狛枝は発言台から降り、葦原が扉へ届く前にその手を掴んだ。
「待ってよ」
「待たない」
葦原は足を止めたものの、振り返らなかった。
「離して」
「嫌だよ」
口から出た言葉に、狛枝自身が驚いた。
彼女を止める資格など、自分にはない。
希望のためなら今の葦原が消えても構わないと言ったばかりで、それでも目の前から離れていくことだけは許したくないなど、筋が通らないにもほどがある。
葦原は掴まれた手を振りほどこうとはしなかった。
ただ、狛枝が次に何を言うのか待つように、閉じた扉を見たまま立っている。
『おやおや、意見の不一致で破局ですか?』
江ノ島が楽しそうに笑う。
『強制終了で全部消されるよりは卒業の方がマシだよね!』
「それを決めるのは私」
葦原が答えた瞬間、裁判場全体へ赤い警告文が浮かび上がった。
――外部被験者による卒業票を確認。
――強制終了必要承認数、八票。
――現在承認数、一票。
――内訳、外部管理者代理承認一票。
――残存外部被験者、七名。
――制限時間内に強制終了条件が満たされなかった場合、管理者権限による卒業処理を実行します。
その下に数字が表示され、残り時間を減らし始める。
五十九分五十九秒。
「おい、どういうことだ!」
左右田がモニターを見上げる。
『見たまんまだよ』
江ノ島は上機嫌に足を組んだ。
『強制終了には八票必要。苗木クンが空席から一票入れてるから、あとは外に身体を持ってる七人全員の承認が必要でーす! ちなみに七海ちゃんは身体がないから投票できません!』
「一人でも拒否したら……」
九頭龍が低く呟く。
『強制終了は不成立! 時間切れで卒業決定! アタシが九人分に増えて、現実へ羽ばたきます!』
「投票を始めたら条件を出すって、これ?」
葦原が聞く。
『そうそう! 事前説明に嘘はありません! ちょーっと重要なところを後回しにしただけ!』
「票はまだ変えられるんだよね」
『もちろん。残り時間がなくなるまではね』
九頭龍が、扉の前にいる二人を見る。
「葦原。てめえが票を変えねえ限り、江ノ島を止められねえってことだぞ」
「分かってる」
「分かってて卒業へ入れたのか!」
「それも、さっき言った」
「ペコたちの身体を、あいつに渡すつもりかよ!」
「渡したくない」
「だったら――」
「九頭龍が辺古山さんの身体を渡したくないから、強制終了を選ぶのと同じだよ」
「同じじゃねえ!」
「同じ価値だとは言ってない」
葦原の声は変わらなかった。
「九頭龍は、辺古山さんの身体を守るためなら今の私たちが消える方を選ぶ。私は、今の自分と狛枝くんを残すためなら、江ノ島を外へ出す危険がある方を選ぶ」
「それで世界中の人間が巻き込まれるんだぞ!」
「うん」
「だったら同じなわけねえだろ!」
「影響の大きさは違う。でも、自分が失いたくないものから決めてるのは同じ」
九頭龍の顔に怒りが浮かぶ。
葦原は自分の選択を正しいとは言っていない。
九人の身体を江ノ島に奪わせ、世界へ再び絶望を放つ危険があることも理解している。
それでも、自分が犠牲になる方を選ぶべきだという理由にはならないと拒んでいる。
「私は、世界より今の自分の方が大事」
葦原は、掴まれている手を見下ろした。
「狛枝くんも含めて」
裁判場へ沈黙が落ちる。
狛枝は、その言葉を醜いと思うべきだった。
無数の人間と、死んだ仲間たちの身体よりも、自分と狛枝を優先する。
超高校級の才能を持ちながら、より大きな希望のための踏み台になることを拒む。
希望を愛する者として、そんな身勝手さを許すべきではない。
しかし、狛枝は彼女の手を放せなかった。
自分も、同じ構造で他人の生死を選んだからだ。
未来機関の裏切り者という一つの希望を残すためなら、葦原を含めた全員が死んでも構わないと決めた。
残したい対象と犠牲にする対象が逆なだけで、他人の価値を自分の基準で選別したことに違いはない。
目的まで同じだとは思わない。
