左右田が縄を引くたび、狛枝の身体が柱へぶつかった。
「痛かったら言えよ。もっと締めてやるから」
「親切だね、左右田クンは」
「どこがだよ!」
旧館の広間は、パーティーの跡だけが綺麗に消されていた。
十神の血も、倒れたテーブルも、花村が作った料理もない。モノクマが片づけたのだろう。つい数時間前まで二人が生きていた場所に、今は柱へ縛られた狛枝だけがいる。
左右田には、その綺麗さの方が気持ち悪かった。
弐大が狛枝の背後へ回り、縄を一本ずつ確かめた。
両手首は背中側でまとめ、足首にも縄を回し、胴は太い柱へ固定している。狛枝は最初から一度も抵抗しなかった。むしろ弐大が腕を持ち上げれば自分から力を抜き、左右田が縄を回しやすいように身体を傾けた。
協力的であればあるほど腹が立つ。
「これでいいじゃろう」
弐大が最後の結び目を強く引いた。
「ワシと左右田が戻るまで、決して外すでないぞ!」
「で、でも、こんなに縛ったら痛いでちゅよ……」
モノミが狛枝の周りを落ち着きなく歩き回る。
「オマエ、こいつに二人殺されかけたの忘れたのかよ!」
「忘れてないでちゅ! けど、乱暴なことをしたら、らーぶらーぶから遠ざかっちゃいまちゅ!」
「もう手遅れだろ!」
狛枝は柱に背を預けたまま、穏やかに笑っていた。
「心配しなくても大丈夫だよ。こんなボクを、みんながわざわざ警戒してくれるんだ。光栄なくらいさ」
「テメーは喋んな!」
広間の入口で、床板が鳴った。
振り向くと、葦原が立っていた。
「何してるの?」
「見りゃ分かんだろ。コイツを拘束してんだよ」
「場所ここなんだ」
葦原は狛枝より先に、柱へ回された縄を見た。
結び目の位置、手首と縄の隙間、足を固定した向き。順番に眺めてから、ようやく狛枝の顔へ視線を上げる。
「痛い?」
「ボクにはもったいないくらい丁寧な結び方だよ」
「ふぅん」
左右田は頭を掻いた。
「オレらもずっとここにいるわけにいかねーから、今夜はモノミに見張らせる」
「モノミ一人?」
葦原はしばらくモノミを見た。
それから広間へ入り、壁際に残っていた椅子を一脚引き寄せる。
「モノミとも話したいし、私も見張りする」
「は?」
「二人の方がいいでしょ」
左右田は、裁判場で葦原が言ったことを思い出した。
「お前、コイツと話すの面白ろがってんだろ」
「危ない思想があるのはわかってる」
「その言い方不安なんだよ!」
葦原は首を傾けた。
「狛枝くんの縄を外す気はないよ」
「喋って丸め込まれたらどうすんだっつってんだ!」
「丸め込まれたら、モノミが止めるでしょ」
「あちしへの信頼が急に重いでちゅ!」
弐大は腕を組み、葦原とモノミを見比べた。
「確かに、一人よりは二人の方がよかろう! 何かあれば大声を出せ。ワシと左右田が夜明けに確認へ戻る」
「弐大!?」
「ワシらも休まねば、明日から動けんぞ」
正論だった。
左右田の身体は、裁判が終わってからずっと力が入りっぱなしだ。指先が震えているのが、怒りのせいか疲労のせいかも分からない。
「絶対に縄を外すな。水とか便所とか、何かあっても一人で近づくな。あと、コイツの言うこと真に受けんなよ」
「分かった」
「本当に分かってんのか?」
「一人で近づかない。縄を全部は外さない。狛枝くんが言ったことは、内容を見て決める」
「最後!」
狛枝が堪えきれないように笑った。
「いい夜になりそうだね」
「お前は黙ってろ!」
左右田は何度も振り返りながら、弐大と旧館を出た。
扉が閉まる直前、葦原が狛枝の正面へ椅子を置くのが見えた。
