希望と絶望は、不幸と幸運に似ている。   作:an-ryuka

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 左右田和一は、葦原の鉛筆を三度目に図面の外へ押し返した。

 

「だから、そこはオレが今から描くって言ってんだろ」

「待ってたら配管の位置ずれるから」

「ずれねーよ。お前が勝手に熱交換器でかくしたんだろうが」

「電気街の冷蔵庫、二台分使えばこの大きさになるよ」

「飛行機へ冷蔵庫二台積む気か!?」

「最初から飛ばさなくてもいいでしょ。地上で回して、余計なところ削って、それから載せる」

 

 レストランの一番長いテーブルは、三日前から食卓ではなく作業台になっていた。

 

 第三の島から運んだモーター、変圧器、冷却管、用途の分からない基板。油を拭いた部品の隙間へ、葦原の図面が何枚も広がっている。朝食の皿を置く場所は、端に追いやられて半分しか残っていなかった。

 

「食べ物の横に汚いガラクタ置かないでよねー」

 

 西園寺が椅子の上へ膝を立て、果物の皿を抱える。

 

「汚くねえ。全部拭いた!」

「さっき整備士のおにぃのパンにネジ乗ってたけど」

「あれはオレのだからいいんだよ!」

「よくないと思うよぉ。間違って飲み込んだら大変ですからぁ」

 

 罪木はそう言いながら、テーブルの端へ落ちていたワッシャーを一つずつ拾っている。澪田はその背後から、巻かれたケーブルへ手を伸ばした。

 

「この黒くて太い弦、一本もらっていいっすか?」

「弦じゃねえし、一番使うやつだ!」

「では赤い方を」

「色の問題じゃねー!」

 

 左右田がケーブルを抱えて守ると、澪田は代わりに細い銅線を指へ巻き始めた。

 

「完成した暁には、ぜひ名を授けさせてください」

 

 ソニアが図面を覗き込む。

 

「大海原を越えるのですから、『無敵戦艦ジャバウォック号』などいかがでしょう!」

「まだエンジンだけですけど、いいですねソニアさん!」

「軽薄なる名だ。鋼鉄の心臓には、世界を灼く獄炎の銘こそ相応しい」

「田中は黙ってろ!」

「脱獄一号でよくね?」

 

 終里が、部品の箱へ肘をついた。

 

「何号まで捕まるつもりだよ」と日向が言う。

「一号で出られなかったら二号作るんだろ?」

「ゲームなら、試作機を作るたびに性能が上がっていくやつだね」

 

 七海は携帯ゲーム機から顔を上げずに答えた。

 

「一号が爆発すると、二号の開発イベントが始まるかもしれない」

「縁起悪ぃこと言うな!」

 

 左右田が怒鳴る横で、葦原は既に別の紙へ冷却管を描き直していた。

 

 部品は増えた。けれど、使える形で揃ったわけではない。

 飛行機へ載せられる重量に収めるには部品が重すぎ、船を動かすには船体から作る必要がある。完成図を一つに決めれば、その瞬間に使えない部品の方が多くなった。

 

 それでも、材料が何もなかった頃よりはいい。

 違うなら外し、足りなければ別の物を繋ぐ。左右田が手を動かせば、葦原は次の線を引く。腹の立つ相手ではあるが、こういう時だけは説明を半分省いても話が通じた。

 

「おはよう。ずいぶん賑やかだね」

 

 レストランへ入ってきた狛枝が、入口で足を止めた。

 

 左右田は、葦原の鉛筆が止まるのを見た。

 

「おはよう、狛枝くん。どこにいたの?」

「病院へ寄ってきたんだ。九頭龍クンの意識が戻ったって、罪木さんへ伝えに」

 

 罪木が拾いかけのワッシャーを落とした。

 

「ほ、本当ですかぁ!?」

「うん。まだ話せる状態ではないみたいだけどね」

「すぐ行きますぅ!」

 

