モノクマが消えたあとも、葦原はしばらく柱を見ていた。
「前に、希望のために絶望が必要かは、幸運と不運とは別の話って言ったよね」
「覚えているよ」
「現象としては別。でも、狛枝くんが二つを同じ形で考える理由は、同じかもしれない」
葦原は、狛枝をじっと見つめた。
「狛枝くんが、希望を好きな理由」
「絶望があることで希望が輝くって思うのは、自分の不運に理由があると思いたいのと一緒じゃないかな」
狛枝は葦原を見て笑った。
「不運を越えて幸運が来たから、ボクは何度も生き残った。希望だって、絶望を越えるからこそ価値が――」
葦原は、閉じたファイルへ指を置く。
「前に保留にした狛枝くんの幸運の話、少ししていい?」
「……好きにしていいよ」
葦原は繋いだ手の指に少しだけ力を入れた。
「不運と幸運を釣り合わせる能力なら、さっき私を生かしておく理由がない」
「弾が出ない確率は六分の五だったよ。才能がなくても、普通に起こることだ」
「うん。空砲一回なら証拠にならない。でも狛枝くんは、五発入ってても空砲を引いた」
「それはボクの幸運だろうね」
「二回とも、狛枝くんがそうなってほしいと思った結果だけ残った」
狛枝の手を掴んだまま、葦原は少し笑った。
「不運が先に来るって言うなら、私が死んでた方が成立してそうじゃない?」
「ボクが、キミが死ぬという不運を拒んだから、二人とも生きた。そう言いたいの?」
「……そうだったらいいなって、私の仮説ね」
それは。
「……ずいぶん都合のいい能力だね」
そうだったら。
自分が望んだから、彼女が生きた。
自分が望んだから、彼女が近くにいる。
自分が望んだから、彼女は自分を好きになった。
「無意識の事故まで全部守れるわけじゃないと思う。狛枝くんが、そうなるって思ったか、強くそうなってほしいと思った時だけ、低い確率を引き寄せる」
まだ言葉を飲み込めていない間にも、彼女の言葉は続く。
「一番最初のハイジャックも、狛枝くんが何となく、刺激がないかなって考えてた時に起きた」
「そんな曖昧な願いまで叶えるの?」
「分からない。飛躍してるのは分かってる」
葦原は淡々と続ける。
「その後で、ハイジャックが終わってほしいと思ったから、隕石が落ちた」
「代わりに、両親が死んだんだよ」
「狛枝くんは、隕石が両親へ当たるところまで想像してなかったでしょ」
狛枝の指が僅かに強張った。
「狛枝くんが望んだのは、ハイジャックが終わることまで」
「だから、両親を助けるという幸運は働かない」
「そして、『ハイジャックを終わらせる』という幸運を起こす隕石で、両親は死んでしまった」
彼女は狛枝の内側へと手を伸ばす。
構造が掴めないと不安で仕方ない人だから。
葦原の仮説では、
両親の死は何かを得るための代価ではない。
自分が望んだ結果の外側で、ただ起きただけの事故になる。
意味のある不運ではなくなる。
それなら、両親の死は不運ですらない。幸運を望んだ結果からはみ出した、ただの犠牲だ。
代価でないのなら、いったい誰のせいになるのだろう。
葦原が少しだけ狛枝へ寄りかかった。
空腹のせいか、考えることへ意識を使いすぎたのか。その身体は、触れた部分から伝わるほど軽かった。
「……狛枝くんの才能って」
「狛枝くんがそうなる、そうなって欲しい、と思ったものを引き寄せてるだけじゃない?」
彼女の声は眠そうで、けれど思考は濁っていなかった。
自分が望んだから、葦原が生きた。
自分が望んだから、彼女が近くにいる。
そこまで考えて、狛枝の内側で何かが止まった。
旧館へ残ったこと。
病室へ来たこと。
眠るところを見ていたいと言ったこと。
観覧車の下で、自分の感情に名前をつけたこと。
葦原が自分を好きなのだと気づいた時、狛枝は嬉しいと思った。
