希望と絶望は、不幸と幸運に似ている。   作:an-ryuka

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20.

 

 翌朝、レストランへ先に集まったのは六人だった。

 

 ソニアは暗黒四天王の籠を隣の椅子へ置き、林檎を細かく切っている。終里が横から一切れ取ろうとすると、四匹が一斉に頬袋へ詰め込んだ。

 

「速えな、こいつら」

 

「食料を奪おうとなさるからです」

 

「一個くらいいいだろ」

 

「終里のはそっちにあるだろうが」

 

 九頭龍が指す。

 

「あれはオレの分だ」

 

「だから、それを食えっつってんだよ」

 

 左右田は入口を何度も見ていた。

 

「あいつら、また二人揃って来ねえぞ」

 

「同じコテージへ行ったんだから、一緒に寝てんだろ」

 

 終里がパンを齧りながら言う。

 

「知ってるよ! 問題は、その先だろ!」

 

「何が問題なの?」

 

 七海が首を傾ける。

 

「なんつーか、順序とか、距離とか、色々あんだろ!」

 

「左右田くんが管理することではないと思うよ」

 

「オレだって管理してえわけじゃねえ!」

 

「朝から他人の寝床の話すんな」

 

 九頭龍がスープを飲む。

 

「本人に聞けばいいだろ」

 

「聞けるか!」

 

「オレが聞くか?」

 

 終里が言った。

 

「やめろ!」

 

 左右田が止めるより先に、レストランの扉が開く。

 

 葦原と狛枝が並んで入ってきた。

 

「おはよう」

 

 葦原が普段と同じように言う。

 

 終里は挨拶を返さず、正面から聞いた。

 

「お前ら、昨日やったのか?」

 

 葦原の足が止まった。

 

「終里!」

 

 左右田の悲鳴が遅れて響く。

 

「何だよ。聞けって言っただろ」

 

「オレは言ってねえ!」

 

「それ以外に何を聞くんだ?」

 

 葦原は終里から目を逸らした。

 

 何を指しているか分からなかったわけではないらしい。耳が少しずつ赤くなっていく。

 

「……言わない」

 

「否定しねえんだな」

 

「言わないって言った」

 

「じゃあ狛枝に――」

 

「狛枝くんも言わないで」

 

 答えようとした狛枝を、葦原が先に止めた。

 

「分かったよ。二人の秘密にしておこうか」

 

「その言い方やめて」

 

 狛枝の口元に浮かんだ笑みを見て、左右田が両手で顔を覆った。

 

「何なんだよ、こいつら……」

 

「終里さん。殿方と女性の夜を、食卓で詳らかになさるものではありません」

 

 ソニアが真面目な顔で注意する。

 

「あとで女性だけの席で伺いましょう」

 

「ソニアさんまで聞くんですか!?」

 

 左右田が頭を抱えた。

 

「プライベートイベントの選択肢を間違えたね」

 

 七海が言う。

 

「正解あったのかよ」と日向が聞いた。

 

「何も聞かずに朝食を始める、かな」

 

「最初に出せ」

 

 実際に何をしたか、周囲が想像しているものとは違っていたけれど、訂正する理由を、狛枝は見つけなかった。

 

 葦原は空いている席へ座り、狛枝が当然のように隣へ入る。

 

 左右田は二人を見比べ、何か言おうとして諦めた。

 

 軽口が終われば、空席が残った。

 

 弐大の大声も、田中の芝居がかった挨拶もない。

 

 昨日まで二人がいた場所を避けるように、残った者たちだけが小さく集まっていた。

 

 その全員が、狛枝には以前と違って見える。

 

 素晴らしい才能を持ちながら、その才能を絶望へ使った者たち。

 

 その中に一人だけ、未来機関から送り込まれた希望がいる。

 

 誰なのかは、まだ分からない。

 

 葦原がそうであればいいという考えは、資料から導いた推測ではなかった。

 

 ただの願望だ。

「なぁ、昨日のファイル」

 

 日向が二人を見て言った。

 

「朝になったら、どうするか決めるって言ったよな」

 

 葦原の手が一度止まる。

 

 狛枝は上着の内側からファイルを出し、机へ置く。

 

「今ここで読んでもいいよ。ボクは別に困らないからね」

 

「駄目」

 

 葦原が答えた。

 

「また隠す気か?」

 

「いつもと一緒なら、第五の島へ行けるはず。エンジンに使える部品があるか、先に確かめたい」

 

「ファイルと何の関係があるんだよ」

 

「この中には、今の私たちを分断させる可能性を持つ情報がある」

 

 食卓の空気が変わった。

 

「モノクマが作った記録だから、全部本当とは限らない。でも、読んだら無視できない。エンジンが完成するまでその疑心暗鬼を作る必要はない」

 

「何を疑うんだ」

 

 九頭龍が低く聞く。

 

「それを今言ったら、読んだのと同じになる」

 

「勝手に決めるなよ」

 

 日向が机へ手を置く。

 

「俺のことは、裁判で勝手に話しただろ。それ以外だけ伏せておくなんて納得できるか」

 

「ボクが話したんだよ。葦原さんじゃない」

 

「同じファイルを二人で隠してるのは変わらない」

 

 狛枝は答えず、葦原を見た。

 

 今読ませれば、全員が絶望の残党だと知る。

 

 裏切り者を探す場は、すぐに始められる。

 

 それでも、葦原が他の方法を試したいと言うなら、止める必要はなかった。

 

 それに彼女がエンジンへ使う時間を、狛枝は別のものへ使える。

 

「あと、どれくらいで完成するんだ」

 

