希望と絶望は、不幸と幸運に似ている。   作:an-ryuka

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 モノクマが消えたあとも、葦原はしばらく柱を見ていた。

 

「前に、希望のために絶望が必要かは、幸運と不運とは別の話って言ったよね」

 

「覚えているよ」

 

「現象としては別。でも、狛枝くんが二つを同じ形で考える理由は、同じかもしれない」

 

 葦原は、狛枝をじっと見つめた。

 

「狛枝くんが、希望を好きな理由」

 

「絶望があることで希望が輝くって思うのは、自分の不運に理由があると思いたいのと一緒じゃないかな」

 

 狛枝は葦原を見て笑った。

 

「不運を越えて幸運が来たから、ボクは何度も生き残った。希望だって、絶望を越えるからこそ価値が――」

 

 葦原は、閉じたファイルへ指を置く。

 

「前に保留にした狛枝くんの幸運の話、少ししていい?」

 

「……好きにしていいよ」

 

 葦原は繋いだ手の指に少しだけ力を入れた。

 

「不運と幸運を釣り合わせる能力なら、さっき私を生かしておく理由がない」

 

「弾が出ない確率は六分の五だったよ。才能がなくても、普通に起こることだ」

 

「うん。空砲一回なら証拠にならない。でも狛枝くんは、五発入ってても空砲を引いた」

 

「それはボクの幸運だろうね」

 

「二回とも、狛枝くんがそうなってほしいと思った結果だけ残った」

 

狛枝の手を掴んだまま、葦原は少し笑った。

 

「不運が先に来るって言うなら、私が死んでた方が成立してそうじゃない?」

 

「ボクが、キミが死ぬという不運を拒んだから、二人とも生きた。そう言いたいの?」

 

「……そうだったらいいなって、私の仮説ね」

 

それは。

 

「……ずいぶん都合のいい能力だね」

 

そうだったら。

 

自分が望んだから、彼女が生きた。

自分が望んだから、彼女が近くにいる。

自分が望んだから、彼女は自分を好きになった。

 

「無意識の事故まで全部守れるわけじゃないと思う。狛枝くんが、そうなるって思ったか、強くそうなってほしいと思った時だけ、低い確率を引き寄せる」

 

 まだ言葉を飲み込めていない間にも、彼女の言葉は続く。

 

「一番最初のハイジャックも、狛枝くんが何となく、刺激がないかなって考えてた時に起きた」

 

「そんな曖昧な願いまで叶えるの?」

 

「分からない。飛躍してるのは分かってる」

 

 葦原は淡々と続ける。

 

「その後で、ハイジャックが終わってほしいと思ったから、隕石が落ちた」

 

「代わりに、両親が死んだんだよ」

 

「狛枝くんは、隕石が両親へ当たるところまで想像してなかったでしょ」

 

 狛枝の指が僅かに強張った。

 

「狛枝くんが望んだのは、ハイジャックが終わることまで」

 

「だから、両親を助けるという幸運は働かない」

「そして、『ハイジャックを終わらせる』という幸運を起こす隕石で、両親は死んでしまった」

 

 彼女は狛枝の内側へと手を伸ばす。

 構造が掴めないと不安で仕方ない人だから。

 

 葦原の仮説では、

 

 両親の死は何かを得るための代価ではない。

 

 自分が望んだ結果の外側で、ただ起きただけの事故になる。

 

 意味のある不運ではなくなる。

 

 それなら、両親の死は不運ですらない。幸運を望んだ結果からはみ出した、ただの犠牲だ。

 

 代価でないのなら、いったい誰のせいになるのだろう。

 

 

 葦原が少しだけ狛枝へ寄りかかった。

 

 空腹のせいか、考えることへ意識を使いすぎたのか。その身体は、触れた部分から伝わるほど軽かった。

 

「……狛枝くんの才能って」

「狛枝くんがそうなる、そうなって欲しい、と思ったものを引き寄せてるだけじゃない?」

 

