狛枝が目を覚ました時、窓の外はまだ白み始めたばかりだった。
枕元の時計は、朝のアナウンスまで二十分ほどあることを示している。熱もない。体も軽い。
ベッドの横では、葦原が椅子の背へ斜めに身体を預けて眠っていた。
椅子は、手を伸ばしても届かない位置にある。
病院で「大嫌いだ」と言ったあと、彼女が一つ遠ざけたのと同じ距離だった。
狛枝は身体を起こさず、その寝顔を見た。
病院では、彼女が自分の呼吸を数えていた。
一息吐くたび、次が来るか確かめるように。
今は違う。
眠っている葦原の呼吸は一定で、狛枝が何度息をしても目を開けない。
本当に、ただ眠っている。
こんなことで安心するなんて、どうかしている。
彼女が自分の近くなら眠れるという事実を、自分にも役に立てることがあるように感じてしまう。それは、身の程を知らない喜びだった。
やがて葦原の瞼が動いた。
目を開けて、最初にベッドを見る。
「おはよう。葦原サン」
「……おはよう。今、何時?」
「朝のアナウンスの少し前だよ」
葦原は首の後ろへ手を当て、椅子へ座ったまま身体を起こした。床の紙を見つけて拾う。
「私、寝たんだ」
「ボクが起きるまで見ている約束だったと思うけど」
「約束じゃない。予定」
「都合のいい分け方だね」
葦原は紙を折り直した。まだ眠そうな顔のまま、狛枝を見る。
「……なんかよく寝た気がする」
「椅子なのに?」
「昨日より頭が静か」
それが睡眠のせいなのか、ここで眠ったせいなのかは言わなかった。
狛枝も聞かなかった。
「狛枝くんって、幸運操れるよね」
代わりに出てきたのは、朝の挨拶から最も遠そうな話だった。
「操っているつもりはないよ。勝手に起きるだけだから」
「くじとか、引きたいヤツ引いてたし」
「その前後で、相応の不運が起きているかもしれないよ」
「でも、引きたいくじを引いたこと自体には悪運つかない」
葦原は、折った紙の角を指で合わせる。
「やっぱり、釣り合いとかじゃなくない?」
「小さすぎて、キミが数えていないだけじゃないかな」
「数えられないものを足して釣り合うって言うなら、何が起きても正しいことになるよ」
「朝から容赦がないな」
「よく寝たから」
島中へ、朝を告げるモノクマの声が流れた。
葦原は椅子を元の位置へ戻す。昨夜、自分でそこへ運んだ時より、ベッドから離れた場所へ置いた。
「続き、朝ご飯のあとね」
当然のように次を決めて、扉へ向かう。
狛枝はその後を追った。
彼女の中では、昨夜の続きをする朝が最初から存在しているらしい。
それを幸運と呼べば、また釣り合いの話へ戻される気がした。
*
日向が外へ出ると、狛枝のコテージから二人が続けて出てきた。
先を歩く葦原と、後に続いた狛枝だった。
「おはよう」
葦原は、日向へと普段通りに言った。
「お、おはよう」
日向の近く、左右田がそれを見て口を開けたまま止まる。
「なんでオメーら、同じ部屋から出てくんだよ」
「寝てたから」
「説明が短すぎんだろ!」
「葦原さんは椅子で寝ていただけだよ」
狛枝が後ろから補う。
「だったら先にそこまで言え! つーか椅子でもおかしいだろ!」
「狛枝くんが寝てるところ見てた」
「追加するほど変になってんぞ!」
ちょうど歩いてきた七海は、二人を見比べた。
「宿屋で一晩休むと、状態異常が回復することがあるよね」
「回復した」と葦原が答える。
「狛枝の部屋は宿屋なのか」と日向は言った。
「ボクの部屋にそんな価値があるなら光栄だね」
「お前も受け入れんな!」
左右田一人の声が、大きく響いた。