 罪木は救急箱を抱え、椅子へ足をぶつけながら走っていった。

 

 西園寺は果物へ視線を落としたまま、何も言わない。

 

 狛枝は空いた席へ座らず、作業台の端にあった小箱を左右田へ差し出した。

 

「電気街の床に落ちていたよ。使えるかどうかは分からないけど」

「お、皿ネジと六角か。混ざってんの面倒だけど、捨てるよりマシだな」

 

 左右田が箱を受け取る。

 

「狛枝くん、『みんなで脱出する』って言うとき、自分も入れてる?」

 

 葦原が突然聞いた。

 

 狛枝は僅かに目を丸くした。

 

「もちろん。ボク一人だけ島へ残ったら、みんなの希望を見届けられないからね」

「見届けるためなんだ」

「ボクが脱出すること自体には、大した価値はないよ」

「でも人数を数えるときは一人に入るでしょ。価値の話と、所属の話を混ぜるから分かりにくいんだよね」

「朝から始めんな!」

 

 左右田は図面を叩いた。

 

「こっち止まってんぞ!」

「紙は待てるから」

「オレは待ってんだよ!」

 

 狛枝が来る前まで、葦原はエンジン以外ほとんど目へ入っていなかった。

 今は鉛筆を置き、狛枝の返事を待っている。

 

 左右田には、その切り替わり方が気に入らなかった。

 機械へ負けるならまだ分かる。人間一人に自分との作業を中断されるのは、もっと気に入らない。

 

「葦原、病院の小型ポンプを見たいんだろ。罪木追っかけて、ついでに寸法測ってこい」

「今?」

「紙は待てんだろ?」

「さっき左右田が待ってるって」

「いいから行け!」

 

 追い立てると、葦原は不満そうに鉛筆を置いた。図面を一枚選び、ソニアを振り返る。

 

「一緒に来る?」

「はい。九頭龍さんのお見舞いもしたいと思っておりました」

 

 二人がレストランを出る。

 

 狛枝はその背中を見送り、左右田の前に残ったネジの箱へ手を伸ばした。

 

「分けるの、手伝おうか?」

「混ぜたのお前じゃねーだろうな」

「拾った時からこの状態だよ」

「だったら長さごとに置け。勝手に捨てんなよ」

 

 狛枝は言われた通り、ネジを一本ずつ並べ始めた。

 

 七海は隣のテーブルへ移り、ゲームを続けている。日向と終里は食料庫へ行き、澪田は西園寺を音楽施設へ誘って断られていた。二人きりではない。それでも、狛枝が葦原のいない時を選んだように左右田には見えた。

 

「左右田クンは、中学の頃から葦原さんと一緒だったんだよね」

 

 やはり、ネジの話ではなかった。

 

「同じ学校だっただけだ。何回言わせんだよ」

「その頃も、あんなふうに人と話していたのかな」

「あんなふうって何だよ」

「自分がしていたことを止めて、その人の返事を待つような話し方」

 

 左右田は、手にしていたナットを箱へ戻した。

 

「してねえよ」

 

 答えてから、余計なことを言った気がした。

 

 狛枝は急かさない。ネジの長さを揃え、頭の形が違うものを別の列へ置く。

 

「あいつが見てたのは、大体物だ。オレが作ったもんか、図面か、作り方。聞きたいことだけ聞いて、分かったら帰る」

「左右田クン本人には、興味がなかった?」

「ねーよ。オレにもあいつへ興味なんかねー」

 

 隣のテーブルから、ゲームの効果音が一度鳴った。

 

「それにしては、詳しいね」

 

 七海が画面を見たまま言う。

 

「同じ中学だったんだから、嫌でも覚えてんだよ!」

「興味がないことと、覚えていることは両立すると思うよ」

「フォローになってねえ!」

 

 左右田は声を落とし、狛枝へ向き直った。

 