その答えを欲しがっていた。
本人が自分で考え、自分で選び、自分の口で出した答えだからこそ、手放したくないと思った。
もし、その答えが出る前から、自分の幸運が働いていたのなら。
「じゃあ」
声が勝手に出た。
「葦原さんがボクを好きなのも、ボクがそうなってほしいと思ったからだったら?」
葦原は、本当に不思議そうな顔をした。
「……何か問題ある?」
「幸運が会うきっかけを作ったのと、私の気持ちを直接作ったのは別でしょ」
狛枝には、すぐに言葉が出なかった。
問題しかない。
彼女が自分を選んだのではなく、自分の才能が選ばせたのなら。
狛枝が欲しがった形へ、彼女の気持ちまで曲げたのなら。
「ああ」
しばらくして、葦原が何かに気づいた。
「私が選んだことじゃなくなると思ってる?」
「違うの?」
「きっかけに幸運が混ざってたとしても、今、手を離したいかどうかは私が決めてる」
繋いでいる指へ、少しだけ力が加わった。
「離したくない」
「その答えまで、ボクの幸運が言わせているかもしれないよ」
「それは証明できない」
「ずいぶん簡単に切るんだね」
「証明できないことを考え続けても、今使える答えは増えないから」
葦原は狛枝を見る。
「私は、今の私は、離したくないって思ってる」
その選び方が、いかにも葦原らしかった。
原因がどこにあるか分からなくても、今動いているものを見て判断する。
狛枝が恐れている場所を、彼女は問題だと思っていない。
あるいは、問題があっても、それだけで今の感情を捨てる理由にはならないと思っている。
その方が、狛枝には怖かった。
葦原はすぐに、別の可能性へ辿り着いた。
「……あ、でも」
繋いだ指に力が入る。
「狛枝くんが、私に嫌われたいと思ったら?」
狛枝は答えなかった。
「私が狛枝くんを嫌いになる何かが起こるってこと?」
「キミの仮説が正しければ、そうなるかもしれないね」
葦原の眉が僅かに寄った。
「……嫌だな」
小さな声だった。
その一言で、希望も絶望も一瞬だけ遠くなった。
頭の中には、まだ資料の文字が残っている。みんなが絶望だったという事実。
自分も、葦原も、その中にいるという記録。
それでも今は、葦原が自分を嫌いになる可能性を嫌がったことだけが、ほかのすべてより近かった。
*
ファイナルデッドルームから戻ると、全員が二人を待っていた。
「何で勝手に行ったんだ!」
真っ先に日向が声を上げた。
「危険な場所だってわかってただろ! 何かあったら、俺たちは――」
「何もなかった」
葦原が答える。
「命懸けのゲームがあっただろ」
「二人とも生きてる。出口もなかった。奥は武器庫で、窓から建物の構造が見えた」
「武器庫?」
九頭龍の目つきが変わる。
「どんな武器があった」
「銃、刃物、弾薬。持ってきてない」
「本当にそれだけか?」
「建物は予想通りだった。ストロベリーハウスが上で、マスカットハウスが下。中央の塔は一つで、床が昇降してる」
葦原は必要な情報だけを並べ、特別賞のファイルについては何も言わなかった。
ファイルは狛枝が持っている。
戻る前に、今は見せない方がいいと二人で決めた。自分たちが世界を壊した絶望だと知れば、互いへの疑いはさらに強くなる。未来機関の裏切り者が一人いることまで明かせば、希望と絶望という新しい線で集団が割れるだろう。
葦原が殺人を避けるために隠し、狛枝は未来機関の人間を守るために隠した。
同じ選択でも、理由は違っている。
「二人でロシアンルーレットまでやったのか?」
日向が訊いた。
「うん」
「何でそんな簡単に言えるんだよ!」
「簡単じゃなかった」
葦原の手が動き、何かを探すように狛枝の方へ近づいた。しかし全員が見ていることへ気づいたのか、途中で止まる。
