モノクマの声が消えるより先に、罪木が動いた。
「日向さん、狛枝さんの身体を支えてあげてください! 終里さんと澪田さんは歩けますか……!」
泣きそうな声のまま、指示だけは迷わない。
日向が椅子から崩れかけた狛枝を抱え、葦原が机の上の皿とコップを退ける。罪木は呼吸と脈を確かめると、次に終里と澪田を離れた席へ座らせた。
「三人とも病院へ移します。ほかの皆さんは、近づかないでください」
「もう全員同じ部屋にいたんだぞ。今さら離れて意味あんのか?」
九頭龍が腹を押さえながら聞く。
「いつ、どのくらい近づけば感染するのか分かりません。これ以上増やさないために、できることはした方がいいですぅ」
「オレも病院に戻れって言われてたんだけどな」
「九頭龍さんはモーテルへ移ってください。傷は安定していますし、感染した方と同じ建物にいる方が危険です。包帯と消毒薬はお渡ししますから」
「自分でやる」
「駄目ですぅ! 交換する時は、必ずどなたかに傷を確認してもらってください!」
九頭龍が言い返す前に、罪木はもう終里の額へ手を伸ばしていた。
「触んな!」
終里が椅子ごと後ろへ下がる。
「針刺す気だろ。腹切って中見るんだろ」
「そ、そんなことしませんよぉ! 熱を測るだけです!」
「罪木ちゃんがしないって言うなら、しないっす!」
澪田は何の疑いもなく口を開け、体温計を待った。
普段なら一番扱いやすいはずの返事が、今は不気味だった。
左右田と田中が担架を運び込み、日向たちは狛枝を乗せた。終里は病院という言葉を聞くたび逃げようとし、弐大の名前を出すと一度だけ止まった。澪田は「後ろ向きに歩いて」と言われれば、その理由も聞かず本当に後ろを向く。
三人を病院へ運ぶだけで、夜が深くなった。
*
病院の待合室で、罪木は全員の役割を決めた。
病気の三人は二階の病室へ隔離する。看病は罪木が中心になり、日向が運搬や記録を手伝う。そこまで言ったところで、葦原が手を上げた。
「私も病院にいる」
「お前、医療なんか分かんねーだろ」と左右田が言う。
「澪田さんと終里さんもいるし、医療とは別に女手あった方がいいでしょ。着替えとか、罪木さん一人だと三人同時に見られない」
「で、狛枝の見張りもできるってか」
「見張りじゃないよ。病人」
言葉を直しただけで、否定にはなっていない。
「私一人でも大丈夫ですぅ。こういう時にお役に立つための才能ですから」
罪木が胸元で両手を握る。
「三人分の食事と水と薬と記録を一人で回す方が危ない」と日向は言った。「俺と葦原も手伝う。できないことは勝手に触らない。それならいいだろ?」
「感動的な助け合いだねえ!」
診察台の下からモノクマが飛び出した。
「でも、病院へお泊まりできる健康な生徒は、付き添いが必要な一人まででーす!」
「今作っただろ、その規則!」
左右田の声が待合室へ響く。
「感染拡大防止のための緊急措置です。病人と夜通し過ごしたいなんて、青春にも限度があるよ!」
「昼は何人いてもいいの?」と葦原が聞く。
「お手伝いは歓迎! ただし夜は一人。患者は数に入れません!」
「感染を止めたいなら、昼も駄目にする方が先でしょ」
「細かいことばっかり言う患者は嫌われるよ!」
「私、患者じゃない」
「もっと嫌だよ!」
モノクマはそれ以上説明せず、床の下へ消えた。
規則が合理的かどうかと、従わずに済むかどうかは別だった。
夜に残る一人は、罪木しかいない。
日向と葦原は既に三人へ近づいているため、健康な者たちと同じ場所では眠らない。二人はそれぞれ自分のコテージへ戻る。ほかの者は第三の島のモーテルへ集まり、病院との距離を保つことになった。
「待て。それじゃ病院で何かあっても、こっちに分かんねーだろ」
左右田が電気街から運んだ箱を開けた。
「カメラとモニター繋ぐ。距離がたりねーから、病院とライブハウスに一台ずつだな。モーテル組も朝晩確認できる。呼び出し音もつける」
「映像も欲しい」と葦原が言う。
「カメラ付きって言っただろ!」
