九頭龍がストロベリー棟二階のラウンジへ出た時、掛け時計は午前五時を少し過ぎていた。
空腹で眠りが浅くなり、寝台へ戻る気にもなれない。長椅子へ座っていると、階段の方から重い足音がした。
メカ弐大が一階へ下りていく。
「こんな時間に何してんだ……?」
九頭龍は掛け時計を見た。
秒針は、何事もなく進んでいる。
部屋に戻る気にもならず、そのままフロアにしばらくいると、掛け時計が突然鳴り出した。
「うるせえ!」
午前五時半。
今まで一度も使われなかったアラームが、金属を叩くような音をラウンジへ撒き散らす。
左右田が粗末な客室から飛び出してきた。
「なんだ!? 朝か!?」
「時計見ろ。まだ五時半だ」
「じゃあ誰が鳴らしたんだよ!」
田中も姿を現す。
「時を告げる鐘に狼狽えるな。魂の弱さが露呈するぞ」
「オメーは平気そうな顔してんじゃねえ!」
左右田が時計のアラームを止める。
直後、建物の下から大きな衝撃が来た。
床が揺れ、ラウンジの額が壁へぶつかる。
「今度はなんだ!」
九頭龍が立ち上がる。
「あっちならエレベーターかもしれねぇ。見てくる!」
左右田が階段を駆け下りる。
田中は動かなかった。
*
同じ頃、マスカット棟でも低い轟音が響いた。
終里は粗末な客室の扉を蹴るように開けた。
「なんの音だ?」
廊下へ出た日向が、首を横へ振る。
「下じゃないか?」と日向が床を見る。
狛枝が部屋の扉をあけて出てくる。その後ろでは、葦原が寝台の上へ身体を起こしていた。
「……始まった。いや、終わったかな」
葦原が寝台から下り、床へ手を当てる。
「振動は一度だけ。塔か、エレベーターが動いた時の音かも」
「見に行く?」
狛枝はそう言い、葦原はエレベーターの方を見たまま少し動かなかった。
「七時の体操には全員集まる。その時に聞こう」
結局、全員が部屋へ戻った。
*
マスカット塔の前へ集まったのは、日向、七海、終里、ソニア、狛枝、葦原の六人だけだった。
ストロベリー棟にいるはずの四人は来ない。
連絡エレベーターも動かなかった。
日向が二階の電話へ走る。
『エレベーターが壊されてる!』
受話器から、左右田の声が響いた。
『制御盤の配線を切られてんだよ。こっちは直すから、塔を見ろ! 弐大がいねえ!』
マスカット塔の扉は開いた。
最初に見えたのは、床へ広がった黒い油だった。
その中央で、メカ弐大の身体が二つに分かれている。
頭部は倒れた柱のそばに転がり、胴体は仰向けのまま動かない。両足には金属のワイヤーが巻かれていた。片方の手の近くには、見覚えのない大きなハンマーが落ちている。
「弐大!」
終里が油の中へ踏み込もうとする。
七海が手を伸ばす。
「待って、多分もう……」
「離せ! まだ分かんねえだろ!」
「私が見る」
葦原は油を避け、弐大の身体の近くへ膝をついた。
首の断面、胸の時計、背中側にある小さな蓋へ順に目を向ける。どこにも手は触れなかった。
狛枝は入口から、その様子を見ていた。
ファイルの文字が、頭の奥に残っている。
超高校級の絶望、その残党。
ここで失われたのは、希望だったのか。絶望だったのか。
ファイルだけでは、目の前の身体へどちらの名をつけるべきか分からない。
「動いてない」
葦原が立ち上がる。
「胸の時計は七時半で止まってる」
塔の時計は、まだ七時十一分だった。
「また、才能の一つが失われたんだね」
「才能じゃなくて、メカ弐大くんが死んだんだよ」
葦原が訂正する。
「今は同じことじゃないかな」
「違う」
日向が狛枝を振り返る。
「狛枝」
「分かってるよ。犯人を見つけないと、次は全員だからね。今はそれでいいだろう?」
いつもの言葉とほとんど同じだった。
ただ、そこにあったはずの熱だけが消えていた。
死体発見アナウンスが、塔の中へ流れた。
*
モノクマファイルに、死因も死亡時刻も書かれていなかった。