 九頭龍が左右田へ聞いた。

 

「足りねえ部品が見つかれば、二日。見つからなきゃ完成しねえ」

 

「なら二日だ」

 

「九頭龍!」

 

「ただし、終わったら全部見せろ。船が使えようが使えまいが、その先は待たねえ」

 

 九頭龍が葦原を見る。

 

「それでいいか」

 

「うん」

 

「狛枝は?」

 

「みんながそう決めるなら、構わないよ」

 

 狛枝はファイルを懐に仕舞った。

 

 葦原は何も言わなかった。

 

 

 食事が終わる頃、レストランの入口からモノミが転がり込んできた。

 

「み、みなさん! 最後のモノケモノを倒しまちた!」

 

 白い身体のあちこちが汚れ、片耳に泥のような染みが付いている。

 

「これで、五番目の島へ行けまちゅ!」

 

「最初から全部倒せよ」

 

 九頭龍が吐き捨てる。

 

「できたら、とっくにやってまちゅ!」

 

 モノミが両耳を振り上げた。

 

 それぞれ第五の島へ向かう準備を始める。

 

 レストランを出たところで、葦原が呼び止める。

 

「第五の島、一緒に行こ」

 

「左右田クンと行かなくていいの? エンジンに使える部品があるかもしれないよ」

 

「必要なものがあったらその時連絡すればいい」

 

「それなら、七海さんや日向クンでもいいんじゃない?」

 

「狛枝くんと行きたい」

 

 ファイルを読む前と、何も変わらない調子で言われた。

 

「ボクが、キミを殺すかもしれないよ」

 

「今は殺さないでしょう」

 

「どうして分かるのかな」

 

「今、私一人を殺しても、裏切り者を残すことにはならない。狛枝くんの目的に合わない」

 

 狛枝は僅かに目を細めた。

 

 裏切り者以外をどうするつもりか、葦原へ話したことはない。

 

 けれど、彼女はオクタゴンで資料を読んだ時から、狛枝がどこへ進むかを考えていたらしい。

 

「目的とは関係なく殺すかもしれないよ」

 

「それなら、昨日寝てる間にできた」

 

「ずいぶん信用されているね」

 

「信用じゃなくて、今までの結果」

 

「何か隠しているかもしれないよ」

 

「だから近くにいる」

 

「キミは警戒しているのか、一緒にいたいだけなのか、どちらなんだろうね」

 

「両方」

 

 葦原は答えを一つに決めず、狛枝の前へ手を出した。

 

 取るべきではない。

 

 絶望である彼女と距離を置き、未来機関の人間を探すことだけに集中するべきだ。

 

 それでも狛枝は、その手を取った。

 

「本当に、ボクは困ってばかりだね」

 

「嫌?」

 

「嫌じゃないから困ってるんだよ」

 

 二人は手を離さないまま、第五の島へ向かった。

 

     *

 

 第五の島には、これまでの島とは違う大きな建物が並んでいた。

 軍事施設、工場、研究施設。観光客が休暇を過ごすための場所には見えない。

 

 左右田たちは、機械部品がありそうな、ワタツミ・インダストリアルという看板が残る施設に集まっていた。

 

「ここ知ってるぞ」

 

 左右田が看板を見上げる。

 

「絶縁材とか機械部品を作ってる会社だ。そんなデカい会社じゃねえけど、研究設備は結構いいって聞いたことある」

 

 建物の内部には、用途の分からない機械が何台も並んでいた。

 

 人型の骨格を組み立てる腕。金属板を切り出す装置。別の区画には、動物を模した大型機械の部品が積まれている。

 

「モノケモノを作った場所かな」

 

 七海が装置を見上げる。

 

「元からじゃない」

 

 葦原は床へ屈み込み、機械の脚と基礎の境目を見ていた。

 

「柱と搬入口は研究施設の使い方。製造設備だけ後から入れてる」

 

「モノクマが作ったのに、後も先もねえんじゃねえのか?」

 

 左右田が聞く。

 

「作った順番はなくても、設計の順番は残る。最初からこの機械を置くなら、柱を二十センチずらす。排気もこんな遠回りにしない」

 

 葦原は天井へ伸びる管を目で追う。

 

 元の建物を壊さず、新しい設備を収めるために、配管は二度折れ曲がっていた。

 

「建物が先。モノケモノが後」

 

 工場の奥には、密閉型の軸受けや防水処理された部品が保管されていた。

 

 左右田が一つを持ち上げ、型番を確認する。

 

「これ使えるぞ! 海水が入るとこの処理、ずっと弱かったんだよ!」

 

 葦原も別の箱を開ける。

 

「軸継手もある。寸法合えば、遊園地のモーターと繋げられる」

 

「持って帰って測る。オメーも来い」

 

「ほかの建物見てから」

 

「先にやることあんだろ!」

 

「どれが使えるか決めるのも先」

 

 左右田は言い返しかけたが、葦原が既に次の棚を見ているのを見て諦めた。

 

「勝手に軍事施設の武器触んなよ!」

 

「誰に言ってるの?」

 

「二人ともだよ!」

 

 左右田は使えそうな部品を台車へ載せ、先にホテルへ戻っていった。

 

 

 別の区画にはモノクマの顔をした工場があった。ベルトコンベアの上を大量のモノクマが流れ、無人の機械によって次々と組み立てられていた。

 

 葦原は製造線ではなく、工場全体を見ていた。

 

 入口。

 

 柱。

 

 天井を通る配線。

 

 製造線の横へ続く細い通路。

 

 視線が、一つずつ順番に動いていく。

 