葦原も狛枝も、見られたこと自体は気にしていない。昨日の夜、何をしに行くのか聞いた左右田だけが、余計に疲れた顔をしている。
「葦原、寝たなら朝飯食え。あと、エンジンの図面は今日は触んな」
「なんで?」
「昨日あれだけ死人出た直後だぞ。今日くらい休め」
「死人が出たことと図面、関係ないよ」
「そういう返しすると思ったから言ってんだよ!」
左右田は言いながら、レストランへ向かう葦原の歩幅を確かめていた。
よく寝たという言葉は本当らしい。昨日より足取りは軽い。
レストランには、先に来ていたソニア、田中、九頭龍、終里がいた。
終里の前には朝食が並んでいる。それなのに、肉へ伸びる手が遅い。扉へ何度も目を向けている。
全員が座りきる前に、モノクマが現れた。
「沈みっぱなしのオマエラへ、学園長から心温まる特別企画のお知らせです!」
「朝からうるせえ。消えろ」
九頭龍が椅子へ座ったまま吐き捨てる。
「そんなこと言っていいのかな? 第一の島の海岸で、懐かしいお友達がオマエラを待ってるのに」
終里の椅子が倒れた。
「弐大か!」
「正解は現地で! 感動の再会を、朝食なんかで遅らせないようにね!」
モノクマが帰るより早く、終里はレストランを飛び出した。
今度は誰も止めなかった。
*
海岸で聞こえたのは、波音より大きな笑い声だった。
「ガッハッハッハ! 待たせたのう!」
ヤシの木の向こうから現れたものを見て、終里は走るのをやめた。
声も、笑い方も弐大猫丸だった。
身体だけが違った。
日に光る金属の胸部。肩から腕へ繋がる太い装甲。腹には見覚えのない表示盤があり、背中からは銀色の突起が覗いている。人間だった頃より一回り大きくなった身体が、砂を深く踏みしめていた。
「弐大……?」
「応! この通り、完全復活じゃあ!」
「どこがこの通りだ!」
終里が胸を殴る。
硬い音が海岸へ響き、痛がったのは終里の方だった。
「ってえ!」
「いきなり何をする! ワシの鋼鉄の肉体は、生半可な拳では揺るがんぞ!」
「鋼鉄になってんじゃねえか!」
終里は怒鳴りながら、もう一度拳を上げた。今度は打たず、弐大の胸へ触れる。指先が金属の上で止まった。
「……生きてんのか」
「無論じゃ。腹も減らんし、疲労も以前とは比べものにならん。マネージャーとして強化されたと思えば安いものよ!」
「安くねえよ」
「生きておれば、鍛え直す機会はいくらでもある!」
弐大は両腕を広げた。
終里はしばらく金属の胸を見ていたが、やがて額を一度だけそこへぶつけた。
「じゃあ、あとで勝負しろ」
「望むところじゃあ!」
弐大の声が戻る。
その声を聞いてから、周りにいた者たちも一人ずつ近づいた。
ソニアが目元を拭い、九頭龍は「趣味悪ぃ直し方しやがって」とモノクマのいない場所へ悪態をつく。弐大は気にした様子を見せずに、これが自分の身体だと何度も頷いた。
左右田と葦原だけは、再会の輪を半周するように動いていた。
「肩の回転、音ほとんどしねえな。油圧か? いや、この太さなら電動でもいけるか」
「胸の表示、時計だけじゃない。電圧と残量も切り替わってる」
「おい、お前ら」
終里が二人を睨む。
「分解すんなよ」
「しない。外から見てるだけ」
「その目は開ける場所探してる目だろ」
「失敬な! オレはメカニックとして純粋にだな――」
「左右田、背中に点検用の留め具ある」
「マジか、どこだ!?」
「ほら見ろ!」
終里が二人と弐大の間へ立つ。
弐大は腹の底から笑った。
「構わんぞ! ただし訓練に支障の出る改造は禁止じゃ!」
「本人が許すな!」
遅れて砂浜へ現れたモノクマが、得意そうに腹を反らした。
