかった。
少ししてから校内で彼女を見かけたとき、あの日の女だとすぐに分かった。
廊下の向こうを歩く彼女を目で追って、それから周りの話で、少し前に二年へ転校してきた生徒らしいと知った。
そこで初めて年上だったと分かり、少し驚いたけれど、それ以上に、なぜか妙に納得もした。
それからだったと思う。
最初はたぶん、ただ気になっただけだった。
廊下の向こうにいれば何となく見てしまい、中庭で誰かと話していれば、何を笑っているんだろうと気になって、すれ違えばつい振り返った。
彼女のほうは、俺のことなんてほとんど見ていなかったと思う。
それでも、気づけば俺のほうだけが彼女を探すようになっていた。
人混みの中でも、あの顔だけはすぐに見つけられるようになって、遠くに姿が見えれば自然と目で追うようになっていた。
「...そうだっけ」
「俺はちゃんと覚えてますよ」
そして次の学年に進級した春、偶然にも同じ保健委員になった。
それまでほとんど一方的に知っているだけだった相手と、ようやく堂々と話せる理由ができたのだから、切原がその機会を逃すはずもなかった。委員会で顔を合わせるたびに何かと話しかけ、廊下で見かければ声を掛けて、気づけば向こうにも名前を覚えられていた。
そうしてようやく、ただの“知らない後輩”からは抜け出せたのだと思う。
その頃にはもう、彼女を見つけると嬉しくなることも、少し話せただけで妙に機嫌が良くなることも、他の誰かと楽しそうにしているのを見ると面白くないことも、全部当たり前になっていた。
それが恋なのだと気づくまでに、そう時間はかからなかった。