ネズミー城で見つかった五桁の数字は、遺跡の扉を開いた。
旧館まで追ってきた六人と合流し、八人全員で内部へ入る。日付はまだ変わっておらず、狛枝が指定した正午までは十時間以上残されていた。
遺跡の中の通路を進み、全員が同じ場所へと辿り着く。
画面に新たな文字が表示された。
――残存ユーザーを確認。
――卒業試験を開始します。
「卒業試験?」
左右田が読み上げた瞬間、廊下全体が大きく揺れた。
壁や床が細かな光の粒となって崩れ、白い廊下の向こうに別の空間が形作られていく。長く続いていたはずの通路は短く縮まり、突き当たりに巨大な赤い扉が出現した。
扉の上には、希望ヶ峰学園の紋章が掲げられている。
開いた扉の先にあったのは、出口ではなかった。
円形に並べられた発言台。その中央に設置された議長席。
これまで何度も互いの罪を暴き、誰かを死へ追いやってきた場所と同じ形をした、学級裁判場だった。
「また裁判かよ……」
左右田の声が震える。
「死体なんかねえぞ! 今度は誰を裁くっていうんだ!」
「今回は、殺人の犯人を決める裁判じゃないのかもしれない」
七海は裁判場を見つめたまま答えた。
天井近くに設置されたモニターが一斉に点灯する。
最初に映ったのは激しい砂嵐だった。
白と黒に分かれたモノクマの顔が一瞬だけ浮かび、すぐに長い髪を持つ少女の輪郭へ変わる。顔はまだノイズに隠されている。
『いやあ、お疲れさま! 予定より早かったけど、全員揃ったね!』
モノクマよりも若く、明るい女の声が裁判場へ響いた。
『世界の裏側まで来てくれたキミたちには、特別に選ばせてあげます!』
発言台の照明が一つずつ灯っていく。
『このまま卒業するのか、ここに残るのか。それとも――ぜーんぶ終わらせちゃうのか!』
葦原の指に力がこもった。
狛枝が横を見ると、彼女はモニターから目を逸らさずに立っている。顔色は僅かに青ざめていたが、手を放そうとはしなかった。
「怖い?」
「怖いよ」
葦原は即座に認めた。
「でも、よく分からないままな方が嫌」
狛枝は小さく笑った。
上着の内側には、まだ爆弾の起動装置が入っている。
正午という期限も取り消していない。
見つけた五桁の数字は、出口を開くための答えではなかったらしい。
今いる自分たちが何者なのかを裁く場所へ入るための、入口の鍵だった。
背後で赤い扉が閉まり始める。
物理的には、まだ引き返すことができた。
だが、幸運によって期限より先にこの場所へ辿り着いたのなら、ここへ入らず爆発を待つ方が不自然だった。
狛枝に戻る理由はなかった。
閉じていく扉から目を離し、握っている葦原の手へ少しだけ力を込める。
扉が閉じ切るのと同時に、モニターの少女が高らかに宣言した。
『それじゃあ始めよっか! キミたちが、誰として外へ出るのかを決める――最後の学級裁判を!』
*
少女の声が消えると、裁判場を囲む発言台に名前が浮かび上がった。
日向創。狛枝凪斗。九頭龍冬彦。終里赤音。左右田和一。ソニア・ネヴァーマインド。七海千秋。葦原アイ。
生き残った八人分の席だけが白く照らされ、その外側には光を失った発言台が九つ残されている。
十神。花村。小泉。辺古山。澪田。西園寺。罪木。弐大。田中。
そこに立っていた者たちの顔を、狛枝は一人ずつ思い出した。
死体の形も、処刑される直前の表情も、望んでいないのに鮮明に蘇ってくる。
ここが仮想空間だという記録が正しいなら、外には彼らの身体も残されているのかもしれない。
では、この島で失われたものは何だったのだろう。
身体か。
記憶か。
それとも、この島で話し、考え、死を恐れていた人格そのものか。
『そんな辛気臭い顔しないでよ。せっかくの再会なんだからさ!』
モニターに広がっていた砂嵐が収束する。
長い金髪に派手な化粧。
胸元では、白黒の熊を模した飾りが揺れていた。
雑誌の表紙で笑っていた超高校級のギャルと、同じ顔だった。
ただし、画面の中の少女は数秒ごとに表情も声色も変えている。明るく笑った直後に退屈そうな目をし、次の瞬間には大袈裟に頬を染め、またすぐに冷え切った笑みへ戻った。
「江ノ島、盾子……」
日向が名前を口にする。
『はーい、大正解! 超高校級のギャルにして、超高校級の絶望。そして今は、肉体を捨てて電子の海を泳ぐ、とってもキュートな人工知能でーす!』
「本人は死んだはずだ」
九頭龍が睨みつける。
『死んだよ? ぐっちゃぐちゃに潰れて、見る影もなくね。でも、頭の中身を残す方法くらい用意してあったの。だってアタシ、負けたあとの絶望まで楽しみたかったんだもん』
「死んでもまだ希望の邪魔をするんだね」
狛枝は笑った。
自分でも分かるほど、その声は冷えていた。
「キミみたいなものが、いつまでも才能あるみんなへ纏わりついていると思うと、心底吐き気がするよ」
『そんなこと言って、本当は会えて嬉しいんじゃない? 希望が絶望を越えるところを見たい狛枝クンには、アタシ以上の相手なんていないもんね!』