「ちなみに時計は電波式、目覚まし機能に安眠機能、さらに飲み物まで出せる豪華仕様! 匠の技が光る、世界に一体だけのメカ弐大くんなのです!」
「名前まで勝手に変えんな! ワシは弐大猫丸じゃ!」
「整備は?」と左右田が聞く。
「そんなものあるわけないでしょ。修理後の不具合は自己責任でお願いしまーす!」
「医療でも修理でもないよね、これ」
葦原の声から、昨日までの重さが少し抜けていた。
モノクマが何か言い返す前に、砂浜の端からモノミが駆けてくる。
「み、みなさーん! 第四の島へ続く橋が開きまちた! あちしがモノケモノを倒したんでちゅよ!」
「今いいところなんだから、脇役は黙っててよ」
「あちしも先生でちゅ! せめて話を最後まで聞いてくだちゃい!」
「第四の島?」
葦原が先に反応した。
「何がある?」
「え? ええと、遊園地みたいになってまちゅけど……」
「遊園地」
左右田が葦原を見る。
葦原も左右田を見た。
「大型の回転機構が何個もある」
「予備モーターと減速機、整備庫もあるはずだ」
「左右田行こ!」
「朝飯食ってからだ! あとオレに命令すんな!」
怒鳴りながらも、左右田の足は既に橋の方角へ向いていた。
*
第四の島は、入口から現実味がなかった。
青空を区切る観覧車。派手な色のレール。鼠を思わせる像の並んだ城。誰も乗っていない回転木馬だけが音楽に合わせて動き、笑い声のない園内へ明るい曲を流している。
「まあ……! 王国にも、このような巨大遊戯施設はございません!」
ソニアは城と観覧車を交互に見た。
「あちらの館には幽霊が出るそうです!」
「フッ。死者の残滓ごとき、この制圧せし氷の覇王を阻めるものか」
田中の肩で、破壊神暗黒四天王が一斉に顔を出す。
「ただし、我が眷属の精神衛生を考慮し、突入は明るいうちとする」
「怖いんじゃないか?」と日向が聞く。
「貴様には、戦略的撤退と恐怖の差も分からんか!」
少し離れた道では、終里がメカ弐大と競走を始めていた。弐大の一歩ごとに地面が鳴り、終里は曲がり角で像へぶつかりかける。
「園内での全力疾走は危ないと思うよ」
七海が言う。
「アトラクションより先に、本人たちが乗り物みたいになってるね」
「止めた方がいいか?」
「弐大くんのブレーキ性能も確認できるかもしれない」
「確認する前に誰か轢かれるぞ」
九頭龍は城の入口を一度見ただけで、日陰のベンチへ向かい、「ゲームコーナーあるかな」と七海は歩いていった。
全員がそれぞれの施設へ目を向ける中、葦原は案内板ではなく、道の端にある細い扉を見ていた。
関係者以外立入禁止。
その横に、ジェットコースターの整備棟を示す小さな表示がある。
「左右田」
「分かってる。言われる前に分かってる!」
左右田はソニアの背中を名残惜しそうに見てから、葦原と一緒に扉へ向かった。
整備棟の鍵は開いていた。
壁一面に工具が並び、棚には交換用の軸受、チェーン、歯車、制御器、太さの違う配線が箱ごと収められている。奥には取り外された駆動輪と、小型の油圧ポンプまであった。
左右田は、一番近くの箱へ両手を置いた。
「あるな」
「うん」
「規格が揃ってる」
「うん」
「これなら、軸だけ回して終わりじゃねえ。負荷かけた状態で試せるぞ」
葦原は返事をせず、既に箱の表示を読み始めていた。
左右田も次の棚へ移る。
第三の島から運んだ部品は、出所も用途もばらばらだった。回転を作れても伝えられず、熱を逃がせても同じ規格で繋がらない。ここにある交換部品は、一つの巨大な設備を動かすために最初から規格が合わせられている。
「このカップリング、電気街のモーターに合う」