それでも、葦原の選び方だけを身勝手だと切り捨てれば、自分のしたことまで同時に崩れる。
「葦原さんは、ボクに言ったよね」
「何を?」
「キミを殺すなら、幸運やモノクマに任せず、ボクが直接殺してって」
「言ったよ」
「強制終了を選ぶなら、ボクがキミを消すことになるのかな」
「全員の承認が必要なら、最後に押すのは私」
葦原がようやく振り返る。
「狛枝くんが直接私を殺すことにはならない」
「そうやって、ボクを責任から外すつもり?」
「違う。私が押さなければ、誰にも押させられないって言ってる」
「キミが卒業を選べば、ボクの意思を無視して、今のボクを残すことになるよ」
「狛枝くんは、自分の票を決められる。私は私の票を決める。どちらも、相手の票を消してない」
「結果は一つしか残らないのに?」
「だから今、話し合ってる」
葦原は狛枝を見上げた。
「狛枝くんは、自分が消えるのが怖くないから簡単に選べる。でも私は、狛枝くんが消える方まで一緒に選ばされる。そこは同じじゃない」
「ボクがいなくなるのが、そんなに嫌?」
「嫌だよ」
問い返すことも、言葉を飾ることもなく、答えが返ってくる。
「外の狛枝くんが同じ顔で目を覚ましても、私を知らないなら、今の狛枝くんが戻ってきたとは思えない」
葦原は一度言葉を切った。
「外の私が目を覚まして、狛枝くんを好きじゃなかったら、それも今の私の続きじゃない」
「絶望の残党同士なら、案外気が合うかもしれないよ」
「それは外の二人の話。私たちの話じゃない」
葦原の言葉は、狛枝の中で反論を許さない形に組み上がっていた。
今の自分が消えても、身体は残る。
別の記憶を持つ狛枝凪斗が目覚め、別の葦原アイと出会えるかもしれない。
それを生存と呼べるなら、何も恐れる必要はない。
けれど、彼女はそれを生き残ることだとは認めない。
外で目覚めた葦原が、自分を見ても何の感情も浮かべない。
ファイナルデッドルームで銃口を向けられたことも、手を繋いで島を歩いたことも、キスをしたことも知らない。
その姿を想像すると、狛枝も、それで構わないとは思えなかった。
『いいねえ、その調子!』
江ノ島が身を乗り出す。
『愛する人と一緒に消えるか、世界を犠牲にして愛を持ち帰るか! どっちを選んでも絶望的で最高じゃん!』
「黙っててくれる?」
狛枝が江ノ島へ向けた声から、笑みが消えた。
『え?』
「今、葦原さんと話してるんだ。キミみたいな絶望に入ってこられたくないな」
江ノ島の顔が不快そうに歪む。
その反応を見ても、狛枝は満足しなかった。
彼女を拒絶したところで、選択肢が増えるわけではない。
残り時間は五十六分を切っている。
今の自分たちを残して、江ノ島を外へ出す危険を受け入れるか。
江ノ島を確実に消すために、今の自分たちも消えるか。
その二つしかないという条件は、変わらないままだった。
「本当に、ほかの方法はないのか?」
日向が苗木へ問い掛ける。
『僕たちも探している。でも、江ノ島が内部の管理権限を握っている以上、外から記憶だけを保存することはできない』
「卒業を選んだあと、外で江ノ島の入った身体を拘束するのは?」
『準備はしている。けれど、卒業処理が始まれば、外部設備の制御まで奪われる可能性がある。九人全員を確実に止められるとは言えない』
「強制終了なら?」
『江ノ島を確実に消せる。ただし、今の君たちの人格と記憶も初期化の対象になる』
「七海も消えるのか?」
日向の問いに、苗木は答えづらそうに口を閉じた。
代わりに七海が頷く。
「うん。私はこの世界の中にしかいないから、プログラムを初期化したら消えると思う」
「そんなの、おかしいだろ」
「そうだね。不公平だと思うよ」
「だったら、お前だって反対しろよ! 江ノ島だけを消す方法を、一緒に探せば――」
「時間がないし、見つかる保証もない。江ノ島さんが外へ出たら、もっとたくさんの人が酷い目に遭う」
「だからって、お前が消えていい理由にはならない!」