「キミを踏み台にできるなら嬉しいよ」
『相変わらずだなあ。彼女ができても、そこは変わらないんだ?』
江ノ島の視線が、画面越しに葦原へ向く。
『廊下で手を繋いでたのも、隠れてキスしてたのも、ベッドの中で仲直りしてたのも、ぜーんぶ見てました!』
葦原の指が、発言台の端で止まる。
「……仲直りはしてない」
『そこを否定するんだ。じゃあ何? 共犯者ごっこ? それとも、世界が滅びても二人でいられれば幸せですっていう、薄ら寒い純愛?』
「あなたには関係ない」
『関係あるんだなあ、これが。これから決めるのは世界の運命だけじゃない。キミたちの恋愛が、現実へ持ち出せるものなのかどうかでもあるんだから』
葦原は答えなかった。
「……データなんだね」
代わりに、江ノ島の姿を見ながら言う。
「江ノ島盾子の記憶と思考を再現した、人工人格」
『そういう区別、まだ必要? 記憶が同じで、考え方も同じ。同じように絶望を愛してるなら、アタシはアタシでしょ』
「それを今から、私たちにも当てはめるつもり?」
『さすが葦原ちゃん。話が早くて助かるわー』
「この島は全部、あなたの管理下?」
『そう! ぜーんぶアタシの中みたいなものだよ!』
葦原は江ノ島の言葉を聞きながら、発言台の縁へ指を滑らせた。
材質と、その下を流れている処理を確かめるような動きだった。
「モノミは?」
『先生役は授業の邪魔なので隅っこにいてもらうよ』
江ノ島が指を鳴らした。
モノミの身体が吊り下げられるように出現した。
「う、動けまちぇん! 」
『管理権限の大半はアタシが頂いちゃいました。ウサミちゃんに残ってるのは、せいぜい説明書を読む権限くらいかな?』
「なら、あなたを消せば管理を戻せる?」
『できると思うなら、やってみれば?』
葦原はそこで質問を止めた。
*
「オレたちをここへ呼んだ目的は何だ」
日向が発言台を叩く。
「卒業試験って、何を選ばせるつもりなんだ?」
『せっかちだなあ。最終問題へ行く前に、自分がどこにいるのかくらい確認しようよ』
江ノ島が指を鳴らす。
裁判場の壁が消えた。
正確には、壁として表示されていた景色が剥がれ落ちた。
円形の裁判場は黒い空間へ投げ出され、頭上には膨大な文字列が光の帯となって流れ始める。足元の床まで半透明になり、その遥か下にジャバウォック島の全景が浮かんだ。
ホテル。
レストラン。
砂浜。
五つの島。
それぞれが細かな格子で構成され、波打つ海の端では、同じ海面の映像が繰り返されている。
左右田と葦原がエンジンを完成させても越えられなかった境界だった。
『ココは新世界プログラム。接続した人間の脳へ、五感から人格まで丸ごと再現してあげる仮想現実だよ。キミたちが食べたものも、殴られた痛みも、恋してドキドキした心臓も、全部とっても精巧な電気信号!』
「昨日のファイル、本当だったのかよ……」
左右田が自分の両手を見る。
いつもと同じ指が、いつもと同じように震えていた。
「仮想空間なのは聞いた。なら、外の身体はどうなってる?」
『仲良くお昼寝中。現実のジャバウォック島に並べられた装置の中で、管に繋がれてるよ』
宙に映像が現れる。
薄暗い施設の中に、十六基の機械が円形に並んでいた。透明な覆いの中には、人間らしき影が横たわっている。
顔までは判別できない。
ただ、身体の輪郭はこの世界の自分たちより大きく、何年分か成長しているように見えた。
「私たちは、高校生だった頃の身体を再現してる」
葦原が言う。
『その通り。新世界プログラムへ入る時、絶望に堕ちる前まで記憶を巻き戻されたからね。アバターも、その頃の自己認識に合わせて若返ってるってわけ』
「なら、この島で過ごした期間だけじゃない」
日向は額へ手を当てた。
「希望ヶ峰学園へ入ったあとから、ここに来るまでの記憶が全部ないんだな」
『そうだよ。キミたちは修学旅行へ来た高校生じゃない。本当はもう大人になってるし、希望ヶ峰学園もとっくに崩壊してる。そして何より――』
江ノ島の姿が消える。
代わりに、世界各地の映像がモニターを埋めた。
炎に包まれた街。
武器を手に争う人々。
破壊された建物の上に掲げられた白黒の旗。
希望ヶ峰学園の制服に似た服を着た者たちが、混乱する群衆を導き、争いを広げている。
『キミたちは、世界を壊したアタシの可愛い後継者。超高校級の絶望――絶望の残党なんだよ!』
誰もすぐには声を出さなかった。
言葉としては、昨夜すでに聞かされている。
それでも、名前だけだった罪へ映像が与えられると、同じ情報には見えなかった。
「これが、昨日言ってた“絶望”の中身かよ……」
左右田の声が掠れる。
「こんな映像、お前ならいくらでも作れるだろ! ファイルも映像も、全部お前が用意したなら証拠にならねえ!」
「単独ならね」
葦原が答える。