監視というより、話を聞く位置だった。
*
旧館へ静けさが戻ってから、葦原は狛枝をほとんど見なかった。
狛枝の正面へ椅子を置いたくせに、最初に向き合ったのはモノミだった。
「この島にいる間、身体に何かあったらどうなるの?」
「あちしが責任を持って治療しまちゅ!」
「死んだら?」
「そ、そんなこと、もう起こしちゃダメでちゅ!」
「起きたあとの処理を聞いてる」
「お空のお星様になりまちゅ!」
「死体は残ってたよ」
モノミの耳が下がる。
「先生をいじめないでくだちゃい……」
「いじめてない。分からないなら分からないでいいよ」
葦原は椅子へ浅く座り、次の質問へ移った。
「希望のカケラは、どこに溜まるの?」
「みなさんの心でちゅ!」
「見える形じゃないのか。誰が数えてる?」
「み、みんなが仲良くなれば、自然と集まるんでちゅ!」
「私たち、最初は希望を持ってない扱いなの?」
「そういうわけでは――」
「希望に固執するのは、この島の設定? らーぶらーぶって鳴き声?」
「鳴き声じゃないでちゅ! 愛と平和の合言葉でちゅ!」
狛枝は笑いを漏らした。
「葦原さん。モノミは一応、ボクらの先生らしいよ」
「先生なら答えてくれるかと思った」
「あちしだって答えられることなら答えたいでちゅよ!」
モノミが両腕を振る。
「でも、今はみなさんがらーぶらーぶを取り戻すことが一番大事なんでちゅ!」
「取り戻す?」
葦原が聞き返す。
モノミは両手で口を塞いだ。
「今、持ってない前提だったね」
「ち、違いまちゅ! 言葉の綾でちゅ!」
狛枝は柱へ背を預けたまま、二人を眺めた。
裁判場で正体を明かしたあと、向けられるものは二つに分かれた。嫌悪か、恐怖だ。どちらも当然で、どちらも狛枝には心地よかった。自分のような人間が、素晴らしい才能を持つ彼らのそばへ並ぶ方が間違っていたのだ。
葦原も、危険だとは理解したらしい。
そのうえで、狛枝を縛った部屋に一晩残り、本人を放置してモノミへ質問を浴びせている。
嫌われたのかどうかさえ、狛枝にはよく分からなかった。
「ねぇ、狛枝くん」
ようやく葦原がこちらを向いた。
「何かな?」
「狛枝くんの不運と幸運、関係なくない?」
モノミが目を丸くする。
「どうしてその話になるんでちゅか!?」
「昨日から途中だったから」
葦原は当然のように答えた。
「不運のあとに幸運が来るなら、今ここに閉じ込めるの、ナンセンスなんだよね。あとの幸運を大きくしてるだけじゃない?」
「ボクを自由にした方がいいって言ってくれるの?」
「言ってない。話し相手がいれば、そこまで不幸でもないでしょ。きっと」
葦原はほんの少し笑った。
「だから私がここにいるのは、監視としても正しい」
「完全に言葉遊びでちゅ!」
モノミが抗議した。
「それに、ボクが葦原さんと話せることを幸運だと思ったら、順番が逆になるよ」
狛枝が言うと、葦原は少し考えた。
「じゃあ、拘束された不運と、私と話せる幸運が同時に来た?」
「そういうことかもしれないね」
迷いのない答えだった。
狛枝は目を細める。
人の選択まで幸運の結果へ含めても、葦原は仮定のひとつとして扱うようだった。
「元々、今までどんなことがあったの?」
葦原が聞く。
「狛枝くんが不運と幸運を一組だと思うようになった材料」
狛枝は少しだけ迷った。
自分の過去を隠す理由はない。
けれど、同じ温度で全てを渡す必要もなかった。
「最初に強く覚えているのは、両親と飛行機に乗っていたときかな。運悪くハイジャックに遭ったんだ」
モノミの耳がぴんと立つ。
