観覧車の光が葦原の頬を照らした時、狛枝の手が動いた。
右手を持ち上げかけた。
触れる直前で止まる。
葦原の頬へ届く前に止めた。
今の彼女へ触れる理由を一つも説明できないことに気づいた。
「どうしたの」
葦原が、宙に残った手を見る。
「……いや。今触ったら、葦原さんはもっと困るかなと思って」
「だから、やめたの?」
「そうだね」
下ろそうとした手を、葦原の目が追った。
「……触ってほしい」
声が小さい。
聞き返さなければならないほどではなかったが、狛枝はすぐには動かなかった。
葦原は狛枝を見て、それから目を逸らす。
「触って」
「キミが困ることに変わりはないんじゃない?」
「理由は分かんないけど、やめられる方が……」
最後まで言わず、部品の箱へ視線を落とした。
狛枝は止めた手をもう一度伸ばした。
右の頬へ掌を添える。
葦原の肩が僅かに上がった。それでも離れず、顔を上げて狛枝を見る。観覧車の光が通り過ぎるたび、瞳の中の色だけが変わった。
「これでいい?」
「分かんない」
「やめようか?」
「それはやだ」
答えだけは早かった。
しばらくすると、葦原は触れている手の方へほんの少し顔を寄せた。
狛枝の掌へ、頬の熱がはっきり伝わる。
彼女が自分で見つけたばかりの言葉を、狛枝はまだ口にしなかった。自分が同じ場所にいると認めてしまえば、この距離を望んだ責任まで生まれる気がした。
そんなものは、触れる前に考えるべきだった。
葦原の視線が、狛枝の顔から少しずつずれていく。
離れはしない。耳まで赤くしながら、目だけを観覧車へ向けた。
「好きって定義は、相手を好ましいと思うかどうかであって……」
「うん」
「一緒にいて逃げたくなるけど、逃げたくないみたいな、この矛盾するのは、……何なんでしょうか」
「急に丁寧だね」
「今そこ指摘しなくていい」
「ボクも詳しくないって、さっき言ったと思うけど」
「あれ、答えたくない時の言い方でしょ」
「もう見分けられているんだ」
葦原は唇を開きかけ、また閉じた。
「こっち見ないで」
「難しい注文だな。手だけ残して、別の方を向けばいい?」
「それは変」
「じゃあ、逃げたい方はボクから離れたいわけじゃなくて、困っているところを見られたくないだけかもしれないね」
葦原が狛枝を見る。
目が合うと、すぐに逸らした。
「……それは、あるかも」
「解決した?」
「してない。見ないでほしいのに、今目逸らされたら嫌だと思う」
「矛盾が一つ増えたね」
「狛枝くん、楽しんでる?」
「少しだけ」
葦原は不満そうに眉を寄せた。
それでも、狛枝の手から離れなかった。
*
どれくらいそうしていたのか。観覧車の同じ色の光が二人の間を通った頃、葦原がようやく時計を見る。
「狛枝くん、眠くない?」
「全然」
「もう病気治ったんだから、普通に答えて」
「少しだけかな」
狛枝が笑うと、葦原はその目元をしばらく見た。
「ごめん。時間抜けてた」
「設計をしている時と同じだね」
「今日はもう帰ろ」
「そうしようか」
狛枝が手を離そうとする。
葦原は、その手の甲へ自分の手を重ねた。
離すためではなく、そこに残すように押さえる。
何度か何かを言いかけている。
「葦原さん、何か言いたそうだけど」
「……そのうちでいいんだけど」
「今聞くよ」
葦原は暗い海へ視線を落とした。
「また、狛枝くんが寝てるところ見させてくれる?」
あの時と同じ頼み方だった。
だが、同じ意味ではないことを、二人とも知っている。
「一人だと眠れないから?」
「それもある」
「ほかには?」
「今は、普通に見たい」
「ボクの寝顔を?」
「うん」
「あまり趣味がいいとは言えないね」
「今さらでしょ」
葦原は困ったように笑った。
それから、重ねていた手を思い出すように自分の指を見る。
狛枝は、ずっと口にしないでいたものを出した。
「ボクの好感度を上げると危ない、って話は?」
葦原の笑みが消えた。
「覚えてるよ」