 彼女の声は眠そうで、けれど思考は濁っていなかった。

 

 自分が望んだから、葦原が生きた。

 

 自分が望んだから、彼女が近くにいる。

 

 そこまで考えて、狛枝の内側で何かが止まった。

 

 旧館へ残ったこと。

 病室へ来たこと。

 眠るところを見ていたいと言ったこと。

 観覧車の下で、自分の感情に名前をつけたこと。

 

 葦原が自分を好きなのだと気づいた時、狛枝は嬉しいと思った。

 

 その答えを欲しがっていた。

 

 本人が自分で考え、自分で選び、自分の口で出した答えだからこそ、手放したくないと思った。

 

 もし、その答えが出る前から、自分の幸運が働いていたのなら。

 

「じゃあ」

 

 声が勝手に出た。

 

「葦原さんがボクを好きなのも、ボクがそうなってほしいと思ったからだったら?」

 

 葦原は、本当に不思議そうな顔をした。

 

「……何か問題ある?」

「幸運が会うきっかけを作ったのと、私の気持ちを直接作ったのは別でしょ」

 

 狛枝には、すぐに言葉が出なかった。

 

 問題しかない。

 

 彼女が自分を選んだのではなく、自分の才能が選ばせたのなら。

 

 狛枝が欲しがった形へ、彼女の気持ちまで曲げたのなら。

 

「ああ」

 

 しばらくして、葦原が何かに気づいた。

 

「私が選んだことじゃなくなると思ってる?」

 

「違うの?」

 

「きっかけに幸運が混ざってたとしても、今、手を離したいかどうかは私が決めてる」

 

 繋いでいる指へ、少しだけ力が加わった。

 

「離したくない」

 

「その答えまで、ボクの幸運が言わせているかもしれないよ」

 

「それは証明できない」

 

「ずいぶん簡単に切るんだね」

 

「証明できないことを考え続けても、今使える答えは増えないから」

 

 葦原は狛枝を見る。

 

「私は、今の私は、離したくないって思ってる」

 

 その選び方が、いかにも葦原らしかった。

 

 原因がどこにあるか分からなくても、今動いているものを見て判断する。

 

 狛枝が恐れている場所を、彼女は問題だと思っていない。

 

 あるいは、問題があっても、それだけで今の感情を捨てる理由にはならないと思っている。

 

 その方が、狛枝には怖かった。

 

 葦原はすぐに、別の可能性へ辿り着いた。

 

「……あ、でも」

 

 繋いだ指に力が入る。

 

「狛枝くんが、私に嫌われたいと思ったら?」

 

 狛枝は答えなかった。

 

「私が狛枝くんを嫌いになる何かが起こるってこと?」

 

「キミの仮説が正しければ、そうなるかもしれないね」

 

 葦原の眉が僅かに寄った。

 

「……嫌だな」

 

 小さな声だった。

 

 その一言で、希望も絶望も一瞬だけ遠くなった。

 

 頭の中には、まだ資料の文字が残っている。みんなが絶望だったという事実。

 

 自分も、葦原も、その中にいるという記録。

 

 それでも今は、葦原が自分を嫌いになる可能性を嫌がったことだけが、ほかのすべてより近かった。

 

    *

 

 ファイナルデッドルームから戻ると、全員が二人を待っていた。

 

「何で勝手に行ったんだ!」

 

 真っ先に日向が声を上げた。

 

「危険な場所だってわかってただろ! 何かあったら、俺たちは――」

 

「何もなかった」

 

 葦原が答える。

 

「命懸けのゲームがあっただろ」

 

「二人とも生きてる。出口もなかった。奥は武器庫で、窓から建物の構造が見えた」

 

「武器庫?」

 

 九頭龍の目つきが変わる。

 

「どんな武器があった」

 

「銃、刃物、弾薬。持ってきてない」

 