「一回、あいつに実物見せたくなくて、適当な図面渡したことがあんだよ。使えねえ線を混ぜてな。そしたら、間違い見つけて、そこから勝手に実物の形まで当てやがった」

「それで?」

「正解だって分かった瞬間、『ありがと、じゃね』で終わりだ。オレが図面取り返すより先に帰った」

 

 口にすると、当時の腹立たしさまで戻ってきた。

 

「昼に一緒に食うとか、帰りを待つとか、そういうのはなかった。用がある時だけ勝手に来る。答えが出たあとまで同じ場所にいたことなんか、オレは知らねえ」

 

 狛枝の指が、短いネジの上で止まった。

 

「じゃあ、今は違うんだね」

「勘違いすんなよ。壊れ方が分かんねえ機械ほど、あいつはしつこく見る。お前が人間として特別なんじゃなくて、故障箇所が多すぎるだけかもしれねえだろ」

「なるほど。すごく納得できる説明だよ」

「そこで嬉しそうにすんな! 悪口だぞ!」

 

 七海がゲーム機を伏せた。

 

「狛枝くん。左右田くんから聞いた葦原さんの答えは、葦原さんの答えじゃないよ」

「分かってるよ。昔の彼女が、どういう人だったか知りたかっただけなんだ」

「攻略情報を見てから選択肢を選ぶみたいだね」

「キミに言われると、反論しにくいな」

 

 狛枝は笑い、持っていたネジを正しい列へ置いた。

 

      *

 

 夕食後も、エンジンは完成しなかった。

 

 左右田は使えない基板を調べるため電気街へ戻り、ソニアと田中は見張りを兼ねて同行した。西園寺は音楽施設へ行ったきり戻らず、澪田が少し離れた場所で付き添っている。

 

 レストランには日向、七海、終里、弐大、罪木が残っていた。病院から戻った罪木は、九頭龍が自分で会話できる程度まで回復したと報告し、明日には一度みんなへ顔を見せたいらしいと伝えた。

 

 葦原は作業台の端で、熱交換器の寸法を書き直していた。

 

 狛枝が向かいへ座っても、すぐには顔を上げない。

 

 昼間、左右田から聞いた話が頭に残っていた。

 知りたい物へ近づき、分かれば去る。狛枝自身がこれまで想像していた葦原と、よく似ている。

 

 違うのは、彼女が今もここにいることだけだった。

 

「葦原さんって、本当に変わってるよね」

 

 狛枝が言うと、鉛筆の音が止まった。

 

「普通なら、ボクとは必要以上に関わりたくないと思うけど」

「変わってるのは否定しないけど」

 

 葦原は鉛筆を持ったまま、狛枝を見る。

 

「うん。……狛枝くん、私の質問嫌がらないの、ちょっと嬉しいし」

 

 最後だけ声が僅かに小さくなった。

 視線を図面へ戻し、既に引いてある線の上を、意味もなくもう一度なぞる。

 

「ボクじゃなくても、話が面白ければ誰でもいいんでしょ?」

 

 葦原は顔を上げた。

 

「案外いないんだよね。そういう人」

 

 真顔だった。

 

「それは、否定になっていない気がするな」

「誰でもいい、が広すぎるから。話が面白い人ならって条件ついてるでしょ」

「ボクの持っている情報が面白いだけじゃないの?」

 

 狛枝は笑って聞いた。

 その笑顔がいつもより正しく作られていることに、葦原が気づいたかは分からない。

 

「情報だけなら、聞いたこと全部書いて置いていってもらえばいいよ」

 

 葦原は図面の余白へ指を置いた。

 

「でも話すと、私が何か返したあとで狛枝くんの次の答えが変わる。最初に聞こうと思ってたことと違う場所へ行く。それは書いてある情報を読むのと別」

「ボクは、反応する装置みたいなものかな」

「装置なら、答えをわざと残して次へ回したり、自分を悪く言って質問の向きを変えたりしないでしょ」

 

