空白
住宅街の静かな道を、二人並んで歩いていた。
辺りはもう薄暗く、頭上には淡い月が浮かんでいる。等間隔に並ぶ街灯や、通り沿いの店先から漏れる明かりがところどころ道を照らしていて、その光が届くたび、隣を歩く切原の横顔がぼんやりと浮かび上がった。暗がりの中では少し曖昧だった輪郭も、明かりの下を通る一瞬だけはっきりと見えて、またすぐ夜の色に溶けていく。
切原の話を聞きながら、私はぼんやりと一年ほど前のことを思い返した。
転校してきたばかりの頃、私もまだクラスにうまく馴染めずにいた。六月の半ばなんて中途半端な時期だったせいで、教室の中にはすでにいくつものグループができあがっていて、なんとなく流れで一緒にいるようになった子たちとも、どこか会話が噛み合わなかった。
前の学校はどうだったのか、どうして転校してきたのか。双子の兄たちに彼女はいるのか、どんな子が好みなのか。今度紹介してほしいだとか、家に遊びに行ってもいいかだとか。悪気がないことは分かっていても、次から次へと踏み込んだことを聞かれるたび、少しずつ息が詰まるような気がした。
そんなとき、よく一人で屋上へ上がっていた。
昼休みにふらりと屋上へ上がって、いつものように人目につかない場所で壁を背に目を閉じる。六月の陽射しは少し強かったけれど、時折吹く風はまだ涼しく、教室にいるよりずっと息がしやすかったのを覚えている。
言われてみれば、確かにそんなこともあっただろうか。水面に揺らめく景色みたいに、ぼやけていた記憶が少しずつ浮かび上がってくる。
けれど、あの日の出来事が切原の脳裏にそこまで鮮明に残っていたとは思わなかった。あの日のことを今でも覚えていたことも、去年からずっと私のことを知っていたことも、少し意外だった。
「切原くんが思ってるほど、できた人間じゃないよ」
「え?」
「なんでもない」
自分から口にしておきながら、これ以上話す気にはなれず、そのまま前を向く。隣からまだ何か言いたげな気配はしたものの、切原は珍しくそれ以上追及してこなかった。
そのまま二人の間に、しばらく静かな時間が流れる。聞こえるのは、切原が押す自転車のタイヤが地面を擦るかすかな音と、ときおり後ろから近づいてきては二人を追い越していく車の走行音くらいだった。
車が通り過ぎるたび、ヘッドライトに照らされた二人の影が長く伸びては縮まり、足元をなぞるようにゆるやかな弧を描いていく。
しばらく歩いたところで、ふいに隣から「あ」と声が上がった。
「...明日、俺部活あるっす」
「あ、そっか」
言った途端に、少し切原の表情が曇った。
土日とはいえ、運動部なら練習があるのは当然だろう。むしろ今まで本人がすっかり忘れていたらしいことのほうが不思議なくらいで、あまりに分かりやすく肩を落とす姿に、口元が緩みそうになるのをそっと堪えた。
「何時まで?」
「午前練なんで、11時半までっスよ」
「じゃあ、その後にしようか」
中等部から少し離れた場所には立海大附属高等学校が隣接しており、共同で利用できる敷地内の図書館はテスト期間になると、自習をする生徒のために土日でも開放されていたはずだ。どうせ私もちょうど借りたい本があったし、そこでなら自分の勉強をしながら切原に勉強を教えることも可能だろう。
「ちょうど読みたい本もあるし」
「いいんすか?」
「うん。お昼ご飯食べてから集合でもいい?」
「了解っす!」
そう会話をしたところで、見慣れたコンクリート塀と、その向こうに覗く白い外壁が視界に入った。話しながら歩いているうちに、いつの間にか家の前まで来ていたらしい。辺りはすっかり暗くなっていて、塀際や植木の隙間に設けられたライトが、足元から白い外壁をぼんやりと照らしている。その向こうには、大きな窓をいくつも並べた二階建ての家が、夕暮れの中に静かに佇んでいた。
玄関へ続くアプローチの前で足を止めると、隣を歩いていた切原もつられるように立ち止まった。
「あ、ここだから」
「え、なんかめっちゃデカくないっすか」
「そう?」
言われて改めて振り返ってみるものの、毎日見ているせいか、いまいちぴんとこない。確かに、外から見ればそれなりに立派な家なのだろう。