しばはくしてら左右田は部品を抱え、田中を連れて病院へと戻ってきた。
「なぜ俺様が貴様の工作を補佐せねばならん」
「高いとこへ線通すのに人手がいんだよ!」
廊下の向こうで言い争いが始まる。
その音を背に、罪木と葦原と日向の3人は二階で病人たちと向き合っていた。
「まず、三人の症状を確かめます。病気の性質が違うなら、同じ看病はできませんから」
*
狛枝が次に目を開けた時、白い天井の継ぎ目が最初に見えた。
身体が重い。喉は乾き、息を吸うたび胸の奥へ熱が引っかかる。
ベッドの右には罪木がいた。左には葦原がいる。少し離れた机で、日向が三人分の体温と時刻を書き分けていた。
「気分はどうですかぁ?」
罪木に尋ねられ、狛枝は口を開いた。
「すごくいいよ。今までで一番元気かもしれないね」
自分の声を聞いた瞬間、それが事実ではないと分かった。
「やっぱり、嘘吐き病みたいですぅ」
罪木は落胆せず、用紙へ書き込んだ。
「終里さんは、何に対しても必要以上に怖がっています。澪田さんは、言われたことを疑えなくなっています。狛枝さんは、本当ではないことばかり口にしてしまうようです」
「じゃあ、逆に読めばいい?」
葦原が聞く。
「今までで一番元気、の反対なら、一番悪い?」
「そうとは限りませぇん」
罪木は首を振った。
「嘘は、本当のことを反対にした言葉だけではないようです。体が辛いのに、絶好調だって言っても、問題ないと言われても、どちらも嘘です。でも、何を本当だと思って、どの嘘を選んだのかまでは分からないんですぅ……」
葦原は狛枝を見た。
「狛枝くん、水いらない?」
「全然いらないよ」
返事をすると、葦原はコップへ水を注いだ。
「それは飲ませていいです」と罪木が言う。「唇も乾いていますから」
葦原が差し出したコップを、狛枝は受け取らなかった。
「自分で持てるよ」
指にはほとんど力が入らない。
葦原は一度コップを引き、罪木を見る。許可を確かめてから、狛枝の背へ枕を足した。日向が反対側から身体を起こす。
「飲みたくないなら、顔逸らして」
葦原はそう言って、コップを口元へ運んだ。
狛枝は逸らさず、水を飲んだ。
「言葉より、動いた方を見る」
「素晴らしく乱暴な診断だね。きっと全部間違えるよ」
「うん。今の言い方だと、合ってるのか分かんない」
葦原は机の紙へ、狛枝の発言と実際の状態を二列にして書き始めた。
正しい答えへ辿り着くための表に見えた。
けれど、狛枝の嘘には同じ入力へ同じ出力を返す規則がない。書くほど例外が増え、線はどこにも繋がらなかった。
隣の病室から、終里の声がした。
「やめろ! 薬なんか飲んだら死ぬ!」
「死なないっすよ! 唯吹も飲むから赤音ちゃんも飲むっす!」
「澪田さんは、私が飲んでいいと言ったから信じてるだけですぅ! 安全の根拠にはしないでくださぁい!」
罪木が慌てて出ていく。
日向も手伝うため席を立った。
病室へ残った葦原は、紙の二列を見たあと、狛枝へ聞いた。
「私も出た方がいい?」
狛枝は、帰って休んでほしいと思った。
同時に、ここにいてほしいとも思った。
どちらを真実と呼べばいいか決まるより先に、口が動く。
「ずっといてほしいな」
葦原の視線が止まった。
「今のは、どっち」
「本当だよ」
答えは、また嘘になった。
それでも葦原は席を離れなかった。
*
左右田が組んだ通信装置は、その日の夕方には一応動いた。
病院一階のモニターへ、ライブハウスに集まった六人が映る。ただし画面は上下が逆だった。
「全員、天井に立ってる」と葦原が言う。
「分かってる! カメラの向き間違えただけだ!」
逆さまの左右田が画面の外へ消え、映像が激しく揺れる。
「冥府より地上を見下ろすというのも悪くない」
「なんと荘厳なお姿なのでしょう!」
「ソニアさん、直りますからね! 今すぐ直しますから!」
映像が横倒しになり、もう一度揺れて、ようやく正しい向きへ戻った。