「でも、ファイル、罪木さんが思い出した記憶、十神くんが別人だったこと、モノミの反応、外の装置、島の構造。別々に見つけた情報が、同じ形へ集まってる」
「じゃあ、信じるっていうのか。オレたちが世界を壊したなんて」
「信じたいかどうかじゃない。昨日より否定しにくくなった」
「狛枝、お前もか?」
「ファイナルデッドルームで手に入れた記録と、今の説明は矛盾しないよ」
「それでもまだ、オレたち全員を消すのが正しいって言うのかよ!」
「絶望が外へ戻れば、また希望を踏みにじるかもしれないからね」
左右田の顔に嫌悪が浮かんだ。
爆弾を仕掛けた理由も、裏切り者以外をまとめて消そうとした理由も、狛枝にとっては一本の線で繋がっている。
「外で何をしたかと、この中で何をしたかは分ける」
葦原が言った。
「外の私たちが絶望だったからって、今ここにいる全員の行動まで、同じ理由で説明できるわけじゃない」
『過去の自分を切り捨てちゃう? でも残念。外のキミも今のキミも、使ってる脳は同じなんだよ。消されてる記憶を戻せば、絶望大好き葦原アイちゃんへ元通り!』
「それを決めるのは、あなたじゃない」
『外の自分が、どれだけ楽しいことをしてたか見てみる? モノクマ工場だけじゃないよ。もっと素敵な作品も――』
「今は見ない」
『怖いんだ?』
「先に選択肢と条件を全部出して」
葦原の声は変わらなかった。
「あなたが見せたい順番で映像を見ると、判断を誘導される。必要なら、条件を確認したあとで見る」
『可愛げないなあ』
江ノ島が頬を膨らませる。
葦原は、現実の自分がしたことを否定していない。
かといって、知らない罪を理由に、今ここにいる自分を差し出そうともしない。
以前の狛枝なら、その身勝手さを絶望と呼ぶことに迷わなかった。
今も、正しいとは思えない。
ただ、醜いと切り捨てるまでに、一度考える時間が必要になっていた。
*
『じゃあ次は、もっと面白い人にしよっか』
江ノ島が指を鳴らした。
日向の発言台だけが赤く光る。
宙を流れる文字列が集まり、一枚の記録画面を形作った。
被験者名――日向創。
その下の文字が乱れ、別の名前へ書き換えられる。
被験者名――カムクライズル。
「……誰だ、それ」
『キミだよ、日向クン』
江ノ島は嬉しそうに身を乗り出す。
『正確には、希望ヶ峰学園がキミの頭を弄り回して作った、究極の才能人。あらゆる超高校級の才能を詰め込まれた、人類の希望そのもの!』
「俺は予備学科だ。才能なんか何もなくて、それで……」
『だから欲しがったんじゃん。才能がない自分を捨てて、希望ヶ峰学園の実験台になった。記憶も感情も人格も削られて、完成したのがカムクライズル』
日向の口が動いたものの、声は出なかった。
『ちなみに、アタシをこの世界へ運んでくれたのも、外にいるキミなんだよ』
狛枝は記録画面と日向を見比べた。
才能のない予備学科生だと思っていた。
特別な者たちの間へ紛れ込み、何者でもない自分を受け入れられずにいる、中途半端な存在。
その日向が、すべての才能を与えられた希望ヶ峰学園の最高傑作だった。
「……あはっ」
堪え切れず、笑いが漏れた。
「何がおかしいんだよ」
「ごめんね。あまりに希望ヶ峰学園らしくてさ」
狛枝は赤く表示された名前を見る。
「才能のないキミという踏み台から、すべての才能を持つ人類の希望を作ったんだ。ボクが憧れていたものを、学園はとっくに実現していたんだね」
素晴らしい。
そう言い切るはずだった。
だが、その最高傑作が江ノ島盾子をこの世界へ運んだ。
「どうして……」
声が勝手に出る。
「すべての才能を持つ希望が、キミみたいな絶望を選んだのかな」
『カムクラは希望なんか選んでないよ。絶望もね。何を見ても予測できて退屈だったから、アタシが起こす予定外へ賭けただけ』
「それで、世界を壊した?」
『才能があれば希望になるなんて、誰が決めたの?』
江ノ島が笑う。
葦原がモノクマ工場を作った。
あらゆる才能を持つカムクライズルが、江ノ島をこの世界へ運んだ。
才能そのものに目的はない。
使う人間が決める。
浜辺で葦原が口にした言葉が、再び狛枝の中へ戻ってくる。
否定したかった。
才能は希望の象徴であるべきだ。
だが、目の前には、その境界を壊す証拠が二つ並んでいる。
「俺は、そいつなのか?」
日向の問いは、誰へともなく向けられていた。
「今ここにいるのは日向くんだよ」
答えたのは葦原だった。
「少なくとも、今私に『俺はそいつなのか』って聞いた人は、カムクライズルじゃない。日向くん」
『外へ出たらカムクライズルに元通り! 今の日向クンは、この世界で再現された一時的な人格だからね』
「作られたとしても、今いることは変わらない」
『その理屈、自分と狛枝クンにも使いたいだけじゃない?』
「そうだけど」
葦原は迷わず認めた。
「使えるなら使う。日向くんも同じ条件だから、同じように考えるだけ」
「……ありがとな」
日向の声はまだ弱かった。
自分の発言台へ置いた手へ、僅かに力が戻る。