その代わり、現場には余るほどの情報が残っていた。
ハンマーには油が付いているが、硬い金属を何度も殴った跡がない。倒れた柱の破片は、弐大の頭部の下と油の中へ散っている。
「ハンマーも柱も、死因を隠すための飾りだね」
七海が言った。
「柱が先に倒れたなら、破片の上へ身体が乗る。弐大くんがぶつかって、柱も折れたんだと思う」
「上から落ちた」
葦原は、足へ巻かれたワイヤーの端を見ていた。
輪のそばには、床から外れた物ではない金属の塊が落ちている。
「これ、ストロベリー塔のドアノブだと思う。輪を上の扉へ掛けて、弐大くんを吊った。塔の床だけマスカット側へ下ろせば、身体は上に残る」
「それで、ワイヤーが外れたら一番下まで落ちる……」
日向が天井を見上げた。
「でも、弐大が起きてたなら、吊る前に抵抗するだろ」
葦原は首の後ろを指した。
ずれた蓋の下に、押し込まれたスイッチが見える。
「オヤスミスイッチ。強制的に意識を切る」
左右田へ電話で確認すると、もう一度スイッチを操作するか、胸のアラームが鳴れば起動するという。
「これを押すのと、死ぬのって、どこから違うんだろうね」
「今は事件を調べよう」
狛枝が言うと、葦原は一度だけ彼を見た。
胸の時計は電波時計で、犯人にも時刻を変えられない。
建物の時計は、すべて二時間遅らされていた。
九頭龍が弐大を見たのは、建物の時計で午前五時。本当は七時だった。
毎朝七時の太極拳へ向かう弐大だけを起こし、ほかの全員を客室へ残すための細工だった。
犯人は弐大を眠らせ、胸のアラームを七時半に設定する。塔の床を利用して身体を吊り上げ、本人が目覚めて動く力で落下させた。
二人が聞いた衝撃音は、その時のものだった。
連絡エレベーターの配線は、工具でまとめて切られていた。ワイヤーも、偽物のハンマーも、工具も、同じ物がオクタゴンに揃っている。
ストロベリー棟とマスカット棟の間を移動するには、ファイナルデッドルームの先にある秘密通路を使うしかない。
現場にいた全員の視線が、狛枝と葦原へ集まった。
「戻ってない」
葦原はすぐに答えた。
「でも、私たちならできた。構造も通路も知ってるし、工具がある場所も見た」
「葦原さんまで、親切に容疑を増やさなくてもいいのに」
「できることを、できないって言ったら、あとで余計に疑われる」
「ボクたちは、音がした時には同じ部屋にいたよ」
狛枝が言う。
受話器の向こうで、九頭龍が答えた。
『タイマーで落としたなら、その時どこにいたかは関係ねえ』
「うん。仕掛けて戻っていればいい」
葦原は否定しなかった。
狛枝も、それ以上は庇わなかった。
彼女は建物の構造を知っている。工具を扱える。全員で死ぬ方がいいと口にしたばかりで、狛枝が眠っている間に部屋を出ることもできた。
狛枝にも、同じことができる。
そして、同じ寝台で眠っていたことは、互いの無実を証明しない。
葦原が犯人なら、絶望だったという記録へ中身ができる。
嫌うための材料になる。
そう考えた一瞬だけ、答えが簡単になったような気がした。
その答えの先で、正しい投票が彼女を処刑へ送る。
胸の内側に生まれた安堵は、すぐに別の恐怖へ裏返った。
彼女に無実であってほしい。
だからこそ、狛枝は自分の判断を信用できなかった。
左右田がエレベーターを直し、ストロベリー棟の三人が合流した。
左右田は弐大の身体を調べ、オヤスミスイッチの蓋にある小さな傷を見つけた。
「棒か何かで押したにしちゃ、細けえ傷だな」
田中の外套の中で、何かが動いた。
四匹ともいる。
狛枝は、その小さな爪と、蓋の傷を見比べた。
田中の外套には、昨夜までなかった裂け目もある。
ファイナルデッドルームへ入った時についた傷かもしれない。
それだけで犯人とは決められない。
けれど、田中は弐大の身体を見ても、一度も驚いたふりをしなかった。