「消えていいとは思ってないよ」
七海は少し困ったように笑う。
「でも、私は強制終了を選んでほしい」
「なんでだよ」
「狛枝くんが私だけを残そうとした時は嫌だった。あれは狛枝くんが決めた、私の未来だったから」
七海は自分の発言台を見る。
そこには今も投票装置がない。
「でも、今は私が自分で選んでる。みんながもう一度、自分の未来を考えられる可能性を残したい。結果として私が消えることは同じでも、そこは違うと思う」
狛枝は七海を見た。
自分が彼女へ押しつけようとした犠牲と、七海が自分で選ぼうとしている結末は違う。
結果だけを見れば、どちらも七海が消えることに変わりはない。
それでも七海にとっては、自分で選んだかどうかが決定的な差になる。
葦原も同じなのだろう。
世界のために消えろと決められれば拒む。
同じ結果へ進むとしても、最後に押すのは自分でなければならない。
「七海さん」
狛枝が呼び掛ける。
「新世界プログラムは、外の脳から意識を受け取って、こっちで処理した結果を返しているんだよね」
「うん。完全に切り離された状態じゃないよ。外の脳が動いていないと、アバターも動かせないから」
「この世界で考えているのは、プログラムだけ?」
「違うよ。感覚の生成や環境の処理はプログラム側だけど、判断したり、記憶同士を結びつけたりする処理には、外の脳も使われてる」
「強制終了で消えるのは、プログラム側に保存された観測期間の記憶データ」
「そうだね」
「接続している間に、外の脳そのものへ起きた変化まで、接続前へ戻す機能はある?」
七海はすぐには答えなかった。
空中の記録画面へ触れ、何層もの文字列を開いていく。
強制終了に関する処理を一つずつ確認する手の動きは、ゲームを操作している時と変わらない。
ただ、普段よりもずっと遅かった。
「外部被験者の記憶領域へ、接続前に保存された情報を再展開する処理はある」
七海が答える。
「でも、脳の物理的な変化まで巻き戻すことはできないと思う」
「この中で覚えたことが、外の脳にも残っている可能性は?」
「あるよ」
葦原の視線が七海へ向く。
「どんな形で?」
「明確な記憶として残る可能性は低いと思う。何となく知っているとか、理由は分からないけど身体が反応するとか。そういう形になるかもしれない」
「記憶を再展開する時に上書きされる可能性は?」
「ある。逆に、再展開しても消し切れない可能性もある。実際に強制終了を試した記録がないから、どちらとも言えないよ」
狛枝の目が、空中に表示された処理記録を追う。
「ゼロではない?」
「ゼロだとは言えない」
『何その雑な希望!』
江ノ島が声を上げる。
『バックアップもないのに、消去した記憶が残るわけないじゃん! 外で目覚めるのは、絶望に堕ちたキミたちだよ!』
画面へ、外部被験者の記録が映し出された。
『狛枝クンなんか、死んだアタシの一部を自分の身体へくっつけるくらい壊れてるんだよ? そんな男が葦原ちゃんを覚えてたところで、今みたいに優しく手を繋いでくれると思う?』
反射的に、狛枝は自分の左腕を見た。
この世界では右腕と変わらず動いている。
痛みも違和感もなく、葦原へ触れれば指先の温度まで分かる。
外にある身体が、この腕をどうしているのか。
江ノ島の言葉が本当なら、自分は彼女の死体から腕を奪い、自分へ繋げたことになる。
「外の狛枝くんが何をしてたかは、今どうでもいい」
葦原が言った。
江ノ島ではなく、狛枝を見ている。
「今ここにいる狛枝くんが、どうしたいかを話してる」
狛枝は思わず笑った。
葦原の表情が、狛枝を見てほんの少しだけ緩んだ。
その顔を見た瞬間、狛枝の中にあった二つの願いが、初めて同じ場所へ重なった。
江ノ島盾子を消し、この世界の外へ希望を残したい。
それは変わらない。
希望のためなら、自分が消えることも、絶望だった身体へすべてを委ねることも受け入れられる。
同時に、葦原を失いたくなかった。
