マスカット棟からストロベリー棟へ向かう中で、狛枝は一度だけ振り返った。
追ってくる足音はない。
葦原が眠ってから、それほど時間は経っていなかった。今なら、彼女が目を覚ます前に戻れるかもしれない。
ストロベリー棟の一階へ着く。
ファイナルデッドルームの扉には、昼間と同じ注意書きが光っていた。
命が惜しい者は入るな。
狛枝は迷わず取っ手を押した。
扉の先は、客室より少し狭い部屋だった。
寝台、机、クローゼット、左右の壁に埋め込まれた数字の操作盤。奥にもう一つ扉があるが、取っ手は動かない。
寝台の上には、モノミが座っていた。
「狛枝くん! 何をしに来たんでちゅか!」
「見れば分かるんじゃないかな。脱出ゲームを始めに来たんだよ」
「危険だって書いてあるでちょう! 今すぐ戻って――」
背後で扉が閉まった。
錠の下りる音がする。
狛枝が取っ手を回しても、もう動かなかった。
「遅かったみたいだね」
「そんな暢気なことを言ってる場合じゃありまちぇん!」
モノミが寝台から飛び降りる。
「この部屋は、最後まで解かないと中から出られないんでちゅ! あちしも出ようと頑張ったんでちゅけど……」
「先に見てたなら、ヒントくらいは期待していいのかな」
「期待しないでくだちゃい! というか始めないでくだちゃい!」
その時、外側の扉が、もう一度開いた。
モノミが振り返る。
葦原が立っていた。
髪は寝る前のまま整えておらず、靴の片方は踵を踏んでいる。走ったのか、呼吸が僅かに速かった。
「早いね」
狛枝が言う。
「早いじゃない」
葦原が中へ入る。
背後の扉は、またすぐに閉まった。
「明日って言ったよね」
「日付はもう変わっていると思うけど」
「そういう意味じゃない」
「うん。ごめん」
狛枝が素直に謝ると、葦原はかえって言葉を止めた。
それから扉を押し、取っ手の周囲と枠を確かめる。
「外からは開くのに、中からは駄目なんだ」
「だから、葦原さんまで入ってくる必要はなかったよ」
「起きないと思った?」
「よく眠っていたからね」
「でも、起きた。長椅子見たら、狛枝くんいなかった」
「戻るつもりだったんだ」
「私が起きる前に?」
「できれば」
「無理だったね」
葦原は奥の扉へ向き直った。
怒っているのか、呆れているのか、声だけでは判別できない。
「二人とも出られなくなっちゃったじゃないでちゅか!」
モノミが両耳を抱える。
「喧嘩してないで、まず戻る方法を――」
「ないんでしょ?」
「うっ」
「じゃあ、解く」
葦原はクローゼットを開けた。
*
部屋にある物は、最初から組み合わせるために置かれていた。
クローゼットのハンガー。机の引き出しに入ったペンチ。寝台の下に落ちているが、指では届かない小さな鍵。
「工具を取られたあとに、こんなところでペンチ返すの性格悪い」
葦原はハンガーの一部をペンチで切り、細い針金へ曲げた。
「返してくれたわけじゃないと思うよ」
「分かってる」
針金で鍵を引き寄せる。
鍵は机のもう一つの引き出しを開け、中から鋏が出てきた。
「次は何を切るんだろうね」
「物を壊すのは禁止じゃなかったの?」
「ここでは壊さないと進めないようでちゅ……」
モノミが申し訳なさそうに、部屋の隅にあるモノクマのぬいぐるみを見た。
葦原も同じ方向を見る。
「分かりやすい」
「あちしは何も言ってまちぇん!」
ぬいぐるみの縫い目を鋏で開くと、綿の中から電池が出てきた。
左右の壁には、方角を示す記号と数字が散らばっている。床の中央には、地図で北を示す形に似た印があった。
「NEWS」
狛枝が操作盤の上の文字を読む。
「ニュースじゃなくて、北、東、西、南の順番だろうね」
「三、九、五、七」
葦原が各壁の数字を拾った。
狛枝が左の操作盤へ入力する。
壁の一部が開き、デジタルカメラとUSBメモリが落ちてきた。
「順調すぎて怖いでちゅ……」
