第2話 取引 後編
正面に座る男の瞳が、僅かに揺れる。
眼鏡の女の指が机の下へ伸びかけた。
若い職員だけは状況を理解できず、上司二人の顔を交互に見ていた。
十分な反応だった。
原作との差異はあっても、筒美火伊那はこの世界に存在した。そして公安の暗部も、刃人が知っているものと大きくは変わっていない。
「誰のことだ?」
男が平静を装って尋ねてくる。
「公安なら知っていると思ったんだが」
「意図の分からない発言は慎みなさい」
眼鏡の女の声から、先ほどまでの余裕が消えていた。
刃人は彼女へ視線を向ける。
「元公安直属ヒーロー。長距離狙撃を得意とし、表向きには処理できない標的を秘密裏に始末していた」
男の表情が硬くなる。
「ヴィランだけじゃない。これから犯罪へ手を染める可能性がある人間や、ヒーロー社会にとって都合の悪い集団も対象だった」
「根拠のない妄言だ」
「その女が任務に耐えられなくなった後、何をしたのかも話そうか?」
眼鏡の女が勢いよく立ち上がった。
「どこでその情報を手に入れたの?」
刃人は何も答えなかった。
否定ではなく、情報源を尋ねた。
その時点で、刃人の発言が事実だと認めたようなものだった。
「座れ」
男が女を制する。
女は刃人を睨み、ゆっくりと席へ戻った。
「七瀬君。その名前を、どこで知った?」
「質問しているのは俺だ」
「これは国家機密に関わる問題だ」
「奇遇だな。孤児院や友人を調べられることも、俺にとっては重大な問題だ」
刃人は携帯端末を取り出し、机へ置いた。
何の細工もしていない、ただの端末だ。
情報を外部へ送信する設定もなければ、公安の機密を保存した記録もない。
それでも、三人の視線が端末へ集中した。
刃人が情報をどこまで把握しているのか。
誰かと共有しているのか。
証拠を既に確保しているのか。
彼らには何も判断できない。
「俺が知っているのは、その女の名前だけだと思うか?」
「脅迫のつもりか?」
「まだ質問だ」
刃人は男から目を逸らさなかった。
「歴代の公安直属ヒーローに命じてきた非合法任務。任務中に処分された標的。事件として記録されなかった殺人。そして、公安の命令に疑問を持った人間の末路」
一つずつ、意図的に間を置いて並べる。
「それらが世間へ知られた時、今のヒーロー社会がどうなるか、説明する必要はあるか?」
誰も答えなかった。
オールマイトの引退によって、ヒーロー社会は既に不安定になっている。
その状況で、社会の平和を守る公安が秘密裏に暗殺を繰り返していたと発覚すれば、市民の信頼は根底から崩れる。
現在の公安職員が直接関与していなかったとしても、組織そのものへの批判は避けられない。
「証拠はあるのか?」
男が尋ねた。
「それを答えると思うか?」
「ないのなら、君の発言には何の価値もない」
「なら、試してみればいい」
刃人は机上の携帯端末へ指を置いた。
三人の視線が、再びその指先へ集まる。
「俺をここで拘束するか、俺の周囲へ手を出してみろ。その後で何が起きるか、確認すればいい」
現時点で、公開できる証拠など持っていない。
刃人が把握しているのは、転生前に知った出来事と関係者の情報だけだ。
だが、公安側には分からない。
情報が既に第三者へ渡っているかもしれない。
刃人の身に何かあれば、自動的に公開される仕組みがあるかもしれない。
その可能性を否定できない限り、彼らは動けない。
「まさか……」
若い職員が額に汗を浮かべた。
「戦闘能力だけではなく、情報網まで化け物だというのか?」
刃人は否定しなかった。
肯定もしない。
ただ、相手の目を見たまま沈黙する。
その沈黙を、三人は肯定として受け取った。
本当は情報網など存在しない。
刃人が記憶している原作知識を利用しているだけだ。
しかし、転生や原作知識について説明するつもりはなかった。説明したところで、信じられるとも思えない。
「我々の機密情報へ、不正に接触した記録は確認されていない」
眼鏡の女が低い声で言った。
「そうか」
「外部に協力者が存在する形跡もない」
「調査が足りないんじゃないか?」
刃人が素っ気なく返すと、女は口を閉ざした。
事実を知っている。
だが、入手経路が分からない。
情報の範囲すら判断できない。
公安にとって、これほど不気味な存在はいないだろう。
「安心しろ」
刃人は差し出された書類を裏返した。
「俺は正義の味方じゃない。お前たちの過去を告発して、ヒーロー社会を綺麗にしたいわけでもない」
ペンを手に取り、書類の空白へ条件を書き込んでいく。
一つ、孤児院「ひなたの家」および関係者へ干渉しないこと。
二つ、友人を七瀬刃人への交渉材料として利用しないこと。
三つ、アルトリアとナイチンゲールへの監視、調査、接触を行わないこと。
四つ、公安からの協力要請は緊急時に限定し、七瀬刃人に拒否権を認めること。
「これが俺の条件だ」
書き終えた書類を、正面の男へ差し出す。
「俺が欲しいのは平穏だけだ。俺の居場所へ手を出さない限り、公安の過去に興味はない」
「我々が条件を拒否した場合は?」
「好きにすればいい」
「その結果、何が起きる?」
「それを俺に聞いている時点で、お前たちはもう俺へ迂闊に手を出せない」