「もう一度、ボクを理由に利用されるかもしれない。今度は、投票されかけるだけでは済まないかもしれないよ」
「分かってるんだけど」
葦原は困ったように狛枝を見た。
「分かってても、いたいんだよね」
重ねた狛枝の手に、指を擦り寄せる。
「罪木さんに使われたのは嫌。でも、狛枝くんが起きるかもしれないって聞いて病院に来たことも、部屋から出なかったのも、やり直しても変えないと思う」
「それでまた巻き込まれたら?」
「うん。……狛枝くんが殺されそうになった時に発動する幸運へ巻き込まれるのが、今のところ一番ありそうだから」
少しだけ、からかう声へ戻る。
「だから、殺されそうにならないでね」
「ボクの才能は、努力で制御できるものじゃないんだけどな」
「努力はして」
「難しい注文だね」
狛枝は手を引かなかった。
葦原の口元が少しだけ緩む。
狛枝は、今度こそ頬から手を離した。
重なっていた指も離れたが、さっきまでとは違い、拒まれたようには見えなかった。
「まずは部品を届けよう。左右田クンが、ボクたちより先に壊れるかもしれないから」
「それも困る」
二人はレストランへ戻った。
*
左右田は、作業台へ伏せたまま眠っていた。
扉の音で飛び起き、額に貼りついた図面を剥がす。
「おせえぞ! プーリー一個に何時間かかってんだ!」
「一時間も経ってない」
「体感の話だよ!」
葦原が部品を渡す。
左右田は刻印を確かめ、軸へ仮に当てた。
「合ってんな。よし、明日これで――」
そこまで言って、葦原と狛枝を見比べる。
「なんで二人とも、妙に静かなんだよ」
「夜だから」と葦原が答える。
「行く時は夜でも普通に喋ってただろ」
「部品以外の話してた」
「何を?」
「左右田には、まだ関係ない」
「まだって何だよ!」
葦原は答えず、レストランの出口へ向かった。
狛枝も続く。
「おい葦原。オメーのコテージ、そっちじゃねえぞ」
「知ってる」
二人は同じ方向へ歩いていった。
左右田は開いた扉を見たまま動かなかった。
やがて、手にしていたプーリーを音がしないよう慎重に作業台へ置く。
「……日向、起きてろよ」
誰もいないレストランで呟いた。
*
狛枝のコテージへ入ると、葦原はあの夜と同じ椅子をベッドの横へ運んだ。
今度は、手を伸ばせば届く場所へ置く。
「昨日より近くない?」
「近い方が見やすい」
「何を見るの?」
「狛枝くん」
答えたあとで、葦原は椅子の位置を少しだけ直した。
遠ざけるのかと思えば、ベッドへ正面を向けただけだった。
葦原は椅子へ座り、両肘をマットレスの端へ置いた。
「眠くなったら、自分のコテージへ戻る?」
「たぶん、ここで寝る」
「最初から泊まるつもりなんだ」
「椅子で寝るから」
「そこを分ける意味はあるのかな」
「ある気がする」
「まだ分類できていないんだね」
「今増やさないで」
葦原はベッドの端へ頬杖をついた。
「寝て」
「見られていると、緊張して眠れないかもしれない」
「昨日は寝た」
「昨日のボクは、キミがボクを好きかもしれないと知らなかったからね」
葦原の顔に、また色が戻る。
「狛枝くん、今それ言う必要あった?」
「反応を見るためには必要だったよ」
「やっぱり楽しんでる」
「キミがボクを観察してきた分には、まだ足りないと思うけど」
葦原は反論しかけ、やめた。
「じゃあ、今日は狛枝くんの番でいい」
「眠ると見られないよ」
「起きるまで待ってる」
狛枝は目を閉じた。
あの時より椅子が近い。寝返りを打てば、マットレスに置かれた葦原の腕へ触れそうだった。
危ないから離れた方がいいと、もう一度言うこともできた。
言わなかった。
葦原の呼吸と、窓の外の波音を聞いているうちに、意識が途切れた。
*
次に狛枝が気づいたのは、右手の指をなぞる感触だった。
朝のアナウンスはまだ鳴っていない。
目を開けると、葦原がベッドの端へ顔を伏せたまま、狛枝の手を見ていた。昨夜、毛布の外へ出していた手に、自分の指を一本ずつ重ねている。
狛枝が動くと、葦原の指が止まった。