「解けるように作った問題なら、解けるのは普通だよ」
葦原がカメラへ電池を入れる。
保存されていた画像には、白と黒の石を並べたような模様が写っていた。机の上にあるカード、ノートパソコンの文字列、右側の操作盤の点灯位置を重ねると、次の数字が浮かぶ。
「九、八、七、五」
「今度はキミが入れる?」
狛枝が場所を譲る。
「狛枝くんが入れて」
「どうして?」
「外れた時、爆発する可能性あるから」
「それなら、キミはもっと下がった方がいいね」
「正解だと思うけど」
「ボクもそう思うよ」
狛枝が四桁を入力した。
爆発は起きなかった。
代わりに、右の壁から小さな接続口が現れる。USBメモリを差し込むと、ノートパソコンのロックが外れ、奥の扉から機械音がした。
普段なら短く終わる作業でも、空腹で指に力が入らず、何度も手が止まった。窓も時計もない部屋では、入ってからどれだけ経ったか分からない。
「開いた」
葦原が取っ手を回す。
「待ってくだちゃい!」
モノミが二人の前へ回り込んだ。
「ここまでなら、ただの脱出ゲームでちゅ。でも、この先何があるか分かりまちぇん!」
「戻れないなら、進むしかないね」
狛枝が答える。
「だから、そもそも入らないでって言ったんでちゅ!」
「それはもう終わった話」
葦原は扉を開けた。
*
午前七時になっても、狛枝と葦原はマスカット塔へ来なかった。
「あの二人、部屋にもいなかったぞ」
左右田が言う。
モノクマ太極拳は、欠席者がいても始まった。
「一、二、三、四! 命を惜しむ心と一緒に、筋肉も伸ばしてー!」
「今その言い方すんな!」
左右田は腕を上げながら怒鳴った。
「寝台は空で、長椅子に毛布だけ残ってた。あいつら、どこ行きやがった」
「ファイナルデッドルームだと思う」
七海が言う。
「昨日の話、葦原さんなりの覚悟の方法だったんじゃないかな」
「なんで先に言わねえんだよ!」
「今、考えがまとまったから」
「体操してる場合ではありません!」
ソニアが型を途中で止める。
「二人を助けに参りましょう!」
「体操をサボると健康に悪いよ?」
モノクマが片足で立ったまま言う。
欠席もサボりも咎めるつもりは無いようだった。
「飢えさせた張本人が言うな!」
日向たちは体操を放り出し、ストロベリー棟へ向かった。
ファイナルデッドルームの外扉は閉まっている。
「これ開けるだけならセーフだったりしねぇかな?」
「試してみよう!」
メカ弐大が扉に手をかけようとする。
『中に入ったら挑戦者になるよ! 応援だけなら廊下でどうぞ!』
メカ弐大の足が止まる。
「入ったからといって、助けになるとは限らないよ」
七海が扉を調べた。
「二人がもう進んでいるなら、合流できても危険が増えるだけかも」
「じゃあ、ここで待ってろってのかよ」
左右田が壁を殴る。
「何もできないで待つのが嫌なのは分かる。でも、今入る方が二人の邪魔になるかもしれない」
日向が言うと、左右田は開いた外扉を睨んだ。
「出てきたら、一発ずつ殴る」
終里が拳を鳴らす。
「生きて出てからにしろよ」と九頭龍が言った。
「生きて出てきたらだよ」
その声は、閉じた扉の奥までは届かなかった。
*
奥の部屋には、机が一つだけ置かれていた。
その上に、回転式の拳銃がある。
「はーい、お待ちかね! ファイナルデッドゲームの最終関門、ロシアンルーレットでーす!」
机の陰からモノクマが飛び出した。
「待ってまちぇん!」
モノミが両腕を広げる。
「参加者は二名なので、二人とも挑戦してもらいます! 弾を入れて、よーく回して引き金を引く。空なら合格、当たりなら人生から脱出成功!」
「当たりの意味が逆でちゅ!」
「やらなかったら?」
葦原が聞く。
「扉は開きませーん。ここには食べ物も水もないから、ゆっくり考えてね!」
「ゆっくりできないね」