そのまま狛枝が手を取ると、左右田が呆れたように顔を覆った。
「お前ら、そういう時だけ自然にやるのやめろよ……」
「何が?」
「もう説明する気も起きねえ」
左右田が呆れたところで、全員の声が一度途切れた。
怒るにも、笑うにも、残っている体力が少なすぎた。
日向は壁へ手をついた葦原を見る。
「他には何かなかったのか?」
「隠し通路もあった。オクタゴンから、二つの棟の間を移動できる」
「出口は?」
九頭龍の問いに、葦原は首を横へ振った。
「外へは繋がってない」
「本当に、それだけなのですか?」
ソニアが聞く。
狛枝が答えるより先に、葦原が一度、彼を見た。
「特別賞として冊子も貰ったけど」
狛枝の声は、オクタゴンへ入る前より平らだった。
「この建物から出られるかどうかに比べれば、何の役にも立たないものだったよ」
「狛枝、お前――」
「葦原さんの言う通り、まずは生きて出る方が先だ。そうでしょう?」
日向には、その結論だけなら間違っていると言えなかった。
けれど、狛枝が皆を見る目は変わっていた。
希望を見る時の熱も、自分を下へ置く時の笑いもない。
葦原は、全員を順に見た。
「みんなが同じ記録を見て、考えられる状態の時に話す。誰もあの部屋へ行かないで」
「行くかよ! 六分の一で死ぬ部屋だろ!?」
「我が魂に、確率ごときで測れる値はない」
田中が暗黒四天王を外套の中へ戻す。
「田中さんも行ってはなりません!」
「仮定の話だ。雌猫よ、覇王の進路を先回りするな」
「仮定でも駄目です!」
ソニアが田中の前へ立つ。
メカ弐大はファイナルデッドルームの入口へ大きな身体を置いた。
「今夜はワシがここを見張ろう! 誰であろうと通さんぞ!」
「弐大くんは眠らなくていいもんね」と七海が言う。
「応! この鋼鉄の身体、見張りには最適じゃあ!」
「私たちが眠っている間に、モノクマに何かされても分かるね」
「任せておけい!」
力強い返事に、全員が少しだけ肩の力を抜いた。
*
部屋へ戻るまでも、葦原は一度も手を離さなかった。
繋いでいるというより、逃げ道を塞いでいるみたいだった。指先に力は残っていないのに、ほどこうとすればすぐ分かる程度には絡んでいる。
彼女はベッドを見た。それから狛枝を見る。
「寝る?」
その聞き方は、あまりに普通だった。
さっきまで死と隣り合わせの部屋にいたこと。彼女へ銃口を向けたこと。絶望の残党と書かれた資料を二人で読んだこと。
まだ、残っている。
それなのに彼女は、部屋に戻ったら寝るかどうかを聞いている。
「葦原さんは寝た方がいいよ」
「狛枝くんは?」
「ボクは別に」
「寝て」
命令みたいだった。
けれど、声は弱かった。
「ボクが隣だと、休まらないんじゃないかな」
「ひとりの方が休まらない」
すぐに返ってくる。
ボクは笑おうとした。
「ボクなんかを安心材料にするのは、構造として欠陥があると思うよ」
「欠陥あるよ」
葦原さんは頷いた。
「でも、今はそれで動いてる」
彼女は靴を脱ごうとして、片足で少しふらついた。ボクが手を伸ばすより先に、彼女はベッドの縁に座って踵を抜く。もう片方も雑に脱いで、床へ落とした。
その仕草が、ひどく疲れて見えた。
怖い、と思った。
彼女が弱っていることが怖い。幸運を信じると言って銃口の前に立てる人が、今は靴を脱ぐだけで疲れている。その落差が、自分の中の何かを乱す。
希望のためなら、人は死ぬ。
絶望なら、死ぬべきだ。
その二つはまだ頭の中にある。
でも、今ベッドの端で俯いている彼女に向けて、その言葉を投げることはできなかった。
「狛枝くん」
「なに?」
「こっち」
葦原さんが、自分の隣を軽く叩く。