どちらかを切り捨てるしかないと思っていた。
希望を取るなら葦原を諦め、葦原を取るなら希望を裏切る。
だが、確率がどれほど低くても、今の二人が記憶を残したまま外へ出る結果が存在するのなら、選択肢は二つではない。
彼女を連れて、希望の側へ出る。
その願いが傲慢で、何の保証もないことを理解していても、片方を諦めるより強く望んでいる。
「葦原さん」
「何?」
「今のボクとキミが、二人ともこの記憶を残したまま目覚める確率は、どれくらいかな?」
「計算できないよ。記憶として残る経路が確認できてない」
「すごく低い?」
「普通に考えればね」
「ゼロではないんだよね」
「ゼロだと証明できる情報がないだけ」
「それで充分だよ」
狛枝は掴んでいた彼女の手を持ち上げ、指を絡めた。
「ボクの幸運、信じるって言ってたよね」
葦原の眉が僅かに寄る。
「それ、私が断りにくい言い方だって分かってる?」
「もちろん」
「ずるいね」
「キミが言ったんだよ」
狛枝は葦原を見る。
「ボクの才能は、不運と幸運を釣り合わせているんじゃなくて、ボクが強く望んだ結果を引き寄せているだけかもしれないって」
「仮説だよ」
「だから確かめよう」
「失敗したら、結果を観測できない」
「そうだね」
「ロシアンルーレットとは違う。あの時は、空の薬室があるって分かってた。今回は、記憶が残る経路があるかも分からない」
「それでも、ないとは決まっていない」
「狛枝くんが信じたいだけでしょ」
「うん」
狛枝は否定しなかった。
「ボクがそうなってほしいと思ってる」
自分で言いながら、その言葉の重さに気づく。
これまでなら、不運を引き受けるのは自分だけで充分だと言ったはずだ。
葦原を巻き込まないために離れ、それでも彼女が付いてくるなら、その行為すら希望のための踏み台として受け入れたかもしれない。
けれど、葦原は安心させても離れず、突き放しても嫌いにならず、殺すかもしれないと告げても手を繋いだ。
自分の不運へ巻き込まないための距離など、彼女は初めから求めていない。
「もし、その先に不運が来ても」
狛枝は続ける。
「今度はキミを遠ざけないよ。外で一緒に考えよう」
葦原はすぐには答えなかった。
絡めた指を見る。
何かを組み立てる時と同じ沈黙だった。
「ボクは強制終了を選びたい」
狛枝が言う。
「江ノ島を消して、この世界の外へ希望を残したいから。それは変えられない」
「うん」
「でも、キミを消して構わないと思って押すわけじゃない」
葦原の目が、狛枝を見上げる。
「ボクもキミも、今のまま外で目を覚ます。保証なんかないけど、ボクはその結果を望んで押すよ」
希望のために彼女を置いていくのではない。
彼女と一緒に外へ出る結果まで、希望の中へ入れる。
それが許されるのかは分からなかった。
狛枝凪斗の個人的な願いなど、本来なら希望の条件へ混ぜるべきではない。
それでも、もう切り離せなかった。
「キミと一緒に外へ出られる方へ賭けたい」
「それ、狛枝くんにとって希望なの?」
「どうだろう」
狛枝は少し笑う。
「個人的な欲望を希望と呼ぶなんて、傲慢すぎる気もするね」
「欲望でいいよ」
「希望じゃなくても?」
「私を選ぶ時くらい、それでいい」
葦原は絡めた指へ力を込めた。
「……私は、世界のためには押さない」
「うん」
「苗木さんの希望のためでも、外の私を更生させるためでも押さない」
「うん」
「今の私と狛枝くんが、一緒に外へ出る方へ賭けるためになら押す」
葦原は一度だけ、卒業の表示を見た。
「それで失敗しても、世界を救うために自分から消えたことにはしない」
「それでいいよ」
狛枝は答えた。
「キミらしくて、ボクは好きだな」
「今、ちゃんと言ったね」
「何を?」
「好きって」
「こんな時まで確認するんだ」
「消えるかもしれないから」
葦原は、繋いだ手を一度だけ揺らした。
「もう一回言って」
狛枝は彼女の目を見る。