「そのあと、飛行機へ隕石の破片が衝突した。ハイジャック犯は倒れ、ボクだけが生き残った。両親は亡くなって、莫大な遺産がボクのものになったよ」
葦原は慰めの言葉を挟まなかった。
「そもそも、両親が莫大な遺産を持ってたってこと?」
「そうなるね」
「元から幸運だね」
狛枝は瞬いた。
「隕石が落ちてくるのは、狛枝くんの影響っぽい。飛行機に当たって、ハイジャック犯が止まるのは幸運。両親が死んだのは不幸」
葦原は指を一本ずつ立てた。
「両親のこと、好きだった?」
モノミが慌てて葦原の膝を叩く。
「もっと聞き方があるでちゅ!」
「必要な条件だから」
葦原は狛枝から目を逸らさなかった。
狛枝は、あの飛行機の中を思い出した。
両親は忙しく、家族三人で過ごす時間は少なかった。それでも、死んでほしいと願ったことはない。
「好きだったよ。少なくとも、両親を失って自由になれて嬉しいとは思わなかったかな」
「じゃあ、不運だね」
葦原は即座に切った。
「次が遺産。遺産をもらった事実はあとにあるけど、狛枝くんが欲しかったものじゃないよね? 両親を失った不幸と釣り合う幸運として扱うなら、狛枝くんは両親も大好きで、同じくらいお金も欲しかったことになる」
「ずいぶん強欲な子供だね」
「そうだった?」
「いいや。お金には、昔からあまり興味がないよ」
「じゃあ遺産は、ただの流れの後処理かもね」
葦原は、組みつけたばかりの部品をまた外すように言った。
「でも、ボクだけが生き残った。そのうえ一生困らない財産まで手に入ったんだ。一般的には、十分すぎる幸運じゃないかな」
「一般の話じゃなくて、狛枝くんの能力の条件を見てる」
葦原の指が、床の上へ見えない線を引く。
「それとも、狛枝くんが幸せだったかは関係ない?」
「低い確率の出来事を引き寄せ、最後にはボクへ有利な結果が残る。それがボクの幸運だよ」
「それは幸運じゃなくて、低確率を引き寄せる体質かもしれない。幸運って、幸せな運でしょ」
それは、狛枝がこれまで一度も分けたことのない場所だった。
不運がある。より大きな幸運が訪れる。
その繰り返しは、狛枝の人生を支配する法則であり、自分が超高校級の幸運である証明でもある。
葦原は、名前の付け方から疑っていた。
「例えば、三つのくじがあるとして」
葦原は床へ三本の線を引いた。
「一つは、日向くんが怪我して、狛枝くんが一万円もらえる。二つ目は、日向くんが怪我して、狛枝くんが一万円払う。三つ目は、誰も怪我しないし、お金も動かない。どれを引きそう?」
「どうして日向クンが怪我をする前提なんだろうね」
「狛枝くんの話、周りが巻き込まれるから」
悪びれずに返される。
「確率が同じなら、三つ目は選ばれない気がするかな。何も起こらないなんて、ボクには似合わないから」
「狛枝くんにとって一つ目は幸運?」
「才能ある日向クンが、一万円程度のために傷つくのは耐えられないよ」
「じゃあ不運。二つ目も不運。三つ目が一番いい」
「でも、何も起きないよ」
「何も悪いことが起きないの、幸運じゃない?」
狛枝は笑った。
「葦原さんの定義では、そうなるんだね」
「狛枝くんの感覚でいいよ。私の定義で狛枝くんの能力を作っても仕方ないから」
床へ引かれた三本の線を、葦原の靴先が消した。
「ほかには?」
狛枝は次の材料を選んだ。
「一度、連続殺人犯に誘拐されたことがあるよ。ゴミ袋へ詰められた。その中に偶然、当たりの宝くじが入っていたんだ」
「宝くじはいくら?」
「三億円だったかな」
「誘拐されただけ? 痛めつけられた?」
「多少はね。でも、死んではいないよ」