ベッドは一人用だった。二人で横になれば、肩が触れる。腕も、膝も。距離を保つ余地はほとんどない。
「ボクが何を考えているか、まだ分からないのに、いいの?」
彼女は顔を上げた。
「分からないから、近くにいてほしい」
言葉に詰まった。
彼女はこういうところだけ、ひどく正直だ。
「……ボクがファイナルデッドルームに一人で行ったの、まだ怒ってる?」
「そう。 怒ってる」
「だから一緒に寝よ」
葦原さんはそれで話が終わったみたいに、ベッドの内側へ身体をずらした。
ボクはしばらく立っていた。
拒む理由ならいくらでもあった。
彼女が絶望かもしれないこと。ボク自身も絶望だったかもしれないこと。ここで同じベッドに入れば、彼女の体温を覚えてしまうこと。覚えた体温は、きっと後で邪魔になること。
殺す時に、手が鈍る。
そう考えた瞬間、喉の奥が冷えた。
彼女を殺す可能性を捨てていない。
それなのに、ベッドの中の彼女は狛枝を待っている。
葦原は眠そうな目で、少しだけ眉を寄せた。
「来ないの?」
「行くよ」
答えた声は、自分でも驚くほど小さかった。
狛枝は葦原がいるベッドへと登った。
空腹で、身体はもう限界に近かった。倒れ込むようにベッドへと沈む。
しばらく同じ天井を見たあと、葦原がオクタゴンで途切れた話を拾った
「……狛枝くんが不運な目にあったから、狛枝くんのこと好きになった訳じゃないし、正直、希望だけでキラキラしてる狛枝くんなら、こんなに話してなかったと思う」
そういいながら、狛枝へとゆっくり視線を向ける。
「今の狛枝くんが好きなのと、過去の不幸が必要だったかは別でしょ」
「不幸がなかったら、今のボクにはならないよ」
「不幸がなくても、今みたいに捻くれた狛枝くんになってたかも」
「それは希望的観測じゃないかな」
「どうせ分からないなら、好きな仮定でもよくない?」
過去の不幸が必要ではなかったかもしれない。
両親の死も、病気も、誘拐も、何かを得るための代価ではなかったと。
そうしてしまえば、狛枝がそこから見つけた意味まで消える。
葦原は、意味を奪おうとしているのではない。意味がなくても、今の狛枝を選ぶと言っている。
だから困る。
不幸を越えた先にあるものだからではなく、希望のために使えるからでもなく、ただ今ここにいる狛枝を選んでいる。
そんなものを、狛枝はどう扱えばいいのか知らなかった。
狛枝が答える前に、葦原は近づく。
「それとも、嫌?」
「何が?」
「私が近くにいるの」
狛枝は、繋いだままの手を見た。
嫌なら、とっくに離している。部屋にも入らないし、ベッドにも登らない。
「……嫌じゃないから困ってるんだけど」
「じゃあ、困ってて」
「簡単に言うね」
葦原は、少しだけ手を緩め、視線を逸らした。
「……狛枝くん、私のこと嫌いになれないのが嫌なんだよね」
「どうしてそう思うの?」
「私が絶望だったって確定する場が欲しい。そしたら嫌えるから」
葦原は一度言葉を切った。
「嫌いになれたら、殺せるから」
狛枝は答えなかった。
資料が正しいなら、自分たちは絶望の残党だ。裏切り者だけが、未来機関の側にいる。
希望を残すためには、絶望を取り除かなければならない。
その絶望の中に葦原がいるなら。
いつか、自分は彼女を殺す側へ回るかもしれない。
狛枝が答えなかったことを、葦原は追及しなかった。
手も離さない。
葦原はその手を見て、少し笑った。
「このまま、したいことしていい?」
「今度は何を試すの?」
「試すんじゃない」
繋いでいない方の手が、狛枝の頬へ触れた。
「したいだけ」
観覧車の下では、触れたのは狛枝だった。今度は彼女が、狛枝に触れている。
「今のキミが絶望かどうか、ボクはまだ答えを出していないよ」
「答えが出るまで待ってたら、死ぬかもしれない」