男は黙り込んだ。
筒美火伊那の本名と秘密任務を知られている以上、単なる虚勢として処理することはできない。
「脅迫だな」
「交渉だ」
刃人は椅子から立ち上がった。
「最初に孤児院や友人を持ち出したのは、そっちだろ」
胸を張れる方法かと問われれば、素直に頷くことはできない。
過去に苦しんだ筒美火伊那の情報を、自分の交渉材料として利用した。
無関係の人間を巻き込む可能性もある。
決して正しい手段ではない。
それでも、こちらの大切な者たちを交渉材料にした相手へ、正しさだけで対抗できるほど刃人は純粋ではなかった。
「俺の条件を飲むなら、必要最低限は協力する。ただし、命令には従わない」
「国家や社会のために、その力を使う気はないのか?」
刃人は扉の前で足を止めた。
「ない」
即答だった。
「俺が守るのは、俺の居場所だけだ」
その結果として社会が守られることはあるかもしれない。
だが、それは目的ではない。
世界を救うという大義のために、自分の大切な者たちを差し出すつもりなどなかった。
「条件を飲むかどうか、よく考えろ」
刃人は三人を振り返る。
「次に俺の周囲へ手を出した時は、今日のように話し合うとは限らない」
返事を待たず、会議室を後にした。
扉が閉まる。
刃人の足音が完全に遠ざかるまで、室内の誰一人として言葉を発しなかった。
「……筒美火伊那に関する情報は、公安内部でも最高機密です」
沈黙を破ったのは、眼鏡の女だった。
「雄英はもちろん、警察上層部にも全容は伝えられていません。七瀬刃人が正規の手段で知ることは不可能です」
「情報の流出経路は?」
「確認できません。公安の記録へ侵入した形跡も、当時の関係者と接触した記録もありません」
女は手元の端末を操作した。
表示されるのは、七瀬刃人の行動記録だ。
雄英高校。
A組の寮。
孤児院。
職場体験先。
どれだけ調べても、公安の最高機密へつながる痕跡は存在しない。
にもかかわらず、刃人は知っていた。
筒美火伊那の本名だけではない。
公安直属ヒーローへ命じられてきた秘密任務。その対象と目的。そして、任務に耐えられなくなった彼女が起こした事件まで把握している様子だった。
「単なる虚勢ではありません」
若い職員が額の汗を拭う。
「あの名前を偶然言い当てるなど、あり得ない。彼は確実に我々の暗部を知っています」
「問題は、どこまで知っているかだ」
男は刃人が残した条件書へ視線を落とした。
孤児院への不干渉。
友人を交渉材料にしないこと。
アルトリアとナイチンゲールへの監視中止。
公安からの要請に対する拒否権。
七瀬刃人を完全な管理下に置くことはできなくなる。
だが、敵対するよりは遥かに被害が少ない。
「情報の入手経路だけではありません」
眼鏡の女が口を開いた。
「彼が情報をどこへ保管しているのかも不明です。既に第三者へ渡している可能性もある。仮に彼を拘束した場合、自動的に公開される仕組みが存在する可能性も否定できません」
「本人は、そう思わせることに成功した」
男は小さく息を吐く。
七瀬刃人は十五歳だ。
本来ならば、雄英高校へ通う一人の学生にすぎない。
しかし、その実績は普通の高校生という言葉からあまりにも懸け離れている。
体育祭ではヒーロー科の強豪を次々と撃破した。
職場体験では従来の個体を遥かに上回る脳無を倒した。
林間合宿では、複数の脳無を統率する特殊個体を無力化した。
神野では、オール・フォー・ワンを戦闘不能へ追い込んだ。
そして今、公安の最高機密を交渉材料とし、たった一人で主導権を奪ってみせた。
激昂も、動揺も、焦燥もなかった。
自分が何を提示すれば相手が止まるのかを理解し、必要最小限の情報だけで公安を牽制した。
「オール・フォー・ワンは怪物だった」
男が静かに呟く。
「強大な力を持ち、百年以上にわたって人間と組織を操り続けた、紛れもない怪物だ」
机上に置かれた刃人の資料を閉じる。
「だが、我々は奴が怪物だと知っていた。目的も、欲望も、行動原理も理解できた。だから敵として認識し、警戒することができた」
「七瀬刃人は違う、と?」
「あの少年が何を知り、どこまで先を見ているのか、我々には何一つ分からない」
男の視線が、閉ざされた扉へ向けられる。
「力で屈服させることもできない。周囲を使って脅せば、こちらの喉元へ即座に刃を突き付けてくる。権力にも名誉にも興味を示さず、望むものは平穏だけだと言う」
欲望が分かれば、取引できる。
恐怖するものが分かれば、制御できる。
しかし、七瀬刃人が望む平穏は、公安が与えられるものではない。
そして、その平穏を脅かした瞬間、彼は公安すら敵として処理しようとする。
「まさか……」
若い職員が乾いた声を漏らした。
「オール・フォー・ワン以上だというのですか?」
男はすぐには答えなかった。
やがて閉ざされた扉を見つめたまま、重い声で告げる。
「少なくとも、我々にとってはそうかもしれない」
会議室を再び沈黙が支配した。
男は七瀬刃人の資料へ手を置く。
「オール・フォー・ワン以上に底が知れない、高校生の皮を被った化け物か」
その場にいる誰一人として、その評価を否定できなかった。