捜査終了を告げる声が響く。
狛枝は答えを口にしないまま、地下へ続く昇降機へ乗った。
*
学級裁判では、最初に死の仕組みが確かめられた。
ハンマーは偽物の凶器。
弐大はストロベリー塔から落下し、柱へ激突した。
建物の時計を二時間遅らせたのは、弐大だけを本当の七時に動かすため。
連絡エレベーターを壊した犯人は、オクタゴンの秘密通路で二つの棟を移動した。
そこまでの仕組みは、葦原と七海の説明で繋がった。
残ったのは、誰がそれをしたかだった。
「一番怪しいのは、やっぱりオメーら二人だろ」
左右田が狛枝と葦原を見る。
「秘密通路を知ってて、工具も見てる。夜は二人だけ。口裏合わせたら何でも言えるじゃねえか」
「私を犯人に置くとして」
葦原が言った。
「音が鳴る前に仕掛けて部屋へ戻る。狛枝くんが寝てる間ならできる」
「キミが眠ったあとなら、ボクにもできるね」
「面白がるなよ!」
「面白がってはいないよ」
狛枝は笑っていた。
その笑いを、自分でも信じてはいなかった。
「でも、ボクたち二人にできるというだけでは、どちらがやったか決められない」
「だったら、オヤスミスイッチだ」
日向が言った。
「弐大の後ろへ回れないなら、長い棒か何かで――」
「予備学科らしい、つまらない発想だね」
裁判場が静かになった。
「……何だって?」
日向が狛枝を見る。
長い棒が正しいかどうかは、ほとんど関係なかった。
狛枝の頭に浮かんだのは、ファイルにあった空欄だった。
才能欄――空白。
所属――希望ヶ峰学園予備学科。
才能を持たない日向が、超高校級の生徒たちと同じ場所に立ち、同じ顔で答えを求めている。
葦原を絶望だと切り捨てられない自分の揺らぎより、その事実へ軽蔑を向ける方が簡単だった。
「特別賞のファイルに書いてあったんだ。日向クンは希望ヶ峰学園の予備学科。思い出せない才能なんて、最初からなかったんだよ」
「狛枝くん」
葦原が名前を呼ぶ。
責める声ではない。
戻る前に決めたことを、覚えているか確かめる声だった。
狛枝は一度だけ彼女を見た。
「今、必要な部分だけだよ」
言い訳だということは、自分でも分かっていた。
「俺に才能がないことと、推理に何の関係がある」
日向は目を逸らさなかった。
「棒じゃないなら、何を使ったと思うんだ」
「小さくて、弐大クンが敵だと思わないもの」
狛枝は田中の外套を見た。
暗黒四天王の一匹が、襟元から顔を出している。
「彼らなら、蓋の隙間へ爪を掛けられる。身体ごとスイッチへ乗れば、弐大クンの背後へ人が回る必要もない」
「我が眷属へ、罪人の刻印を押すか」
田中が低く言う。
「刻印じゃねえ」
左右田が答えた。
「蓋の傷と爪の大きさは合う。押すことも、多分できる」
「ですが、それだけで田中さんが犯人とは――」
「もちろん、決められない」
七海が答える。
「暗黒四天王が押すことができたとしても、田中くんが全部の仕掛けを作った証拠にはならないよ」
「じゃあ、秘密通路だ」
九頭龍が言う。
「犯人はストロベリー塔で弐大を眠らせたあと、ストロベリー側の扉のスイッチを壊した。連絡エレベーターも使えねえ。そこからマスカット棟へ回って、塔の床を下げるには、オクタゴンの通路しかない」
「そこを通ったのが確実なのは、狛枝と葦原だろ!」
左右田が二人を指す。
「犯行より前に、ね」
狛枝は楽しそうに見える声で答えた。
「犯人もファイナルデッドルームを突破したんだよ。オクタゴンから工具とワイヤーを持ち出し、建物の仕組みと通路を知った」
「突破した人を、モノクマは教えてくれませんね」
ソニアが議長席を見る。
「個人情報だからね!」
モノクマが胸を張った。
「殺人の挑戦者情報を守る、信頼と実績の学園長です!」
「自分の機嫌で範囲変えるくせに」
葦原はモノクマへと言葉を投げ捨てた。