「狛枝くんにとって、痛めつけられるのと三億円が同じ重さ?」
葦原は真顔だった。
「狛枝くん、お金にこだわりないよね」
「そうだね」
「なら、宝くじは分かりやすく低確率だけど、幸せとしては弱い。助かったことが幸運。誘拐されたことが不運。宝くじは横からくっついた」
モノミは難しい顔で二人を見ている。
「当たりくじがあったから助かった可能性」
「犯人がそれを見つけて行動変えた?」
「警察が宝くじを追って犯人を見つけたとか?」
葦原は自分で首を横に振る。
「いや、当たりくじが狛枝くんの手元に残ったなら違うか。犯人にとっては、中を見ないで捨てるくらいのゴミだった」
仮説を出しては、自分で捨てる。
島の仕組みを調べているときより、声の動きが軽かった。
狛枝は、自分の人生が葦原の手元で部品に分けられていくのを眺めた。
悲惨だと言われるより、運がよかったと羨まれるより、ずっと奇妙だった。
「葦原さんは、ボクの過去が作り話だとは思わないの?」
「狛枝くんが嘘つく理由ある?」
「キミを油断させるためかもしれないよ」
「油断させる話なら、もっと同情しやすく話すんじゃない?」
葦原は狛枝の縄を見た。
「それに、信じたから外すわけじゃない。話の真偽と拘束は別」
また、分けられた。
狛枝は口元の笑みを深くした。
「超高校級の設計士は、人の中身まで図面にするんだね」
「図面にできるほど綺麗じゃないよ」
葦原は足元へ置いていた水のボトルを取った。
自分で一口飲んでから、狛枝へ向ける。
「飲む?」
「えっ、ちょっと待ってくだちゃい!」
モノミが二人の間へ飛び込んだ。
「左右田くんに、一人で近づくなって言われたばかりでちゅよ!」
「モノミもいるから一人じゃない」
「そういう数え方でちゅか!?」
葦原は狛枝の前へしゃがんだ。
「毒が入ってるかもしれないよ」
「私が先に飲んだ」
「ボクだけに効く毒かもしれない」
「じゃあ飲まなくていい」
「冗談だよ。いただくね」
ボトルの口が唇へ触れる。
葦原が傾けた角度は、最初から少し急だった。
狛枝が一口飲むより先に水が流れ込み、咳き込む。顎からこぼれた水がシャツへ落ちた。
「わっ、たいへんでちゅ!」
モノミが布を持って駆け回る。
「ごめん。次、もう少しゆっくりにする」
「あはは。キミでも、こういう失敗はするんだね」
「初めてだから」
葦原は角度を直した。
今度は狛枝が飲み込む速さに合わせて、少しずつ傾ける。
水を飲ませるために近づいているだけで、葦原の顔に気遣いらしいものはない。ボトルと喉の動きを交互に見て、適切な角度を探している。
それでも、他の誰かなら触れたがらないだろう距離に、彼女は平然といた。
「両親の話が釣り合ってないんだよね」
ボトルを戻すなり、葦原は会話を再開した。
「両親が死んだのが不運で、遺産を幸運にしたいなら、狛枝くんが遺産を欲しがってないと成立しない」
「まだ考えていたんだ?」
「途中だから」
葦原は床の線を増やした。
「両親が死んだのは、狛枝くんが好きだったから不運だった。なら、狛枝くんの好感度を稼ぐと大変な目に遭いそうだね」
モノミが固まる。
狛枝も、一拍遅れて笑った。
「安心してよ。ボクみたいな人間が、葦原さんほどの才能へ好意を向けるなんて、それ自体がおこがましいから」
「狛枝くんがおこがましいと思うかは、現象に関係ないよ」
葦原は本気で答えた。
「好かれないようにするなら、狛枝くんの意思で止められるかを聞かないと」
「……それは、今のところ心配しなくていいんじゃないかな」