 やがて、葦原は何も言わずに歩き出した。

 

 製造線の流れへ逆らい、工場の右端へ向かう。

 

 そこには、継ぎ目のない白い壁しかない。

 

 葦原は壁の端へ指を掛けた。

 

 狛枝には何もないように見えた場所から、細い板が外れる。その内側に、埋め込まれた取っ手があった。

 

「よく見つけたね」

 

「ここにあると思ったから」

 

 取っ手を引く。

 

 壁の一部が開き、狭い点検通路が現れた。

 

 照明は自動で点く。

 

 葦原は迷わず中へ入った。

 

「初めて来た場所だよね?」

 

「うん」

 

「どこへ繋がっていると思う?」

 

「制御室。途中で二つに分かれて、左が電源、右が製造線の裏」

 

 通路は、葦原が言った位置で二つに分かれていた。

 

 左へ進むと、予備電源と配線盤が並ぶ小部屋に出る。

 

 右側には、工場全体を見下ろせる制御室があった。

 

 葦原は室内へ入らず、入口で止まった。

 

「どうしたの?」

 

「これ、違う」

 

「何が?」

 

「ほかの建物と違う」

 

 葦原は、ガラスの向こうで動き続ける製造線を見る。

 

「島の建物は、表に出るところが別の人で、見えないところだけ私だった。写真とか記録にない部分を、私の考え方で埋めたように見えた」

 

「ここも、点検通路はキミらしいんでしょう?」

 

「通路だけじゃない」

 

 葦原は床を指す。

 

「柱を決めたところから私。搬入、製造、検査、保管をこの順番に置いたのも私。壊れた区画を切り離す位置も、予備線を二本に分けたのも」

 

「モノクマの顔まで?」

 

「顔と籠は違う。完成品をあんなところへ落としたら、検査と保管が繋がらない。見せるために後から変えてる」

 

 巨大な籠の手前で、床の線だけが不自然に途切れている。

 

 本来は、その先に別の設備が続いていたのかもしれない。

 

「でも、建物と製造線は私」

 

 声は平らだった。

 

 驚いているようにも、怯えているようにも聞こえない。

 

 狛枝は制御室へ入った。

 

 壁一面に、製造線の状態を示す表示が並んでいる。一つの区画を停止させるボタンはあるが、工場全体を止める操作は見当たらない。

 

「非常停止は?」

 

「製造区域にはない」

 

「危険じゃないかな」

 

「止める人を信用してないから」

 

 葦原は制御盤の端を示した。

 

「一人が何かしても、その区画しか止まらない。隣へ迂回して製造は続く。管理側から全部切ることはできるけど、工場の中にいる人には触れない」

 

「作業する人より、作っている物を守るんだね」

 

「作業する人が壊しに来る前提なんだと思う」

 

「絶望らしい設計だ」

 

「そうだね」

 

 葦原は否定しなかった。

 

「誰かに命令されて作った可能性は?」

 

「命令されたなら、要求された量を作れるところで止める」

 

 葦原の指が、複数に分けられた製造線を順に辿る。

 

「これは、壊される前、止められる前、部品を抜かれる前まで考えてる。頼まれてない問題まで先に潰してる」

 

「キミが、作りたかった?」

 

「多分」

 

 答えるまでに、長い時間はかからなかった。

 

「モノクマ一体を守るより、壊されても困らない数を作る。意識を一つにして、身体だけ交換できるようにする」

 

 工場へ入った直後、葦原はモノクマを、同じ制御元から動く端末だと考えた。

 

 初めて見た仕組みを推測したのではない。

 

 過去の自分と同じ問題へ、同じ順番で答えを出したのかもしれない。

 

「作っていた時、楽しかったと思う」

 

 葦原は工場を見下ろした。

 

「壊されても止まらない。私の理想に近い設計」

「働く人間の安全を、要件から外してる。現実なら通らない」

 

 ファイルに書かれた一行より、ずっと明確だった。

 

 葦原は、超高校級の絶望だった。

 

 その才能を奪われたのではなく、自分から絶望のために使った。

 

 嫌うべき理由が、ようやく中身を持った。

 

「素晴らしいね」

 

 狛枝の口から笑いが出る。

 

「これほどの才能が、モノクマの身体を増やすために使われたんだ。希望の象徴だったはずの才能が、自分から絶望を守る仕組みを作った」

 

「狛枝くん」

 

「どうしたのかな?」

 

「何考えてるの?」

 

 答えは決まっているはずだった。

 

 絶望へ才能を捧げた葦原を、嫌悪するべきだ。

 

「才能の使い方について、かな」

 

「そう」

 

 葦原はそれ以上聞かなかった。

 

 製造線へ視線を戻す。

 

 狛枝は彼女の横顔を見た。

 

 怒りより先に、自分が感じたものを認めたくなかった。

 

 見えない通路を迷わず進み、過去の自分が作った構造を一つずつ読み解いていく姿を、好ましいと思った。

 

 絶望のために使われた才能なのに。

 

 制御室のモニターへ、モノクマの顔が映った。

 

『いやあ、過去の自分との感動的な共同作業! 忘れていても、身体は覚えてるんだね!』

 

「この工場の図面、どこから持ってきたの?」

 

『自分の作品だって証拠はあるの? ちょっと似てるからって、何でも自分の物にするのはよくないよ!』

 

「違うなら、元の設計者を教えて」

 

『企業秘密でーす!』

 

 モノクマの顔が消える。

 

 否定はしなかった。

 

 葦原は制御室を出る。

 

「もういいの?」

 

「見たいところは分かった」

 

「止めなくていいのかな」

 