「ベアリングも持ってく。予備含めて四つ」
「インバーターは?」
「園内の電源用だ。持ってくなら予備だけにしろ。現役の外したら、またあいつが規則とか言い出す」
「呼んだ?」
棚の上からモノクマが逆さに顔を出した。
左右田が工具箱を落としかける。
「呼んでねえ!」
「アトラクションの破壊は校則違反だからね。ジェットコースターを分解して脱出用の乗り物にするなんて、夢のない行為は許しません!」
葦原は棚の札を指した。
「これは交換用」
「だから?」
「今使われてる設備じゃない。こっちは予備って書いてある。持っていってもアトラクションは壊れない」
「うぐっ」
「前に、分解と破壊は違うって言ったよね」
「生徒が学園長の言葉尻を取るなんて、教育現場の崩壊だよ!」
「持っていっていいんだね」
「現役の設備へ手を出したら即没収! 予備品だって、園内の運営に必要だとボクが判断したら返してもらうからね!」
モノクマはそれだけ言い残し、棚の向こうへ消えた。
「今の、許可でいいよな?」
「禁止する理由、最後まで作れなかったから」
「よし。気が変わる前に運ぶぞ」
二人だけでは、箱を全部持ち帰れない。
左右田が外へ出ると、ちょうど競走を終えた弐大が胸を張っていた。
「荷運びならワシに任せろ! これも鍛錬じゃあ!」
「お前、今は機械なんだから重量制限確認してから――」
「この程度、準備運動にもならんわ!」
弐大は大型の軸受が入った箱を二つ重ねて持ち上げた。
終里も隣の箱を抱える。
「オレの方が多く運ぶ」
「張り合う場所そこなのかよ!」
戻ってきたソニアは、左右田が抱えている歯車を見て目を輝かせた。
「こちらが、無敵戦艦ジャバウォック号の心臓になるのですね!」
「覚えててくれたんですか、ソニアさん!」
「獄炎機関・冥府渡りである」
「田中は別の名前つけんな!」
葦原は二人の横を通り過ぎ、日向へ細い箱を差し出した。
「これ持てる?」
「俺は名前の相談に入れてもらえないんだな」
「日向も考えてたの?」
「いや、考えてないけど」
「じゃあ持って」
七海が小さく笑った。
その日の探索は、遊園地を調べる組と部品を運ぶ組が何度も入れ替わりながら続いた。
*
レストランの隅で、初めて軸がぶれずに回った。
島の電源から仮に取った電気でモーターを動かす。新しい軸受に支えられた回転軸が、取り付けた重い円盤を一定の速さで回し続けた。
「切れ!」
左右田の声で葦原がスイッチを落とす。
回転はすぐには止まらない。速度を落としながら、最後まで横へ逃げずに回った。
「いける」
葦原が円盤の停止を待って、軸へ手を近づける。
「まだ熱いぞ」
「手は出してない」
「触る前に止めたんだよ!」
左右田は温度計を当てた。予想より上がっていない。
完成には遠い。
今は島の電力で回しているだけで、これ自体が飛行機や船を動かすわけではない。燃料も、載せる機体も、出力を制御する方法も決まっていない。
それでも、図面の上にしかなかった線が、初めて同じ方向へ力を伝えた。
「次、負荷一段上げる」
「先に固定台補強しろ。今日二回目だぞ」
「二回とも壊れてない」
「壊れる前に直すのが整備だ!」
昼から始めた試験は夕食の時間を越えた。
日向が皿を二人の横へ置いても、葦原は数値を書き、左右田は金具を削り続ける。夜のアナウンスが鳴ってからも二人は続ける。
夜時間半ばで、九頭龍は電源コードを抜いた。
「今日は終わりだ」
「何しやがる!」
「寝不足で爆発させられたら、こっちまで巻き込まれんだよ」
反論した二人は、その夜は一度コテージへ戻った。