「ならいいけど」
あまりに簡単に引かれ、狛枝の方が言葉を失った。
葦原の関心は、狛枝から床へ戻っている。
冗談に見えた言葉も、彼女の中では本当に条件の一つだったのかもしれない。
試しに、もっと重い材料を渡してみたくなった。
「まだあるよ」
狛枝は言った。
「希望ヶ峰学園へ入る前、余命を宣告されたんだ。悪性リンパ腫と、前頭側頭型認知症。半年から一年ほどだと言われたよ」
モノミの顔から色が消えた。
「そ、そんな……」
「えっ、今も死にそう?」
葦原は椅子から立った。
狛枝の顔、首元、縛られた手の方へ順に視線を動かす。
「こっちへ来てから、辛かった症状が消えてたりしない?」
「心配してくれるの?」
「身体がどう作られてるかの話」
即答だった。
「そうだと思ったよ」
狛枝は笑った。
落胆したのか、安心したのか、自分でも分からない。
「少なくとも、この島へ来てから体調が悪いとは感じていないよ。もっとも、記憶が途切れているから、直前と比べるのは難しいけどね」
葦原はモノミを見た。
「記憶から身体を作ったなら、本人が知ってる病気も入る?」
「身体を作ったなんて、誰も言ってないでちゅ!」
「じゃあ元の身体なら、病気が急に消えるのおかしいよね」
「き、きっと南国の空気が健康にいいんでちゅ!」
「悪性リンパ腫に?」
「南国パワーでちゅ!」
モノミは無理やり両腕を上げた。
「希望のカケラを集めるために、死にそうな病気はいらない。けど、本人の記憶から再現するなら病気まで必要かもしれない。どっちを優先したんだろ」
葦原は一人で組み直し始める。
「狛枝くんが死にそうだったから、この場所が作られたとか?」
「ボクのために?」
「同級生ごと入れた方が都合よかった。私たちは実験材料の数を揃えるためについでで巻き込まれた」
「そんなわけありまちぇん!」
モノミが叫んだ。
「見世物、実験、労働、隔離施設、更生施設――」
モノミの片耳が、わずかに跳ねた。
葦原の声が止まる。
狛枝も、その小さな動きを見ていた。
「今、更生に引っかかったよね」
「ひ、引っかかってまちぇん!」
「ほかでは動かなかった」
「偶然でちゅ! ウサギの耳は、とっても繊細なんでちゅ!」
モノミは耳を両手で押さえた。
「消えた記憶の間に、更生が必要なことをした?」
「みなさんは悪い子なんかじゃありまちぇん!」
「何をしたかは知ってる?」
「そ、それは……」
答えられない沈黙だった。
葦原はそれ以上追わず、床へ引いた線を見た。
「釣り合わせるなら、最初のウサミまででいいんだよね。楽しく過ごして希望のカケラ集める空間に、モノクマの殺し合いがあとから入った。だから元の目的と今のルールは別」
狛枝が口を挟む。
「でも、絶望を乗り越えてこそ、より強い希望が生まれる。モノクマまで含めて、最初から一つの装置だった可能性もあるんじゃないかな」
「また希望と幸運が混ざってる」
「似ているからね」
「可能性はある」
葦原はモノミへ向き直った。
「希望って名詞?」
「そ、それは……」
「物扱いなのかな。希望をあげる、とはあまり言わないよね。希望をもらった、は言うけど」
「希望は心の中に灯るものでちゅ!」
「カケラは物でしょ」
「愛の結晶でちゅ!」
「愛も名詞だね」
「もう国語の授業みたいになってまちゅ!」
モノミの悲鳴に、狛枝は声を立てて笑った。
いつの間にか、柱に縛られている痛みより、次に葦原がどこを外すのかの方が気になっていた。
*
夜が深くなると、モノミは何度も舟を漕ぎ始めた。
眠ってはいけないと自分の頬を叩き、数分後にはまた耳が垂れる。