「止めても、別の端末が動く。管理側を探さないと意味ない」

 

 工場の外へ出る。

 

 次に入った軍事施設には、銃器、弾薬、爆発物が並んでいた。

 

 殺し合いに使えと言わんばかりに、種類ごとに分けて保管されている。

 

 狛枝は、遠隔操作用の装置が置かれた棚の前で足を止めた。

 

「狛枝くん」

 

「何?」

 

「さっきから爆弾ばかり見てる」

 

「島にある物を確認しているだけだよ」

 

「必要?」

 

「希望を残すために、必要になるかもしれないね」

 

 葦原が狛枝を見る。

 

「持ち出したら分かるよ」

 

「止めるつもり?」

 

「その時に決める」

 

「今は止めないんだ」

 

「まだ、狛枝くんが何を作るか見てる」

 

 葦原は棚と狛枝を、交互に見た。

 

 警戒している。

 

 それでも離れようとはしない。

 

 狛枝は棚から目を逸らした。

 

     *

 

 その日から、葦原と左右田はエンジンの完成へ取りかかった。

 

 ワタツミから運んだ部品を測り、遊園地のモーターと繋ぐ。空港に残っていた機体から使える部分を外し、小型船へ載せられる大きさまで組み直す。

 

「そっち持て!」

 

 左右田が声を上げる。

 

 日向と終里が軸を支え、九頭龍が台を固定する。七海は図面と実物を見比べ、ソニアは必要な部品を順番に渡していた。

 

 葦原は製造途中のエンジンの周囲を何度も回る。

 

 部品を一つ入れるたび、次に外す時の経路まで確かめている。

 

 モノクマ工場を設計したのと、同じ才能だった。

 

 壊されても止まらない工場。

 

 この島から出るためのエンジン。

 

 使っている思考は変わらない。

 

 目的だけが違う。

 

 狛枝は、その事実を受け入れられなかった。

 

 才能は希望のためにある。

 

 絶望へ使われた才能は、汚れている。

 

 そうでなければ、自分が信じてきたものの境界が消える。

 

 狛枝は作業を手伝いながら、何度かその場を離れた。

 

 葦原はそれを見ただけだった。

 

  *

 

 二日後、エンジンは完成した。

 

 浜辺では、残った全員が試運転を見守っている。

 

「電圧正常、冷却も問題なし。推進軸、回すぞ!」

 

 左右田が操作装置へ手を置く。

 

「やって」

 

 葦原が答えた。

 

 スイッチが入る。

 

 船尾のプロペラが海水を掻き、船体が前へ進み始めた。

 

 最初はゆっくりだった速度が、徐々に上がる。白い航跡が岸から沖へ伸びていく。

 

「動いた……」

 

 日向が呟く。

 

 脱出できるかもしれない。

 

 誰も口にはしなかったが、全員が同じものを見ていた。

 

 船は無人にしてある。左右田が遠隔操作し、船首へ取り付けたカメラから映像が送られてきていた。

 

「五百メートル。信号問題なし」

 

 左右田が画面を見る。

 

「六百。速度も落ちてねえ。七百――」

 

 八百メートルを越えた瞬間、映像が白く乱れた。

 

「おい!」

 

 左右田が操作装置を叩く。

 

「信号は切れてねえ! 電力も残ってる! 何で映像だけ――」

 

「海見て」

 

 葦原が、船の進んだ方向とは反対側を指した。

 

 沖へ向かったはずの船が、島の反対側から現れていた。

 

 同じ速度を保ったまま、岸へ近づいてくる。

 

 左右田が進路を変える。

 

 船は再び島から離れた。

 

 一定の距離を越えると画面が乱れ、今度は別の方向から現れる。

 

「座標が循環してる」

 

 葦原は船ではなく、測定画面を見ていた。

 

「島を中心に、一定範囲の海しか作られてない。境界を越えた物体は、反対側へ移される」

 

「ふざけんな!」

 

 左右田が操作装置を砂へ投げかけ、寸前で握り直した。

 

「海が続いてねえなら、最初から作らせんなよ!」

 

『だって、オマエラが作りたいって言ったんじゃん!』

 

 砂の中からモノクマが飛び出した。

 

『ボクはちゃんと、完成するまで見守ったよ? エンジンは大成功! 脱出は大失敗! 別々に評価すれば五十点だから、赤点ではありませーん!』

 

「葦原の言い方パクってんじゃねえ!」

 

『世界の端まで作るのは大変なんだよ。使わない場所へ予算をかけない、素晴らしい設計思想でしょ?』

 

 葦原の目が冷たくなる。

 

「この世界、私の思考をどこまで使ってる?」

 

『さあ、どうでしょう!』

 

「設計データ見せて」

 

『企業秘密でーす!』

 

 モノクマは笑いながら消えた。

 

 左右田は何も言わず、遠隔操作で船を岸へ戻す。

 

 全員の顔から、先ほどまでの期待が失われていた。

 

「結局、何やっても出られねえんじゃねえか」

 

 終里が吐き捨てる。

 

「エンジンは動いた」

 

 葦原が言った。

 

「だから何だよ。外へ出られねえなら意味ねえだろ」

 

「脱出方法としては失敗。でも、作ったものは失敗してない」

 

「同じじゃねえか!」

 

「同じにしたら、次に使えるものまで捨てることになる」

 

「次って何だよ!」

 

「まだ決めてない」

 

 葦原は船からエンジンを外す準備を始めた。

 

 期待を奪われても、止まらない。

 

 絶望を乗り越えたからではない。

 

 起きた結果を分け、使えない条件を捨てただけだ。

 