 狛枝は笑顔のまま、黙った。

 

「左右田に、何聞いたの?」

 

 今度は狛枝の方が目を逸らした。

 

「どうしてそう思うの?」

「今日、病院から戻ったあと、左右田が私に『昔と違って随分暇なんだな』って言ってきたから。左右田だけなら、もっと直接うるさい」

 

 少し離れた席で、七海が日向へ小声で言った。

 

「攻略情報、ばれてるね」

「聞こえてるよ、七海さん」

 

 狛枝は苦笑した。

 

「中学の頃、キミがどんな人だったか聞いたんだ。知りたいものが分かれば、すぐ帰っていたそうだね」

「左右田、まだあれ怒ってるんだ」

「怒るだろ」と日向が言う。

 

 葦原は少し考え、引き直した図面を端へ寄せた。

 

「左右田の言ってることは大体合ってる。昔は、聞きたいことが終わったら帰ってた」

 

「左右田クンには、答えを知ったらすぐ『ありがと、じゃあね』と言っていたんだって」

「うん」

「ボクにも、そう言う?」

「会話が終わったら言うよ。でも、明日また話さない理由にはならないでしょ」

 

 問い返され、狛枝は答えなかった。

 

「狛枝くんじゃなくても、話が面白ければ話すよ。そこはたぶん合ってる」

 

 葦原は淡々と言う。

 欲しかった否定を与えないまま、続けた。

 

「でも、同じ話し方する人が案外いない。今いる中だと、狛枝くんと話すのが一番面白い」

 

 一番。

 

 必要だとも、特別だとも言わない。ただ比較した結果だけを、葦原は机の上へ置いた。

 

 狛枝には、その方が信じやすかった。

 

「それは光栄だな。ボクみたいな人間が、超高校級の才能を持つキミの一番になれるなんて」

「また自分を下げて話をずらした」

「癖なんだ。許してくれる?」

「直す気ないなら、許可取る意味ある?」

 

 終里が離れた席から顔を上げた。

 

「お前ら、何の勝負してんだ?」

「会話だよ」と七海が答える。

「どっちが勝ってんだ?」

「たぶん、まだ対戦中」

 

 弐大が大きく笑った。

 

「勝敗がつかぬまま続く勝負もある! 互いが立っておるなら、それでよかろう!」

「腹減るだけじゃねえか?」

「お前は今食ったばかりじゃろうが!」

 

 終里が空の皿を見て、本当に不思議そうな顔をした。

 

 狛枝がもう一度葦原を見ると、彼女は図面へ戻っていた。

 けれど鉛筆を動かす前に、向かいの椅子を足で少しだけ引いた。

 

 狛枝が座ったままでも、図面を覗ける位置だった。

 

      *

 

 翌朝、九頭龍は自分の足でレストランへ来た。

 

 病院着の上から上着を羽織り、腹には厚い包帯が巻かれている。罪木がすぐ後ろへ付き、何度も戻るよう訴えていた。

 

「長く立っていてはいけませぇん! 傷が開いたら、また縫い直しになりますからぁ!」

「分かってる。話したら戻る」

 

 食事をしていた全員の手が止まった。

 

 西園寺だけは、椅子から立たなかった。

 

「……何しに来たの」

 

 九頭龍は西園寺を見たあと、全員へ視線を移した。

 

「謝って済むと思ってねえ。許せとも言わねえ」

 

 掠れた声で言う。

 

「小泉が死んだのも、ペコが死んだのも、元を辿ればオレのせいだ。オレは自分だけ助かって、何もなかったみてえに戻る気はねえ」

「戻らなかったら何なの?」

 

 西園寺の声が細く尖る。

 

「あんたがずっと病院にいれば、真昼おねぇが帰ってくるの?」

「帰ってこねえ」

「じゃあ、勝手に苦しんで許された気にならないでよ」

「ならねえよ」

 