しかし、部屋の数はやたらと多いのに、いざ暮らしてみると妙に使いづらくて、間取りも私たちの生活とはどこか噛み合っていない。そういうものを何ひとつ考えずに造られた場所へ、あとから私たちの生活だけを押し込んだような家だった。最初から私たちが住むために用意された家ではないのだから、当然といえば当然なのだけれど。
もう一年も住んでいるというのに、いまだに借り物の場所で生活しているような感覚が抜けない。
「送ってくれてありがとう」
「ウィッス!じゃあ、また明日」
軽く片手を上げた切原が、自転車のハンドルを握ったままこちらに背を向ける。
「あ、待って切原くん」
「えっ」
そのまま自転車に跨がろうとする背中を見て、ふと思い出したことがあった。呼び止めるのとほとんど同時に手を伸ばし、すぐ目の前にあった制服の袖を指先でつまむように引くと、切原が中途半端な姿勢のまま動きを止めて振り返る。
思っていたよりも近い位置に顔があって、自然と視線が少し上を向く。他のテニス部の面々と一緒にいるところばかり見ていたせいか、これまであまり気にしたことはなかったけれど、こうして向かい合ってみると切原も意外と背が高い。
まだまだ成長期だし、これからもう少し伸びるのかな。
「な、なんスか?」
「連絡先交換しよ。何かと不便だし」
「あっ、そうっすね」
掴んでいた袖を離し、制服のスカートのポケットから携帯を取り出す。それを見て切原も慌てたように自転車のスタンドを立てると、ポケットを探り、自分の携帯を取り出した。
「赤外線でいい?」
「ウィッス」
スライド画面を開き、いくつかボタンを操作する。アドレス帳から自分のプロフィールを呼び出して赤外線送信を選ぶと、切原も受信画面を開いて携帯をこちらへ向けた。互いの端末を近づけて少し待てば、ほどなくして送信完了の文字が表示される。
「あ、来ました」
「じゃあ、家に帰り着いてから何か送って」
本来は、切原の携帯からも赤外線送信を送ってもらわなければならないのだが、私に付き合わせてしまって所為ですっかり遅くなってしまったし、彼が家に無事帰り着いてから報告してもらったほうが手間も省けていいだろう。
「やばい...めっっっちゃ嬉しい...」
「?」
そんなことを考えていると、俯いていた切原が何かを呟いた。声が小さくて、うまく聞き取れない。名前でも呼ばれたのかと思って顔を覗き込もうとしたけれど、伏せられた前髪に隠れて表情まではよく見えなかった。
前から思っていたけれど、彼は結構な癖毛だ。天パというほど強くはないものの、毛先はあちこち好き勝手に跳ねていて、俯くと柔らかそうな髪がふわりと額に落ちている。
なんとなく、触ったらどんな感触なんだろうと思った。
きっと見た目どおり、ふわふわしているんだろうな。そんなことを考えているうちに、確かめるように手を伸ばしてみたくなる衝動が湧いてきて、さすがにそれは良くないかと、と指先を握り込んだ。
「あの、センパイ」
やがて顔を上げた切原は、さっきまでとはどこか様子が違っていた。いつになく真剣な眼差しでこちらを見つめたかと思うと、そのまま一歩、ぐっと距離を詰めてくる。
突然のことに気圧され、反射的に一歩後ろへ下がったところで、背中が家の壁に触れた。思いのほか近くなった距離に戸惑いながら見上げても、切原は目を逸らそうとしない。
「俺ずっと言いたいことが...」
切原がそう続けたところで、その顔を見上げていた視界の端に、ふと見覚えのある姿が入り込んだ。反射的にそちらへ目を向けると、少し離れたところに人影がある。玄関先の灯りからわずかに外れた場所で、こちらをじっと見ているその姿には見覚えがあった。
脱色した薄い茶髪に、高等部の制服。耳元に連続して連なったシルバーのリングピアスが、月明かりを拾って耳元で冷たく光っていた。スクールバックをリュックのように背中に背負い、両手をポケットに突っ込みながら数歩手前で立ち止まっている。
「あ、ちづ兄」
「おー」
「ッ!?」
突然の兄の声に、ビクッと切原の肩が大きく跳ね上がったかと思うと弾かれたように素早く後ずさった。ついさっきまでの真剣な雰囲気はどこへやら、気づけば私との間にしっかり距離を取り、なぜか両手まで上げている。
「なんか邪魔した?」
「いや、これは、その…!」
「いいから、早くあっち行って」
明らかに面白がっている兄の表情にうんざりしながら、その背中をぐいぐい押して玄関の方へ追いやる。