それでも、カムクライズルと表示された名前からは目を離せないままだった。
葦原が使った論理は、狛枝を慰めるためだけに作られたものではない。
同じ条件なら、日向にも使われる。
当然のことだった。
なのに、その当然が少しだけ気に入らなかった。
日向が立ち直ったことではない。
葦原が今の人格を残そうとする理由が、自分だけのために作られたものではなかったことへ、意味もなく落胆した。
そんな権利など、どこにもないのに。
*
『さて。ここまで来れば、十六と十七の差も分かるよね?』
江ノ島が両手を広げる。
『現実に身体があるのは十六人。この世界で最初に動いていた人格は十七人。一人だけ、外へ戻る身体を持っていない偽物がいまーす!』
裁判場の空気が変わった。
全員が互いの顔を見る。
葦原の視線が、発言台を順に移動した。
名前。
接続表示。
投票装置。
一つだけ欠けているものを見つけ、七海の発言台で止まる。
同じ瞬間、狛枝も初めから探していた一人を見る。
「七海さん」
狛枝が先に名前を呼んだ。
七海は驚かなかった。
眠そうな目を少し伏せ、自分の発言台へ置いていた両手を見つめる。
七海の発言台には、ほかの全員にある投票用のボタンが存在しなかった。
「キミが、未来機関の裏切り者なんだね」
「……そういうことになるね」
左右田が息を呑む。
ソニアは口元へ手を当て、終里は七海と画面を交互に見る。
「待てよ、七海」
日向が発言台から身を乗り出した。
「裏切り者は、未来機関から送り込まれた人間なんだろ。外に身体がないなら、七海は……」
「この世界のために作られた人工知能」
七海は顔を上げた。
「たぶん、それが一番近いかな」
「お前も、江ノ島と同じデータなのか?」
「作られ方は似てるかもしれない。でも、役目は反対だよ」
七海は吊り下げられているモノミを見た。
「みんながこの世界で生活できるように見守るのが、私の役目だった。モノミは先生役で、私は生徒の代表。最初は普通の修学旅行をして、少しずつ本当の自分と向き合ってもらうはずだったんだよ」
「千秋ちゃんの言う通りでちゅ。 このプログラムは、本当はみなさんを更生させるためのものでちゅ……。 モノクマに好き勝手させるためのものじゃありまちぇん……」
「だったら、なんで黙ってたんだ!」
「自分から正体を教えられないように設定されてた。それに……」
七海は少し間を置き、日向を見る。
「私は、普通にみんなと一緒にいたかったんだと思う」
「思うって何だよ。自分のことだろ」
「うん。でも、私にも分からないことはあるよ」
七海は自分の胸元へ手を置く。
「プログラムとして決められた気持ちなのか、ここで過ごしてできた気持ちなのか、区別できないから」
「区別できなくても、今そう思ってるのは七海だろ」
日向が言った。
「外に身体がなくても、今ここにいるお前まで偽物になるわけじゃない」
七海の目元が僅かに緩む。
「うん。ありがとう、日向くん」
狛枝は七海を見つめた。
この一人を生き残らせるために、自分たち全員を殺そうとした。
未来機関から来た希望だけを残し、絶望の残党を消す。その結果を幸運に選ばせるつもりだった。
だが、七海には外へ戻る身体がない。
仮に島の爆発から彼女のアバターだけが生き残ったとして、そのあと七海はどこへ行くのだろう。
江ノ島に奪われた管理領域の中で、一人だけ残ることを「助かった」と呼べるのか。
何一つ確認せず、未来機関の裏切り者という分類だけを残そうとしていた。
「ボクは、キミを残すつもりだったんだ」
七海が狛枝を見る。
「未来機関の裏切り者だけが生き残ればいいと思ってた。ボクたち絶望の残党を全部消して、キミという希望を守るために」
「それは、私の望む未来じゃない」
「希望が必ずしも、自分の望む形で生まれるとは限らないよ」
「でも、狛枝くんが決めた形でもないと思う」
七海の声は穏やかだった。
「誰かを希望って名前にして、その人以外を全部消せばいいわけじゃない」
「キミが希望であることは変わらない」
「私は、みんなに生きて考えてほしかった。そのために作られたんだよ」
七海は狛枝から目を逸らさない。
「狛枝くんのやり方で私だけが残っても、それは私が成功した結果じゃない。みんなを助けられなかった、私の失敗だと思う」
反論なら、いくらでも作れた。
七海本人の望みと、彼女が持つ希望の価値は別だ。
希望が自分自身の価値を正しく理解しているとは限らない。
絶望を消して希望だけを残すことが、間違いだと決まったわけでもない。
それでも、七海だけを残すという目的は、既に成立しなくなっている。
外へ戻る身体を持たない彼女を、この世界へ一人取り残しても、その先に未来はない。
そして、正午までに名乗り出なければという条件も、形は違えど満たされた。
未来機関の裏切り者は、見つかった。
狛枝の指が、上着の内側へ触れた。
起動装置を取り出す。