「それでも、ボクに聞くんだ」
「今ここにいる狛枝くんに聞いてる」
葦原はそこで止まり、狛枝を見た。
「していい?」
狛枝は、机の上のファイルを見た。
絶望の残党。
葦原の名前も、自分の名前も、そこにある。
彼女の気持ちまで幸運が作ったのかもしれない。
今ここで触れることを許せば、あとで絶望として切り捨てる時に、手が鈍るかもしれない。
拒む理由なら、いくらでもあった。
それでも、頬へ触れている手を退ける理由だけが見つからなかった。
「……いいよ」
葦原が顔を寄せる。
唇が触れた。
確かめるような、短い接触で終わるのだと思った。
葦原はすぐには離れなかった。
唇を重ねたまま、狛枝の方へ身体を寄せる。
支える必要はなかった。
それでも狛枝は、空いている腕を葦原の背へ回した。
抱き寄せると、葦原の身体から余分な力が抜けた。
狛枝の腕の中にいることを、初めから決めていたように受け入れた。
唇が離れる。
「嫌だった?」
「嫌なら、しなかったよ」
「したのと、狛枝くんがしたかったのは別」
葦原は狛枝の顔を見たまま、答えを待っている。
狛枝は、頬へ触れていた彼女の手へ自分の手を重ねた。
「じゃあ、ボクからしてもいい?」
「うん」
今度は狛枝の方から顔を寄せた。
一度目より短い接触だった。
それでも、離れたあとの葦原の目元は少し緩んでいた。
「これで、いい?」
「うん。狛枝くん、嫌がってはないね」
「ずいぶん慎重な判定だね」
「狛枝くんが後から条件を変えるかもしれないから」
狛枝は息で笑った。
——好きなのだと思った。
彼女が希望か絶望かという評価ではない。才能がどれほど価値を持つかとも関係がない。
構造を追っている時の目も、論理に詰まると一度黙るところも、分からないものを怖がりながら手を離さないところも。
狛枝の側にできてしまった、もっと個人的で始末の悪い感情だった。
「狛枝くん、変な顔してる」
「キミが近すぎるからかな」
「離れる?」
「それは、嫌だな」
「そっか」
葦原は離れなかった。
狛枝も、背へ回した腕を解かなかった。
二度目で答えは出ている。自分が嫌がっていないことも、葦原がまだ触れられることを望んでいることも、もう確かめる必要はない。
それでも、もう一度触れたいと思った。
「……もう一度、してもいい?」
「今度は、何を確かめるの?」
狛枝は一度だけ言葉に詰まった。
理由を作ろうと思えば、いくらでも作れた。
幸運の影響を調べるため。葦原の反応を確認するため。さっきの答えが変わっていないか確かめるため。
どれも、今考えた言い訳だった。
「何も」
狛枝は葦原を見た。
「したいだけだよ」
葦原の目が僅かに開く。
それから、すぐに緩んだ。
「うん」
三度目は、どちらが先に離れたのか分からなかった。
唇が離れても距離は戻らない。
葦原の指が、狛枝の眉間へ触れた。
「また、何も言わないでいなくなること考えてる?」
「どうして?」
「起きたらいなかった時と、少し似てる」
指が離れ、繋いだ手へ戻る。
「起きたらいないの、嫌だった」
責める声ではなかった。
その弱さの方が、狛枝には深く刺さった。
「ごめん」
葦原が狛枝を見る。
「今のは、謝ってるね」
「前は違った?」
「違った」
「あはは。もう誤魔化せないね」
「うん」
葦原はそれで満足したのか、繋いだ手を自分の胸元へ寄せたまま目を閉じた。
限界だったらしい。数分もしないうちに、呼吸が一定になる。
狛枝はその寝顔を見た。
絶望の残党と書かれた記録は消えていない。
自分も、葦原も、ほかの全員も絶望だった。
その中に一人だけ、未来機関から送り込まれた希望がいる。
残すべきなのは、その一人だ。
葦原がそうであればいい。