「昔のキミも、壊されても止まらないものを作った」

 

 狛枝が言う。

 

「うん」

 

「今も同じなんだね」

 

「目的が違う」

 

「才能そのものは同じだよ」

 

「才能に目的はないでしょ。使う人が決める」

 

 葦原はそれだけ答え、エンジンの固定具へ手を伸ばした。

 

 狛枝が信じてきた希望と、葦原の進み方は似ている。

 

 だが彼女は、その才能を希望のためにも、絶望のためにも使えると言う。

 

 その境界を、才能の中に置こうとしない。

 

 ならば、残すべき希望は別に見つけなければならない。

 

「約束だ」

 

 九頭龍が、狛枝と葦原を見る。

 

「今夜、あのファイルを開け。今度は待たねえぞ」

 

「うん」

 

 葦原は、外されたエンジンへ手を置いたまま頷いた。

 

 穏当な出口は閉じた。

 

 同じ二日で狛枝が用意した、もう一つの結果を待たせる理由もなくなった。

 

      *

 

 その夜、約束どおり全員がレストランへ集まった。

 

 狛枝がファイルを、机の中央へ置く。

 

「話せ」

 

 九頭龍は、最初から狛枝を信用していなかった。終里も入口に近い位置で、狛枝を睨んでいる。

 

「トリックハウスで、ボクと葦原さんは、この世界の正体を知った」

 

 ファイルを開いた。

 

「ここは未来機関が作った仮想空間だ。消された記憶を持つボクたちを更生させるための、精神治療用プログラムだった」

 

「おい、それって……」

 

 左右田が笑おうとしたが、声が引きつっている。

 

「……葦原の妄想だよな?」

 

「今日、自分で海の境界を見たでしょ」

 

 葦原が言った。

 

「建物の生成方法、身体の傷、記憶の削除、罪木さんの証言とも合う。ファイルの全部が正しい保証はないけど、仮想空間と未来機関の部分は、かなり確度が高い」

 

 もう事実を伏せておく理由はなかった。

 

 狛枝は次のページを開いた。

 

「そして、ボクたちは希望ヶ峰学園の生徒として、この島へ連れてこられたわけじゃない。外の世界で、ボクたちは超高校級の絶望と呼ばれていた」

 

「絶望……?」

 

 ソニアが青ざめる。

 

「世界を壊した江ノ島盾子という人物に従い、才能を使ってあらゆる絶望を広めた残党。それがボクたちだよ」

 

「嘘だ!」

 

 日向が叫ぶ。

 

「俺たちが、そんなことをするはずがない!」

 

「嘘じゃないと思う」

 

 葦原が言った。

 

 全員の視線が集まる。

 

「第五の島のモノクマ工場、たぶん私が設計した」

 

「何言ってんだよ」

 

 左右田が葦原を見る。

 

「初めて行った場所だろ」

 

「点検通路も制御室も、見る前に位置が分かった。建物の補完だけじゃない。柱を決めたところから、製造線の分け方まで私だった」

 

「似たような設計したヤツがいただけかもしれねえだろ!」

 

「いや、ちょっと待て」

 

 左右田が思い出すように口に手を当てる。

 

「モノクマ工場の予備線、二本を一緒に通さず、途中で左右に分けてただろ」

 

 左右田の声が止まった。

 

「あれ、中学の時にオメーが描いてた機械室と同じだ。片方が壊れても、まとめて持ってかれねえようにするって……」

 

「うん」

 

「でも、だからって……」

 

「命令されて最低限作った形じゃなかった。私が作りたいように作った結果だった。だから、私から作ったんだと思う」

 

 葦原は、自分を守る説明を一つも足さなかった。

 

「作ってる時、楽しかったはず」

 

 レストランが静かになる。

 

 ファイルに書かれた絶望が、初めて具体的な形を持った。

 

「キミは少し違うけどね、日向クン」

 

 狛枝は、日向創の項目を開いた。

 

「日向クンは本科の生徒ですらない。才能を持たず、金を払って希望ヶ峰学園へ入った予備学科の人間だ」

 

「……裁判でも、そう言っていたな」

 

「最初から何もなかったんだよ。だから自分の才能を思い出せなかった。当然だよね。存在しないものを、どれだけ探しても見つかるはずがないんだから」

 

「狛枝くん」

 

 葦原の声が低くなる。

 

「事実だけ言って」

 

「事実だよ」

 

「楽しんで言う必要ない」

 

「楽しんでなんかいないよ。期待していた分、失望しているだけさ」

 

 日向は座ることもできず、机へ手をついた。

 

 七海がその隣へ移動する。

 

「日向くん。今すぐ、全部信じなくてもいいと思う」

 

「でも、ファイルには……」

 

「ファイルに書いてあることだけで、今までの日向くんが消えるわけじゃないよ」

 

「随分優しいね、七海さん」

 

 狛枝が呼びかけると、七海は静かにこちらを見た。

 

「この中には、未来機関から送り込まれた裏切り者が一人いる」

 

 全員の空気が変わった。

 

「その人だけは、絶望ではない。ボクたちを監視し、更生させるためにプログラムへ入った、正真正銘の希望だ」

 

「誰なんだよ」

 

 九頭龍が訊く。

 

「それを知りたいんだ」

 

「何だと?」

 

「明日の正午までに、裏切り者が名乗り出てほしい」

 

 狛枝は、軍事施設から持ち出した操作装置を机へ置いた。

 

「名乗り出なかった場合、絶望の残党は全員死ぬ。希望である裏切り者だけが、ボクの幸運によって生き残る」

 