「狛枝!」
左右田が警戒して身を引く。
「心配しなくても、今ここで押すつもりはないよ」
狛枝は装置の設定を操作した。
設定していた正午の時刻が消え、七つあった起動予約の表示が、一つずつ停止へ切り替わっていく。
「期限は撤回するよ」
「……本当に止めたのか?」
「ボクが設定した起動信号は全部ね」
狛枝は装置を、発言台の上へ置いた。
「どういう風の吹き回しだ」
九頭龍が聞く。
「裏切り者は見つかった。ボクが出した条件は、それまでだったからね」
狛枝は七海を見る。
「それに、ボクの幸運が選んだのは爆発じゃなく、期限より先にこの場所へ辿り着く方だったみたいだ」
新しい賭けの場が、目の前に現れた。
それでも古い方法へ固執するなら、幸運へ任せた意味がない。
「左右田クン。疑うなら確認していいよ」
「最初から渡せ!」
左右田が装置を奪い取り、表示と内部の設定を確認し始める。
「別の起動装置は?」
葦原が聞く。
「少なくとも、ボクが用意したものはもうないよ」
「本当だろうな」
「信じられないなら、左右田クンに分解してもらえばいい」
「言われなくてもそうする!」
左右田は装置を抱え込んだまま、狛枝から距離を取った。
葦原は狛枝を見ていた。
「何?」
「止めたんだね」
「残念そうに見える?」
「少し安心した」
「それなら、止めた価値はあったのかもしれないね」
*
『うわあ、しんみりしちゃってる! せっかくの爆弾まで止めちゃって、絶望的につまんなーい!』
江ノ島が両腕を広げる。
『でも残念ながら、友情を確かめる時間はここで終了でーす!』
七海の画面が黒く塗り潰された。
『この世界はもうアタシのもの。先生役のウサミちゃんから管理権限を奪って、殺し合い用に改造させてもらいました』
「返しなちゃい!」
動けないモノミが叫ぶ。
『ここで死んだ人間のアバターは壊れ、現実の身体へ戻るための人格データも消失! つまり、外の身体は生きてるけど、中身が戻ってこない空っぽの状態なんだよ』
「みんな、生きてるのか?」
終里が目を見開く。
『身体だけはね。新世界プログラムが停止しても、目を覚ます保証はありませーん』
「弐大の身体もあるんだな」
『あるよ。立派な人間の身体がね』
「だったら戻せ」
終里の拳が発言台を叩く。
「中身がどこにあるか探して、身体へ戻せばいいだろ!」
『削除したって言ったじゃん。ゴミ箱まで空っぽにしたあとで、元へ戻してくださいって言われても困るんですけど?』
「田中さんも……」
ソニアが小さく呟く。
「身体だけは、外に残されているのですね」
『もちろん! 卒業方法によっては、とっても有効活用できるよ!』
「辺古山の身体へ何かするつもりなら、殺すぞ」
九頭龍の声が低くなる。
『もう死んでるアタシを? 怖ーい!』
「嘘だ!」
左右田が叫ぶ。
「お前が消したって言ってるだけだろ! 外へ出て調べるまで分かるか!」
『全部が嘘というわけじゃない』
別の声が、江ノ島の言葉へ重なった。
モニターが激しく乱れる。
一人の少年が、空いていた発言台の一つへ姿を現した。
短い茶髪に、目立たない服装。
狛枝が思い描いていた人類の希望とは、あまりにかけ離れた普通の姿だった。
『僕は苗木誠。未来機関の人間だ』
『ちょっと、人の裁判へ勝手に割り込まないでくれる?』
『このまま君の好きにはさせない。彼らには正しい情報を伝える必要がある』
狛枝は呼吸を忘れ、少年を見つめた。
苗木誠。
江ノ島盾子が引き起こした殺し合いを生き延び、仲間と共に彼女を打ち破った人間。
才能の強さではなく、決して諦めない意志によって絶望を退けた、超高校級の希望。
もっと特別な存在を想像していた。
何もかも見通す目や、誰もが従いたくなる声を持ち、一目で他者とは違うと分かる人間なのだと思っていた。
実際に映る苗木は疲れ切っている。江ノ島に管理権限を奪われたせいか、姿すら安定していない。
それでも彼の目は、絶望を前にして逸らされていなかった。
「あなたが……」
声を出した途端、自分のような人間が呼び掛けていい相手ではないと思った。
狛枝は、それ以上を飲み込んだ。
『新世界プログラムへ君たちを入れたのは僕だ。未来機関の許可を得ず、仲間と協力して、絶望の残党だった君たちを保護した』
「どうしてですか?」
ソニアの問いへ、苗木はすぐに答えた。
『やり直せると思ったからだよ。君たちがしてきたことは消えない。それでも、江ノ島に奪われた記憶と人格を一度切り離して、自分自身で別の未来を選べる状態にすれば、絶望ではない道へ進めるかもしれないと思った』
「かもしれない、で?」
葦原が尋ねる。
『確実な方法はなかった。でも、処刑するよりは――』
「処刑より成功率が高いから、こっちへ入れた?」
『違う。僕は君たちを道具として扱ったわけじゃない。助けたかったんだ』
「助けるって、どの部分を?」
苗木が言葉を止めた。
葦原は外部装置の映像を指す。
