監視当番の表は、完成する前から何度も書き直された。
「だから、一人になる時間を作っちゃダメなの!」
小泉はレストランの壁へ紙を押しつけた。
縦に時間、横に名前。二人ずつ組ませた表の上には、既に何本もの線が引かれている。
今は日向と七海が、仮の見張りとして旧館に残っている。二人を交代させるまでに、次の二十四時間分だけでも決めなければならなかった。
「俺はやらねえぞ」
九頭龍が椅子へ座ったまま吐き捨てた。
「あいつが誰を殺そうが、誰に殺されようが知ったことか」
「そういうわけにいかないでしょ。狛枝が逃げたら、あんただって危ないのよ」
「だったら勝手に見張ってろ」
九頭龍は席を立つ。
「九頭龍の分は、私が引き受けよう」
辺古山が言った。
「そういう話じゃないの。誰かに負担をかけ過ぎないようにって、考えてるんだから」
辺古山は小泉を見たあと、黙って引いた。
九頭龍は振り返らずにレストランを出ていった。
「チビヤクザなんか最初から数に入れなくていいよ」
西園寺がテーブルへ頬杖をつく。
「でも、わたしもあの旧館行きたくない。人が死んだとこで一晩過ごすとか、趣味悪すぎ」
「日寄子ちゃんは私と一緒。昼間の短い時間にしたから」
「真昼おねぇとなら、まぁ……」
返事が急に素直になった。
「わ、私も、誰かと一緒なら頑張りますぅ!」
罪木が手を挙げる。
「ただ、もし狛枝さんが急に暴れたら、私では押さえられないかもしれなくて……役立たずですみませぇん」
「蜜柑ちゃんには唯吹がつくっす!」
澪田が罪木の背後から両肩を掴んだ。
「凪斗ちゃんが動き出したら、大声で歌って怯ませるっすよ!」
「頼りにしてますぅ……」
罪木の小さな声は、澪田には届かなかった。
「わたくしは田中さんとですね!」
ソニアが言う。
「破壊神暗黒四天王がいらっしゃれば、狛枝さんの不穏な動きも察知できるはずです!」
「フハハハ! 我が眷属の感覚器官をもってすれば、あの男の企みなど闇へ芽吹く前に摘み取れよう!」
田中のマフラーから、ハムスターが一匹だけ顔を出した。
「ソニアさん、オレと組みましょうよ。 ハムスターより役に立ちますから!」
「左右田さんは弐大さんと組んで、縄の確認をなさるのでしょう?」
「そんな!」
「不満か、左右田!」
弐大が左右田の背を叩く。
左右田の身体がテーブルへ突っ込んだ。
「不満しかねーよ!」
騒ぎの横で、葦原はテーブルへ伏せて眠っていた。
夜通し旧館にいたあと、左右田たちに連れ戻され、朝食を半分食べたところで動かなくなった。これだけ声が飛び交っているのに、顔を上げる気配はない。
「葦原はどうすんだ?」
左右田が、声を落として聞いた。
「起きてから確認する。でも、昨日一晩やったんだから、今日は外すわよ」
小泉は葦原の名前へ斜線を引いた。
「誰か一人に偏らせるのもなし。狛枝を見張るために、別の誰かが倒れたら意味ないから」
小泉は、今も旧館にいる日向と七海の名前を翌日の欄にも書いた。見張り方に問題がなかったかは、交代したあとで二人から聞くつもりだった。
小泉は最後の空欄へ名前を書き込んだ。
「交代するときは、次の二人が来るまで帰らない。 何か変わったことがあったら、次の当番だけじゃなくて全員に知らせる。これでいい?」
誰も反対しなかった。
納得したというより、ほかに案がなかった。
十神がいなくなったあと、誰かが決めなければ何も進まない。
小泉は壁へ当番表を貼り、曲がった端を何度も押さえた。
すぐ後ろでは、終里が葦原の残した朝食へ手を伸ばし、弐大に手首を掴まれていた。
「寝たヤツの飯は早い者勝ちだろ」
「起きてから食うかもしれんじゃろうが!」