説明を聞き終えた葦原は、拳銃を見たあと、モノクマへと視線を向ける。
「私の分、狛枝くんに撃ってもらうのはあり?」
「葦原さん?」
問い返した声は、自分で思っていたより低かった。
「もちろん、ありです!」
モノクマの赤い目が光る。
「ただし、実弾だったら狛枝クンが葦原さんを殺したことになるからね。無事に外へ戻れたら、楽しい学級裁判が始まっちゃうかも!」
「それでいい」
返事が早すぎた。
葦原は、狛枝を残して死ぬのも、狛枝が先に死ぬのも嫌だと言った。一緒ならいい、と。
「それでいい、って、ボクも裁判で死ぬこと含めてかな」
「それもある」
葦原は、否定せずに認めた。
「よくないでちゅ!」
モノミが葦原の脚へ縋りつく。
「どっちかが死ぬ前提で考えちゃ駄目でちゅ! 二人とも自分でなんて撃たなくていいんでちゅよ!」
「でも、撃たないと出られない」
「ほかの方法を探しまちょう! きっと何かありまちゅ!」
「ここまで来るのに、ほかの方法はなかったよ」
葦原はモノミを見下ろした。
「多分、これも同じ」
モノミが言葉を失う。
葦原は狛枝を見た。
狛枝は目を逸らさなかった。
「ボクの幸運は、あくまでボクにとっての幸運だよ。キミまで守るとは限らない」
「私が死なないことが、狛枝くんにとっての幸運なら守られる」
「私は狛枝くんの幸運、信じてるから」
「信じるだけで、弾の位置は変わらない」
「狛枝くんが私に死んでほしくないなら、私にも分けてくれると思ってる」
才能への信頼だけではなかった。
葦原は、狛枝が自分を死なせたくないと思っていることまで、幸運が働く条件へ入れた。
そうであってほしいという願いを、本人より先に事実として置いている。
「ボクが、キミに死んでほしくないと思っていることまで条件に入れるんだ」
「違う?」
違うとは言えなかった。
言葉にしなくても、それが答えになったことを、彼女の顔を見れば分かった。
モノクマが一発を弾倉へ入れ、回転させる。
どこに入ったかは見えない。
狛枝が拳銃を持つ。
金属の重さは、これまで自分自身へ向けてきたどの危険より明確だった。
自分が引き金を引き、葦原が死ぬ。
その順序には、希望のための踏み台も、才能を試す名目もない。
ただ彼女が、自分の幸運を信じて立っている。
「怖くないの?」
「怖いよ」
葦原の視線は、銃口ではなく狛枝の目へ向いていた。
「でも、狛枝くんに任せる」
怖くないから任せるのではない。
死ぬ可能性が分かっていて、そのうえで彼女は狛枝に任せようとしている。
「ボクが外したところで、キミの仮説が正しい証明にはならないよ。六分の五を引いただけかもしれない」
「それでもいい」
「実弾だったら?」
「私の仮説が違った」
「それだけ?」
「狛枝くんは、私を殺したくて撃つわけじゃないでしょ」
葦原が撃つよりも、自分が持つ幸運へ賭けた方が生き残る確率が高い。そう判断することはできる。
理屈だけなら。
狛枝は銃口を、葦原のこめかみへ当てた。
五つは空で、一つだけが死へ繋がる。
確率だけなら、生きる方がずっと高い。
それでも、引き金へ置いた指は、すぐには動かなかった。
「狛枝くん」
葦原が名前を呼ぶ。
急かす声ではなかった。
ただ、任せた相手がまだそこにいるか確かめるような呼び方だった。
狛枝は葦原の目を見たまま、引き金を引いた。
乾いた作動音だけが鳴る。
弾は出なかった。
「ほら」
葦原が小さく息を吐く。
「何が、ほら、なのか分からないよ」
狛枝は拳銃を下ろした。
自分の幸運が、葦原一人を生かすために働いた。
そう見えたことを、否定しきれなかった。
葦原の才能が残ったという評価より先に、彼女が生きていることへの安堵が来た。
「信頼と幸運が織りなす感動の一発でした!」
モノクマが拍手する。
「では次、狛枝クン! 普通に一発で挑戦してもいいけど、五発入りなら特別賞を付けちゃうよ!」
