『パン屋になりたいだけなんだが』   作:神楽 舞

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第二話 最初のお客さん

 銀行での騒動がようやく収まった頃には、ジェイコブ・コワルスキーはすっかり疲れ果てていた。今日ここへ来た目的は、パン屋を開くための融資を受けることだった。それだけだったはずである。

 それが蓋を開けてみれば、融資には断られ、見知らぬイギリス人と一緒に銀行中を走り回り、正体不明の黒い生き物を追いかける羽目になった。しかも、大事なパンまで一つ食われた。

 

人生というものは、どうしてこう予定通りにいかないのだろう。

 

「……どうなってんだ、こいつの腹」

 

 ジェイコブは呆然と呟いた。

 目の前では、青いコートの男――ニュート・スキャマンダーが、捕まえたニフラーを逆さにしている。

 じゃらじゃらと硬貨が落ち、次に指輪、時計、ネックレス。また硬貨。明らかにあの小さな身体へ収まる量ではない。

 

「まだ出るのか?」

「たぶん」

「たぶん?」

 

 ニュートは答えず、ニフラーの身体を軽く振った。

 ちゃりん、と最後らしき硬貨が一枚落ちる。

 

「……こいつ、俺より金持ちじゃないか?」

「盗んだものだけど」

「それは金持ちとは言わないな」

 

 それはそうである。

 

 しかし、それにしたって量がおかしい。床へ積み上がった金品は、すでにニフラー本体より大きな山になっている。

 ジェイコブはしばらく考えて、やめた。分からないものは分からない。

 戦場にも、理由を考えたところでどうにもならないことはいくらでもあった。生きて帰ってきて学んだことの一つは、理解できないものを無理に理解しようとしないことである。

 

 たぶん。きっと。そういうものなのだ。

 

 ニュートはニフラーを抱き上げると、足元に置いてあった古びた革のトランクを開いた。

 

「ほら」

 

 小さく声をかけ、そのまま中へ押し込む。ぱたん、と蓋が閉じた。

 ジェイコブはトランクを見て、それからニュートを見た。もう一度トランクを見る。

 

「入った?」

「うん」

「そこに?」

「そう」

 

 どう考えても小さい。

 だが、ニュートは何事もなかったように留め具を閉じている。これ以上尋ねれば、今日という日がさらに面倒な方向へ進む気がした。

 

「……まあいいか」

 

 今日はもう十分だった。

 

 

 

 

 

     ◇

 

 

 

 

 

 銀行を出れば、そこにはいつものニューヨークがあった。

 道路を自動車が行き交い、歩道を人々が埋めている。遠くではクラクションが鳴り、その向こうから新聞売りの声が聞こえてきた。見慣れた光景だった。それだけで少し安心するというものである。隣を歩くニュートだけが、そこからほんの少し微妙に浮いていた。

 銀行ではあれほど迷いなくニフラーを追いかけていたくせに、人間と話すときになると妙に落ち着かない。こちらを見たかと思えばすぐに視線が横へ逃げ、歩きながら気にしているのもジェイコブではなく、手にしたトランクの方だった。

 

 変な男だ。

 だが、悪い男ではなさそうだった。

 

「……さっきは、ごめん」

 

 前を向いたままニュートが言った。

 

「いいよ。あんたが俺の融資を断ったわけじゃないし」

「パンも」

「ああ」

 

 それを言われると少し悲しい。ニフラーに食われたパンは、今日のために朝から焼いたものだった。もっとも、最初の一口は自分から与えたので、全面的な被害者を名乗るのは気が引ける。

 そこでジェイコブは、手元のケースへ目を落とした。

 パンなら、まだ残っている。

 銀行員は食べてくれなかった。ニフラーは食べたが、あいつは硬貨や時計まで嬉々として腹へ入れる不思議生物である。味覚の参考にするには、いささか信用ならない。

 売る相手は人間なのだ。

 

ならば。

 

「ニュート」

「なんだい?」

 

 ジェイコブは足を止め、ケースを開いてパンを一つ取り出した。

 

「食うか?」

 

 ニュートはパンを見た。ジェイコブを見て、またパンへ視線を戻す。

 

「……僕が?」

「他に誰がいるんだよ」

「いや……」

「嫌い?」

「嫌いじゃない」

「じゃあ食ってみてくれ」

 

 ニュートは少し迷ってから受け取ったものの、すぐには口にしなかった。

 ジェイコブは待った。

 ニュートも動かない。

 しばらくして、その視線がゆっくりと上がってきた。

 

「見られてると食べづらいよ」

「あぁ」

 