「本当にそれだけか?」

 

「建物は予想通りだった。ストロベリーハウスが上で、マスカットハウスが下。中央の塔は一つで、床が昇降してる」

 

 葦原は必要な情報だけを並べ、特別賞のファイルについては何も言わなかった。

 

 ファイルは狛枝が持っている。

 

 戻る前に、今は見せない方がいいと二人で決めた。自分たちが世界を壊した絶望だと知れば、互いへの疑いはさらに強くなる。未来機関の裏切り者が一人いることまで明かせば、希望と絶望という新しい線で集団が割れるだろう。

 

 葦原が殺人を避けるために隠し、狛枝は未来機関の人間を守るために隠した。

 

 同じ選択でも、理由は違っている。

 

「二人でロシアンルーレットまでやったのか?」

 

 日向が訊いた。

 

「うん」

 

「何でそんな簡単に言えるんだよ!」

 

「簡単じゃなかった」

 

 葦原の手が動き、何かを探すように狛枝の方へ近づいた。しかし全員が見ていることへ気づいたのか、途中で止まる。

 

 そのまま狛枝が手を取ると、左右田が呆れたように顔を覆った。

 

「お前ら、そういう時だけ自然にやるのやめろよ……」

 

「何が?」

 

「もう説明する気も起きねえ」

 

 左右田が呆れたところで、全員の声が一度途切れた。

 

 怒るにも、笑うにも、残っている体力が少なすぎた。

 

 日向は壁へ手をついた葦原を見る。

 

「他には何かなかったのか?」

 

「隠し通路もあった。オクタゴンから、二つの棟の間を移動できる」

 

「出口は?」

 

 九頭龍の問いに、葦原は首を横へ振った。

 

「外へは繋がってない」

 

「本当に、それだけなのですか?」

 

 ソニアが聞く。

 

 狛枝が答えるより先に、葦原が一度、彼を見た。

 

「特別賞として冊子も貰ったけど」

 

 狛枝の声は、オクタゴンへ入る前より平らだった。

 

「この建物から出られるかどうかに比べれば、何の役にも立たないものだったよ」

 

「狛枝、お前――」

 

「葦原さんの言う通り、まずは生きて出る方が先だ。そうでしょう?」

 

 日向には、その結論だけなら間違っていると言えなかった。

 

 けれど、狛枝が皆を見る目は変わっていた。

 

 希望を見る時の熱も、自分を下へ置く時の笑いもない。

 

 葦原は、全員を順に見た。

 

「みんなが同じ記録を見て、考えられる状態の時に話す。誰もあの部屋へ行かないで」

 

「行くかよ! 六分の一で死ぬ部屋だろ!?」

 

「我が魂に、確率ごときで測れる値はない」

 

 田中が暗黒四天王を外套の中へ戻す。

 

「田中さんも行ってはなりません!」

 

「仮定の話だ。雌猫よ、覇王の進路を先回りするな」

 

「仮定でも駄目です!」

 

 ソニアが田中の前へ立つ。

 

 メカ弐大はファイナルデッドルームの入口へ大きな身体を置いた。

 

「今夜はワシがここを見張ろう! 誰であろうと通さんぞ!」

 

「弐大くんは眠らなくていいもんね」と七海が言う。

 

「応! この鋼鉄の身体、見張りには最適じゃあ!」

 

「私たちが眠っている間に、モノクマに何かされても分かるね」

 

「任せておけい!」

 

 力強い返事に、全員が少しだけ肩の力を抜いた。

 

      *

 

 部屋へ戻るまでも、葦原は一度も手を離さなかった。

 

 繋いでいるというより、逃げ道を塞いでいるみたいだった。指先に力は残っていないのに、ほどこうとすればすぐ分かる程度には絡んでいる。

 

 彼女はベッドを見た。それから狛枝を見る。

 

「寝る?」

 

 その聞き方は、あまりに普通だった。

 