「五発?」
葦原の顔から、さっきまでの安堵が消えた。
「六つのうち五つが実弾! 当たりを引かない確率は、たった六分の一! 超高校級の幸運には、こっちの方がお似合いでしょ?」
「いいね。そうしようか」
五つの薬室へ実弾を入れ直す。
自分の命を材料にして、才能を試し、その結果で情報を得る。
葦原へ向けて引いた一発より、こちらの方が狛枝にはずっと理解しやすかった。
「今それやる必要ない」
葦原がすぐに言った。
「ボクの幸運が本物なら、これでも死なない」
「狛枝くん、その幸運、今必要?」
「特別賞。 モノクマが最初に言ってた餌はこれじゃないかな。 これ以外に手に入れる手段も無さそうだ」
「一発で出られる。情報のために、狛枝くんが死ぬ確率上げるのおかしい」
「ここで死ぬなら、ボクの幸運は希望の踏み台にすら使えない、その程度だったってことだよ」
「踏み台とかそういう話じゃない」
葦原は拳銃へ手を伸ばさず、狛枝の顔を見た。
「私が狛枝くんの幸運を信じるのと、狛枝くんが死ぬ確率を高めるのは別」
「葦原さんは、自分の命はボクの幸運へ預けられるのに、ボクの命だと預けられないんだ?」
葦原の視線が止まった。
条件は同じではない。
確率を下げる話と、上げる話だ。
でも今は、彼女が考えるその一瞬を、作れればいい。
葦原が口を開き直す前に、狛枝は弾倉を回した。
「待っ――」
銃口を自分のこめかみへ当てる。
同じ拳銃のはずなのに、葦原へ向けた時ほど重くはなかった。
引き金を引いた。
音は、一度目と同じだった。
実弾は出ない。
拳銃を机へ戻すより先に、葦原が空いている方の狛枝の手を取った。
指を強く重ねたまま、その場へ座り込む。
葦原は自分の命より狛枝の命へ強く怯えたようだった。その差を見つけて嬉しいと思ってしまうのは、あまりに醜い。
それでも、取られた手を引く気にはなれなかった。
「葦原さん」
「今の、私が答えられない間にやった」
葦原が被せるように問い詰める。
撃つ前の、彼女の答えが形になるまでの時間を、狛枝は奪った。
葦原も、それを分かっている。
「ずるい」
「ごめんね」
「謝ってる声じゃない」
葦原は自分の手の甲で目元を擦り、モノクマを睨んだ。
「出口開けて」
「えぇー。 もう少し成功者インタビューを――」
「特別賞置いて、さっさと出てって」
「怖いなあ。さっきまであんなに感動的だったのに!」
モノクマは机の下から厚いファイルを出した。そして、実物には使い用がないミニチュアサイズのモーター。
「これが特別賞! この先のオクタゴンも、好きなだけ見ていってね!」
奥の壁が左右へ開く。
同時に、外へ続く扉の錠も外れた。
「あちしも、こんな部屋は二度とごめんでちゅ!」
モノミは外へ続く扉へ急ごうとする。
「何言ってんの。お前はまだロシアンルーレットやってないでしょ!」
「はわわ……」
モノクマがモノミを引きずっていく。
「出口はあっちみたいだよ」
狛枝は開いた壁の先を示す。
「分かってる」
葦原は立ち上がったが、狛枝の手は離さなかった。
*
オクタゴンには、食料以外なら何でも揃っているように見えた。
刃物、薬品、工具、縄、爆発物。用途の分からない装置まで、八角形の壁に沿って並べられている。
「最強の武器って、一つじゃないんだ」
葦原が言う。
「選ぶ人次第、ということかな」
「使う前提で並べてるのが嫌」
葦原の手は、ロシアンルーレットの部屋を出てからも狛枝の手と繋がったままだった。
ファイルを調べるにも、室内を見て回るにも不便なはずだ。それでも、葦原は離そうとしない。
狛枝も、離してほしいとは言わなかった。
窓の外には、トリックハウスの外周が見えた。
ストロベリー棟とマスカット棟は、横ではなく上下に重なっている。外側を回るようにエレベーターの軌道が続き、中央の塔は一つの空間を二棟で共有していた。