「外で眠っている身体? 絶望になる前の人格? それとも、今ここで話してる私たち?」
『全部だよ』
「全部が残らない時は、どれを優先するの?」
淡々とした問いだった。
葦原は慎重に苗木の表情を見ている。
言葉ではなく、その前後に隠された条件を探しているようだった。
苗木は答える前に、一度だけ目を伏せた。
その僅かな間で、狛枝には充分だった。
この先に、全員をそのまま救う選択肢はない。
『まず、選択肢を見せるよ』
苗木が操作する。
三つの表示が現れた。
卒業。
留年。
強制終了。
江ノ島が、待ちかねたように笑い声を上げる。
『まず一つ目は卒業!』
卒業の表示が白く光る。
『今の人格と、この島で得た記憶を現実の身体へ移して、みんな揃って外へ帰れまーす!』
「それでいいじゃねえか!」
左右田が表示へ手を伸ばしかける。
『ただし、死んだ九人の身体はアタシがもらうけどね』
その手が止まった。
『戻る人格がなくなった身体へ、アタシの複製を入れてあげるの。九人の江ノ島盾子が未来機関の施設から無事卒業! キミたちも今の記憶を持ったまま帰れて、アタシも現実へ戻れる。お互いに得しかないよね?』
「あるわけねえだろ!」
九頭龍が怒鳴る。
「辺古山たちの身体を、てめえなんかに使わせるか!」
「弐大の身体もだ!」
終里が続く。
「中身がないなら、取り戻す方法を探せばいい。お前を入れる場所じゃねえ!」
「田中さんを含め、亡くなった皆さんの身体を、あなたの器にはさせません」
ソニアの声は震えていたが、視線は逸らさなかった。
『本人たちはもういないんだから、身体くらいいいじゃん』
江ノ島が葦原を見る。
『ねえ、葦原ちゃん? 卒業を選べば、今の狛枝クンをそのままお持ち帰りできるよ。外の彼が何をしてたかは刺激的すぎるかもしれないけど、それも思い出として上書きしちゃえば問題なし!』
葦原は江ノ島ではなく、卒業と表示された領域を見た。
すぐには拒まなかった。
九人の身体を江ノ島へ渡す代わりに、現在の人格と記憶を外へ持ち出す道。
ほかの二つと同じように、条件を測っている。
「江ノ島の人格を入れたあと、元へ戻すことはできる?」
『できませーん! 外へ出たアタシが、そんな危ない機能を残すと思う?』
「死んだ人たちの人格データに、バックアップは?」
『ないよ』
「外で九人の身体を拘束できる?」
苗木が答える。
『装置そのものは未来機関の施設にある。でも、卒業処理が始まれば、江ノ島に外部設備の制御まで奪われる可能性が高い。確実に止められるとは言えない』
「可能性はある?」
『ある。けれど、九人全員を止められる保証はない。一人でも施設の外へ出れば、被害がどこまで広がるか分からない』
「分かった」
葦原は卒業の表示から目を離した。
選ばないとは言わなかった。
『じゃあ二つ目。留年!』
別の表示が青く光る。
『外なんか諦めて、この世界でずっと暮らすの。嫌な記憶は消して、最初の朝からもう一度修学旅行を始めてもいい。今の状態を保ったまま、二人で新婚生活を送るのも素敵だよね! 時間も食べ物も病気も、アタシが好きに用意してあげる!』
「あなたに管理される時点で選ばない」
葦原は即答した。
『早っ!』
「記憶も環境も、あなたが気に入る結果へいつでも変更できる。私たちが選んだことを保存できない」
「ボクとずっと一緒にいられても?」
狛枝が尋ねる。
「狛枝くんに似せたものと、江ノ島の箱の中にいるだけになる」
「厳しいね」
「狛枝くんも選ばないでしょ」
「絶望に飼われて生きるくらいなら、今すぐ消えた方がましだよ」
江ノ島は楽しそうに見回す。
『それでは最後! 希望の苗木クン一押しの、強制終了!』
三つ目の表示が赤く染まる。
裁判場の上空に、警告文が幾重にも現れた。
――管理権限を初期化。
――侵入人工知能を削除。
――観測期間内の追加人格および記憶情報を破棄。
――外部被験者を接続前の状態へ復元。
『これを選べば、アタシは完全消滅! ついでに今のキミたちも綺麗さっぱり消えちゃいます!』
江ノ島は楽しそうに両手を叩く。
『外で目覚めるのは、このプログラムへ入る直前の絶望の残党。日向クンはカムクライズルに、みんなは世界を壊してた頃の人格へ逆戻り! 死んだ九人は、目覚めない身体として置き去りだね』
『その説明は正確じゃない』
苗木が割り込む。
『確かに、この世界で得た記憶は失われる可能性が高い。でも、ここで君たちが選び、変わったことまで無意味になるとは限らない。脳へ刻まれた経験が、記憶とは別の形で残る可能性もある』
「可能性は、どのくらい?」
葦原が聞く。
『……測れない』
「強制終了したあと、今の私が今の私として目を覚ます可能性は?」
『……保証はできない』
「狛枝くんは?」
『同じだよ』
「日向くんは、カムクライズルではなく日向創として戻れる?」
苗木は答えなかった。
日向の発言台に表示されたカムクライズルの名前だけが、赤く明滅している。