 さっきまで死と隣り合わせの部屋にいたこと。彼女へ銃口を向けたこと。絶望の残党と書かれた資料を二人で読んだこと。

 

 まだ、残っている。

 

 それなのに彼女は、部屋に戻ったら寝るかどうかを聞いている。

 

「葦原さんは寝た方がいいよ」

 

「狛枝くんは?」

 

「ボクは別に」

 

「寝て」

 

 命令みたいだった。

 

 けれど、声は弱かった。

 

「ボクが隣だと、休まらないんじゃないかな」

 

「ひとりの方が休まらない」

 

 すぐに返ってくる。

 

 ボクは笑おうとした。

 

「ボクなんかを安心材料にするのは、構造として欠陥があると思うよ」

 

「欠陥あるよ」

 

 葦原さんは頷いた。

 

「でも、今はそれで動いてる」

 

 彼女は靴を脱ごうとして、片足で少しふらついた。ボクが手を伸ばすより先に、彼女はベッドの縁に座って踵を抜く。もう片方も雑に脱いで、床へ落とした。

 

 その仕草が、ひどく疲れて見えた。

 

 怖い、と思った。

 

 彼女が弱っていることが怖い。幸運を信じると言って銃口の前に立てる人が、今は靴を脱ぐだけで疲れている。その落差が、自分の中の何かを乱す。

 

 希望のためなら、人は死ぬ。

 

 絶望なら、死ぬべきだ。

 

 その二つはまだ頭の中にある。

 

 でも、今ベッドの端で俯いている彼女に向けて、その言葉を投げることはできなかった。

 

「狛枝くん」

 

「なに?」

 

「こっち」

 

 葦原さんが、自分の隣を軽く叩く。

 

 ベッドは一人用だった。二人で横になれば、肩が触れる。腕も、膝も。距離を保つ余地はほとんどない。

 

「ボクが何を考えているか、まだ分からないのに、いいの?」

 

 彼女は顔を上げた。

 

「分からないから、近くにいてほしい」

 

 言葉に詰まった。

 

 彼女はこういうところだけ、ひどく正直だ。

 

「……ボクがファイナルデッドルームに一人で行ったの、まだ怒ってる?」

 

「そう。 怒ってる」

「だから一緒に寝よ」

 

 葦原さんはそれで話が終わったみたいに、ベッドの内側へ身体をずらした。

 

 ボクはしばらく立っていた。

 

 拒む理由ならいくらでもあった。

 

 彼女が絶望かもしれないこと。ボク自身も絶望だったかもしれないこと。ここで同じベッドに入れば、彼女の体温を覚えてしまうこと。覚えた体温は、きっと後で邪魔になること。

 

 殺す時に、手が鈍る。

 

 そう考えた瞬間、喉の奥が冷えた。

 

 彼女を殺す可能性を捨てていない。

 

 それなのに、ベッドの中の彼女は狛枝を待っている。

 

 葦原は眠そうな目で、少しだけ眉を寄せた。

 

「来ないの?」

 

「行くよ」

 

 答えた声は、自分でも驚くほど小さかった。

 

 狛枝は葦原がいるベッドへと登った。

 

 空腹で、身体はもう限界に近かった。倒れ込むようにベッドへと沈む。

 

 しばらく同じ天井を見たあと、葦原がオクタゴンで途切れた話を拾った

 

「……狛枝くんが不運な目にあったから、狛枝くんのこと好きになった訳じゃないし、正直、希望だけでキラキラしてる狛枝くんなら、こんなに話してなかったと思う」

 

 そういいながら、狛枝へとゆっくり視線を向ける。

 

「今の狛枝くんが好きなのと、過去の不幸が必要だったかは別でしょ」

 

「不幸がなかったら、今のボクにはならないよ」

 

「不幸がなくても、今みたいに捻くれた狛枝くんになってたかも」

 