「当たってた」
葦原は、それだけ確認して窓から離れた。
「もっと喜ばないの?」
「出られないなら、今はどうでもいい」
「正解そのものより、使えるかどうかなんだね」
「狛枝くん、今さら?」
葦原にとって、構造を見抜くことは目的ではない。
正しく理解した構造を使って、何を動かせるか。何を作れるか。ここから出られるか。
才能を持つ者が、自分の才能を飾るためではなく、当然のように使っている。その姿を狛枝は好ましく思っていた。
その才能が、何のために使われてきたのかも知らずに。
中央の机には、モノクマが置いていったファイルがある。
表紙には何も書かれていない。
狛枝は片手で表紙を開いた。
葦原と繋いでいる手を離せば、もっと簡単に読める。
そうする必要を思いつかなかったわけではない。
ファイルの最初の数頁には、希望ヶ峰学園の生徒名簿が載っていた。
花村、小泉、辺古山、澪田、西園寺、罪木。既に死んだ者も、今生きている者も、同じ形式で並んでいる。
十神白夜を名乗っていた人物の欄には、氏名不明、超高校級の詐欺師と記されていた。
彼が別人だったことに驚きはしたが、才能まで偽りだったわけではないらしい。誰かの代わりとして生きることを極めた才能。それなら、超高校級と呼ぶに足る。
次に、日向創の名前があった。
才能欄は空白。
所属――希望ヶ峰学園予備学科。
「予備学科……」
口に出したのは葦原だった。
狛枝は、その一行から目を動かせなかった。
日向クンにも、自分で思い出せていないだけで何かの才能がある。
そう考えていた。
何の根拠もない期待だった。それでも、才能を失っているのではなく、まだ見つかっていないのだと思う方が自然だった。
その期待が、たった一行で途切れる。
才能を持たないのに、才能ある者と同じ場所へ紛れ込んでいた。
そんな日向クンを相手に、狛枝は希望について語り、問い、答えを求めていたらしい。
滑稽だった。
だが、日向の欄は、その先にあった記述と比べれば小さな問題だった。
頁を捲った狛枝の指が止まる。
更生対象者――超高校級の絶望、その残党。
見出しの下には、この修学旅行へ参加した生徒たちの名前が並んでいた。
狛枝凪斗。超高校級の幸運。
葦原アイ。超高校級の設計士。
何度読み直しても、文字は変わらない。
「絶望……?」
声が、紙の上へ落ちた。
これまで希望の象徴として見ていた才能ある仲間たちが、その才能を絶望のために使った。
絶望なんかに屈するはずのない才能が、絶望を乗り越えるどころか、その手足になっていた。
自分も、その中にいる。
自分が価値のない人間だったことなら、今さら驚くことではない。
超高校級の才能を持つみんなまで、希望ではなかった。その事実の方が、狛枝には耐え難かった。
喉の奥から笑いが出かけた。
いつものように笑って、自分ごと貶せば形になると思った。
音になる前に消えた。
「こんな連中が、希望を語って殺し合っていたんだ」
モノクマが裏切り者と呼んでいた人物。
その一人だけは、絶望の残党ではない。
狛枝は、名簿の中から葦原の名前を探した。
超高校級の設計士。
それ以外に、ほかの生徒と違う印はない。
裏切り者が誰かは、分からない。
それでも、狛枝はファイルから目を離せなかった。
「モノクマが作った記録だから、全部本当とは限らないよ」
葦原が言う。
「キミは信じないの?」
「更生施設ってところは、多分当たってる。最初の夜にモノミへ聞いた時も、更生の話だけ反応が違った。罪木さんが思い出した記憶とも合う。十神くんが別人だったことも、さっきの資料で繋がった」
「なら、十分じゃないか」
「未来機関が作って、ウサミが管理するはずだった。そこへモノクマが入った。ここまでは固いと思う」
葦原は繋いだ手へ一度視線を落とした。
「仮想空間か、現実の施設かはまだ保留。でも、記憶を選んで消せて、身体の傷も病気も再現されてないなら、現実じゃない方が説明は少ない」