「死んだ人たちを戻す方法は?」
『今は分からない。でも、外へ出たあとなら、僕たちが必ず方法を探す』
「今の人格と記憶を別の領域へ複製してから、江ノ島だけを消せる?」
『彼女に管理領域を奪われている。外から個別のデータを切り離すことはできない』
「七海さんなら?」
「私にも、今はできない」
七海が答えた。
「管理権限へ触ろうとすると、江ノ島さんに止められる。みんなのデータと江ノ島さんを、ここから安全に分ける方法は見つかってないよ」
「じゃあ、今ある方法ではできないんだね」
葦原の指が発言台から離れる。
「今の私たちと、死んだ人たちと、外の身体を全部助ける方法はない。江ノ島を確実に消すには、今ここにいる私たちの人格と記憶を、一緒に消さなきゃいけない」
『……そうなる』
「それを、私たちに選んでほしい?」
苗木の顔には苦しさが浮かんでいた。
演技ではない。
苗木は本心から彼らを救いたいと思っている。それでも、ほかに手段がないために強制終了を求めている。
『このまま江ノ島を現実へ出せば、また多くの人が死ぬ。君たちも、本当の意味で彼女から自由にはなれない』
苗木は全員を見る。
『強制終了は危険な賭けだ。でも、君たち自身の力で、絶望だった過去を乗り越えられる可能性が残る道でもある。僕は、君たちならできると信じたい』
「私も、強制終了を選んでほしい」
七海が言った。
日向が振り返る。
「七海も消えるんだぞ」
「うん」
「外に身体もない。俺たちみたいに、何かが残る可能性もないんだろ」
「たぶんね」
七海は僅かに笑った。
「でも、私はみんなに生きて考えてほしい。そのためにここにいたんだと思う」
「自分が消えてもか?」
「消えたくはないよ」
七海はすぐに認めた。
「みんなと、もっとゲームもしたい。外がどんなところかも見てみたい。だから怖いよ」
それでも、強制終了の表示を見る。
「でも、江ノ島さんに決められた世界で続けるより、みんなが自分で次を選べる可能性を残したい。記憶がなくなっても、ここで選んだことを、もう一度選べるかもしれないから」
狛枝は赤い強制終了の表示を見つめた。
江ノ島盾子を消せる。
今の自分たちを踏み台にして、外へ戻る絶望の残党が、自分の力で希望を選ぶ可能性へ賭けられる。
何の保証もない。
それでも、江ノ島を打ち破った苗木誠がその可能性を信じている。
未来機関の希望だった七海も、自分が消えると知りながら同じ道を選んだ。
なんと美しい選択だろう。
今の自分が消えることなど、最初から問題ではない。
絶望の残党でありながら希望を語っていた偽物の狛枝凪斗が、二人の希望によって、本物の希望が生まれるための踏み台になれる。
これ以上ふさわしい終わり方があるとは思えなかった。
狛枝の頬が自然に緩む。
その瞬間、葦原が彼を見た。
狛枝の顔から、赤い表示へ視線を移す。
それだけで、何を見抜かれたのか分かってしまった。
「狛枝くんは、強制終了を選びたいんだね」
「江ノ島盾子を消せるんだよ」
狛枝は赤い光を見たまま答える。
「しかも、今のボクたちを踏み台にして、外へ戻る絶望の残党が希望を選ぶ可能性へ賭けられる。超高校級の希望が、その可能性を信じているんだ。素晴らしいと思わない?」
「今の狛枝くんが消えても?」
「希望のためなら、惜しむようなものじゃないよ」
「私が消えても?」
以前にも聞かれた問いだった。
爆弾を仕掛けた狛枝へ、葦原が正面から突きつけたもの。
好きであることと、生き残るべきかどうかは別だ。
「それは、別の問題だよ」
狛枝が答える。
葦原の口元が、ほんの少し動いた。
笑ったのでも、傷ついたのでもない。
予想していた答えが、予想どおり返ってきたことを確認したような動きだった。
*
強制終了の表示へ、新たな文字が追加された。
――登録外部被験者数、十六名。
――強制終了に必要な承認数、八票。
――現在接続中の有効外部被験者、七名。
「七海さんには投票権がない」
葦原が呟く。
「私は外部被験者じゃないから」
だから、七海の発言台に選択用の装置が存在しない。
『あれれー? 強制終了に必要な人数足りないんじゃないのー?』
江ノ島の言葉に、苗木が被せるように言う。
『僕が、使われていない発言台一つへ接続する。外部管理者による代理承認として、一票を入れられる』
光を失っていた九つの発言台のうち、一つに白い線が走った。
名前の表示が消え、代わりに新しい文字が現れる。
外部管理者――苗木誠。
『登録されている外部被験者は十六人。強制終了には、その半数である八票が必要になる。僕の一票と、現在接続している七人全員の承認があれば実行できる』
「つまり、一人でも押さなければ?」
九頭龍が尋ねる。
『強制終了は成立しない』
苗木が答えた。
全員の視線が、七つの発言台を巡る。
日向。
狛枝。
九頭龍。
終里。
左右田。
ソニア。
葦原。