葦原は眠らなかった。狛枝へ二度目の水を飲ませたときには、もう咳き込ませない角度を覚えていた。
「葦原さん」
狛枝が声を掛ける。
「何?」
「申し訳ないんだけど、そろそろお手洗いへ行きたいな」
モノミの耳が勢いよく立った。
「ダメでちゅ! じゃなくて、ダメではないでちゅけど、縄を外すのはダメで……でも、そのままここでするのはもっとダメでちゅ!」
「ボクはどちらでも構わないよ」
「あちしが構いまちゅ!」
葦原は狛枝の周りへ回った。
柱へ固定された縄と、手足の結び目を順に触る。
「私が触っていいなら、連れていこうか?」
「キミにそこまでしてもらう価値は、ボクには――」
「行かなくていい?」
「行きたいかな」
狛枝が言い直すと、葦原は柱へ回った縄を緩めた。
「全部外しちゃダメでちゅよ!」
「外さない。手は後ろのまま。足は歩ける長さだけ残す」
葦原は足首の縄を解き、短い間隔を空けて結び直した。
大きくは踏み出せない。走ることもできない。それでも、転ばない程度には歩ける。
胴を柱へ留めていた縄は、輪を一つ外せば人だけを動かせる形へ変えた。輪は狛枝の背後、高い位置に置かれている。手首を縛られた本人には届かない。
「これなら、私たちは外せる。狛枝くんからは無理」
「本当に大丈夫でちゅか?」
「モノミが前。私が後ろ。狛枝くんが変な動きしたら、二人で転ばせる」
「あちしもがんばりまちゅ!」
モノミは怯えながらも、狛枝の前に立った。
廊下へ出ると、三人分の足音が旧館へ響く。
狛枝は歩幅を合わせながら、背後の葦原へ聞いた。
「ボクがキミを傷つけるとは思わないの?」
「可能性はあるよ。だから縛ってる」
「信用されていないんだね」
「人を殺そうとした次の日だからね」
当然のこととして返される。
「それでも、ボクのそばへ来るんだ」
「モノミもいるよ」
葦原は、そこだけは分けなかった。
広間へ戻ったあとも、会話は続いた。
「やっぱり、狛枝くんが不幸だと思うことと、幸運だと思うこと、釣り合ってないと思うんだよね……」
葦原は縄を柱へ掛け直しながら言った。
「ハイジャックも誘拐も、狛枝くんの周りへ来た低確率の悪い出来事。隕石と宝くじは、低確率のいい出来事。近い時間に起きてるけどさ」
「何度も繰り返せば、偶然とは思えなくなるよ」
「狛枝くんだけに起こる体質なのは多分そう。でも、不運が幸運を呼んでるかは別」
葦原は結び目を一度引き、強度を確かめる。
「再現できないし、狛枝くんの感覚で重さが変わる。能力というより、狛枝くんの認識まで含めて一つなのかも」
狛枝は、柱へ背を戻した。
「ボクが不運を不運だと思わなければ、次の幸運は来ない?」
「そこまでは分からない」
葦原は少し間を置いた。
「……狛枝くんが、自分だけ幸せなのは許せないから、対になるように不幸を願ったとか」
狛枝の笑みが止まる。
「幸運が続くと、そのうち不運が来てほしいって、無意識に思ってたとか」
葦原は狛枝の顔を見た。
「……いや、ごめん。飛躍しすぎかも。不運を求めるとか、普通はないよね」
「今夜の裁判を見たあとでも、そう思う?」
狛枝は静かに聞いた。
「今のボクは、自分から絶望を用意した。より大きな希望へ踏み台を渡すためにね」
「今はそう。でも体質は子供の頃からでしょ?」
葦原は言った。
「昔から不幸が必要だと思ってたなら、狛枝くんの能力じゃなくて、狛枝くんが不幸を作ってた可能性もある。でも、隕石は作れない。誘拐犯も選べない。だから全部には使えない」