千鶴は気のない返事をしながらも、いかにも名残惜しそうに何度かこちらを振り返り、ようやく玄関のドアに手をかけた。それでも素直に入る気はないらしく、半分ほど閉めたドアの隙間からまだこちらを覗いている。じろりと睨みつけると、さすがに諦めたのか、今度こそすっと顔を引っ込めた。
あの様子じゃ、絶対あとで揶揄われる。
そう思うだけで頭が痛くなりそうになって、ため息を吐く。
「ごめんねうちの兄が...」
「じ、じじゃあ俺失礼します!!」
「えっ、切原くん?」
振り返った時には、切原はもう自転車に跨がっていた。引き留める暇もなく勢いよくペダルを踏み込み、あっという間に遠ざかっていく背中を呆然と見送る。
「行っちゃった...」
あまりの素早さにしばらくその場に立ち尽くしていたものの、ふと、さっきまでの会話を思い出す。
そういえば、何か言いかけていなかっただろうか。結局その続きが何だったのか分からないまま、私は切原の消えていった方をぼんやりと眺めていた。
とはいえ、今さら追いかけるわけにもいかない。仕方なく玄関へ向かい、ドアを開けて中に入ると、案の定千鶴が待ち伏せていたかのようにそこに立っていた。靴はとっくに脱いでいるくせに、上がり框のところでこちらを待つように腕を組んでいる。
「今の誰?」
「ただの後輩」
「へぇー」
「もう、邪魔」
含みのある返事をする千鶴を腕でぐいと押し退け、そのままローファーを脱ぐ。 けれど、千鶴は素直に退くどころか、面白そうに口元を緩めたまま離れようとしない。
「あき兄には言わないでよ」
「なんで?」
「なんでも」
適当に誤魔化しながら、千鶴の横をすり抜ける。どうせ理由を話したところで、面白がられるだけだ。どちらも過保護という点では大差ないけれど、男女関係のことになると、千鶴より千晶の方が数倍厄介だった。これ以上話がややこしくなるのは避けたい。
「もしチクったら、あの写真の件...」
「分かったって。黙っとく」
“写真の件”というのは、文字通りそのままの意味だ。以前千鶴は、自分と千晶のプライベート写真をこっそり集めては、オークション形式で売り捌いていたことがある。
クール(?)で寡黙な大人っぽい雰囲気の
対照的に明るくて友達が多いタイプの
タイプこそ正反対だけれど、女子生徒からの人気が高いという点だけは共通していて、高等部はもちろん、中等部にまでファンがいるほどだった。弓道部に所属している千晶とは違い、軽音部の幽霊部員で、放課後や休日のほとんどをアルバイトに費やしている千鶴は、そんな自分たちの人気に目をつけたらしい。
プレイベート写真といっても、ほとんどは学校で撮ったものや私服姿で、少し値の張るものになると寝顔や、着替えの最中に撮った上半身裸の写真まで混ざっていた。ツーショット以外の千晶が写ってるものについては、ほとんど盗撮みたいなものだ。
私にバレてからはさすがに取引をやめたものの、千晶本人には黙っておく代わりに、口止め料として売上の半分はきっちり貰った。加えてそれ以来、何かある度にこの件を持ち出している。我ながら少し卑怯だとは思うけれど、面倒な兄相手にはこれくらいがちょうどいい。
もしあき兄にバレたら、晩御飯抜きの刑くらいでは済まない気がする。
「お前こそバラすなよ」
「はいはい」
まだ何か聞きたそうにしているのは分かっていたけれど、付き合っていたら面倒なことになりそうなので、そのまま振り返らずにリビングへ向かった。
「ただいま」
「おかえり、遅かったな」
リビングへ入るなり声をかけると、奥の方のキッチンから物音に混じって返事が聞こえてきた。少し遅れて姿を見せたエプロン姿の千晶は、私とそのすぐ後ろからついてきた千鶴を交互に見比べる。
その向こうのキッチンからは、出汁と醤油の混じったようないい匂いが漂ってきていた。微かに生姜の香りもするし、今日の晩ご飯は煮魚か何かだろうか。そう思った途端、さっきまで気にもしていなかった空腹を思い出して、急にお腹が空いてきた。
「ふたり一緒だったのか」
「そこで出くわしただけ」
「兄貴をスライムみたいに言うなよ」
何が気に入らなかったのか、千鶴が後ろから不満そうな声を上げる。別にそんなつもりで言ったわけではないのに、いちいち引っかかってくるのが面倒で、そのまま聞き流して二階の自室へ続く階段へ足を向けた。
「私、着替えてくる」