「冷めたらもったいねーぞ」
「起きたら私が温めてくるわよ!」
「食った方が早くねえか?」
昨夜よりは、声が出ていた。
それがいいことなのかどうか、小泉にはまだ分からなかった。
*
二日後、旧館の広間には、監視役より当番ではない者の方が多くいた。
最初は、交代する二人だけが扉を出入りしていた。
だが、食事を運ぶ者や、狛枝の健康状態を診に罪木が来た。左右田は縄が緩んでいないか不安になっては確認しに来て、葦原は誰かしらに用事を作っては入り浸った。
来れば、監視役と二言三言話す。
話が長くなれば椅子を出す。
椅子を出した者が、次に来る者のため水を置いていく。
何もなかった広間へ、少しずつ生活が戻ってきた。
「動かないでくださぁい」
罪木は狛枝の背後へ膝をつき、縄と手首の間へ指を差し入れた。
「擦れて赤くなってますけど、痺れはありませんか?」
「少しあるけど、この程度なら問題ないよ。ボクなんかのために、超高校級の保健委員が時間を使う方が――」
「あるんですね! どうして最初に言ってくださらないんですかぁ!」
罪木は狛枝の言葉を最後まで聞かず、左右田を呼んだ。
「ここの位置、少し変えてもいいですか? 神経を圧迫したままだと危ないですぅ」
「緩めすぎんなよ」
「分かってますぅ!」
「ひゃっ! 怒ってない! 怒ってねーから泣くな!」
左右田が慌てる横で、澪田は床へ寝転がり、狛枝の顔を下から覗いていた。
「凪斗ちゃん、囚われのお姫様みたいっすね!」
「誰がお姫様だよ」
日向が突っ込む。
「では、囚われの幸運王子!」
「格上げされたね」
「喜ぶなよ……」
その日の当番は、日向と七海だった。
七海は柱から少し離れた席でゲーム機を操作し、ときどき顔を上げて狛枝と扉を交互に見る。
「ゲームしながらで、本当に見張れてるのか?」
日向が聞く。
「二人で同じ方向をずっと見てると、視界の外が同じになるよ。交代で見る方が効率いい、と思う」
七海は一区切りつくたび画面を伏せ、今度は日向に休めと手で示した。
広間の中央では、終里が大きな鍋の蓋を開けた。
「飯持ってきたぞ!」
「運んできたのはワシじゃ!」
後ろから入った弐大が、もう一つの鍋をテーブルへ置く。
「今日は誰が作ったんだ?」と日向が聞く。
「わたくしです!」
ソニアが胸を張った。
田中がその隣で腕を組んでいる。
「古き東方の兵糧を参考に、米と野菜を一つの鍋で煮込みました!」
「お粥、だと思うよ」
七海が画面を見たまま言った。
「さすが七海さん、ご明察です! こちらへ南国らしさを加えるため、果物も少々」
鍋の中で、白い米と黄色い果肉が一緒に煮えていた。
「なんで入れたんですか……」と左右田が引く。
「島にある食材を活用いたしました」
「食えるなら何でもいいぞ」
終里が椀を出す。
ソニアが満面の笑みで椀を差し出す。
狛枝は一連の騒ぎの途中で眠ってしまっていた。
柱へ背を預け、顔をわずかに横へ傾けている。昨日も夜中まで起きていたらしく、罪木が手首へ布を巻いても目を覚まさなかった。
「寝てる間くらい、静かにした方がいいんじゃないか?」
日向が言う。
「なんでオレらがコイツに気遣わなきゃなんねーんだよ」
左右田はそう返しながら、声だけは少し落とした。
広間の入口から、巻いた紙が飛んできた。
左右田の頭へ当たり、床へ落ちる。
「何すんだ!」
振り向くと、葦原が立っていた。
「静かにするんじゃなかったの?」
「投げつけたお前が言うな!」
葦原は広間へ入り、床の紙を拾った。
「これ、前に話してたエンジンの設計図か?」
左右田が聞く。
「うん。島にある材料だけで組むなら、燃料より先に冷却が足りない。海水そのまま入れると中が傷むから、別に回した方がいいと思う」