「それは希望的観測じゃないかな」

 

「どうせ分からないなら、好きな仮定でもよくない?」

 

 過去の不幸が必要ではなかったかもしれない。

 

 両親の死も、病気も、誘拐も、何かを得るための代価ではなかったと。

 

 そうしてしまえば、狛枝がそこから見つけた意味まで消える。

 

 葦原は、意味を奪おうとしているのではない。意味がなくても、今の狛枝を選ぶと言っている。

 

 だから困る。

 

 不幸を越えた先にあるものだからではなく、希望のために使えるからでもなく、ただ今ここにいる狛枝を選んでいる。

 

 そんなものを、狛枝はどう扱えばいいのか知らなかった。

 

 狛枝が答える前に、葦原は近づく。

 

「それとも、嫌?」

 

「何が?」

 

「私が近くにいるの」

 

 狛枝は、繋いだままの手を見た。

 

 嫌なら、とっくに離している。部屋にも入らないし、ベッドにも登らない。

 

「……嫌じゃないから困ってるんだけど」

 

「じゃあ、困ってて」

 

「簡単に言うね」

 

 葦原は、少しだけ手を緩め、視線を逸らした。

 

「……狛枝くん、私のこと嫌いになれないのが嫌なんだよね」

 

「どうしてそう思うの?」

 

「私が絶望だったって確定する場が欲しい。そしたら嫌えるから」

 

 葦原は一度言葉を切った。

 

「嫌いになれたら、殺せるから」

 

 狛枝は答えなかった。

 

 資料が正しいなら、自分たちは絶望の残党だ。裏切り者だけが、未来機関の側にいる。

 

 希望を残すためには、絶望を取り除かなければならない。

 

 その絶望の中に葦原がいるなら。

 

 いつか、自分は彼女を殺す側へ回るかもしれない。

 

 狛枝が答えなかったことを、葦原は追及しなかった。

 

 手も離さない。

 

 葦原はその手を見て、少し笑った。

 

「このまま、したいことしていい?」

 

「今度は何を試すの?」

 

「試すんじゃない」

 

 繋いでいない方の手が、狛枝の頬へ触れた。

 

「したいだけ」

 

 観覧車の下では、触れたのは狛枝だった。今度は彼女が、狛枝に触れている。

 

「今のキミが絶望かどうか、ボクはまだ答えを出していないよ」

 

「答えが出るまで待ってたら、死ぬかもしれない」

 

「それでも、ボクに聞くんだ」

 

「今ここにいる狛枝くんに聞いてる」

 

 葦原はそこで止まり、狛枝を見た。

 

「していい?」

 

 狛枝は、机の上のファイルを見た。

 

 絶望の残党。

 

 葦原の名前も、自分の名前も、そこにある。

 

 彼女の気持ちまで幸運が作ったのかもしれない。

 

 今ここで触れることを許せば、あとで絶望として切り捨てる時に、手が鈍るかもしれない。

 

 拒む理由なら、いくらでもあった。

 

 それでも、頬へ触れている手を退ける理由だけが見つからなかった。

 

「……いいよ」

 

 葦原が顔を寄せる。

 

 唇が触れた。

 

 確かめるような、短い接触で終わるのだと思った。

 

 葦原はすぐには離れなかった。

 

 唇を重ねたまま、狛枝の方へ身体を寄せる。

 

 支える必要はなかった。

 

 それでも狛枝は、空いている腕を葦原の背へ回した。

 

 抱き寄せると、葦原の身体から余分な力が抜けた。

 

 狛枝の腕の中にいることを、初めから決めていたように受け入れた。

 

 唇が離れる。

 

「嫌だった?」

 

「嫌なら、しなかったよ」

 

「したのと、狛枝くんがしたかったのは別」

 

 葦原は狛枝の顔を見たまま、答えを待っている。

 

 狛枝は、頬へ触れていた彼女の手へ自分の手を重ねた。

 