七海は椅子へ座ったままゲームをしている。九頭龍は腹に新しい包帯を巻き、ソニアの隣へいた。西園寺だけはカメラから離れた舞台袖に立っている。
「患者の状態は?」
九頭龍が聞いた。
「終里さんと澪田さんは、熱自体は少し下がりました。狛枝さんは上がっていますぅ」
罪木が答える。
「こっちは全員、今のところ症状なし。弐大も戻ってねえ」
左右田の報告へ、終里が病室から駆けてきた。
「弐大、死んだのか?」
「死んでねーよ! モノクマが直すって言っただろ!」
「あいつが本当のこと言う分けないよぉ……」
終里は泣き出し、罪木が部屋へと戻すように連れ添う。
画面の中の全員が黙った。
「帰ってくるよ」
七海がゲーム機を閉じた。
「信じられる根拠はまだないけど、帰らないと決める根拠もない。だから、今は待ってていいと思う」
「待ってる間に死なねぇよな?」
「その時に考える。今、先に怖がっても弐大くんの治療は早くならないから」
しんみりとした空気に、西園寺は口を開いた。
「ゲロブタが病気移してるんじゃないの」
舞台袖から声だけを投げる。
「日寄子さん!」
ソニアが振り返る。
「だって、あいつだけずっと病院にいるんでしょ。あいつが一番うつりやすいし、誰も分かんないじゃん」
「俺たちが見てる」と日向が答えた。「できるだけ負担をかけすぎないようにもしてる」
「じゃあ、あんたたちがいない夜は?」
日向はすぐに返せなかった。
「私を信用できないのは当然ですぅ。でも、今は私しかできませんから……」
罪木の声が小さくなる。
西園寺はそれ以上言わず、画面から消えた。
ソニアが追おうとすると、九頭龍が止める。
「今は一人にしてやれ。モーテルまではオレが後ろから見る」
「傷が開かないよう、走らないでくださいねぇ!」
「走らねえよ」
九頭龍も画面から離れる。
通信を切る直前、左右田が葦原を呼んだ。
「お前、今夜はちゃんとコテージ戻れよ」
「規則あるから戻るよ」
「戻るかじゃなくて、寝ろって言ってんだ」
「分かってる」
返事が早すぎた。
左右田は何か言い足そうとしたが、画面の向こうから田中に配線を踏むなと怒鳴る方が先になった。
通信が切れると、ライブハウス側の画面も黒くなった。
「では、夜間の連絡当番を決めましょう」
ソニアが紙を広げる。
「呼び出し音を聞き逃さないよう、二人ずつ交代で起きているのはいかがでしょうか」
「全員寝不足になったら意味ねーよ。呼び出し機、モーテルの廊下まで伸ばす。鳴ったら全室で聞こえるようにな」
左右田がケーブルを巻き直す横で、七海は椅子へ座ったまま既に眠っていた。
「七海さんは、最初の当番には向かなそうですね」
「寝てねーでテストしろ! 今鳴らすぞ!」
「大音声で眠りを破るか。魂まで引き戻す警報でなければ、この場には相応しくない」
「普通のベルだよ!」
九頭龍は壁へ背を預け、渡された包帯を見た。
「巻き直す。誰か傷だけ見てくれ」
「わたくしがお手伝いします」
「見るだけでいい。巻くのは自分でやる」
病院へ行かない者たちにも、病院へ行かない者たちの夜が始まった。
*
夜十時になると、モノクマが病院の廊下へ現れた。
「面会時間終了でーす! 泊まらない二人は、さっさと退院してください!」
日向は記録を罪木へ渡し、葦原は狛枝の病室に残ったまま動かなかった。
「葦原、行くぞ」
「寝なければ泊まったことにならない?」
「屁理屈は禁止! 日付が変わる前に病院の敷地から出ないと、校則違反にしちゃうよ!」
「また後から増やした」
「緊急時には規則も成長するのです!」
葦原はベッド脇の紙を畳んだ。
病院を出ると、日向と葦原は中央の島まで同じ道を歩いた。
分かれ道の先には、それぞれのコテージがある。ホテルにいた頃なら誰かの声が届いた距離も、夜の島では遠かった。
「眠れそうか?」
日向が聞く。
「寝るよ」
「そうじゃなくて」
「寝なかったら明日動けないから。分かってる」
葦原は立ち止まらず、自分のコテージへ向かった。
翌朝、日向が病院へ着いた時には、葦原が既に狛枝の病室にいた。