「見せろ」
左右田は椀をソニアへ返し、図面を受け取った。
「左右田さん?」
「あとで絶対食べますから!」
葦原は空いていた椅子を引き、左右田の隣へ座った。
狛枝には近づかず、図面の端を指で押さえる。
「ここの配管、太くしたら?」
「太くすりゃ流量は増えるけど、ポンプが持たねーよ」
「二系統に分ける」
「部品増えんだろ」
「壊れてる空調から取れない?」
二人の会話へ、弐大が椀を持ったまま首を突っ込む。
「その機関を作れば、島を脱出できるのか!」
「船体があればな」と左右田が答える。
「飛行機の方が近いかも。でも、外から見えるところだけ機体で、中身が再現されてないから」
「ならば一から作ればよい!」
「簡単に言うな!」
葦原は図面を見たまま答える。
「作れても、使えるかは別。今できることがこれだからやってるだけ」
希望があるとは言わなかった。
諦めるとも言わなかった。
日向には、葦原と左右田が動かす鉛筆の音だけが、島の外へ繋がっているように聞こえた。
その横で、澪田がソニアの粥へ恐る恐る口をつける。
「んー……甘いお米と思えば、なくはないっす!」
「それ褒めてんのか?」
「蜜柑ちゃんもいくっす!」
「わ、私は皆さんのあとで!」
「毒見の意味なくなるぞ」と日向が言った。
狛枝が眠っている柱の前で、食事が始まった。
誰かが狛枝の分を取り分け、誰かが椅子を増やし、七海はゲームを中断して鍋へ近づく。
旧館は十神が死んだ場所で、狛枝を閉じ込める場所だった。
それでも、そこで話す声は、少しずつ事件と関係のないものになっていった。
*
狛枝が目を覚ましたとき、広間に残っていたのは五人だった。
当番の日向と七海。
図面の確認を続ける左右田と、その隣で図面へ線を足す葦原。少し離れた場所では、罪木が使った布を澪田が勝手に頭へ巻いている。
狛枝が身じろぎすると、七海がゲーム機から顔を上げる。
「起きた?」
「おはよう。ずいぶん賑やかな夢を見ていた気がするよ」
「夢じゃないぞ」
日向が水のボトルを持って立つ。
「飲むか?」
「ありがとう、日向クン」
日向と七海が二人で縄の位置を確認し、狛枝へ水を飲ませる。
葦原は図面から顔を上げただけで、近づかなかった。
その様子を見て、狛枝は壁の当番表を思い出す。
今日の夕方に、葦原の名前はなかった。
「葦原さん、今日は当番じゃないよね?」
鉛筆の先が止まる。
葦原は一度、壁の当番表を見たあと、少しだけ目を逸らした。
「自由時間にどこにいてもよくない?」
「もちろん。ボクが口を出せることじゃないよ」
「見張りは多い方がいいでしょ」
左右田が図面から顔を上げた。
「お前、昼の自分の当番も来てただろ」
「それは当番だから」
「終わってからもずっといるじゃねーか!」
「図面見せに来た」
「ホテルでも見られる!」
葦原は鉛筆を動かし直した。
「ここ、机広いし」
「理由がどんどん弱くなってんぞ!」
狛枝は二人のやり取りを眺めた。
葦原が昨夜の続きを聞きに来たのなら、分かりやすい。
幸運の構造も、島の正体も、まだ答えが出ていない。未完成の図面を放置できないだけだ。
けれど、狛枝が眠っている間、葦原は左右田と別の図面を見ていた。
目を覚ましてからも、質問一つ寄越さない。
それでも帰ろうとはしなかった。
「次の当番が来るまでなら、別にいいだろ」
日向が左右田を宥める。
「人数が多い方が安全なのは本当だし」
「そうやって許してたら、ここホテルのロビーみてーになるぞ!」
「もう半分なってると思うよ」
七海が、増えた椅子を見回した。
左右田は反論できず、図面へ視線を戻した。