「じゃあ、ボクからしてもいい?」

 

「うん」

 

 今度は狛枝の方から顔を寄せた。

 

 一度目より短い接触だった。

 

 それでも、離れたあとの葦原の目元は少し緩んでいた。

 

「これで、いい?」

 

「うん。狛枝くん、嫌がってはないね」

 

「ずいぶん慎重な判定だね」

 

「狛枝くんが後から条件を変えるかもしれないから」

 

 狛枝は息で笑った。

 

 ——好きなのだと思った。

 

 彼女が希望か絶望かという評価ではない。才能がどれほど価値を持つかとも関係がない。

 

 構造を追っている時の目も、論理に詰まると一度黙るところも、分からないものを怖がりながら手を離さないところも。

 

 狛枝の側にできてしまった、もっと個人的で始末の悪い感情だった。

 

「狛枝くん、変な顔してる」

 

「キミが近すぎるからかな」

 

「離れる?」

 

「それは、嫌だな」

 

「そっか」

 

 葦原は離れなかった。

 

 狛枝も、背へ回した腕を解かなかった。

 

 二度目で答えは出ている。自分が嫌がっていないことも、葦原がまだ触れられることを望んでいることも、もう確かめる必要はない。

 

 それでも、もう一度触れたいと思った。

 

「……もう一度、してもいい?」

 

「今度は、何を確かめるの?」

 

 狛枝は一度だけ言葉に詰まった。

 

 理由を作ろうと思えば、いくらでも作れた。

 

 幸運の影響を調べるため。葦原の反応を確認するため。さっきの答えが変わっていないか確かめるため。

 

 どれも、今考えた言い訳だった。

 

「何も」

 

 狛枝は葦原を見た。

 

「したいだけだよ」

 

 葦原の目が僅かに開く。

 

 それから、すぐに緩んだ。

 

「うん」

 

 三度目は、どちらが先に離れたのか分からなかった。

 

 唇が離れても距離は戻らない。

 

 

 葦原の指が、狛枝の眉間へ触れた。

 

「また、何も言わないでいなくなること考えてる?」

 

「どうして?」

 

「起きたらいなかった時と、少し似てる」

 

 指が離れ、繋いだ手へ戻る。

 

「起きたらいないの、嫌だった」

 

 責める声ではなかった。

 

 その弱さの方が、狛枝には深く刺さった。

 

「ごめん」

 

 葦原が狛枝を見る。

 

「今のは、謝ってるね」

 

「前は違った?」

 

「違った」

 

「あはは。もう誤魔化せないね」

 

「うん」

 

 葦原はそれで満足したのか、繋いだ手を自分の胸元へ寄せたまま目を閉じた。

 

 限界だったらしい。数分もしないうちに、呼吸が一定になる。

 

 狛枝はその寝顔を見た。

 

 絶望の残党と書かれた記録は消えていない。

 

 自分も、葦原も、ほかの全員も絶望だった。

 

 その中に一人だけ、未来機関から送り込まれた希望がいる。

 

 残すべきなのは、その一人だ。

 

 葦原がそうであればいい。

 

 そう考えるたび、それが資料から導いた推測ではなく、自分の願望であることが分かった。

 

 繋いだ手を解けば、少なくともこれ以上は増えない。

 

 狛枝は解かなかった。

 

 いつの間にか、自分の意識も途切れていた。

 

      *

 

 その日も出口は見つからなかった。

 

 葦原と左右田はエレベーターを調べ、日向たちは塔をもう一度確認した。モノクマは試せそうな方法を見つけるたびに現れ、規則を増やすか、使おうとした道具を取り上げた。

 

 夜になる頃には、話し続ける力も残っていなかった。

 

 葦原は部屋へ戻ると、何も言わず寝台の内側へ寄った。

 

 今度は、狛枝も長椅子を見なかった。

 