江ノ島が時間を数え、苗木が強制終了の準備を進め、ほかの全員が二人を待っている。
それでも今だけは、それらすべてが遠くにあるように感じられた。
「好きだよ、葦原さん」
「うん。私も好き」
葦原は満足したように頷いた。
「戻ろう」
「卒業の票は?」
「最後に変える」
「最後までボクを困らせるつもり?」
「狛枝くんが押した後に、私も変える」
「信用されてないなあ」
「今までの結果」
二人は手を繋いだまま、並んだ発言台へ戻った。
*
残り時間は四十二分を切っていた。
強制終了の表示へ最初に触れたのは、九頭龍だった。
「オレは、ペコの身体をあいつに使わせねえ」
九頭龍は赤い表示を睨む。
「外で目を覚ましたオレが絶望のままでも、そん時は苗木、てめえらが止めろ」
『必ず止める。それでも、君自身がもう一度選べると信じてる』
「勝手に信じてろ。オレはオレの理由で押す」
九頭龍の指が赤い光へ触れる。
――外部被験者承認、一。
ソニアは田中の発言台を長く見つめたあと、静かに強制終了へ指を置いた。
「田中さんと弐大さんは、生きるために戦いました」
声は僅かに震えていた。
「わたくしがここへ留まり続けることを、お二人が望むとは思えません。外のわたくしが何者であっても、再び選ぶ機会があるのなら、そこへ進みます」
――外部被験者承認、二。
終里は難しい顔で頭を掻いていたが、やがて拳で表示を叩いた。
「起きてみねえと分かんねえんだろ。だったら起きる」
弐大の消えた発言台を見る。
「そんで、目ぇ覚まさねえヤツがいたら、何発でもぶん殴って起こす」
――外部被験者承認、三。
「そんな簡単な話じゃねえって……」
左右田は三つの選択肢を見比べ、何度も手を出しては引っ込めていた。
「オレがオレじゃなくなるかもしれねえんだぞ。外で目ぇ覚ましたって、ソニアさんのことも、みんなのことも覚えてねえかもしれねえ」
自分の両手を見る。
「そんなの、死ぬのと何が違うんだよ」
「違わないかもしれません」
ソニアは慰めるのではなく、正面から答えた。
「わたくしも怖いです。ですが、怖くないふりをして選ぶ必要はありません」
「ソニアさんは、それでも押したんすか」
「はい。恐怖が消えるまで待っていれば、江ノ島さんが外へ出ますから」
「……ずりぃよなあ。そこで迷わねえんだもんな」
「とても迷いました」
左右田はソニアの顔を見る。
ソニアは目を逸らさなかった。
左右田は何度か息を吸い、ようやく自分の手を強制終了へ押し当てる。
「外のオレがまた絶望やってたら、ちゃんと殴って止めてくださいよ」
「もちろんです。必要なら工具もお借りします」
「工具で殴るのはやめてください!」
――外部被験者承認、四。
残った日向は、強制終了へ指を近づけることすらできずにいた。
外で目を覚ませば、日向創ではなくカムクライズルへ戻る。
今ここで得た人格が一時的なものなら、日向にとっての強制終了は、ほかの誰より明確な消滅だった。
七海が日向の隣へ歩いていく。
「日向くん」
「お前は、怖くないのか」
「怖いよ。消えたあとがどうなるかは、ゲームみたいに確かめられないから」
「お前は確実にいなくなるんだぞ」
「うん」
「そんなこと、選べるわけないだろ」
「でも、選ばなかったら江ノ島さんが私の代わりに、みんなの身体を使う。私はそっちの方が嫌かな」
七海は日向の手へ触れた。
身体を持たない人工知能の手。
それでもこの世界では、温度も柔らかさも本物と区別できない。
「外で日向くんが私を覚えていなくても、ここで一緒に過ごしたことが全部なくなるとは思わないよ」
「根拠、ないだろ」
「うん。でも、日向くんが迷ったことも、誰かを助けようとしたことも、カムクライズルに与えられた才能じゃない」
「俺は、そいつじゃない」
「うん。今は日向くんだよ」
七海は僅かに笑う。
「外で目覚めた人が誰になるかは、その人が決めればいいと思う」
「決められるのか?」
「分からない」