ベッド脇の紙へ時刻を書いている。
「何時に来たんだ?」
「朝の放送の前」
「寝たのか?」
「寝た」
「日向くん、終里さんの朝ご飯見てきて。私だと怖がって蓋開けなかったから」
先に用事を渡され、日向はそれ以上聞けなかった。
*
二日目の午後、狛枝の熱は四十度を越えた。
解熱剤を使っても下がらず、呼吸は浅くなる。罪木が冷却材を替え、日向が酸素の残量を確かめた。葦原は頼まれた物を運び、それが終わると病室の隅へ立った。
「ここは私たちで大丈夫ですから、少し休んでくださぁい」
罪木が言っても、葦原は出ていかなかった。
「私、見てるから。むしろ罪木さんが休んで」
「でもぉ……」
「呼吸の間隔変わったら呼ぶ。触らない。薬も動かさない」
具体的に並べられ、罪木は何度も振り返りながら宿直室へと向かった。
日向も水を取りに一階へ降りる。
狛枝が目を開けた時、病室には葦原しかいなかった。
窓から入る光が、ベッド脇の紙を白く照らしている。二列に分けた記録は、途中から発言ではなく体温と呼吸数だけになっていた。
「起きた?」
葦原が椅子を近づける。
「ずっと眠っていたよ。もう完全に治ったみたいだ」
「熱、上がってる」
「キミが来ると気分がよくなるんだ。もっと近くにいてほしいな」
葦原の手が、椅子の背で止まった。
「それも嘘?」
「ボクは一度も嘘なんて吐いていないよ」
狛枝は笑った。
帰ってほしい。
休んでほしい。
それでも、目を開けた時に彼女がいることへ安堵した。
どれも本当だった。どれか一つを口にしようとすれば、別の本当が邪魔をする。
「出ていってよ」
今度の言葉に、葦原はすぐ反応しなかった。
「キミがいると不愉快なんだ。質問ばかりでうるさいし、何度来られても迷惑だよ」
言う必要はなかった。
病気が選んだのではない。無数にある嘘の中から、その形を選んだのは狛枝だった。
「大嫌いなんだ」
葦原の指が、椅子の背から離れた。
「……それは、嘘」
「どうして、そう決められるの?」
「狛枝くん、嘘しか言えないから」
「それなら、全部反対に読めば安心だね」
葦原は黙った。
「罪木さんは、反対とは限らないって言ってた」
それでも狛枝は、その一言で彼女の顔から答えが消えるのを見た。
「そうだね」
葦原は椅子を元の位置へ戻した。
「嘘って分かってる。分かってるけど、今のは嫌だった」
病室を出てはいかない。
ただ、さっきより一つ分遠い位置へ座った。
狛枝は謝りたかった。
今の自分が謝れば、その言葉まで嘘になる。
だから口を閉じた。
葦原も次の質問をしなかった。
二人の間に、機械の一定の音だけが残った。
*
その夜、狛枝の呼吸が一度止まりかけた。
日向と葦原が狛枝の病室へと集まる。
罪木が薬を入れ、日向が酸素マスクを押さえる。葦原は邪魔にならない位置で、モニターの数字を見続けた。
長い数分のあと、波形が戻る。
日向が息を吐いた時、葦原はまだ画面を見ていた。
「死にかける引き金までは入ってる」
誰へ言うでもなく呟く。
「でも、戻る方がまだ来ない。幸運が働くの、他人が原因の時だけ? 自分の病気には効かないなら、現実の病気は――」
そこで言葉を切った。
ベッドの狛枝へ視線を戻す。
「いや、そんなのいいから」
握っていた記録用紙が、小さく折れた。
「早く元気になってよ……」
日向は聞こえなかったふりをした。
代わりに新しい紙を机へ置き、折れた方を受け取る。
「しばらく俺もここにいる」
「私が見てる」
「二人で見る。お前一人に決める話じゃない」
葦原は反論しかけ、やめた。
そのまま椅子へ座り直す。
狛枝は二度熱を上げ、一度だけ目を開けた。何かを言おうとして、結局何も言わなかった。
*
三日目の朝、通信画面に映った葦原を見て、左右田は顔をしかめた。
「お前、昨日よりひでえ顔してんぞ」
「カメラの画質悪いんじゃない?」
「罪木と日向は普通に映ってんだよ!」
葦原は目元を指で押し、すぐに手を下ろした。