そう考えるたび、それが資料から導いた推測ではなく、自分の願望であることが分かった。
繋いだ手を解けば、少なくともこれ以上は増えない。
狛枝は解かなかった。
いつの間にか、自分の意識も途切れていた。
*
その日も出口は見つからなかった。
葦原と左右田はエレベーターを調べ、日向たちは塔をもう一度確認した。モノクマは試せそうな方法を見つけるたびに現れ、規則を増やすか、使おうとした道具を取り上げた。
夜になる頃には、話し続ける力も残っていなかった。
葦原は部屋へ戻ると、何も言わず寝台の内側へ寄った。
今度は、狛枝も長椅子を見なかった。
隣へ入ると、葦原は当然のように手を繋いだ。ほどなく、その指から力が抜ける。
狛枝は眠っている彼女を見た。
未来機関の一人だけを残す。
そのために何をするべきか、考えなければならない。
葦原が小さく身じろぎし、狛枝の胸元へ額を寄せた。
「……いる?」
寝言に近い声だった。
「今はいるよ」
「なら、いい」
その先の約束はしなかった。
ずっといるとも、彼女を殺さないとも、彼女だけは助けるとも言えない。
それでも、狛枝は彼女の背へ腕を回した。
眠りへ落ちる直前に浮かんだのは、希望でも絶望でもなかった。
朝まで、この手が離れなければいい。
そんな、どうしようもなく個人的な願いだった。
*
ストロベリー棟の時計が午前二時を指す頃、メカ弐大は一階の廊下に立っていた。
ファイナルデッドルームの扉は、葦原と狛枝が出たあと、何事もなかったように閉じていた。
田中が階段を下りてくる。
「眠れんのか」
「眠りとは、無防備な肉体を闇へ委ねる儀式。今宵の俺様には不要だ」
「腹が減って眠れんだけじゃろう」
「現世の器が発する雑音にすぎん」
田中は弐大の横へ並び、閉じた扉を見た。
「貴様は食物を必要とせん」
「じゃが、ワシ一人が残っても意味はない」
「奴らは、誰も殺さぬと言いながら、誰かが先に倒れる時を待っている」
弐大は否定しなかった。
見張りを交代するたび、一人ずつ声が小さくなっている。出口を探す手も、もう長くは動かない。
「待って死ぬくらいなら、戦って生きろ、か」
「命を自ら捨てる行為は、生への最大の冒涜だ」
「誰かを倒してでもか?」
「倒されぬために、あらゆる力を尽くす。それが生きるということだ」
田中が弐大を見る。
「貴様なら、俺様の言語を誤訳はすまい」
「ワシと勝負せいと言うとるんじゃな」
「どちらが地へ伏すかは、運命にも分からん」
弐大の目に、白い光が灯った。
「面白い」
声が、廊下を震わせる。
「じゃが、一つだけ決めておくぞ。負けるための勝負はせん。手加減も、途中で命を投げるのもなしじゃ」
「当然だ。俺様を侮辱するな」
「勝った方は?」
「残る者を、この檻から生きて出す」
「裁判で負ければ、勝った方も死ぬぞ」
「ならば裁きの場でも勝ち、生を奪い取るまで」
弐大は大きく笑った。
「よかろう! 互いの全力を使う。最後まで、生き残るために戦うぞ!」
差し出した拳へ、田中は自分の拳を当てた。
金属と骨が触れ、短い音がする。
田中はファイナルデッドルームの取っ手へ手をかけた。
「通さんと言われておるぞ」
「貴様が見張りだ」
「今はな」
弐大は道を塞がなかった。
扉が閉じる。
命がけの部屋の中で何が起きたか、弐大は見なかった。
再び扉が開いた時、田中の外套には新しい傷が一つ増えていた。
暗黒四天王は四匹とも揃っていた。
田中も、生きていた。
「時と場所は?」
弐大が聞く。
「太極拳が始まる時刻。鋼鉄の守護者よ、塔で待つ俺様を探し当ててみせろ」
「応!」
二人はそれ以上の言葉を交わさず、それぞれの部屋へ戻った。
廊下の壁にある時計だけが、誰も触れていないような顔で時を刻んでいた。