現在の構成では、一人の反対も許されない。
七人全員が、自分の人格と記憶を消すことへ同意しなければ、江ノ島を消すことはできない。
「投票したあと、選択は変更できる?」
葦原が聞く。
『最終処理が始まる前なら変更できる』
苗木が答えた。
「最終処理が始まる条件は?」
『強制終了は、必要承認数に達した時点で開始される』
「卒業と留年は?」
苗木の姿が僅かに乱れる。
『その部分は、江ノ島に書き換えられていて、外から確認できない』
葦原は江ノ島を見る。
「一票でも入ったら開始?」
『さあ、どうでしょう!』
「投票期限は?」
『それも選んでからのお楽しみ!』
「条件を隠したまま、選ばせるんだ」
『全部分かってから選べる人生なんて、つまらないでしょ?』
葦原は返事をしなかった。
表示されていない条件がある。
卒業票を入れれば、隠されている処理が動き出す可能性もある。
それでも、強制終了を拒むなら、いずれ選ばなければならない場所だった。
『あらら。希望のためには、全員仲良く自殺へ賛成しないといけないんだ? 民主的で素敵だね!』
「黙れ」
九頭龍が吐き捨てる。
苗木の発言台に、三つの選択肢が現れた。
『僕は、強制終了を選ぶ』
苗木が赤い表示へ触れる。
――外部管理者による代理承認、一票。
――強制終了承認数、一。
――必要承認数、八。
残る七票の名前が、空中へ並んだ。
狛枝の視線は、赤い表示から動かなかった。
苗木誠が信じる可能性。
七海が、自分の消滅と引き換えに残そうとしている未来。
今の自分たちを踏み台にし、外の絶望の残党がもう一度希望を選ぶ賭け。
狛枝が選ぶべき答えは、初めから決まっているように思えた。
その横で、葦原が白く光る卒業の表示へ手を伸ばした。
「葦原さん?」
指が触れる。
彼女の名前が、卒業の欄へ移動した。
――卒業選択、一票。
裁判場が静まり返る。
『え?』
江ノ島までが、一瞬だけ間の抜けた声を出した。
「何してんだ、葦原!」
左右田が叫ぶ。
「それ押したら、江ノ島が外へ出るかもしれねえんだぞ!」
「分かってる」
「分かってねえだろ!」
「外で九人を止められない可能性がある。江ノ島を世界へ出す危険が高い。それも含めて選んだ」
「だったら、どうして……」
「強制終了を選べば、今の私たちは消えるから」
「それでも、江ノ島を外へ出すよりは――」
「左右田の票は、左右田が決めて」
「一人でも押さなきゃ、強制終了できねえんだぞ! オメー一人の票だけの話じゃねえだろ!」
「うん」
葦原は否定しなかった。
「私が同意しなければ、強制終了は成立しない。ほかの六人が押しても、私が止めることになる」
「分かっててやってんのかよ……」
「強制終了は、私も一緒に消す処理でしょう」
葦原は赤い表示を見る。
「全員の承認が必要なら、私は同意しない」
九頭龍の目が鋭くなる。
「辺古山たちの身体を、てめえのためにあいつへ渡す気か」
「渡したくない」
「同じだろ!」
「同じじゃないとは言ってない」
葦原の声は変わらなかった。
「卒業を選べば、江ノ島を外へ出す危険も私の選択に入る。分かって押した」
「お前……」
「正しいとも言ってない」
葦原は、自分を守る言葉を一つも足さなかった。
世界を救うために自分が消えることを、当然の前提として受け入れない。
その結果、ほかの全員の強制終了まで止めることも理解している。
「今の私が消えたあとで、外の私が何を選んでも、それは今の私が選んだことにはならない」
葦原は狛枝を見る。
「今の狛枝くんも同じ」
狛枝はその視線を受け止めた。
葦原が卒業を選んだ。
江ノ島盾子を現実へ出す危険を負ってでも、今の自分たちを残す方を選んだ。
それは嫌悪するべき答えだった。
超高校級の才能を持つ彼女が、より大きな希望のための踏み台になることを拒み、世界よりも自分を優先した。
それなのに、狛枝の胸へ最初に来たのは嫌悪ではなかった。
葦原の選択の中に、自分も含まれている。
よりにもよって、苗木と七海の希望を止める一票として差し出された。
「ボクが卒業を望んでいなくても?」
狛枝が尋ねる。
「狛枝くんの票は、狛枝くんが決めればいい」
「ボクは強制終了を選ぶよ」
「うん」
「それでも変えない?」
「変えない」
迷いのない返事だった。
「ボクに嫌われるかもしれないよ」
葦原の指が僅かに止まった。
「嫌だよ」
「それでも?」
「それでも、今の狛枝くんが消える方には押さない」
その一言が、狛枝の内側へ深く落ちた。
喜べば、自分まで絶望へ落ちる。
拒めば、葦原が自分で選んだ答えを、希望の名で踏みにじることになる。
どちらにも進めない狛枝を残し、葦原は発言台から一歩下りた。
「どこへ行くの?」
「選んだよ」
葦原はそれだけ答えた。
狛枝へ伸ばしかけていた手を下ろし、背を向ける。
出られると思っているようには見えなかった。
ただ狛枝から離れるために、閉じた赤い扉へ向かって歩き出した。