ジェイコブ・コワルスキーには夢がある。
パン屋になりたい。
もう少し正確に言えば、自分の店を持ちたい。
大通りの一等地じゃなくていい。店先に行列ができなくてもいいし、新聞に載らなくたって構わない。ちょっと美人な妻を娶って、朝早く起きて、生地を捏ねる。発酵を待つ。窯へ入れ、焼き上がったパンの香りが店いっぱいに広がる。そこへ近所の連中がやってきて
「ジェイコブ、いつもの」
「今日は何が焼けてる?」
なんて言ってくれる。そんな店がいい。
ただし、パンの味には妥協しないが。
「こちらが事業計画書です」
「はい」
「それと、こっちが商品です」
「……商品?」
「はい」
ニューヨーク。
銀行の一室。
机を挟んで座る銀行員の前に、ジェイコブは自信満々にケースを置いた。
ぱちん、と留め具を外す。
蓋を開く。
中には、今日のために朝から焼いてきたパンが並んでいた。
普通の丸パン。
編み込みパン。
砂糖を使った菓子パン。
胡桃を練り込んだもの。
おばあちゃん直伝のドーナツもある。
見栄えがよくなるよう、形にも少し凝った。
「どうぞ」
ジェイコブは一つ差し出した。
銀行員は受け取らなかった。
「……これは?」
「パンです」
「それは分かります」
「よかった」
「そういう意味ではなく」
銀行員が咳払いする。
「なぜ融資の面談にパンを?」
「パン屋を開くんだから、パンを持ってくるのは普通でしょう?」
「…………」
「え、違います?」
「通常は事業計画を――」
「ありますよ」
ジェイコブは書類を指差した。
「でも紙を食べても味は分からないでしょう」
「食べません」
「俺も勧めません」
紙は美味くない。少なくともパンよりは。
銀行員は額を押さえた。
「コワルスキーさん」
「はい」
「当行が確認するのは、あなたのパンが美味しいかどうかではありません」
「……重要でしょう?」
「融資において最重要ではありません」
「パン屋ですよ?」
「パン屋でもです」
「美味くないパン屋に金を貸すんですか?」
「そういう話では――」
「だったら食べてくださいよ」
ジェイコブは再びパンを差し出した。
「一口でいいから」
「結構です」
「遠慮しなくても」
「遠慮ではありません」
「今朝焼いたんですよ?」
「コワルスキーさん」
「胡桃嫌いです?」
「そうではなく!」
怒られた。
ジェイコブは大人しくパンをケースへ戻した。
納得はいっていない。
パン屋への融資を決める人間がパンを食べない。どういうことなんだ。
この国の金融制度には重大な欠陥があるのではないだろうか。
「では改めて確認します」
「はい」
「現在のお勤めは?」
「缶詰工場です」
「勤続年数は?」
答える。
銀行員が書類へ記入する。
「預金についても確認しました」
「ええ」
「ですが――」
嫌な予感がした。
「融資にあたり、十分な担保がありません」
「……そこをなんとか」
「できません」
「パンならあります」
「担保にはなりません」
「大量に焼いても?」
「量の問題ではありません」
駄目だった。
ジェイコブは椅子の背にもたれた。
「……美味いんだけどなあ」
「味の問題ではありません」
「そうですか」
「そうです」
世知辛い。
戦争から帰ってきて、真面目に働いた。工場で毎日毎日、缶詰を作ったし金も貯めた。別に大金持ちになりたいわけじゃない。小さな店一つでいい。パンを焼いて暮らしたいだけなのに。どうやら、それがなかなか難しいらしい。
「分かりました」
ジェイコブはケースを閉じた。
「今日はありがとうございました」
「申し訳ありません」
「いえ。規則なら仕方ない」
立ち上がる。
ケースを抱える。
扉へ向かう。
そして。
あと一歩で部屋を出るところで、ジェイコブは振り返った。
「本当に食べません?」
「食べません」
「一個くらい」
「結構です」
「そうですか……」
もったいない。
◇
「参ったな」
銀行のロビーへ戻ったジェイコブは、ぽりぽりと頬を掻いた。
融資は失敗。つまり店は出せない。
明日からも缶詰工場。来週も缶詰工場。来月もたぶん缶詰工場。
缶
缶
缶
缶
「……俺、一生分の缶詰見たと思うんだけどな」
残念ながら工場長はそう思っていないらしい。
もちろん仕事そのものに文句があるわけじゃない。
給料は出る。
飯も食える。
夜になればベッドで眠れる。
戦争中を思えば、それだけで十分ありがたい。
ただ、作りたいものが違う。
ジェイコブはロビーの端へ移動すると、ケースを開いた。
銀行員が食べてくれなかったパンがある。
「……しょうがない」
一つ取り出す。
自分で食べることにした。
ぱくり。
「…………」
咀嚼する。
「うん」
悪くない。
いや。
「……もうちょっと砂糖減らしてもいいな」
独り言が漏れた。
甘みが強すぎる。
これなら生地そのものの香りが少し負ける。
胡桃を増やす?