そして翌朝、朝食の時間より早くレストランへ来た。
昼になっても、作業台の横に置かれた食事は減らなかった。
「このままだと、エンジンより先に二人が止まると思うよ」
七海が言う。
「オレは食ってる!」
左右田は答えながら、片手に持っていたパンを工具の箱へ置いた。
「それ、朝食のだよな」と日向が言う。
「食ってるだけマシだろ!」
「葦原さんは、さっきから一口も食べていないね」
狛枝は朝食を終えても席を立たず、作業台の向かいから二人の作業を眺めていた。
「あとで食べる」
「昨日も聞いたな、それ」と九頭龍が言う。
葦原は図面から顔を上げない。右手で鉛筆を動かし、左手で軸受の外径を測っている。
狛枝は半分、冗談のつもりだった。
「手が空かないなら、口まで運べば食べられる?」
返事を待たず、皿にあった小さな肉をフォークで取る。図面の邪魔にならない位置から、葦原の口元へ差し出した。
葦原は寸法を書きながら、何の疑問も持たずに口を開けた。
肉がなくなる。
レストランから、工具の擦れる音以外が消えた。
狛枝の方が先に手を止める。
「……本当に食べるんだ」
「食べられるって聞いたから」
葦原はようやく顔を上げた。
「お水もちょうだい」
「そこまで頼むの?」
「手、汚れてる」
狛枝は笑いながら、ストローの入ったコップを持ち上げた。葦原は二口飲むと、また図面へ視線を戻す。
「次、野菜でいい?」
「うん」
「待て待て待て!」
左右田が削りかけの金具を置いた。
「なんで自然に続けてんだよ! 葦原も自分で食え!」
「左右田もしてもらえば?」
「誰に!?」
「狛枝くん」
「死んでも嫌だ!」
「これ結構いいよ」
「感想まで言うな!」
ソニアが自分の席から身を乗り出した。
「左右田さんも介助が必要でしたら、わたくしが――」
「本当ですかソニアさん!」
「食事を終えるまで工具をお預かりいたします」
「そっち!?」
九頭龍はうるさそうに耳を塞ぎ、終里は狛枝が持っている皿から残りの肉を取ろうとしてメカ弐大に止められた。
「それは葦原の分じゃ!」
「食わねえならもったいねえだろ!」
「今食べてる」と葦原が言う。
「お前、誰が食わせたか分かってるのか?」
日向が思わず聞いた。
「狛枝くん」
答えは早かった。
「分かってて、そのまま食べたんだな」
「日向、さっきから同じこと聞いてない?」
「同じだと思ってるの、たぶん葦原だけだぞ」
「そうかな」
葦原は狛枝の持つフォークを見た。
「次は?」
狛枝は野菜を一つ取った。
最初は冗談だった。
けれど葦原は、誰の手か分からないまま受け入れたわけではないらしい。
周りだけが妙な空気になる中で、本人は数値を書き終えるまで食事を任せた。
狛枝には、その信頼をどこへ分類すればいいのか分からなかった。
*
二日目の夜、図面はようやく一つの形へまとまった。
左右田が固定台へ取り付ける金具を削り直している間、葦原は不足している部品へ丸をつける。
「同じ径のプーリー、もう一個あったよね」
「ジェットコースターの整備棟だ。入って右の棚、下から二段目」
「取ってくる」
「明日でいいだろ。もう暗いぞ」
「左右田のそれ終わるまでに戻れる」
「オレの作業を待ち時間扱いすんな! つーか一人で行くなよ」
レストランには、日向、七海、狛枝も残っていた。
狛枝が立ち上がった。
「じゃあ、ボクも行こうか」
「お前、病み上がりだろ。 大丈夫なのか?」
日向が聞く。
「もう熱はないしそれに、葦原さん一人よりはましでしょ」
「狛枝くん、来る?」
葦原が本人へ聞いた。
「うん。そのつもりで言ったんだけど」
「じゃあ行こ」