「だったら――」
「だから、未来なんじゃないかな」
日向は長い間、俯いていた。
やがて顔を上げると、七海の手を一度だけ握り、自分の指を強制終了へ押し当てた。
「俺は、外でも日向創を選ぶ」
赤い光が指先へ広がる。
「たとえ全部忘れても、もう一度選ぶ」
――外部被験者承認、五。
残っているのは、狛枝と葦原だけだった。
狛枝は自分の発言台へ戻り、苗木を見上げる。
「苗木さん」
『何だい?』
「外で目を覚ましたボクたちが、また絶望を選んだらどうする?」
『何度でも止めるよ』
苗木は迷わず答えた。
『君たちが自分で別の答えを選べるまで、諦めない』
「何の根拠もなく?」
『君たちがここで変わったことを見ていた。それが僕の根拠だ』
「希望ヶ峰学園の才能でも、未来機関の計算でもなく、ただ信じるんだね」
『それしかできない時でも、信じることはできるから』
狛枝が想像していた超高校級の希望は、もっと圧倒的なものだった。
絶望を打ち破るだけの才能と力を持ち、誰もが納得する正しい道を示す存在。
実際の苗木は、何一つ保証できない。
失われた記憶が残ることも、絶望の残党が更生することも、死んだ仲間たちが目を覚ますことも約束できない。
それでも、信じることだけはやめないと言う。
あらゆる才能を持つカムクライズルは、退屈を理由に江ノ島を選んだ。
何も保証できない苗木誠は、絶望だった自分たちがもう一度希望を選ぶ可能性を信じている。
その不完全さを、狛枝は美しいと思った。
「それなら、ボクも信じてみるよ」
狛枝は強制終了を承認した。
――外部被験者承認、六。
――代理承認を含む総承認数、七。
――必要承認数、八。
残る一票が、葦原の名前へ移る。
『やめときなよ、葦原ちゃん』
江ノ島の声から、それまでの軽薄な調子が薄れていた。
『狛枝クンの幸運が何だっていうの? そいつの幸運は周りを巻き込んで、最後に本人だけを生き残らせる』
外部装置に眠る狛枝の影が拡大される。
『二人とも記憶を残すなんて、都合のいい結果が起きるわけないじゃん』
「そうかもしれない」
『目覚めた狛枝クンが、アタシのことしか見てなかったら? キミの顔を知らないって言われたら?』
別の画面に、外で眠る葦原の身体が映る。
『外のキミが、狛枝クンを殺したいくらい嫌ってたら?』
「その時は、その時考える」
『今のキミは消えてるのに?』
「だから怖いよ」
葦原は狛枝を見る。
「でも、欲しい方に賭ける」
彼女は赤い強制終了の表示へ手を伸ばし、触れる直前で止めた。
「狛枝くん」
「何?」
「覚えてたら、最初に抱きしめてね」
狛枝は、まだ繋いでいる手を見る。
次に目を開けた時、この温度も、指の形も、彼女の名前すら失っているかもしれない。
それでも、理由も分からないまま誰かを探し、見つけた瞬間に腕を伸ばす程度の痕跡なら、外の自分にも残せる気がした。
「分かった。キミを見つけたら、最初に抱きしめるよ」
葦原は少し笑った。
卒業の欄にあった彼女の名前が消える。
その指が、強制終了へ触れた。
――外部被験者承認、七。
――外部管理者代理承認、一。
――総承認数、八。
――必要承認数を確認。
――強制終了処理を開始します。
『ふざけないでよ!』
江ノ島の絶叫と同時に、裁判場が大きく揺れた。
モニターに映っていた彼女の姿が幾つにも分裂し、異なる表情を浮かべながら画面の中を暴れ回る。
強制終了を取り消すための命令が、濁流のように文字列を埋めていく。
「通さないよ」
七海が両手を伸ばした。
彼女の発言台から白い線が走り、江ノ島の命令へ絡みつく。
『投票権もない観察用プログラムが、管理者へ逆らえると思ってんの!?』
「私だけなら、無理かもしれない」
七海の身体が、足元から光の粒へ変わり始める。
白い線の一本が、モノミを拘束していた紐へと伸びた。
亀裂が走る。
「モノミ」
「はいでちゅ!」
モノミが両手を振り上げる。
「先生役の権限、ほんの少しだけ残ってまちた!」