いや、違う。
バターか。
でもバターを増やせば原価も上がる。
「三セント……いや……」
考える。
もう一口。
「…………」
考える。
「牛乳かな」
試してみよう。
明日の朝。
いや、明日は工場だ。
なら今夜――。
そのときだった。
何かが視界の端を横切った。
「ん?」
ジェイコブが顔を上げる。人の行き交う銀行のロビー。
特に変わったところはない。
「……?」
気のせいか。
ジェイコブは残りのパンを口へ運ぼうとして――。
止まった。
床に落ちていた硬貨が、消えた。
「…………」
ジェイコブは瞬きをした。
そこにあった。
確かにあった。
なのにない。
「おいおい」
疲れてるのか?
融資を断られて幻覚まで見始めたなら、今日はさっさと帰った方がいい。
そう思って立ち上がると
「泥棒!」
大声が響いた。
ジェイコブも思わず振り向いた。
「財布がない!」
男が騒いでいる。
周囲の客も何事かと振り返った。
「物騒だな……」
ジェイコブも自分の財布を確認する。
ある。
パンもある。
よし。
いや、パンを盗む奴はいないだろうが。
……いないよな?
ケースを抱える腕に少し力が入った、その瞬間。
見えた。
黒い何か。
人々の足元を、ちょこちょこと走っている。
「……なんだ?」
犬じゃない。
猫でもない。
鼠にしては大きい。
丸っこい黒い身体。
長い鼻。
そいつが床に落ちていた硬貨を見つけた。
拾った。
「…………」
次に指輪。
拾った。
「…………」
時計。
拾った。
「…………おい」
ジェイコブはパンを持ったまま固まった。
黒い生き物が顔を上げる。
目が合った。
「お前、泥棒か?」
当然、返事はない。
代わりに生き物はジェイコブの手を見た。
正確には、パンを見た。
「…………」
「…………」
ジェイコブはパンを見る。
生き物を見る。
「これは駄目だぞ」
一歩近づいてきた。
「いやいや」
さらに一歩。
「お前、金が好きなんじゃないのか?」
黒い鼻がひくひく動く。
「これは俺の昼飯だ」
じっと見てくる。
「…………」
ジェイコブはパンを半分に割った。
「一口だけだぞ」
その瞬間
「ダメです!」
「うわっ!?」
突然横から声をかけられた。
ジェイコブが振り向く。
青いコートを着た若い男が立っていた。
少し猫背で、古びた革のトランクを持っている。
「それを与えないでください!」
「なんで?」
「餌付けされます!」
「もうされてるように見えるけど」
「されてません!」
黒い生き物がジェイコブの手からパンを奪った。
「おっ」
「ああ!」
二人同時に声を上げる。
黒い生き物はパンを抱えたまま逃走した。
「俺のパン!」
「ニフラー!」
青い男が走り出した。
ジェイコブも走った。
「待て!」
「追わないでください!」
「俺のパン持ってったんだぞ!」
「僕が取り返します!」
「あれは試作品なんだ!」
「何の話です!?」
「パンだよ!」
◇
おかしい。
絶対におかしい。
今日は銀行へ金を借りに来ただけだった。
融資を受ける。
店を借りる。
パン屋を始める。
完璧な予定だった。
なのに今はどうだ。
「そっち行った!」
「分かってます!」
「全然分かってないだろ!」
銀行の中で、知らない外国人と一緒に黒い謎の生き物を追いかけている。
しかもパンを盗まれた。
最悪だ。
いや、融資を断られた方が最悪か。
どっちも最悪だ。
「くそっ!」
黒い生き物が客の間を抜ける。
ジェイコブも追う。