「何だよそれ……」

 

 左右田が立ち上がる。

 

「俺ら全員殺すってのか!?」

 

「ボクの幸運が本物なら、必要な希望は残る」

 

「お前も死ぬんだぞ!」

 

「当然だよ。ボクも絶望の一人なんだから」

 

「仕掛けた場所は、七つ?」

 

 葦原が唐突に聞いた。

 

「は!? 葦原は知らなかったのか!?」

 

 日向が混乱した顔で葦原に聞く。

 

「今、初めて聞いた」

 

 葦原は狛枝を見る。

 

 狛枝も彼女を見た。

 

「邪魔しちゃ悪いかなって」

 

「エンジン作ってる間、狛枝くんがいなかった回数が七回」

 

「よく見てるね」

 

「どこに置いた?」

 

「教えると思う?」

 

 九頭龍が机の操作装置へ手を伸ばす。

 

「それを壊せば――」

 

「起動装置が一つだとは言っていないよ」

 

 九頭龍の手が止まった。

 

「ボクを拘束しても構わない。でも、正午に起きることは変わらないかもしれないね」

 

「てめえ……!」

 

 九頭龍が狛枝へ近づく。

 

 狛枝は椅子から立ち上がった。

 

 葦原も続けて立つ。

 

「どこへ行く気だ!」

 

 日向が呼び止める。

 

「狛枝くんと話してくる」

 

「あいつは、お前も殺すつもりなんだぞ!」

 

「知ってる」

 

「だったら――」

 

「止めるなら、何をしようとしてるか知らないと無理」

 

 狛枝がレストランを出ると、葦原は迷わずついていった。

 

     *

 

 狛枝が向かったのは、旧館だった。

 

 最初の事件が起きてから使われなくなり、今は誰も近づかない。広間からは血も料理もすべて消え、物置には、かつて狛枝を拘束していた椅子と、切られた縄の一部だけが残っている。

 

 狛枝は椅子の背へ触れた。

 

「懐かしいね」

 

 あの夜、葦原は縄を解かなかった。

 

 危険だから拘束するという判断を変えないまま、水を飲ませ、朝まで狛枝の話を聞いた。不運と幸運は本当に釣り合っているのかと、狛枝が人生へ与えていた意味を、一つずつ外していった。

 

 あの時はまだ、彼女の好意が自分へ向く可能性など考えていなかった。

 

「ここでキミがボクを見張っていた時は、ボクたちが絶望だなんて思わなかったよ」

 

「そうだね」

 

「ボクは最初から、絶望より酷い人間だったかもしれないけどね」

 

「そういうの、今いらない」

 

「相変わらずだなあ」

 

 使い慣れた言葉は、今回も何の役にも立たなかった。

 

 自分を先に貶しておけば、相手がそれ以上踏み込む必要はなくなる。ほかの誰かなら、呆れるか、怒るか、慰めるかするところだった。

 

 葦原は、ただ不要な部品として外す。

 

 葦原は物置の扉を閉め、鍵を掛けた。

 

「ボクを逃がさないため?」

 

「ほかの人を入れないためでもある」

 

 葦原は出口と狛枝の間へ立った。

 

 視線が、狛枝の持つ操作装置へ落ちる。

 

「爆弾?」

 

「全部の島を壊せるほどの量はないけどね」

 

「箱の中身、確認してない?」

 

「どうしてそう思うの?」

 

「軍事施設には、外見が同じ箱が何個もあった。全部が爆薬とは限らない」

 

「そうだね。ボクも見ていないよ」

 

「置いた場所も?」

 

「地図に番号を振って、引いた数字の場所へ置いた。何が入った箱を、どこへ置いたのかは知らない」

 

「誰がいる場所かも考えなかった?」

 

「考えたら、ボク自身が結果を選ぶことになるからね」

 

 葦原は少し黙った。

 

 何かを組み立てている時の沈黙だった。

 

「葦原さんは、よく見てるね」

 

「狛枝くんのことは見てる」

 

「それなら、どうして途中で止めなかったの?」

 

「止めたら、次は私に見えない方法に変えるでしょ」

 

葦原は操作装置を見る。

 

「裏切り者を名乗らせたいなら、何も言わずに起動はしない。期限を出すまでは待てると思った」

 

「ずいぶん危険な観察だね」

 

「うん。でも、直接聞きたかったから」

 

 狛枝は笑った。

 

 こんな時でなければ、もっと喜べたのかもしれない。あるいは、こんな時だからこそ、その言葉が欲しかったのかもしれない。

 

「私を殺すなら、狛枝くんが直接殺して」

 

 狛枝の笑みが消える。

 

「私を殺すなら、幸運やモノクマへ任せず、狛枝くんの手で殺して」

 

 断りの言葉は出てこなかった。

 

 断れば、できない理由まで見つけられる気がしたからだ。

 

「約束した覚えはないよ」

 

「嫌だとも言わないんだね」

 

「起動装置を押すのはボクだ。それなら、殺すのもボクでしょう?」

 

「結果を選ぶのは幸運」

 

 葦原はすぐに返した。

 

「全員死んだら、残すべき希望はいなかった。裏切り者だけ残ったら、狛枝くんの幸運が正しい希望を選んだ。どっちになっても、狛枝くんは自分が正しかったことにできる」

 

「希望が生き残れば、正しいよ」

 

「生き残らなくても、幸運に選ばれなかったから偽物だったって言える」

 

「何が言いたいの?」

 

 声が、自分で思ったより低くなった。

 

 幸運は、狛枝が何度も生き残ってきた理由だった。

 

