第2話 取引 前編
指定された場所は、街の中心部にある官公庁舎だった。
七瀬刃人は受付で名前を告げ、案内役の職員と共に無機質な廊下を歩いていた。
窓は少なく、一定の間隔で監視カメラが設置されている。案内役は必要最低限のことしか話さず、所属も役職も名乗ろうとしない。
歓迎されていないらしい。
もっとも、刃人も歓迎されたいとは思っていなかった。
「こちらです」
案内された会議室には、三人の男女が待っていた。
正面には四十代ほどの男。その隣に眼鏡を掛けた女と、分厚い書類を抱えた若い職員が座っている。
誰も名前を名乗らない。
刃人も尋ねなかった。
今後親しく付き合う予定のない相手の名前など、覚えるだけ無駄だ。
「七瀬刃人君。まずは仮免許の取得、おめでとう」
「どうも」
「神野事件における活躍についても、公安を代表して感謝する」
「感謝を伝えるためだけに呼んだわけじゃないだろ」
勧められるより先に、刃人は椅子へ腰を下ろした。
男の表情は変わらなかった。だが、眼鏡の女が僅かに眉をひそめる。
「話が早くて助かる。では、本題へ入ろう」
机の上に数枚の書類が並べられた。
活動報告書。
個性使用記録。
行動予定表。
最後の一枚には、公安から要請を受けた場合、速やかに指定された任務へ参加することが記されていた。
「今後、君には公安の要請に応じ、ヒーロー活動へ参加してもらいたい」
「断る」
刃人は書類へ触れることなく答えた。
「内容を確認してから返答してもらいたい」
「確認する必要がない。俺は積極的にヒーロー活動をするつもりがない」
「しかし、君は仮免許を取得した」
「必要だと言われたから取っただけだ。資格を持っていることと、自分から活動することは別だろ」
仮免許は目的ではない。
公安や雄英に必要だと言われ、仕方なく取得したものだ。免許を手にしたからといって、突然ヒーローとしての使命感に目覚めるはずもない。
世間の期待に応える気もなければ、誰かの命令に従って戦場を駆け回る気もなかった。
「君ほどの力を持つ者が、社会への貢献を拒むことは認められない」
「俺の力をどう使うかは、俺が決める」
「君の個性は、もはや個人の自由で済ませられる範囲を超えているのよ」
眼鏡の女が一枚の書類を刃人へ向けた。
神野の被害状況と、《双銃・崩壊と再生》によるものと推測される破壊範囲が細かく記録されている。
「君はオール・フォー・ワンを戦闘不能へ追い込んだ。今後、それ以上に強力な武装が確認される可能性も否定できない。適切な監督と管理が必要になるわ」
「管理、か」
「保護でもある」
「首輪に別の名前を付けても、首輪であることは変わらない」
刃人は書類を押し返した。
想定していた通りだ。
初めから対等な話し合いをするつもりなどない。
公安は七瀬刃人を利用したい。
利用できないなら、せめて監視下に置いておきたい。
公安の立場からすれば合理的な判断なのだろう。
だからといって、従う理由にはならない。
「これは君自身のためでもある」
正面の男の声が、僅かに低くなった。
「我々からの要請を拒絶し続けるのであれば、君の周囲についても詳しい調査が必要になる」
「周囲というのは?」
「君が育った孤児院、ひなたの家。親しくしている友人。そして、アルトリア、ナイチンゲールと名乗る二人だ」
刃人の表情は変わらなかった。
怒鳴ることも、机を破壊することもない。
ただ、頭の中から会話に必要のない思考が消えていく。
相手の人数。
扉までの距離。
監視カメラの位置。
建物内部に配置されている人員。
現在の状況で武装を使用した場合に生じる被害。
そして、誰にも危害を加えず、この建物から脱出できる可能性。
冷静に計算した結果、刃人は武力行使を選択肢から外した。
まだ、その必要はない。
「なるほど」
刃人は椅子の背へ体重を預けた。
「従わないなら、俺の家族や友人を調べると」
「国家の安全を守るために必要な身辺調査だ」
「やっていることは脅迫だろ」
「正当な手続きによる調査だ」
国家の安全。
便利な言葉だ。
その一言があれば、人を殺すことも、記録から存在を消すことも、正義として処理できる。
この世界へ転生する前、刃人は物語という形で公安の暗部を知った。
ヒーロー社会の光を維持するため、闇の中で行われてきた処理。
ヴィランとなる前の人間や、社会にとって都合の悪い者を秘密裏に始末させ、その事実を完璧に隠蔽する。
それを実行してきた、一人の女性。
この時点では、決して世間へ知られていないはずの存在。
原作知識が現在も正しいとは限らない。
刃人という本来存在しない人間が介入したことで、既に多くの出来事が変化している。
だからこそ、最初に確かめる必要があった。
「筒美火伊那」
刃人がその名前を口にした瞬間、会議室の空気が止まった。