「じゃあ、行動から絞るしかない」
そこから先は早かった。
九頭龍は、本当の七時からアラームが鳴るまで、ストロベリー棟二階のラウンジにいた。
左右田が客室から出てきたところは見ている。田中は、アラームが鳴ったあと、階段側から現れた。
豪華な客室は防音で、ラウンジのアラームは聞こえない。
田中が部屋で眠っていたなら、あの時刻に出てくる理由がない。
秘密通路から戻った犯人は、九頭龍がラウンジにいたため客室へ入れなかった。
だからアラームを鳴らし、ほかの者が起きてきた騒ぎへ紛れた。
「違うなら教えてくれ、田中」
日向が正面から田中を見る。
「五時半、どこからラウンジへ来た?」
「沈黙を敗北と読むな」
田中は胸を張ったまま答えた。
「貴様らの推論には、最後の穴がある。鋼鉄の守護者は、なぜ俺様の待つ塔へ一人で踏み込んだ?」
「毎朝の体操に行ったからだろ」
「道が閉ざされているなら、仲間を呼ぶこともできた。奴は愚かではない」
終里が、田中を睨んだ。
「弐大が、自分から行ったって言いたいのか」
「奴は、俺様の殺気を感じ取った。己の前に立つ敵を見つけ、逃げずに戦いを選んだ」
「騙してスイッチ押して、吊ったのが戦いかよ!」
「その言葉で、奴を侮辱するな!」
田中の声が、終里の怒鳴り声を断った。
暗黒四天王が、外套から一斉に顔を出す。
「奴と俺様は、互いに一切の手加減を禁じた。己が持つ力の全てを使い、生き残るために戦ったのだ!」
「オヤスミスイッチもか」
「俺様の力は、この身の筋肉だけではない。眷属を従え、獣の習性を読み、敵が立つ地を支配する。それが超高校級の飼育委員たる俺様の全力だ!」
田中は負けるために挑んだのではない。
弐大も、殺されるために塔へ入ったのではない。
どちらが勝っても、生き残った方がこの閉じた場所を終わらせる。
二人は、そのために互いを倒そうとした。
「弐大くんも、負けるつもりはなかった」
葦原が田中を見る。
「目が覚めてすぐ、拘束を破ろうとした。ドアノブまで引き千切った。それでいい?」
「貴様の推論へ答える義務はない」
「うん」
葦原は追及しなかった。
終里が、弐大の写真へ顔を向ける。
「弐大は、最後まで生きようとしたんだな」
「当然だ」
「田中、お前も?」
「俺様が敗北を望むとでも思ったか」
「だったら、なんでオレらに言わなかったんだ!」
「言えば止めたであろう」
「当たり前だ!」
「そして全員で、誰かが先に倒れる時を待ち続ける。それを生と呼ぶ気はない」
ソニアの目から、涙が落ちた。
「わたくしたちを生かすため、だったのですか」
「俺様の決断を、貴様らへの献身だけで小さくするな」
田中は弐大の写真を見た。
「俺様は生きるために戦った。奴も同じだ。勝者がこの檻を破り、残る者を率いる。それだけの契約だった」
「結果として、全員は助かった!」
モノクマが議長席で手を叩く。
「仲間を生かすために命を張るなんて、まさに希望の塊だよね! その恩人を正しく裁いて処刑するのは、とっても絶望的だけど!」
「昨日、同じことを聞いた」
葦原がモノクマを見る。
「誰かがみんなを生かすために殺したら、どうするのって」
「だから希望の塊だって答えたじゃん!」
「殺しても希望。裁けば絶望。そのあと生きようとすれば、また希望」
葦原の声は平らだった。
「田中くんと弐大くんが何を選んでも、モノクマの欲しい筋書きに直せる」
狛枝は田中を見た。
「それでも、停滞した状況へ二人が道を作ったことは変わらないよ。その死を無意味にしないためにも、ボクたちは正しく犯人を選んで、生き残らないといけない。残るべき希望を――」
「今、狛枝くんも同じことしてる」
葦原が、狛枝を見る。
「ボクとモノクマが?」
「最後に残したいものは逆。でも、二人が決めたことへ、自分の言葉を被せてる」
「希望に繋がるなら、何が不満なの?」