日向が立ち上がりかけると、七海が図面の横へ置かれた金具を指した。
「日向くんは、左右田くんが工具を投げないように見てた方がいいと思う」
「オレをなんだと思ってんだよ!」
「さっき三回投げたよ」
「置いたんだよ、勢いよく!」
左右田は紙へ部品番号を書き、葦原へ渡した。
「似たヤツあっから間違えんな。こっちの耐熱仕様だぞ」
「分かってる」
「分かってても確認しろ。あと、現役の設備から外すな」
「分かってるって」
「お前は夢中になると分かっててもやるんだよ!」
二人が出たあと、左右田はしばらく扉を見ていた。
「なんだよ」と日向が聞く。
「別に。部品間違えねえか心配なだけだ」
「番号まで書いたんだから大丈夫じゃないかな」
七海が椅子へ座り直す。
「二人で行かせたことを気にしてるなら、そっちは別の心配だと思うよ」
「してねえ!」
左右田は作業を続ける。
三十秒もせず、工具を勢いよく置いた。
*
夜の遊園地は、昼より明るく見えた。
観覧車の縁を電球が追い、城の塔は青と紫に照らされている。人のいない道へ回転木馬の曲だけが流れ、同じ場所へ戻るたび、わずかに音程の外れた部分が聞こえた。
葦原は先へ急がなかった。狛枝が歩幅を落とせば同じだけ遅くなり、並んだ位置を変えずに歩く。
「ボクじゃなくて、日向クンの方が良かったかな?」
「狛枝くんが来るって言ったから」
「頼りになる人を選ぶ場面ではなかったんだね」
「部品一個取るだけだよ。戦うわけじゃない」
「それなら、なおさらボクで足りるか」
狛枝が笑う。
葦原は横目でその顔を見た。
「それ、自分を下げる必要ある?」
「癖みたいなものだよ」
「悪い結果が来るって決めるのと同じ?」
「朝の話、まだ続いていたんだ」
「朝ご飯のあとって言ったから」
「ずいぶん長い朝食だったね」
「途中でエンジンやってた」
「知ってるよ。食べさせたからね」
葦原は一度だけ黙った。
けれど歩く速さは変わらなかった。
整備棟で目的の棚を開けると、同じ大きさの部品が三つ並んでいた。葦原は左右田の紙と刻印を照らし合わせ、一番奥の箱を選ぶ。
「合ってる?」
「狛枝くん、番号読んで」
狛枝が紙を持ち、葦原が刻印を指で追う。
数字は最後まで一致した。
「確認終わり」
部品は葦原が持ち、狛枝は空になった紙箱を畳んだ。帰り道へ出ると、閉じた射的屋台の上で、モノクマの形をした景品が風に揺れていた。
「遊園地、来たことある?」
葦原が聞く。
「あるはずだけど、誰かと来た記憶はあまりないな。葦原さんは?」
「中学の行事で一回。乗り物より、観覧車の支え方見てた」
「左右田クンと?」
「同じ学校だったけど、班は別。左右田はジェットコースターで酔ってた」
「今の彼が聞いたら、必死に否定しそうだね」
「確か写真あるよ」
「それは強いな」
昼間は派手すぎた城も、夜になると輪郭だけが空へ浮いている。
観覧車の下で、葦原が足を止めた。
何か故障でも見つけたのかと思ったが、そうではないらしい。駆動部やゴンドラの接続を追うでもなく、ただ流れる光を見上げている。
「デートっぽいね」
冗談を言う時と同じ調子だった。
狛枝は一歩進んでから止まった。
葦原の言うデートという言葉に、恋愛的な意味が含まれているとは限らない。二人で出かけただけでも、彼女は同じ言葉を使うかもしれない。
それなら、笑って流せばよかった。
問い返せば、葦原が言葉の定義から考え始めることは分かっていた。
分かっていて、狛枝は振り返った。
「……これはデートなの?」
笑って聞くと、葦原は観覧車から狛枝へ視線を戻した。
「どうだろう」