*
しっかり椀を食べきったあとに、左右田は葦原を旧館の外へ引っ張り出した。
「で、何なんだよ」
「何が?」
「なんで当番でもねーのに、ずっとあそこにいんだよ」
葦原は腕を掴んだ左右田の手を見た。
左右田が離すと、旧館の壁へ背を向ける。
「言ったでしょ。図面」
「それだけじゃねーだろ」
左右田は声を落とした。
「狛枝と話すの、そんなに楽しいのか?」
葦原の視線が、旧館の扉へ戻った。
「……楽しい、かもしれないね」
そう答えたあと、海の方へ目を逸らす。
「いや、危ない人と話すのを楽しいと思うのと、それが危険かどうかは別問題だし」
「誰もそこ聞いてねーよ」
「狛枝くんの見張り、やりたい人少ないでしょ。なら私がいる方が全体の負担も――」
「お前、今日当番じゃねーって話してんだけど」
葦原は黙った。
数秒して、小さく息を吐く。
「……自分で言ってて辛いな、この言い訳」
「今さらかよ!」
左右田が叫ぶと、葦原は少し眉を寄せた。
「楽しい。楽しいね」
今度は言い直した。
「そもそも島のこと考えるのストレスなんだよ。手掛かり少ないのに正解だけ求められて、作り直すこともできないエンジンは左右田と作れるけど、材料がない。 ストレス溜まりっぱなし」
旧館の扉へ目を向ける。
「狛枝くんは、聞けば答える。答えが増えたら、組み直せる。違うって分かったら、また直せる」
葦原は左右田を見た。
「うん。狛枝くんといる方が楽。私はね」
開き直るように言われ、左右田は頭を抱えた。
「オレは楽じゃねーんだよ!」
「左右田も来ればいいじゃん」
「行ってるわ! 俺は縄の確認だけどな!」
旧館の中から、澪田の笑い声が聞こえた。
左右田は扉と葦原を交互に見た。
「いいか。話すなとは言わねーけど、一人にはなるなよ。何言われても、その場で勝手に決めんな。あと、島のこともエンジンも忘れんなよ」
「忘れてないよ」
葦原は巻いた図面を持ち上げた。
「忘れたなら、これ作ってない」
そこだけは、左右田も疑っていなかった。
*
当番制が始まって数日、狛枝は会話の最後に一つだけ話を残した。
「不運より先に幸運が来たことも、あったかも」
「あるの?」
「よく思い出してみないと、順番に自信がないんだ。続きは今度でもいいかな」
葦原は不満そうに狛枝を見たが、追及はしなかった。
翌日、彼女は自分の当番より二時間早く旧館へ来た。
分かりやすい結果だった。
未解決の材料を残せば、葦原は戻ってくる。
狛枝は、思い出せる範囲を話した。
結局、何を幸運の始まりと数えるかで順番が変わり、反例には使えなかった。葦原は前日に引いた線を一度消し、同じ場所へ引き直した。それでも、当番が終わってもすぐには帰らなかった。
なら、次は材料を置かずに試せばいい。
その日、監視役は辺古山と終里だった。
辺古山は柱から一定の距離を保ち、終里は椅子へ逆向きに座って、何度も腹が減ったと呟いている。
葦原の名前はその日、どこにもなかった。
それでも、旧館へ現れた。
「葦原さん」
狛枝が呼ぶ。
「今日は、幸運について新しく話せることはないよ」
「うん」
葦原はそれだけ答え、いつもの椅子へ座った。
困った様子も、帰る様子もない。
膝の上には図面も本もなく、両手は空いていた。
狛枝は、できるだけ意味のない話を選んだ。
「誰かが言ってたんだけど、ホテルの前で蟹を見たんだって」
「蟹?」
「うん。植え込みの方へ逃げていった。それだけだよ」
葦原は少し待った。
続きがないと分かると、椅子の背へ身体を預ける。
「この島、生き物もいるよね」
「牧場もあったくらいだしね」
「魚もいるかな」
「釣りでもしてみる?」