一度出した仮説へ固執せず、使えない場所を見つければ自分で外す。
狛枝は、葦原の線がどこへ着くのか見ていた。
「結論は?」
「まだ分かんない」
葦原は答えた。
「狛枝くんの低確率を引く体質は、多分ある。不運と幸運が一組かは保留。希望のために絶望が必要かはまた別の話」
「ずいぶん細かく切り分けられたね」
「混ぜると、何でも狛枝くんの幸運で説明できちゃうから」
葦原はまた椅子へ座った。
「まだ情報ある?」
監視のために残った人間の質問ではなかった。
狛枝は、次にどの話を渡せば彼女がどんな形へ組むのかを考えた。
話している間だけ、柱へ縛られていることを忘れそうになった。
それが幸運なのか、不運を薄めただけなのか。
葦原なら、きっとまた分けるのだろう。
*
空が薄く白み始めた頃、左右田と弐大は旧館へ戻った。
扉を開ける前から、話し声が聞こえていた。
「――だから、希望は他人から渡せる物なのかって聞いてる」
「ボクは渡せると思うよ。素晴らしい才能が生み出した希望は、周囲の人間を照らすからね」
「照らされた人が希望を持ったなら、移動じゃなくて増殖じゃない?」
「希望が増えるなら、素晴らしいことじゃないか」
「物じゃなくて感染?」
「そんな言い方しないでくだちゃい!」
モノミの声が割って入る。
左右田は扉を開けた。
狛枝は柱へ縛られたまま、葦原と話していた。
モノミは二人の間で疲れ切り、床へ座り込んでいる。葦原は狛枝の前にしゃがみ、水のボトルを傾けていた。
「何やってんだテメーら!」
左右田の声に、葦原が振り向く。
「水」
「見りゃ分かる!」
「今度はこぼしてないよ」
「今度!?」
弐大が狛枝の周りへ回った。
すぐに、縄の形が変わっていることへ気づく。
「なんじゃ。 結び直したのか!」
「トイレ行けないから。手は外してない」
葦原は柱の後ろにある輪を示した。
「ここの結び目をこうした。私たちは外せるけど、狛枝くんからは届かない。足はこの幅までなら歩ける。走ろうとすると転ぶ」
弐大が縄を引き、狛枝の腕を持ち上げ、足元の間隔を確かめる。
「ふむ。 緩んではおらんのう! これなら移動もさせられるわい!」
「褒めんな!」
左右田は狛枝を睨んだ。
「お前、コイツに何吹き込んだ?」
「ひどいな。ボクは聞かれたことに答えていただけだよ」
「幸運の話してた」
葦原が補足する。
「まだよく分からない」
「一晩かけてそこ調べてたのかよ!」
「狛枝くんだけじゃなくて、モノミもだけどね」
名前を呼ばれたモノミが、勢いよく立ち上がった。
「そ、そうでちた! あちし、急に大事な用事を思い出しまちた!」
「更生の話?」
「違いまちゅ! 先生は朝の見回りで忙しいんでちゅ!」
モノミは左右田の足元をすり抜け、旧館から逃げていった。
「アイツ、監視役だったよな?」
左右田が呆然と扉を見る。
「途中から寝そうになってた」と葦原が言った。
「それ監視できてねーじゃねえか!」
弐大が大きく頷いた。
「やはり一人へ任せるのは危険じゃな。 二人一組で交代かのぅ」
「うん。狛枝くん一人に、一人で対応させない方がいい」
葦原も同意する。
「お前が言うと説得力おかしくなんだよ!」
「今は三人だったよ」
「モノミ途中で寝てただろ!」
左右田が怒鳴る横で、狛枝が楽しそうに笑った。
「葦原さん。続きは、また今度かな」
「うん。まだ途中だから」
左右田は二人を交互に見た。
狛枝の両手足には、昨夜より扱いやすくなった縄が残っている。
一つも解けてはいない。それなのに、狛枝を遠ざけるための一晩が成功したとは、とても思えなかった。