「狛枝くん、呼吸止まりかけた」
画面の向こうが静かになる。
「今は?」と七海が聞いた。
「戻ってる。熱は高いまま」
「なら、お前は一回寝ろ」と九頭龍が言う。「病人より先に倒れてどうすんだ」
「倒れてない」
「倒れてからじゃ遅えっつってんだよ」
西園寺は画面から離れた場所で、鏡を見ながら帯を結び直していた。
何度巻いても左右の高さが揃わない。ソニアが手を貸そうと近づくと、すぐに身体を背ける。
「触らないで。自分でできるから」
「ですが、少し苦しそうに見えます」
「あんたに教わるより百倍まし」
西園寺は帯をほどき、今度は画面に背を向けて最初からやり直した。
「大きな鏡でしたら、ライブハウスの舞台裏にもございましたよ」とソニアが言う。
「……知ってる」
短く答え、帯を強く引く。
左右田が通信の時刻を確認した。
「次は夕方六時。何かあったら、それより前でも鳴らせよ。あと葦原、図面はこっちで預かってるから、レストランにねぇからな」
「今エンジンのこと考えてない」
左右田は一瞬、返事を失った。
「……それが余計に怖えんだよ」
通信が切れたあとも、黒くなった画面へその言葉だけが残った。
*
罪木が自分の記憶を取り戻したのは、その日の昼だった。
薬品棚の前で、何の前触れもなく欠けていた時間が繋がった。
希望ヶ峰学園へ入ったあと。
島へ来る前。
自分が誰に見つけてもらい、誰を愛し、何のためなら何人に嫌われても構わなかったのか。
思い出した瞬間、罪木の手から薬瓶が落ちた。
割れる前に受け止める。
自分でも驚くほど、指は震えていなかった。
待合室では日向が食事を運び、二階では葦原が狛枝の呼吸を数えている。終里は注射器を見せなければ指示を聞き、澪田は穏やかに頼めば何でもしてくれる。
全員が罪木を必要としていた。
昨日までなら、それだけで泣くほど嬉しかったはずだった。
今は違う。
必要としてほしかった相手を、罪木は思い出してしまった。
「罪木?」
処置室の入口から日向が呼ぶ。
罪木はすぐに肩を縮め、薬瓶を胸元へ抱いた。
「ご、ごめんなさぁい! 落としそうになっただけですぅ!」
「割れてないならいいけど、少し休んだ方がいいんじゃないか?」
「私は大丈夫です。皆さんの方が大変ですからぁ」
いつもと同じ声は、簡単に出せた。
日向は疑わず、一階へ戻っていく。
罪木は二階を見上げた。
葦原は、もう島の仕組みを調べていない。罪木が薬を選ぶ手元も、昨日からほとんど見なくなった。狛枝の体温、呼吸、目を開けた回数。渡せば必ずそちらへ向く情報だけを追っている。
騙す必要はないと、罪木は思った。
本当のことを一つ選んで渡せば、葦原は自分で動く。
決めた場所へ行き、答えが出るまで離れない。
*
狛枝の熱が初めて下がった。
大きく下がったわけではない。呼吸もまだ安定していない。それでも、朝まで何度も危険な数値を示していた時に比べれば、明らかに持ち直していた。
狛枝は眠ったままだった。
それを見たあと、部屋を移動した。
「澪田さん。少しお願いしたいことがあるんです」
「はいっす!」
病室から、明るい返事がした。
*
夜明け前、葦原のコテージを叩く音がした。
扉は一度目で開いた。
葦原は眠っていた形跡のない顔で、外に立つ罪木を見た。
「狛枝くん?」
「状態が良くなりました。もうすぐ目を覚ますかもしれませぇん」
それだけで、葦原は外へ出た。
「日向くんは?」
「これからお伝えします。葦原さんは先に行っていてください」
葦原は頷き、病院へ向かう。
一度も振り返らなかった。
罪木は反対側の道へ歩き、日向のコテージを訪ねた。
壊されている扉へ手をかける。室内では日向が眠っていた。
三日間ほとんど休んでいないことは、本当だった。
罪木は声をかけず、空いている側へ横になった。
病院の二階では、葦原が狛枝の呼吸を数えていた。
日向のコテージでは、日向と罪木が同じベッドで眠っていた。
その夜、誰もモーテル側の人数を数え直さなかった。