「おはよう」
「……起きてたの?」
「今起きたところだよ」
「いつから?」
「キミが人差し指を調べていた辺りから」
「最初からじゃん」
葦原は手を引こうとした。
狛枝が指を曲げると、逃げかけた手が掌の中へ残る。
「やめるの?」
「勝手に触ったから」
「やめられる方が嫌だって言っていたよね」
「今は狛枝くんが寝てたから」
「触りたかった?」
葦原は繋がった手を見る。
「……うん」
「じゃあ、怒る理由はないよ」
狛枝が力を抜いても、葦原は手を離さなかった。
指の間を確かめるように少し動かし、結局そのまま繋ぎ直す。
「触りたいのって、好きだから?」
「またボクに聞くの?」
「今の、声出てた?」
「はっきり聞こえたよ」
葦原は枕ではなく、ベッドの端へ額をつけた。
「触りたいから好きなのか、好きだから触りたいのか、別々なのか考えてた」
「順番が違えば、答えも変わる?」
「原因が違う」
「キミらしいな」
「近い方がいいのは、そうなんだろうけど」
葦原はそこまで言って、顔を上げた。
ベッドと椅子の距離を見る。繋いだ手を見る。最後に、狛枝を見る。
「……近い方がいいんだ」
「今気づいたの?」
「昨日はそこまで分けてなかった」
朝を告げるモノクマの声が、島中へ流れ始めた。
二人とも手を離さない。
「朝食の時間だね」
「うん」
「起きる?」
「あー……」
葦原は繋いだ手を動かさないまま、もう一度ベッドへ顔を伏せた。
「もうちょっと寝ていい?」
「椅子のままで?」
「狛枝くんも寝ていいよ」
「朝のアナウンスを聞いた直後に?」
「……一緒に寝よ」
言い終える頃には、声が既に眠そうだった。
数分もしないうちに、繋いだ指から力が抜ける。
それでも手は離れなかった。
狛枝は天井を見た。
朝食へ遅れれば、左右田あたりがまた大騒ぎするだろう。誰かが様子を見に来る可能性もある。
そう考えながら、目を閉じる。
好感度を上げるのは危険だと自分で言った。
警告しただけで危険を避けたつもりになるほど、都合のいい人間ではないはずだった。
それでも、繋いだ手を解くより先に、狛枝も二度目の眠りへ落ちた。
*
「好きって、どんなことだと思う?」
その日の午後。
狛枝が日向と第四の島へ出ている時を選んだようなタイミングで、葦原は左右田へ聞いた。
左右田の手から、細い六角レンチが落ちた。
「は?」
「客観的に」
「客観的にを付けりゃ何聞いてもいいと思ってんのか!?」
レストランの作業台には、昨夜持ち帰ったプーリーが取り付けられている。左右田は外れた工具を拾い、葦原から半歩離れた。
「なんでオレに聞くんだよ」
「知ってそうだから」
「ま、まあ? オレくらいになれば、恋愛の一つや二つ――」
「ソニアさんのこと、ずっと好きって言ってるし」
「そっちの意味かよ!」
「ほかに何があるの」
左右田は答えられなかった。
「誰の話だ」
「今は好きの定義聞いてる」
「狛枝だろ」
葦原の鉛筆が止まる。
否定しない。
左右田は両手で頭を抱えた。
「なんでよりによって、あいつなんだよ!」
「誰ならいいの?」
「そういう話じゃねえ! いや、そういう話でもあるけど!」
「左右田、答え」
「急かすな! そんなもん、そいつと一緒にいてえとか、会いてえとか、触りてえとか、ほかのヤツよりそいつがどう思ってるか気になるとかだろ!」
葦原は図面の余白へ、短い線を引いた。
「書くな!」
「書いてない。寸法」
「紛らわしいんだよ!」
「一緒にいたい、触りたい、どう思ってるか気になる」
「復唱もすんな!」
「全部そうなら、好きでいい?」
左右田は口を開いたまま止まった。
葦原は、機械の動作を確認する時と変わらない顔で答えを待っている。
「……本人に聞けよ」
「狛枝くん、詳しくないって逃げるから」
「オレも詳しくねえよ!」
「さっき一つや二つって」
「見栄だよ! 言わせんな!」
左右田は作業台を叩いた。
「とにかく、チェック項目が全部埋まったから恋愛確定、みたいな決め方すんな。相手があいつなら、なおさらだ!」