 九頭龍は即答した。

 

「お前がオレを許さねえことと、オレが何を背負うかは別だ」

 

 そう言って、上着の内側へ手を入れた。

 

 日向が立ち上がるより早く、小さな刃が光った。

 

「九頭龍クン!」

 

 罪木の悲鳴と、椅子の倒れる音が重なる。

 九頭龍は包帯の上から、自分の腹へ刃を走らせた。

 

 弐大が腕を掴み、刃を取り上げる。罪木は九頭龍を床へ寝かせ、滲み始めた赤へ布を押し当てた。

 

「どうしてこんなことするんですかぁ! 塞がりかけていたのに、また開いてしまいますぅ!」

 

 誰もすぐには動けなかった。

 

 葦原は、椅子から半分立った姿勢で固まっていた。

 九頭龍の腹と、床へ落ちた刃を交互に見る。数秒して、ようやく口を開いた。

 

「……ああ。自分への罰か」

 

 左右田が振り返る。

 

「今そこから理解したのかよ!?」

「だって、傷を増やしても小泉さんも辺古山さんも戻らないし、罪木さんの作業が増えるだけだから」

「だからって今言うな!」

 

 九頭龍が、痛みに息を詰めながら葦原を見た。

 

「分かってる。何も戻らねえし、誰の判断も変わらねえ」

「じゃあ、何のため?」

「何もしねえまま、前と同じ顔でここへ座るのが、オレには無理だった。それだけだ」

 

 葦原は返事をしなかった。

 意味を測れずにいるような、遠い目で九頭龍を見る。

 

「人って、自分にしか効かない形でも必要なんだ」

 

 呟いた声へ、西園寺が立ち上がった。

 

「分かったみたいに言わないで」

 

 そのままレストランを出ていく。

 

 澪田が追おうとしたが、七海が先に立った。

 

「今日はわたしが行くよ。澪田さん、昨日ずっと一緒だったでしょ」

「……お願いするっす」

 

 七海が西園寺を追う。

 

 罪木は泣きながら包帯を押さえ続け、九頭龍は謝らなかった。謝れば、また許しを求めているように聞こえると分かっている顔だった。

 

「病院へ戻すぞ!」

 

 弐大が九頭龍を抱き上げる。

 

「終里! 道を開けい!」

「おう」

 

 終里は扉を大きく開けたあと、運ばれていく九頭龍の背中を見た。

 

「自分切っても、何も終わらねえのにな」

「終里さん」とソニアが窘める。

「だったら、元を殴った方が早いだろ」

 

 誰も、その言葉を拾わなかった。

 

 弐大だけが、扉の向こうから終里を振り返った。

 

      *

 

 昼を過ぎても、終里はレストランへ戻らなかった。

 

 弐大が見つけた時、終里はホテル裏の砂浜で、ヤシの木を相手に拳を打ち込んでいた。

 

「腰が流れておるぞ!」

 

 呼びかけると、終里は拳を止めずに答えた。

 

「うるせえ。今、直してる」

「拳を痛めては直したことにならんわい!」

 

 弐大は正面へ回り、幹と終里の間へ腕を差し入れた。

 終里はようやく止まり、皮の剥けた拳を振る。

 

「どけよ。まだ足りねえ」

「何に足りん」

「知らねえ」

 

 答えながら、終里は海を睨んだ。

 

「飯食って、走って、寝てる間に、また誰かいなくなる。九頭龍は自分で腹切るし、お前らは何もするなって言う。だったら、あのクマぶっ倒せば全部終わるだろ」

「モノクマは、お前が拳を届かせれば倒れる相手ではない」

「やってみなきゃ分かんねえ」

「既に一度やって、分からされたはずじゃ!」

 

 終里は弐大を見た。

 

「次は勝つ」

 

 迷いのない顔だった。

 

 弐大は大きく息を吸い、吐いた。

 