「キミは、ずいぶん落ち着いているね」
「予想に名前が付いただけだから」
「絶望の残党、という名前が?」
「更生が必要なことをした、までは前から候補にあった」
葦原にとって、絶望とはまだ中身のない名前でしかないらしい。
狛枝にとっては違った。
希望を否定し、才能を汚し、人を不幸にするもの。
何をしたか分からなくても、その名だけで嫌悪するには十分だった。
そのはずだった。
葦原が狛枝を見る。
「……絶望だった私のこと、嫌い?」
嫌うべきだ。
答えは最初から決まっている。
なのに狛枝は、すぐには答えられなかった。
希望を踏みにじる絶望なら、嫌悪するべきだ。
才能を絶望のために使った人間なら、価値などない。
その分類へ葦原を入れれば、答えは簡単になるはずだった。
狛枝は、繋いでいる手を見た。
「……分からない」
出てきたのは、答えにならない言葉と、それでも離せない手だった。
「そう」
葦原も手を離さなかった。
安心したようにも、傷ついたようにも見えなかった。そのままついでのように話し出す。
「私は、狛枝くんが絶望だったの、何があったのかなって気になる」
「ボクが何をしたか?」
「何があって、そっちへ行ったのか。今の狛枝くんが、希望じゃなく絶望を選んでた時、何を考えてたんだろうね」
「知ったら、キミもボクを嫌いになるかもしれないよ」
「それは知ってから考える」
狛枝はようやくファイルを閉じた。
「キミも絶望だったんだよ」
「うん。私も何したんだろうね」
「怖くないの?」
「分かんない物は怖い。でも、名前だけで中身増えないし」
葦原は机の上のモニターを見た。
「モノクマ。まだ聞いてるでしょ」
モノクマが近くの柱から出てきた。
「もちろん! 絶望的な正体を知った二人が、愛憎の果てに殺し合うところまで見届けるのが学園長の務めです!」
「私たちに殺し合って、絶望してほしいんだよね?」
「そうだよ。今さら確認すること?」
「でも、資料だと私たちはもう絶望」
「元絶望にも、新鮮な絶望は必要なんです! 更生中の絶望がもう一度堕ちるなんて、再発ものの感動があるでしょ!」
「ウサミは、私たちを更生させようとしてた?」
「先生役の営業方針については、ノーコメント!」
「じゃあ、みんなが衰弱死しないように、自分たちが泥を被って殺し合う人が出たらどうするの?」
モノクマの目が細くなる。
「仲間を生かすために、自分が殺人者になるなんて。 なんて自己犠牲に満ちた、すばらしい希望でしょうか」
「その人を、助かった人たちが裁判で殺さなきゃいけないのは絶望?」
「もちろん! 希望を与えてくれた恩人を、自分たちで正しく処刑する! うぷぷ、考えただけで胸が温かくなるね!」
「そのあと、その人の分まで生きなきゃいけないって希望ができるのは、いいの?」
「希望が育てば、また壊した時の絶望も大きくなるでしょ?」
モノクマは満足そうに頷いた。
葦原が隣を見る。
「似てるね?」
「ボクとモノクマが?」
胸の内側へ、冷たいものを押し込まれたような不快感があった。
絶望を弄び、他人が壊れるところを喜ぶモノクマと、自分が似ているはずがない。
「希望が好きなのと、絶望が好きなのは逆。でも、片方を大きくするために、反対側を必要だと思ってる作りが似てる」
「一緒にしないでほしいな。ボクが見たいのは、絶望なんかに負けない絶対的な希望だよ」
「同じとは言ってない。作りが似てるだけ」
目的は正反対だ。
モノクマは希望が壊れるところを見たがり、狛枝は希望が絶望を越えるところを見たい。
最後に残したいものが違う。
葦原はモノクマへ向き直った。
「もういい。消えて」
「呼んだのはそっちなのに!」
葦原は善悪を判断しているわけではない。
ただ二つを比べ、似ている部分を指しただけだった。