「じゃあ、何で決めるの?」
「知らねえ! 分かんねえから本人と話せ!」
葦原は少し間を置き、鉛筆を動かし始めた。
「分かった」
「本当に分かったのか?」
「本人と話せばいいんでしょ。 いつも話してる」
「違ぇよ! もう知らねぇ! 俺に聞くな!」
左右田は耳を塞ぐように、作業へと戻った。
*
「なんでオレが、葦原の恋愛相談受けなきゃなんねえんだよ」
夕方、ホテルの前で左右田は日向へ愚痴をぶつけた。
「狛枝本人よりは話しやすかったんじゃないか?」
「そこで納得すんな! 止めろよ!」
「何をだよ」
「全部だよ! あいつは危ねえ、性格めんどくせえ、自分の命軽すぎる、幸運で周り巻き込む!」
「よくそこまで一息で出たな」
「オメーだって分かってんだろ!」
日向は否定しなかった。
狛枝が危ういことと、葦原がそれを知らないことは同じではない。むしろ葦原は、知った上で近づいているように見える。
「葦原は、狛枝の名前を出したのか?」
「出してねえ」
「じゃあ、左右田の早とちりかもしれないぞ」
「昨日の夜、狛枝のコテージ行く方向に二人で帰って、今日の朝飯に二人揃って遅れて、好きの定義聞きに来たんだぞ! これで違ったら、そっちの方が怖えよ!」
「朝食、遅れたのか」
「そこ拾うな!」
七海がホテルの階段を降りてくる。
「左右田くんの声、レストランまで聞こえてたよ」
「あいつが悪いんだよ!」
「葦原さんなら、今は弐大くんと終里さんに試運転台を押さえてもらってる」
「なんでオレ抜きで始めてんだ!」
左右田が走り出しかける。
「試運転じゃなくて、台が動かないように固定してるだけだよ」
「先に言え!」
「話を最後まで聞かなかったね」
七海は日向の隣へ立った。
「恋愛相談って、攻略情報を聞くのに似てるよね」
「オレは攻略サイトじゃねえ!」
「情報が正しいかは、プレイヤーが判断しないといけないところも似てる」
「遠回しにオレの答え信用すんなって言ってんのか!?」
「左右田くん、恋愛の攻略実績あるの?」
「今から作るんだよ!」
左右田は結局レストランへ向かって走った。
日向と七海は、その背中を見送る。
「止めなくてよかったのか?」
「エンジンの方は、左右田くんがいた方が進むから」
「恋愛の方は?」
「狛枝くんと葦原さんが考えることだと思うよ」
七海は少し眠そうに瞬きをした。
「私もあんまり詳しくないから」
*
試作機は、三日後に仮組みを終えた。
第三の島から運んだモーターと冷却管。第四の島で見つけた軸受、減速機、プーリー、制御器。それらが一つの固定台へ収まり、ばらばらだった部品が、ようやく一台の機械に見える形になった。
まだ島の電力が必要で、飛行機にも船にも載っていない。
それでも、負荷を変えながら連続して回せるところまでは来た。次の試験が通れば、余分な重量を削る段階へ進める。
「冷却水、入れた」
葦原が配管の弁を閉める。
「固定も確認した。弐大、台から離れていいぞ」
「応! いよいよ鋼鉄の心臓が産声を上げるのじゃな!」
「まだ試作ですけど、見ててくださいソニアさん!」
左右田が制御盤へ手を伸ばした。
レストランのモニターが、先に点いた。
「はい、そこまでー!」
モノクマの声が響く。
左右田の手が止まった。
「今いいとこなんだよ! 消えろ!」
「第四の島のジェットコースター、整備完了のお知らせでーす! 全員で乗ってくれたら、未来機関の秘密が分かる特別資料をプレゼントしちゃいます!」
「いらねえ!」
「さらに、ドッキリハウスには船の部品と、オマエラの失われた学園生活に関するプロフィールも用意してあります!」
今度は誰も、すぐに断らなかった。
モノクマが画面の中で笑う。
「一名でも欠けたら、どれもあげませーん。制限時間は日没まで! 学園長からの善意を無駄にしないようにね!」
画面が消えた。
左右田は制御盤を見た。
あと一つスイッチを入れれば、試験を始められる。