「鍛えることと、相手の用意した場所へ飛び込むことは違う。殴れるものだけが敵ではないぞ」

「難しい話すんな。腹減る」

「ならばまず食え! 空腹で挑むなど修行以前の問題じゃあ!」

 

 終里は一度だけ笑った。

 

「分かった。あとで行く」

 

 その返事に何が抜けていたのか、弐大はすぐには気づかなかった。

 

      *

 

 午後、ホテル前の広場にモノクマの声が響いた。

 

「おい、モノクマ! 出てこい!」

 

 終里が監視カメラへ向かって叫んでいる。

 

 日向たちが駆けつけた時には、既に広場の中央で拳を構えていた。

 

「終里、やめろ!」

「止めんな。今日こそコイツぶっ壊す」

 

 弐大が人垣を押し分け、終里の前へ出る。

 

「約束が違うぞ!」

「あとで飯食うって言っただけだ」

「そこではないわい!」

 

 軽い電子音とともに、モノクマが広場の中央へ現れた。

 

「お呼びでしょうか、終里赤音さん! 校長先生への面会は予約制なんだけどなあ」

「予約しに来たんじゃねえ!」

 

 終里が地面を蹴る。

 

 最初の拳を、モノクマは横へ転がって避けた。二発目が白黒の腹を掠める。

 

「校則違反! 学園長への暴力は禁止でーす!」

「知るか!」

 

 終里の蹴りがモノクマを後ろへ弾いた。

 ぬいぐるみの身体が地面を跳ね、すぐに起き上がる。

 

「それじゃあ、正当防衛させてもらいます!」

 

 モノクマの背後から、黒い砲身がせり上がった。

 

 弐大が動いた。

 

「伏せろ、終里ィ!」

 

 終里を突き飛ばし、その前へ立つ。

 

 爆音が広場を揺らした。

 

 熱と煙が一度に広がり、日向は腕で顔を庇った。耳鳴りの向こうで、何か大きなものが倒れる音がした。

 

 煙が薄れる。

 

 弐大が地面へ伏していた。

 胸元の服は焼け、身体から細い煙が上がっている。呼びかけにも動かない。

 

「弐大!」

 

 終里が這うように近づいた。

 罪木がその横へ膝をつき、震える手で首元へ触れる。

 

「脈が……弱いですぅ。呼吸も、このままでは……!」

「治せ!」

「ここでは無理ですぅ! 病院へ運んでも、設備が足りるかどうか……」

 

 終里は弐大の肩へ手を置いたまま、何も言えなくなった。

 

「まったく、世話が焼ける生徒だなあ」

 

 モノクマが煙の中から歩いてくる。

 

「ボクなら直せるかもしれないよ。特別に預かってあげましょう!」

「触んな!」

 

 終里が立ち上がりかけ、日向と左右田が左右から押さえた。

 

「今また殴ったら、同じことになる!」

「離せ! 弐大を持ってかせる気か!」

「ほかに助ける方法がねえんだよ!」

 

 罪木は唇を噛み、弐大とモノクマを見比べた。

 

「少なくとも、このままにはできません。今すぐ処置しないと、本当に……」

 

 言葉の続きは誰にも必要なかった。

 

 終里の力が僅かに抜ける。

 モノクマの後ろから現れた機械の腕が弐大を持ち上げた。

 

「安心してよ。新品みたいにして返してあげるから!」

 

 機械の腕が地面の下へ消えていく。

 

 葦原は、それまで弐大の倒れていた場所を見ていた。

 黒く焼けた地面からモノクマへ視線を移す。

 

「今、規則を破ったのは終里さんだよね」

「その通り! だからボクは正当防衛を――」

「弐大くんは破ってない」

 

 モノクマの声へ重ねた。

 