 どうやら自分は相当な顔で見つめていたらしい。

 

「悪い」

 

 ジェイコブは横を向いた。

 数秒待つ。

 

「もういいよ」

 

 すぐに振り返った。

 

「どう?」

「まだ一口目」

「ああ、悪い」

 

 また横を向く。

 我ながら少し落ち着けと思う。しかし仕方がない。銀行員は食べてくれず、ニフラーにはウケたが評価は当てにならない。つまりニュートは今日初めて、自分以外でこのパンをまともに評価してくれる人間なのである。

 

「……美味しい」

 

 ジェイコブは勢いよく振り返った。

 

「だろ?」

 

 ニュートが少し身を引く。

 

「うん」

「甘すぎない?」

「別に」

「本当か?」

 

 それは重要な意見だった。

 今朝、自分で食べたときには、少し砂糖が強いように感じた。だが、作っている本人の舌だけで決めるのもよくない。

 

「じゃあ砂糖はこのままかな……」

「変えるの?」

「減らそうと思ってたんだよ」

 

 ジェイコブはケースを探り、別のパンを取り出した。

 

「じゃあ、こっちは?」

「まだあるの?」

「胡桃入り」

 

 ニュートがパンを見る。

 

「……食う?」

「うん」

 

 今度は早かった。

 ジェイコブは少し嬉しくなった。

 二つ目を食べている間は、なるべくニュートを見ないようにした。なるべくであって、横目ではしっかり見ていたが。ニュートは鈍いのか気にしてはいないようだった。

 

「どっちがいい?」

「最初の」

「なんで?」

「……なんで?」

「甘さ? 香り? 食感?」

 

 ニュートは手元に残ったパンを眺め、少し考えた。

 

「食感、かな」

「食感か」

 

 その一言だけで、ジェイコブの頭の中では次の試作が始まった。

 胡桃が大きすぎるのかもしれない。なら少し細かくする。ただし細かくしすぎれば、今度は胡桃の存在感がなくなる。

 三分の二くらいか。いや、半分でも――。

 

「そんなに大事?」

 

 ニュートの声で現実に戻った。

 

「当たり前だろ」

「そう?」

「パン屋になるんだから」

 

 ニュートが少しだけ顔を上げた。

 

「パン屋?」

「そのために銀行へ来たんだよ」

「融資か」

「そう。断られたけどな」

 

 思い出すと、また少し悲しくなる。

 

「担保がないって」

「……残念だね」

「しかもパンも食わなかった」

「銀行の人が?」

「そう」

 

 ジェイコブは眉を寄せた。

 

「おかしいと思わないか?」

「何が?」

「パン屋に金を貸すか決めるんだぞ?」

「うん」

「なのにパンを食わない」

 

 ニュートは少し考え、それから手にしたパンをもう一口食べた。

 

「……変だね」

「そうだろ!」

 

 今日初めて理解者に出会った。

 

「俺もそう言ったんだよ!」

「うん」

「なのに味の問題じゃないって!」

「味は大事だと思う」

「だよな!」

 

 ジェイコブは嬉しくなった。

 このイギリス人、思っていたより話が分かる。

 少なくとも銀行員よりは。

 

 

 

 

 

     ◇

 

 

 

 

 

「いつも同じように作れるの?」

 

 ニュートが尋ねたのは、二つ目のパンを食べ終わる頃だった。

 

「いや。そこが難しいんだよ」

「同じ材料でも?」

「同じにしたつもりでも、微妙に変わる」

 

 ジェイコブにとっては、そこからが面白いところだった。

 その日の温度や湿度、小麦粉の状態、水の量、捏ね方。どれもパンの出来を左右する。生地の様子を見ながら調整し、指で触れ、匂いを確かめる。そして何より、発酵を急がせてはいけない。

 

「暑ければ早く膨らむ。でも、早ければいいってもんじゃない。逆に寒すぎるとなかなか進まない」

「繊細なんだ」

「そうなんだよ」

 

 ニュートは残っていたパンの断面を眺めた。

 さっきまでジェイコブの顔をろくに見なかった男が、パンには随分と熱心に視線を向けている。

 

「……生き物みたいだ」

「まあ、生き物がやってることだからな」

 

 ニュートの指が止まった。

 

「……生き物?」

「酵母だよ。イースト」

「これが?」

「パンじゃなくて、生地の中」

「どこに?」

「見えないよ」

 

 ニュートが顔を上げた。

 

「見えない?」

「小さすぎてな。顕微鏡なら見える」

「顕微鏡……」

 