狛枝が葦原へ聞く。
「田中クンと弐大クンの死を無意味にしないためにも、ボクたちはここで正しく犯人を選ばないといけない。そして生き残った才能が――」
「また同じ問答する気?」
葦原は狛枝を見返した。
「私はこの仕組みが気に入らない」
「使わなければ、ただ失うだけだよ」
「だから全員死ねばいいって言ったの」
「それに何の価値があるのかな」
「それを決めるために、また誰か死ななくていい」
「黙れ」
田中が二人を遮った。
「俺様と弐大の決闘を、貴様らの言葉を飾る骨へ変えるな。希望も絶望も、他者が俺様へ嵌めるならば首輪にすぎん」
狛枝の笑みが消えた。
「希望を、首輪と呼ぶんだ」
「名を与えられねば己の道も選べぬ者には、そう見えぬのであろう」
希望という名を拒む、その強ささえ、絶望に負けない希望だと言うことはできる。
何を示されても、最後には希望の一部として取り込める。
それでは、葦原が言ったモノクマの仕組みと、どこが違うのか。
違う。
最後に望むものが違う。
そう答えることはできた。
けれど、それはオクタゴンで一度使った答えだった。
「田中さん」
ソニアが涙を拭かずに呼ぶ。
「わたくしは、あなたに死んでほしくありません」
「ならば全力で俺様を裁け。誤った情けで全員の命を捨てれば、弐大の戦いまで無に帰す」
「それでもです」
「貴様が望むことと、俺様が進む道は別だ」
投票装置が、それぞれの前へ現れた。
狛枝は田中の名へ指を置く。
田中は仕掛けを作り、弐大が落ちた瞬間にはそばにいなかった。
最後に落下を起こしたのは、目覚めた弐大自身の動きだった。
それでも、黒は田中になる。
仕掛けを作った者と、死の瞬間に手を下す者は、同じでなくてもいい。
本人が選んだつもりのない動作へ、殺人の結果だけを結びつけることもできる。
狛枝には、未来機関の一人が誰か分からない。
葦原であってほしいという願いが混ざる以上、自分で見極めることもできない。
ならば、自分ではなく――。
「狛枝くん」
隣から名前を呼ばれ、思考が止まった。
葦原は投票装置へ手を置いたまま、こちらを見ている。
いつもより長く黙っていたことに気づいたらしい。
「間違えないで」
「分かっているよ」
狛枝は田中眼蛇夢へ票を入れた。
*
田中は、処刑場へ引かれる直前まで胸を張っていた。
「さらばだ、愛しき怨敵どもよ!」
田中は処刑場へ引かれる直前まで、胸を張っていた。
「俺様の眷属に、貴様らの湿った感傷を与えるな。奴らは破壊神だ!」
「田中さん!」
ソニアが手を伸ばす。
暗黒四天王は田中の外套へしがみついたまま、処刑場へ消えた。
モニターへ、乾いた大地が映る。
地平線の向こうから、無数の動物が砂煙を上げて迫っていた。
田中は地面へ棒で魔法陣を描く。四匹を円の外にある岩陰へ移し、自分だけが中央へ立った。
両手を合わせる。
光は出ない。
動物の群れが、田中の身体を呑み込んだ。
ソニアが小さく息を吸う。
砂煙が晴れたあと、地上に田中はいなかった。
岩陰から出た四匹の上を、翼を持つ動物たちが空へ昇っていく。
最後まで大げさな処刑映像の中で、四匹だけが生きていた。
モニターが暗くなる。
モノクマの声とともに、裁判場の床へ、小さな籠が下ろされた。
「ハムスターはお仕置き対象外だからね!ボクってばやさしーい」
ハムスターが中で身を寄せ合っている。
ソニアが籠を抱き上げた。
「破壊神暗黒四天王です」
涙で声を震わせながら、モノクマへ言う。
「ハムスターさんではありません」
「そこ訂正するんですね」と左右田が呟いた。
「田中さんから託された、大切な破壊神暗黒四天王さんです!」
「別に託しては――」
「託されました!」
モノクマが言い終える前に、ソニアが断言した。
終里が籠へ顔を近づける。
「食わねえから、安心しろ」
四匹が一斉に籠の反対側へ逃げた。