「すみません!」
人を避ける。
「失礼!」
椅子を回り込む。
「おい、そこの――!」
黒い生き物が急に止まった。
目の前に、光る物がある。
大量の硬貨。
「……あ」
青い男が呟いた。
黒い生き物の目が輝いた。
「まずい」
「何が?」
「まずいです」
「だから何が――」
黒い生き物が飛び込んだ。
次の瞬間。
硬貨が舞った。
「うおっ!?」
客が悲鳴を上げる。
青い男が頭を抱える。
ジェイコブも頭を抱えたくなった。
「おい!」
「はい!」
「あんたのペットか!?」
「違います!」
「じゃあなんなんだよ!」
「ニフラーです!」
「それはさっき聞いた!」
説明になっていない。
「ニフラーってなんだ!」
「ニフラーはニフラーです!」
「俺だってジェイコブはジェイコブだよ!」
青い男が困った顔をした。
「とにかく捕まえます!」
「最初からそうしてくれ!」
再び走る。
なんで俺まで…。
そう思う。
思うのだが。
目の前で困っている奴を放って帰るのも後味が悪い。
それにパンも取り返したい。
いや。
人ではないが客に渡したパンを取り返す気はない。
でも、感想くらいは聞きたいじゃないか。
「美味かったか!?」
「誰に聞いてるんです!?」
「あいつだよ!」
「答えませんよ!」
「分かってるよ!」
◇
しばらくして。
どうにか騒動が一段落したころ。
ジェイコブは壁に手をついて息を整えていた。
「はぁ……はぁ……」
戦争から帰ってきて、もう何年も経つ。
缶詰工場で身体を使っているとはいえ、銀行の中を謎の動物相手に全力疾走する生活は想定していない。
「すみません」
青い男が言った。
「本当に」
「……いいよ」
ジェイコブは息を吐いた。
「パン一個だ」
「パン?」
「盗られただろ」
「ああ」
「結構自信作だったんだけどな」
「申し訳ありません」
「いや」
ジェイコブは少し考えた。
「食ってた?」
「はい?」
「あいつ」
「ニフラーですか?」
「そう。ちゃんと食ってた?」
男は何とも言えない顔をした。
「……少し」
「吐き出してない?」
「いませんでした」
「そうか」
ジェイコブは頷いた。
なら悪くない。
「よし」
「何がです?」
「動物にも受ける」
「…………」
「大事だろ」
「そうかな」
「パン屋にはな」
男はたぶん納得していなかった。
ジェイコブとしては結構重要な情報なのだが。
「そういや」
ジェイコブは男を見る。
「あんた、名前は?」
「ニュートです」
「ニュート」
「ニュート・スキャマンダー」
妙な名前だ。
外国人だからだろうか。
まあ、向こうからすればコワルスキーだって妙かもしれない。
「俺はジェイコブ」
手を差し出す。
「ジェイコブ・コワルスキー」
ニュートは一瞬その手を見てから、握り返した。
「よろしく」
「ええ」
「…ところで捕まえた時にやったアレ何?」
ジェイコブとニュートは笑った。
きっと笑顔に込められた意味は違ったろうけど。
銀行には断られた。
パン屋への道は遠のいた。
変な動物にパンまで盗られた。
今日は散々だ。
でもまあ。
明日からまた働けばいい。
金を貯めて。
もっと美味いパンを作って。
また挑戦すればいい。
パン屋になりたい。
ジェイコブ・コワルスキーが望んでいるのは、本当にそれだけだった。
――それだけだったのだが。
この日。
彼はニュート・スキャマンダーと出会った。
そして残念ながら。
理想のパン屋への道は、ここからとんでもなく遠回りすることになる。