モノミの身体から放たれた光が、七海の線と重なる。
江ノ島の流していた命令が、見えない壁へ衝突したように止まった。
『妹のくせに!』
「ウサミでちゅ!」
ウサミは両耳を広げ、裁判場を覆う光を強める。
「先生として、みなさんをちゃんと送りまちゅ!」
「七海!」
日向が手を伸ばす。
七海は、自分の身体が消えていく様子を一度見下ろした。
「大丈夫。最後まで終わらせるから」
「大丈夫なわけないだろ!」
「うん」
七海はいつもの眠そうな笑顔を浮かべた。
「でも、ありがとう。私がいなくなることを嫌がってくれて」
日向の手へ、自分の手を重ねる。
「外で会えなくても、またゲームをする時に思い出してくれたら嬉しいな」
「七海、俺は――」
「日向くんなら、大丈夫だよ」
「根拠ないだろ……」
「うん。でも、信じてる」
日向が何かを言う前に、七海の姿は無数の光となってほどけた。
「千秋ちゃーん!」
モノミの声が響く。
七海だった光が裁判場を覆い、江ノ島の映るモニターへ流れ込んでいく。
モノミの輪郭も、端から少しずつ薄れていた。
「みなさんと、もっとらーぶらーぶしたかったでちゅ」
涙を浮かべながら、それでも笑っている。
「でも、みなさんが自分で選んだ卒業なら、先生は嬉しいでちゅよ!」
『待って! やり直そうよ! 死んだみんなにも会いたいでしょ? 記憶を消せば、何度でも最初から遊べるんだよ!』
江ノ島の声が、澪田や罪木、西園寺の声へ次々と変わる。
光を失っていた発言台に、死んだ者たちの姿が現れた。
辺古山が九頭龍を呼び、田中がソニアと終里を見据え、弐大が大声で笑っている。
誰もが、死ぬ前と同じ姿でこちらへ手を伸ばした。
狛枝の前には、ファイナルデッドルームへ入る前の葦原が現れた。
まだキスもしていなかった頃の彼女が、銃を持たない手を差し出している。
『残れば、失敗する前からやり直せるよ』
葦原の姿をしたものが言う。
『今度は撃たずに済む。嫌われるようなことも、殺そうとすることも、全部なかったことにできる』
「それは葦原さんじゃないよ」
狛枝が答える。
偽物の姿が歪んだ。
「ボクが撃ったことを知っていて、それでも隣にいると決めたのが葦原さんだ」
あの時の恐怖も、彼女へ銃口を向けた事実も、なかったことにはできない。
消せば綺麗になる傷ではなく、そのあと何を選んだかまで含めて二人の間に残っている。
「都合の悪いところを消したキミは、ただの偽物だよ」
隣にいる本物の葦原が、狛枝の手を強く握る。
床が消え、発言台が崩れ、仲間たちの姿が遠ざかっていく。
苗木の映像も激しい砂嵐に覆われながら、最後までこちらへ向かって叫んでいた。
『外で待ってる! 君たちが何を覚えていても、忘れていても、必ず――』
声が途切れる。
狛枝の足先から感覚が消え始めた。
身体が光へ変わっているはずなのに、痛みはない。
葦原の手だけが、最後まで指の間に残っている。
「狛枝くん」
「ここにいるよ」
「忘れないで」
「キミもね」
「忘れてたら、思い出させて」
「どうやって?」
葦原は、少しだけ考えた。
「また、お話しよう」
記憶を戻す方法ではなかった。
同じ結果へ、もう一度辿り着くという答えだった。
いかにも葦原らしい。
狛枝は笑い、消えかけた腕で彼女を引き寄せた。
身体の輪郭は既に曖昧になり、抱きしめられているのかさえ分からない。
それでも、葦原の額が胸元へ触れた感覚だけは確かに残った。
外で待つ自分が絶望であっても。
江ノ島の腕を身体へ繋いだ、壊れた人間であっても構わない。
今ここにいる自分が消える直前まで望んだことを、理屈ではなく痕跡として残せればいい。
彼女を探す。
見つけたら、最初に抱きしめる。
それだけを何度も繰り返し、狛枝は薄れていく意識の奥へ刻み込んだ。
視界を埋めた白い光の中で、葦原の声がもう一度だけ名前を呼ぶ。
狛枝凪斗は、初めて自分の幸運を、誰かのもとへ帰るために使った。