「なんで逃げんだよ」
「日頃の行いだろ」と九頭龍が言う。
誰も笑いきれなかった。
それでも、処刑後の裁判場に、人の声が少しだけ戻った。
*
いつの間にか気を失い、起きた時には外だった。
遊園地にある列車に乗っていた。
「約束どおり、コロシアイが起きたので解放しまーす!」
モノクマが車掌帽を振る。
その後駆け込んだレストランには、温かいスープ、パン、米、肉、果物が並んでいた。
終里は椅子へ座る前に肉へ手を伸ばす。
「待て!」
左右田が皿を遠ざけた。
「何日も食ってねえ後に、いきなりそれだけ入れたら腹壊すぞ! まずスープ!」
「オメー、もうパン食ってんじゃねえか」
九頭龍が左右田の皿を見る。
「これは安全確認だ!」
終里は左右田が見ていない間に肉を一切れ取り、丸ごと口へ入れた。
「噛め!」
「噛んだ」
「一回じゃ噛んだうちに入らねえ!」
日向は自分のスープを飲みながら、久しぶりに聞く騒がしさへ息を吐いた。
空席がまた増えている。
騒がしさが、それを埋めるわけではなかった。
ソニアは暗黒四天王へ、パンを小さくちぎって与えていた。
「こちらはお召し上がりになりますか?」
「ハムスターに塩気のある物はやめた方がいいんじゃねえか?」
左右田が言う。
「破壊神です」
「種類の話です、ソニアさん」
「果物を少しにしよう」
七海が林檎を細く切る。
「ゲームでも、小動物の餌は好感度に影響するからね」
「現実の生き物で試すなよ」と日向が言った。
一匹が林檎を受け取る。
ソニアは泣きそうな顔で笑った。
空席は、また二つ増えていた。
食べ物が並んでも、その場所だけは埋まらない。
狛枝の前にあるスープは、ほとんど減っていなかった。
絶望の残党が、二人の死によって生かされている。
そう考えると、口へ入れる物がすべて、誰かの命から作られたように見えた。
葦原がパンを狛枝の皿へ置く。
「食べないの?」
「食欲が追いつかなくてね」
「身体は必要としてる」
「キミは、まだボクの身体を直す担当なのかな」
「今は食べさせる担当」
「ずいぶん役割が増えたね」
「食べないなら、口に入れるけど」
左右田の手が止まった。
「また始まったぞ」
「何が?」
「本人らに自覚ねえやつだよ!」
「今はある」
「あるのかよ!」
狛枝は皿のパンを手に取った。
「自分で食べるよ」
「うん」
一口噛む。
隣で葦原がスープを飲んでいる。
同じ絶望の残党という分類へ、彼女を入れることはまだできなかった。
けれど、彼女に食べろと言われたから食べたという事実だけは、分類し直す必要もなかった。
残りのパンも、狛枝は口へ運んだ。
「狛枝」
向かい側から、日向が呼ぶ。
「さっきのファイル、俺のこと以外に何が書いてあった」
食卓の音が止まった。
「この建物を出る役には立たない、って言ってたよな。それでも俺たちのことが書いてあるなら、見せろ」
「今、知りたい?」
「当たり前だ」
「今は駄目」
答えたのは葦原だった。
日向が眉を寄せる。
「隠す気か?」
「全員、まだ頭がまともに動いてない。食べて、寝て、明日の朝。ファイルをどう扱うか、全員で決める」
「逃げんなよ」
九頭龍が言う。
「逃げない」
「狛枝もだ」
日向の視線が狛枝へ移る。
「ボクが逃げたら、葦原さんが追ってくるんじゃないかな」
「追うよ」
葦原は冗談にしなかった。
狛枝も、その話し合いに従うとは約束しなかった。
その違いに気づいたのか、葦原がこちらを見る。
何も言わず、残ったスープを飲み切った。
*
食事が終わる頃には、外が暗くなっていた。
誰も一人で部屋へ戻ろうとしない。
ソニアは暗黒四天王の籠を抱え、終里はそのすぐ後ろを歩いた。左右田は、弐大の身体を回収できないか、モノミへ聞き続けている。
狛枝が自分のコテージへ向かうと、葦原も曲がり角を変えずについてきた。
「自分の部屋へ戻らなくていいの?」