 低い確率の先に必要な結果を残してきた。五発の実弾が入った拳銃からも、空の薬室を選んだ。

 

 それを疑うことは、自分の人生にあった出来事を、意味のない事故へ戻すことと同じだった。

 

「選ぶのを、才能に任せてる」

 

 葦原は操作装置を見た。

 

 奪おうとはしない。

 

 ただ、それを持っている狛枝を見る。

 

「私を殺したくないから、誰が死ぬか見なくていい方法にした?」

 

「キミだけを特別扱いするつもりはないよ」

 

 葦原が絶望なら、ほかの残党と同じだ。

 

 才能を世界の破壊へ使った人間に、生き残る価値はない。自分も、彼女も、例外ではない。

 

 裏切り者が葦原であればいいと思ったことはある。

 

 そうなら、彼女を残したいという願いも、希望を残すという目的へ変えられる。

 

「モノクマ工場を見たあとから準備を始めたよね」

 

「キミが絶望だった証拠を見つけたからね」

 

「それで、嫌いになれた?」

 

 狛枝は答えなかった。

 

 工場は、十分な証拠だった。

 

 葦原は才能を奪われたのではない。

 

 自分からモノクマの身体を増やし、絶望が止まらないための仕組みを作った。

 

 嫌うべきだ。

 

 狛枝は笑った。質問には答えない。

 

「結論は変わらないよ」

 

 狛枝は操作装置を持ち直す。

 

「キミが工場を作った。自分から才能を絶望へ使った。今のキミがそれを覚えていなくても、過去にしたことは消えない」

 

「逃げた」

 

「もう一度、同じものを作るかもしれないよね」

 

「作れるよ」

 

 葦原は否定しない。

 

「設計も嫌いじゃなかった。今見ても、よくできてた」

 

「それを平気で言えるから、キミは絶望だったんじゃないかな」

 

「そうかもしれない」

 

「後悔しないの?」

 

「覚えてないことを、後悔してるふりはできない」

 

 葦原は少し考え、続ける。

 

「モノクマを増やすために使ってたことは嫌。でも、設計まで嫌いって言ったら嘘になる」

 

 狛枝が用意した希望らしい答えを、彼女は選ばない。

 

 過去の罪を悔い、世界を救いたいと言えばよかった。

 

 絶望だった自分を捨て、もう一度才能を希望のために使うと言えば、彼女の中に生まれた希望として扱うことができた。

 

 葦原は、自分の中に残る絶望らしい部分まで切り離そうとしない。

 

 それでも、狛枝は彼女を嫌いになれなかった。

 

「葦原さん」

 

「どうして、そこまでボクに直接殺されることにこだわるのかな」

 

「狛枝くんが決めたって分かるから」

 

「それで何が変わる?」

 

「幸運に選ばれなかったんじゃなくて、狛枝くんが私を生かさない方を選んだって分かる」

 

「ボクに選ばれて、殺されたいの?」

 

「どうせ死ぬなら」

 

 葦原の声は震えていなかった。

 

 死ぬことを望んでいるわけではない。

 

 誰が死んだかも見ない狛枝の幸運へ、自分の命を混ぜられることを嫌がっている。

 

 最後の瞬間まで、狛枝の選択の中にいたいと言っている。

 

 どこまで自分を欲しがるのか。

 

 葦原は、触れられることも、同じ場所で眠ることも、狛枝が死ぬなら一緒に死ぬことも選んだ。

 

 今度は、自分を殺す者にまで狛枝を選ぼうとしている。

 

 喜んでいい言葉ではない。

 

 それでも、ほかの誰かや、形のない幸運へ渡されたくないと思われたことを、狛枝は嬉しいと感じてしまった。

 

 救いようがなかった。

 

 彼女ではなく、その答えを欲しがった自分の方が。

 

「ボクはキミを好きだよ」

 

「うん」

 

 もう、その言葉を避ける必要はなかった。

 

 好きであることと、生き残る価値があることは別だ。

 

 そう分けてしまえば、認めるのは簡単だった。

 

「でも、キミが生き残るべきだとは思っていない」

 

「それも聞いた」

 

「明日、裏切り者が名乗り出なければ、キミも死ぬかもしれない」

 

「狛枝くんも?」

 

「ボクも絶望だからね」

 

 葦原は少し考えた。

 

 何かを決める時の沈黙だった。

 

「前にも言ったよ。狛枝くんだけ死ぬより、一緒の方がいい」

 

「ボクと?」

 

「うん。私たちがデータなら、この島から出られるかすら怪しいし」

 

 そこで一度、狛枝を見る。

 

「それで狛枝くんの気が済むなら」

 

「それを愛情だと思っているの?」

 

「分からない。でも、今はそう思う」

 

 以前にも、同じ場所で死ぬなら構わないと言われた。

 

 あの時より、言葉の意味は重くなっている。

 

 狛枝が何をしようとしているか知り、彼女自身も殺す対象に入っていると分かったうえで、それでも隣にいると言っている。

 

「……キミは、ボクに嫌われたくないと言いながら、嫌われるための言葉ばかり選ぶね」

 

「狛枝くんが、私を嫌いになる理由を探してるから」

 

「それで、ボクが本当に嫌いだと言ったら?」

 

「嫌」

 

 短い返事だった。

 

 葦原は、自分を曲げてまで好かれようとはしない。それなのに、嫌われることは拒む。

 

 矛盾している。

 

 彼女はもう、その矛盾を解こうともしなかった。

 

「なら、もう少し希望らしく振る舞えばいいのに」

 

「狛枝くんに好かれるために、自分の考えを変えるのは違う」

 