 隣へ入ると、葦原は当然のように手を繋いだ。ほどなく、その指から力が抜ける。

 

 狛枝は眠っている彼女を見た。

 

 未来機関の一人だけを残す。

 

 そのために何をするべきか、考えなければならない。

 

 葦原が小さく身じろぎし、狛枝の胸元へ額を寄せた。

 

「……いる?」

 

 寝言に近い声だった。

 

「今はいるよ」

 

「なら、いい」

 

 その先の約束はしなかった。

 

 ずっといるとも、彼女を殺さないとも、彼女だけは助けるとも言えない。

 

 それでも、狛枝は彼女の背へ腕を回した。

 

 眠りへ落ちる直前に浮かんだのは、希望でも絶望でもなかった。

 

 朝まで、この手が離れなければいい。

 

 そんな、どうしようもなく個人的な願いだった。

 

 

    *

 

 

 ストロベリー棟の時計が午前二時を指す頃、メカ弐大は一階の廊下に立っていた。

 

 ファイナルデッドルームの扉は、葦原と狛枝が出たあと、何事もなかったように閉じていた。

 

 田中が階段を下りてくる。

 

「眠れんのか」

 

「眠りとは、無防備な肉体を闇へ委ねる儀式。今宵の俺様には不要だ」

 

「腹が減って眠れんだけじゃろう」

 

「現世の器が発する雑音にすぎん」

 

 田中は弐大の横へ並び、閉じた扉を見た。

 

「貴様は食物を必要とせん」

 

「じゃが、ワシ一人が残っても意味はない」

 

「奴らは、誰も殺さぬと言いながら、誰かが先に倒れる時を待っている」

 

 弐大は否定しなかった。

 

 見張りを交代するたび、一人ずつ声が小さくなっている。出口を探す手も、もう長くは動かない。

 

「待って死ぬくらいなら、戦って生きろ、か」

 

「命を自ら捨てる行為は、生への最大の冒涜だ」

 

「誰かを倒してでもか?」

 

「倒されぬために、あらゆる力を尽くす。それが生きるということだ」

 

 田中が弐大を見る。

 

「貴様なら、俺様の言語を誤訳はすまい」

 

「ワシと勝負せいと言うとるんじゃな」

 

「どちらが地へ伏すかは、運命にも分からん」

 

 弐大の目に、白い光が灯った。

 

「面白い」

 

 声が、廊下を震わせる。

 

「じゃが、一つだけ決めておくぞ。負けるための勝負はせん。手加減も、途中で命を投げるのもなしじゃ」

 

「当然だ。俺様を侮辱するな」

 

「勝った方は?」

 

「残る者を、この檻から生きて出す」

 

「裁判で負ければ、勝った方も死ぬぞ」

 

「ならば裁きの場でも勝ち、生を奪い取るまで」

 

 弐大は大きく笑った。

 

「よかろう! 互いの全力を使う。最後まで、生き残るために戦うぞ!」

 

 差し出した拳へ、田中は自分の拳を当てた。

 

 金属と骨が触れ、短い音がする。

 

 田中はファイナルデッドルームの取っ手へ手をかけた。

 

「通さんと言われておるぞ」

 

「貴様が見張りだ」

 

「今はな」

 

 弐大は道を塞がなかった。

 

 扉が閉じる。

 

 命がけの部屋の中で何が起きたか、弐大は見なかった。

 

 再び扉が開いた時、田中の外套には新しい傷が一つ増えていた。

 

 暗黒四天王は四匹とも揃っていた。

 

 田中も、生きていた。

 

「時と場所は?」

 

 弐大が聞く。

 

「太極拳が始まる時刻。鋼鉄の守護者よ、塔で待つ俺様を探し当ててみせろ」

 

「応!」

 

 二人はそれ以上の言葉を交わさず、それぞれの部屋へ戻った。

 

 廊下の壁にある時計だけが、誰も触れていないような顔で時を刻んでいた。

 

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