「あんまり興味無いかな……」
葦原は床へ指を向けた。
「生き物って育つかな?」
「育たないものは生き物とは言わないんじゃないかな」
「私たち成長してる?」
「昨日より今日の方が、きっと希望に溢れていると思うよ」
「概念に戻った」
「期待に答えられなくてゴメンね」
話は、狛枝の過去にも幸運にも繋がらなかった。
それでも葦原は席を立たない。
終里が会話へ割り込んだ。
「蟹、食えるのか?」
「小さかったって話だから、身は少ないと思うよ」
「殻ごと食っても美味いぞ!」
「捕まえる前提になってるね」と狛枝が笑う。
辺古山は扉の方を見たまま言った。
「島の生き物を不用意に口へ入れるな。毒があるかもしれん」
「罪木に見せりゃ分かるだろ」
「毒にも詳しいのかあやつは」
「知らねぇけど、保健委員だろ」
「そうか」
辺古山の声は真面目なままだった。
終里が少し考え、納得したように頷く。
「なら田中のハムスターに――」
「それは絶対にやめろ」
辺古山が初めて終里を見た。
葦原が笑った。
狛枝はその顔を見た。
新しい情報がなくても、会話は続いた。
だが、これだけでは足りない。蟹や生き物が葦原にとって新しい問題になっただけかもしれない。
次に、狛枝は沈黙を選んだ。
話しかけず、葦原が質問してきても、既に答えた範囲だけを返す。
それでも葦原は帰らなかった。
終里が空腹に耐えきれず、交代はまだかと騒ぎ始めた頃、次の監視役の、弐大と左右田が来た。葦原は椅子の上で何度も瞬きをしていた。
「眠いならコテージ戻れよ」
左右田が言う。
「まだ大丈夫」
「頭落ちてんぞ」
「落ちてない」
言い終わる前に、葦原の顎が胸元へ沈んだ。
すぐに顔を上げるが、数分後にはまた目が閉じる。
「ここで寝る気かよ」
「人いるし、いいでしょ」
「よくねーよ!」
左右田が怒鳴っても、葦原は椅子から立たなかった。
「一人で戻せばいいじゃん」と終里が言う。
「二人一組の決まりどこ行った!」
「じゃあ弐大と運べ」
「ワシならば容易いぞ!」
「そういう問題じゃねー!」
騒ぎが続くうち、葦原はとうとう目を開けなくなった。
左右田が肩を揺らしても、「起きてる」と答えるだけで起き上がらない。
弐大が運ぼうとすれば、椅子の背を掴んだまま離さなかった。
「ここでいい……」
言葉は途中で眠りへ溶けた。
人の声が途切れない広間で、葦原は眠り続けた。
狛枝は柱へ縛られたまま、その寝顔を見ていた。
新しい話はしなかった。
未解決の材料も残さなかった。
それでも葦原は、当番ではない時間に来て、何も聞かず、帰らず、眠った。
自分のそばにいたかったのだと考えるのは、あまりに都合がよすぎる。
旧館にはいつも誰かがいる。彼女はただ、一人で眠るより、この騒がしい部屋を選んだだけかもしれない。
なら、まだ試せる。
次はもっと中身のない話をしよう。
朝食のパンが少し硬かったことでもいい。
それでも葦原が残るなら、また別の理由を探せばいい。
狛枝はそう決めて、毛布を抱えて戻ってきた左右田へ笑いかけた。
「左右田クン。葦原さんは、一人で寝るのが苦手なのかな」
「知らねーよ。起きてる時に本人へ聞け」
左右田は寝ている葦原を見た後、狛枝を睨んだ。
「変なこと考えてんじゃねーぞ」
「もちろん。ボクはただ、明日の話題を考えていただけだよ」
翌日も、葦原の名前は夜の当番表になかった。
それでも夕食前、旧館の扉が開いた。
葦原がいつもの椅子を引くより先に、狛枝は用意していた話を始めた。
「今朝のパン、少し硬かったね」
「そう? 私はあれくらいが好き」
葦原は椅子へ座った。
当番ではない人の席は、その日も空かなかった。