すぐには答えない。
「デートって、雰囲気を含む言葉だよね。女同士でもデートって言う子いるし」
「そうだね。二人で出かけた事実だけを指す場合もある」
「そこも含めるなら、お互いに二人きりを選んで遊んでたら、それはデートとか」
葦原が作った条件へ、狛枝は自分たちを当てはめる。
部品を取りに来ただけで、遊びではない。葦原がほかの誰かを呼ばなかったのも、初めから人手を必要としていなかっただけかもしれない。
条件から外すための材料なら、いくらでもあった。
狛枝は一つも挙げなかった。
「ボクは自分でついてきた。キミも、ほかの誰かを呼ばなかった」
「……それなら、これはデートだよね」
葦原の声が、そこで少し遅くなった。
「狛枝くんといたかったからだし……」
デートかどうかを決めるだけなら、必要のない一言だった。
狛枝は返事をしなかった。
新しく聞き出せることがなくても、葦原は旧館に残った。拘束が解かれてからも話しかけてきた。病室にもいた。眠れない夜には、自分が眠るところを見ていたいと言った。
それでも自分は、理由を欲しがっていたらしい。
情報があるからでも、監視が必要だからでも、眠るためでもない。
何度も形を変えて確かめようとしていた答えを、葦原はあっさり口にした。
葦原は部品を持ち直してから、狛枝の顔を見た。
「いや、……狛枝くんは別に、二人きりじゃない方がよかった?」
今度は、狛枝が答える番だった。
ボクも葦原サンと二人でいたかったよ。
それだけ言えばいい。そう答えれば、葦原は安心して、この話をそこで終えるだろう。
なぜか、それを惜しいと思った。
「あはは。ボクもあんまり詳しくないから」
結局、答えになっていない返事をした。
葦原は疑うように目を細めた。
狛枝が都合の悪いところから逃げた時と同じ顔だった。
やっぱり見つかった。
問い直されると思ったが、葦原はその前に動きを止めた。
逃げたことが、新しい材料に加わったらしい。
観覧車の輪郭をなぞる光が一周して、葦原の頬を照らす。
「デート」
一つ目の材料を置く。
「二人きりでいたかった」
二つ目を、その隣へ置く。
葦原の視線が、狛枝から僅かに外れた。自分の中に出来上がりつつあるものを、少し離れたところから確認しているようだった。
そのうち、葦原の顔から血の気が引いた。
間違いを見つけた時とは違う。予想していなかった答えだけが、ほかの材料と矛盾せずに残ってしまった時の顔だった。
次の瞬間には、逆に頬が赤くなる。
「……これ、恋とか好きとか、そっちの話……?」
問いかけの形をしていたが、狛枝へ答えを求めてはいなかった。
葦原が自分でつけた名前に、自分で驚いている。
狛枝はすぐに笑えなかった。
嬉しい、と思った。
認めたくない理由よりも、その感情の方が先だった。
超高校級の才能を持つ彼女が、自分なんかへ向けるには、あまりに無駄な感情だ。これを幸運と呼ぶなら、次にどんな不運が来るのかも分からない。
そもそも、葦原がここまで考えるきっかけを作ったのは狛枝だった。
自分から問い返し、都合のいい条件だけを拾い、答える番になれば逃げた。その逃げ方まで見せて、彼女に続きを考えさせた。
それでも、「勘違いじゃないかな」と笑う気にはなれなかった。
否定すれば、葦原は今つけた名前を外すだろう。肯定すれば、その言葉まで材料にしてしまう。
どちらもしたくなかった。
自分は何も答えないまま、葦原が自分で出した答えだけを欲しがっている。
それがどれほど身勝手か分かっていても、手放す気にはなれなかった。
誰も乗っていない観覧車だけが、同じ速さで夜を回り続けていた。