「狛枝くんの部屋に行く」
「今日は質問じゃないんだ」
「嫌なら戻る」
葦原は立ち止まらない。
「嫌だとは言っていないよ」
「じゃあ行く」
「決まるのが早いね」
コテージの中には、連れ去られる前の物がそのまま残っていた。
ベッドの横には、以前、葦原が使った椅子もある。
狛枝が椅子の背へ触れる。
「キミが寝るなら、ベッドを使っていいよ。ボクはここでも――」
「今日は一緒に寝る」
狛枝の手が止まった。
「椅子を二つ並べる、という意味ではないよね」
「ベッドで」
「一つしかないけど」
「知ってる」
葦原はベッドの片側へ腰を下ろした。
「ファイルを見張りに来たの?」
「それもある」
「それも?」
「狛枝くんも、一人にしたくない」
答えてから、靴を脱ぎ、壁側へ身体を移す。
狛枝が入れるだけの場所を、最初から空けていた。
「オクタゴンで読んだことは、消えていないよ」
「うん」
「ボクがキミをどう見るかも、まだ決めていない」
「それも聞いた」
「同じ寝台へ入れば、何かが決まると思ってる?」
「思ってない」
葦原は枕を半分だけ空けた。
「今日は二人とも生きて戻ったから、一人で寝たくないだけ」
「ボクでいいの?」
「狛枝くんがいい」
以前、一緒に死ぬ相手として選ばれた時と同じ答えだった。
今度は、生きて戻った夜に選ばれている。
狛枝は椅子から手を離した。
上着を脱ぎ、ベッドの反対側へ入る。
二人の間には、腕一本分の隙間が残った。
「近すぎたら言って」
葦原が言う。
「キミから近づいたのに?」
「同じベッドにしたかった。距離はまだ決めてない」
「相変わらず、分類が細かいね」
狛枝が仰向けになる。
葦原も同じ向きで天井を見た。
しばらくして、寝具の上を葦原の手が動く。
狛枝の手へ触れる一歩手前で、止まった。
「そこは聞くの?」
「今日は、勝手にしたくない」
「いいよ」
葦原の指が重なる。
手を繋いでも、二人の間の隙間は残った。
「明日になったら、ボクはもっとキミを嫌うかもしれない」
「その時は、明日聞く」
「今夜だけ保留?」
「狛枝くんも、まだ決めてないんでしょ」
「そうだね」
「じゃあ、今は寝る」
葦原が目を閉じる。
ファイルに書かれた絶望は消えていない。
田中を正しく裁き、処刑へ送った事実も消えない。
未来機関の一人だけを残すなら、ほかの全員を取り除かなければならない。
誰がその一人か、自分には分からない。
葦原であってほしい。
その願いがある限り、狛枝自身が選ぶ答えは信用できない。
裁判で途切れた考えが、もう一度戻ってくる。
仕掛けた者と、最後に結果を起こす者は、同じでなくてもいい。
本人が選んだつもりのない動作へ、殺人の結果だけを結びつけることもできる。
自分で一人を選べないなら、選ぶ部分だけを自分の外へ出せばいい。
それはまだ、方法ですらなかった。
何を使えば、そんな仕組みを作れるのかも分からない。
ただ、田中の事件で見た原理だけが、消えずに残った。
繋いだ指へ、葦原が少しだけ力を入れた。
「また、いなくなること考えてる?」
目は閉じたままだった。
「どうして?」
「手が遠くなった」
狛枝は、いつの間にか緩めていた指を握り直した。
「今夜は行かないよ」
「朝は?」
「朝になったら、ファイルをどうするか決めるんでしょう?」
「質問で返さないで」
葦原が目を開ける。
狛枝は少し笑った。
「朝まではいるよ」
その先は約束しない。
ずっといるとも、彼女を殺さないとも、彼女だけは助けるとも言えなかった。
葦原はしばらく狛枝を見ていたが、それ以上は聞かなかった。
「なら、いい」
目を閉じ直す。
繋いだ手の温度は、絶望という記録と同じくらい確かだった。
どちらか一つを選ぶ代わりに、狛枝は明かりを消した。
暗闇の中で、腕一本分あった隙間だけが、眠るまでに少し狭くなった。