そう言い残して階段を上がりかけると、背後から千晶の声がした。
「もうすぐ飯できるから、早く降りてこいよ」
「うん」
二階へ上がると、いちばん手前にある自室のドアを開ける。暗い部屋に入って壁際のスイッチを押せば、白っぽい明かりがぱっと室内に広がった。後ろ手にドアを閉めたところで、ようやく少しだけ肩の力が抜ける。
部屋の中は、朝出た時のままだった。窓際に寄せたベッドと、そのすぐ隣にある白い机。間を仕切るように置いた背の低い棚には本や細々としたものを詰め込んでいて、机の上にも読みかけの本やノート、アクセサリーやメイク道具が入った小さな収納箱がいくつか並んでいる。ベッドの枕元にはぬいぐるみが寄せられ、その傍らには今朝脱いだ部屋着が置きっぱなしになっていた。
「ただいま」
挨拶は、部屋の奥に設置してある水槽の熱帯魚に向けたものだ。妙かもしれないけれど、水槽の魚たちに話しかけるのが私の日課だった。
こぽこぽと、エアレーションから吐き出された細かな泡が水面へ昇っていく。静かな部屋には、水の弾ける心地よい音だけが絶え間なく響いていた。
四角い大きな水槽では、赤や白の鮮やかな色をまとった出目金たちが、丸い身体を揺らしながらのんびりと泳いでいる。その隣、丸みを帯びた水槽の中を泳ぐのは、雪のように真っ白なオーバーハーフムーンのベタだ。大きく広がった尾びれを薄布のようにひらひらと靡かせ、その周りを小さなグリーンネオンテトラたちが青緑色の光をちらつかせながら悠々と行き交っていた。
「はぁ、疲れた...」
鞄をいつもの場所に置き、首元のネクタイを解く。灰色のベストを脱いで、スカートと一緒にハンガーへ掛けてから、シャツのボタンを外して袖を抜き、ベッドの上に置いてあった白いTシャツを手に取った。
頭からすっぽりと被ると、ゆったりした裾が太腿のあたりまで落ちる。胸元には黒いプリントが大きく入っていて、制服姿とはずいぶん印象が違った。続けて黒いショートパンツに脚を通す。白いパイピングの入った薄手の生地は楽で、家にいる時は大体いつもこんな格好だった。裾に隠れかけていたウエストを軽く引き上げて整えると、脱いだ制服をクローゼットへ戻す。白いシャツだけは後で洗濯に出すため、あとで階下へ持っていけるようベッド脇に避けておいた。
「今、ご飯あげるからね」
そう声をかけながら水槽の前にしゃがみ込み、下のラックから餌のケースを取り出す。小さな計量スプーンで適量を掬って水面へぱらぱらと振り入れると、それまで悠々と泳いでいた魚たちが一斉に水面近くへ集まり、浮かんだ餌を追いかけ始めた。
その様子を眺めながら、いつものように一匹ずつ目で追っていく。餌の食いつきは悪くないし、泳ぎ方にもおかしなところはない。ひらひらと揺れるヒレにも、光を反射する鱗にも目立った傷は見当たらず、どうやら今日もみんな元気そうだ。しばらくそうして眺めていると、白いベタが大きな尾びれをふわりと広げ、目の前をゆっくりと横切っていった。水の流れに合わせて薄い絹のようなヒレが揺れるたび、つい目で追ってしまう。
綺麗だな、と何度見ても思う。
昔から熱帯魚が好きで、自分の部屋に水槽を置くのが小さい頃からの夢だった。今年の一月、貯めていたお年玉で水槽や必要な道具を一式揃え、ようやく念願のアクアリウムを始めた。
水槽を買ったあと、千晶から父も昔、家で魚を飼っていたと聞いた。何を飼っていたのかまでは覚えていないらしいけれど、知らないうちに父と同じものを好きになっていたのだと思うと、なんだか少し不思議な気持ちになる。
そんなことを考えている間にも、白いベタは長いヒレをゆらゆらと揺らしながら、水槽の中を優雅に泳いでいた。
そろそろ夕飯の時間だ。
餌のケースを元の場所へ戻して立ち上がり、脱いだシャツを片手に部屋を出ようと扉へ向かう。
その途中、何気なく姿見に目をやると、鏡の中の自分と目が合った。
そのまま、なんとなく足を止める。着替えた時に少し乱れてしまった髪を、軽く手櫛で整えた。ぼんやりと自分の姿を眺めているうちに、ふと、さっき切原に見つめられた時のことが頭をよぎった。
あの時、彼は何を言おうとしていたんだろう。
考えれば、なんとなく答えに辿り着けそうな気もしたけれど、何だか今日はひどく疲れた。これ以上考えるのはやめて、鏡の中の自分からそっと目を逸らした。