「罠だろ」と九頭龍が言う。
「罠でしょうね」とソニアも同意した。
「でも、未来機関の資料と、失った記憶に関する情報は必要だと思う」
日向が答える。
「船の部品も、見ておく価値はある」
葦原はモニターの消えた壁を見たまま言った。
「こっちが完成してからじゃ駄目なのかよ」
「日没までって言ってた」
「だからモノクマの都合に合わせんのがムカつくんだよ!」
左右田は工具を制御盤の上へ置いた。
「冷却水は抜いていこう。圧かけないまま放置した方がいい」
「……分かってる!」
試作機は、動く直前の形でレストランへ残された。
*
「絶対に乗らねえ!」
ジェットコースターの前で、左右田は柵へしがみついていた。
「全員で乗らないと資料はもらえないらしいぞ」
日向が腕を引いても離れない。
「オレは未来より今の胃を守る!」
「軟弱者め。鉄蛇の疾走ごときで魂を乱すとは」
「田中、オメー乗ったことあんのかよ!」
「ない」
「じゃあ降りてから言え!」
ソニアは既に先頭の車両へ座り、安全バーを確かめていた。
「左右田さん、たいへん愉快そうですよ!」
「今行きますソニアさん!」
左右田の手が柵から離れる。
日向が呆れている間に、メカ弐大がその背中を押した。
「腹を決めんかあ!」
「機械の力で押すな! 反則だろ!」
終里は弐大の隣へ座り、発車前から両手を上げている。九頭龍は一番揺れなさそうな中央を選び、七海はコースの形を覚えようとレールを見ていた。
狛枝が最後列へ座る。
葦原は一度ほかの空席を見てから、その隣へ入った。
「後ろの席は、落ちる時に一番浮くよ」と七海が言う。
「先に言って」と葦原が返した。
「設計士なら分かんだろ!」
前の車両から左右田が叫ぶ。
「レール見てたけど、乗る位置まで考えてなかった」
「今から代われ!」
発車ベルが鳴った。
「遅かったね」と狛枝が笑う。
車両がゆっくり坂を上り始める。
高くなるにつれ、第四の島の全景が見えた。観覧車、城、夜に歩いた道、整備棟。その向こうに、ホテルのある島まで続く橋が細く伸びている。
「狛枝くん、怖い?」
「ボクより、前の左右田クンを心配した方がいいんじゃないかな」
「もう声出てないね」
頂上へ着く前に、左右田の悲鳴が戻った。
車両が落ちる。
ソニアの歓声、終里と弐大の笑い声、左右田の悲鳴が一度に風へ散った。田中の外套が顔へ張りつき、九頭龍が隣から悪態をつく。七海だけが、急降下するレールを見ながら「ここが入力受付かな」と呟いていた。
最後列の二人も、安全バーへ身体を押しつけられる。
葦原の手が一度、狛枝の手のすぐ横へ来た。
朝のように繋ぐ前に、次のカーブで離れる。
狛枝は追わなかった。
触れたい時には、彼女はもう自分で触れられる。
今ここで選ばなかったことまで、狛枝が代わりに決める必要はない。
ジェットコースターは何度も上下し、左右田の訴えを無視して出発地点へ戻った。
「二度と乗らねえ……」
車両を降りた左右田が、地面へ座り込む。
「すばらしい体験でした! もう一度参りましょう!」
「ソニアさんとなら……いや、やっぱ五分待ってください……」
「マジで弱いんだな」と九頭龍が言う。
モノクマは、入口の台へ一冊の厚いファイルを置いた。
「約束の未来機関資料だよ。オマエラの大先輩が経験した、希望ヶ峰学園でのコロシアイについてまとめてありまーす!」
日向がファイルを開く。
閉鎖された学園。モノクマ。互いを殺すよう強いられた生徒たち。生き残った者が学園を出たあと、未来機関へ加わったこと。
文章の横には、生存者の写真が載っていた。
「待て」
九頭龍が一枚を指す。
細身で眼鏡をかけた男子生徒。写真の下にある名前は、十神白夜だった。
「こいつ、俺たちといた十神じゃねえぞ」
「太っただけじゃねぇのか?」
終里の言葉に、ソニアが写真へ顔を近づける。
「才能は超高校級の御曹司と書かれております」
「じゃあ、死んだ十神は誰だったんだ?」
日向の問いに答える者はいない。