「終里さんを止めて、攻撃を受けただけ。規則を守ってる人が、破った人の罰を代わりに受けるのはありなんだ」

「罰じゃなくて事故だよ。勝手に割り込んだんだから、自己責任でしょ?」

「じゃあ、規則は結果を決めないんだね」

 

 葦原の声は、怒鳴っていない。

 それでも広場にいる全員が、二人のやり取りを聞いていた。

 

「モノクマが楽しい方を選んだあとで、正当防衛とか事故って名前をつけるだけ」

「失礼だなあ! ボクはいつだって、校則を公平に運用しています!」

「あなたが規則を破った時、あなたを罰する人はいないでしょ」

 

 モノクマの笑顔は変わらなかった。

 

「ほんとに、ルール守らないよね」

 

 葦原はそのまま何かを言いかけた。

 けれど、広場の監視カメラへ一度目を向け、口を閉じる。

 

 日向には、今の話だけで納得したようには見えなかった。

 モノクマが自分で決めた規則すら好きに曲げられるなら、規則から安全を逆算することもできない。葦原はその先まで考えたうえで、モノクマへ渡す言葉を減らしたように見えた。

 

「疑り深い生徒は嫌われるよ!」

 

 モノクマは機嫌を損ねた声で言い残し、消えた。

 

 広場には、弐大が倒れていた焦げ跡だけが残った。

 

 終里はその中央へ座り込んだ。

 誰が声をかけても動かなかった。

 

      *

 

 その日の夕食は、ほとんど減らなかった。

 

 終里の前には弐大の分まで皿が置かれたが、どちらにも手をつけない。

 ソニアが温かい飲み物を勧めると、終里はカップが机へ触れた小さな音に肩を跳ねさせた。

 

「終里さん?」

「なんでもねえ。急に置くな」

 

 いつもの終里なら、驚いたことを隠すより先に中身を飲み干している。

 

 澪田もおかしかった。

 

「澪田おねぇ、静かにして」と西園寺が言えば、「了解っす」と口を閉じる。

 冗談だと思った西園寺が「じゃあ椅子の上に立って」と続けると、本当に靴を脱ぎ始めた。

 

「待って。今のはやらなくていいよ」

 

 七海に止められ、澪田は素直に座り直す。

 

「どっちの命令を聞けばいいっすか?」

「命令じゃないよ。澪田さん、自分で決められないの?」

「決めていいって言われたら決めるっす!」

 

 西園寺の顔から笑いが消えた。

 

 狛枝は食事の途中から何度も咳をしていた。

 日向が水を渡すと、礼を言って受け取ったが、一口飲んだだけで机へ戻す。

 

「狛枝くん、顔赤いよ」

 

 葦原が向かいから言った。

 

「そうかな。みんなと食事ができて、少し興奮しているのかもしれないね」

「今まで何回も一緒に食べてるでしょ」

 

 葦原が立ち上がるより先に、罪木が狛枝の横へ来た。

 額へ手を当て、次に脈を取る。

 

「熱がありますぅ。かなり高いです」

 

 罪木は終里と澪田を順に見た。

 

「お二人も診せてください。さっきから、普段と様子が違いますぅ」

「弐大がいねえから調子出ねえだけだ」

 

 終里はそう言ったが、伸ばされた罪木の手から身体を引いた。

 

 その時、店内のモニターが一斉に点いた。

 

「緊急事態! 緊急事態!」

 

 画面いっぱいに、モノクマの顔が映る。

 

「ジャバウォック島で、世にも恐ろしい伝染病の発生が確認されました! 発熱だけじゃなく、性格まで絶望的に変えちゃう、その名も――」

 

 罪木が狛枝から手を離し、口元を覆った。

 

「絶望病だよ!」

 

 モノクマは病名を告げると、楽しそうに両手を広げた。

 

 葦原は机を回り、狛枝の椅子の横まで来た。

 

「狛枝くん」

 

 呼びかける。

 

 狛枝は目を閉じたまま、答えなかった。

 

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