「自分を曲げてでも、愛する人を止める。それを希望とは呼ばないの?」

 

 彼女がここで、みんなを救うためだと言えばよかった。

 

 世界を壊した罪を償いたい。未来機関の希望を信じたい。もう誰も死なせたくない。

 

 どれか一つでも言えば、絶望だった彼女の中に生まれた希望として扱うことができた。

 

 葦原は、狛枝が用意した答えを一つも選ばなかった。

 

「呼びたいなら呼んでいい。でも私は、世界を救うために止めるんじゃない」

 

 彼女が近づく。

 

 操作装置を持つ狛枝の手へ、自分の手を重ねた。

 

 奪うための置き方ではなかった。

 

 押さえつけるでもなく、指を外させるでもなく、ただそこに触れる。

 

「狛枝くんが死ぬのが嫌だから止める」

 

「随分と身勝手だね」

 

「そうだね」

 

 否定しない。

 

「希望のためではないんだ」

 

「私のため」

 

 葦原は、世界よりも、残された仲間よりも、狛枝が死ぬことを先に置いた。

 

 希望を愛している狛枝なら、軽蔑するべきだった。

 

 超高校級の才能を持つ彼女が、一人の価値のない人間へそこまで執着することを、無駄だと言うべきだった。

 

 なのに胸の奥へ来たのは、嫌悪ではなかった。

 

 そこまで自分を選んだことへの、醜い安堵だった。

 

「怖くないの?」

 

「狛枝くんが死ぬ方が嫌」

 

 何を言っても、彼女は希望らしい理由を差し出さない。

 

 正しく見られるために答えを変えず、絶望だと判定される可能性まで残したまま、狛枝の手を取っている。

 

 狛枝が欲しがっていた答えは、たぶんこれだった。

 

 才能や希望ではなく、葦原自身の都合で、自分を選ぶこと。

 

 実際に渡されると、それはあまりに重く、希望と呼ぶには歪みすぎていた。

 

「狛枝くん」

 

「何?」

 

「今すぐ殺す?」

 

 挑発ではなかった。

 

 彼女の手には、ほんの少し力が入っている。

 

 怖くないわけではないらしい。

 

 それでも逃げず、今の狛枝にできるのかを確かめている。

 

 操作装置を押す必要はなかった。

 

 ここには二人しかいない。彼女一人を殺す方法なら、爆弾より確実なものがいくらでもある。

 

 今殺せば、葦原が裏切り者かどうか確かめる前に、可能性の一つを消すことになる。

 

 だから殺さない。

 

 そう説明することはできた。

 

 それだけなら、答えるまでに間を置く必要はなかった。

 

「……まだ期限前だよ」

 

「そう」

 

「安心した?」

 

「少し」

 

 葦原の肩から、僅かに力が抜けた。

 

 死んでもいいと言いながら、生きられる答えには安心する。

 

 そのことへ、狛枝も安堵した。

 

 期限前だから殺さなかった。

 

 彼女を生かすと決めたわけではない。

 

 狛枝は自分の中に残った境界を確かめる。

 

 葦原は、操作装置に重ねた手を離さなかった。

 

 狛枝も、その手を退けなかった。

 

 

 その時、扉の取っ手が一度動いた。

 開かない。

 

『おいお前ら! 聞こえてんだろ!』

 

 左右田の声が外から響いた。

 

『島の遺跡、入口が変わってんだ!』

 

「遺跡?」

 

『前は開かなかった扉に、パスワードの入力装置が出てきた。七海が見つけたんだよ! 中へ入れりゃ、このプログラムを止める方法があるかもしれねえ!』

 

 日向たちの声も聞こえる。

 

『パスワードの手がかりは、島のどこかにあるらしい。爆弾なんか使う前に、こっちを調べろ!』

 

 狛枝は返事をしなかった。

 

 遺跡の内部に、この世界の管理権限へ到達する方法があるのなら、爆弾より確実に裏切り者を見つけられるかもしれない。

 

「先にパスワード探そ」

 

 葦原が言った。

 

「見つけた先に、絶望しかなくても?」

 

「それを見てから決めればいい」

 

「爆弾の期限は変えないよ」

 

「じゃあ、それまでに見つける」

 

「簡単に言うね」

 

「一人より二人の方が早い」

 

「ボクと一緒に探すつもり?」

 

「最初から」

 

 葦原は、重ねたままだった狛枝の指を握った。

 

 狛枝は、未来機関の裏切り者を希望の側へ置き、葦原と自分を絶望の側へ置いた。

 

 葦原は、その分類を否定しなかった。自分だけを希望の側へ移せとも言わない。

 絶望の側にいることを認めたまま、狛枝と一緒に別の結果を探そうとしている。

 

 狛枝が彼女の命をどれほど自分の選択から外そうとしても、葦原は気づけばまた隣にいた。

 

「ネズミー城へ行こう」

 

 狛枝が言った。

 

「どうして?」

 

「パスワードを隠すなら、目立つのに意味がなかった場所。遊園地で一番大きいのに、今まで何もなかったからね」

 

「外れたら?」

 

「ボクにそれを言うんだ」

 

「自信あるんだね」

 

「行こうか」

 

 葦原が鍵を開ける。

 

 期限を取り消したわけではない。

 

 葦原を生かすと決めたわけでもない。

 

 それでも狛枝は、彼女の手を取ったまま、爆弾とは別の結果を探しに行く。

 

 それが未来機関の希望を見つけるためなのか。

 

 葦原を、自分で殺さずに済む結果を探すためなのか。

 

 もう、狛枝自身にも区別できなかった。

 

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