狛枝はファイルの文章を先へ追った。
「コロシアイを生き延びた彼らも、未来機関へ加わっている……か。モノクマの言う未来機関と、ずいぶん印象が違うね」
「これ自体が、モノクマに編集された資料かもしれないよ」
七海が言う。
「でも、全部嘘なら十神くんと違う写真を入れる意味が薄い」
「超高校級の幸運……苗木誠」
狛枝の指が、その名前で止まった。
葦原はファイルの日付や時間軸を確認する。
「これいつ作られた資料? 作成日は?」と立て続けにモノクマに聞いた。
「その答えが欲しければ、ドッキリハウスへどうぞ!」
モノクマがファイルの上へ飛び乗った。
「そこにはオマエラ全員の希望ヶ峰学園時代のプロフィールと、待望の船の部品がありまーす! 専用列車は、あちらから発車いたします!」
城の近くにある、小さな列車乗り場を指す。
「露骨すぎんだろ」と九頭龍が睨む。
「行かなければ、資料はここまで。列車には全員で乗ること。途中下車はできません!」
「どうする?」
日向が皆を見る。
「行くしかねえだろ。あの十神が誰だったかも、オレらの記憶も、そのままにできねえ」
九頭龍が先に答えた。
「船の部品が本物か、わたくしも確認したいです」
ソニアが続く。
「罠であることと、踏み込まぬ理由は同義ではない」
田中が四天王を外套の内側へ入れた。
左右田はまだ青い顔で立ち上がる。
「列車なら、さっきのよりマシだろ……」
「それ、モノクマの用意した乗り物だよ」と七海が言う。
「今言うな!」
誰も、罠ではないとは思っていなかった。
それでも、失った時間をモノクマだけが持っている以上、無視して帰ることもできなかった。
*
列車の内側には、外から見たより多くの座席が並んでいた。
全員が乗ると、扉が自動で閉まる。
「窓、開かねえぞ」
左右田が留め具を引く。
「出発後の安全のためでーす!」
天井のスピーカーからモノクマの声がした。
列車が動き出す。
最初は、遊園地の飾りを眺められる程度の速さだった。やがて暗いトンネルへ入り、窓の外が完全に見えなくなる。
日向は、座席の前で立ったままのメカ弐大を見た。
「弐大は座らなくていいのか?」
「この程度の揺れ、ワシには効かん!」
「さっきのコースターでも同じこと言ってたな」と終里が笑う。
「あれは訓練として上等じゃった!」
その会話の途中で、車内に甘い匂いが混じった。
「なんだ、この匂い」
九頭龍が立ち上がる。
天井の通気口から、白い煙が流れ出していた。
「ガスだ! 息止めろ!」
日向が叫ぶ。
左右田が扉へ飛びつき、田中は四天王を外套の奥へ庇う。ソニアが口元を押さえ、七海は窓の留め具を調べた。
葦原と狛枝も席を立つ。
狛枝の足が、最初の一歩で崩れた。
葦原が肩を支える。けれど、すぐにその膝も床へついた。
「弐大、扉を――」
日向が言い終える前に、メカ弐大の目から光が消えた。
列車の揺れが遠くなる。
日向の視界から、一人ずつ輪郭が消えた。
*
目を開けると、天井が赤かった。
壁も、床も、苺の模様で埋め尽くされている。
日向は重い身体を起こした。
周囲には、同じように目を覚まし始めた仲間たちが倒れている。メカ弐大も再起動し、左右田は閉じた扉へ駆け寄った。
「開かねえ!」
「窓もないよ」
七海が壁を見回す。
全員がいる。
荷物だけがなかった。左右田の工具も、葦原が持っていた筆記具も、日向たちの手元から消えている。
壁のモニターが点いた。
「ようこそ、ドッキリハウスへ!」
モノクマが両腕を広げる。
「ここには出口も食料もありません! 外へ出たければ、誰かを殺して学級裁判を始めてね!」
「ふざけんな!」
左右田が扉を殴る。
「あ、そうそう。レストランに置いてきた危ない試作機は、学園長が責任を持って保管しておきます。オマエラが戻れたら、ちゃんと返してあげるよ!」
画面が暗くなる。
ついさっきまで、あと一つのスイッチで動くはずだった機械は外にある。
ここには、その扉を外すための工具さえない。