 ニュートは再びパンへ視線を落とした。ただし、今度は先ほどまでとは明らかに見方が違っていた。

 

「生きてる?」

「焼く前なら」

「今は?」

「焼かれて死んでる」

 

 ニュートは黙ってパンを見つめた。

 

「そんな顔するなよ」

「いや……」

「パンだからな。焼かないわけにはいかないだろ」

「そうだけど」

 

 妙に残念そうだった。

 ジェイコブは思わず笑ったが、ニュートの頭はもう別のところへ行っていたらしい。

 

「何を食べるんだい?」

「ん?」

「その酵母?っていうのは」

「糖だな」

「糖…増える?」

「増える」

「どうやって?」

「そこまで詳しくは知らないよ」

「種類は?」

「色々あるんじゃないか?」

「温度で活動が変わる?」

「だから、さっきからそう言って――」

「どのくらい?」

「お、おう……」

 

 質問が止まらない。さっきまで必要なことしか話さなかった男が、突然前のめりになっている。いつの間にか視線も逸らさなくなっていた。ジェイコブは目を細める。

 

「ニュート」

「なんだい?」

「あんた、急に喋るな」

 

 ニュートが一瞬黙った。

 

「……生き物は好きなんだ」

「見れば分かるよ」

 

 銀行で十分見た。

 しかし、どうやらただ単に好きという程度ではないらしい。

 

「肉眼では本当に見えない?」

「見えない」

「でも、生きてる?」

「そう」

「そこに?」

「生地の中にな」

 

 ニュートは何もない空間を見つめるように、ジェイコブのケースへ目を落とした。

 目に見えないほど小さな生物が食べ、増え、環境によって活動を変え、その結果としてパンを膨らませる。

 ジェイコブにとっては、美味いパンを焼くために知っている知識に過ぎない。ところがニュートにとっては、まったく

別の意味を持っているようだった。

 

「他にもいる?」

「何が?」

「目に見えない生き物」

「そりゃいるよ」

「どこに?」

「どこにって……」

 

 ジェイコブは周囲を見回した。

 

「そこら中じゃないか?」

「そこら中?」

「土にも、水にも。人間の身体にもいるって聞くぞ」

 

 ニュートの顔が上がった。

 

「身体にも?」

「いるらしい」

「どこに?」

「知らないよ!」

 

 ジェイコブは笑った。

 

「俺はパン屋になりたいんだ。医者でも学者でもない」

「……そうか」

 

 ニュートは少し残念そうだった。

 

「でも、顕微鏡なら見えるんだよね?」

「たぶんな」

「どこで手に入る?」

「顕微鏡?」

「うん」

「さあ……大学とか、そういうところじゃないか?」

「買える?」

「買えるんじゃないか?」

「ニューヨークで?」

「なんで俺に聞くんだよ」

 

 ニュートは黙ったが、その目は完全に別のことを考えている。

 ジェイコブは横顔を眺めて、なんとなく察した。

 ああ。こいつ、もう顕微鏡のことしか考えてないな。

 

「今度探せばいいじゃないか」

「……うん」

 

 妙に力強い返事だった。

 ジェイコブは笑った。少しだけ、この男のことが分かってきた気がする。

 対象がパンか生き物かの違いだけで、好きなものの話になると周りが見えなくなる。その点では、自分と大差ない。

 そして二人がそんな話をしている間に、銀行を出た時点ではまだニュートの頭の片隅にあった、ある重要な用事は、パンに押しやられ、酵母に追いやられ、最後は顕微鏡によって完全にとどめを刺されていた。

 

 

 

 

 

     ◇

 

 

 

 

 

 道が分かれるところで、二人は足を止めた。

 ジェイコブの頭はすでに今夜の試作へ戻っている。砂糖はひとまずそのまま。胡桃を少し細かくして、牛乳を使った生地も試してみたい。

 明日は工場だから、あまり遅くまで起きているわけにはいかない。

 まあ、焼き上がるまでは起きていればいい。

 

「じゃあ、俺こっちだから」

「うん、また会えるかな」

「パン屋できたら来いよ」

「もちろん」

「一個サービスする」

「ありがとう」

「ニフラーは連れてくるなよ」

「……たぶん」

「そこは約束しろよ」

 

 ニュートが僅かに笑い、ジェイコブもつられて笑った。

 

「ああ、それと」

「何?」

「顕微鏡、見つかるといいな」

 

 ニュートの視線が少し上がる。

 

「うん」

 

 やっぱり嬉しそうだった。

 ジェイコブは足元に置いていた革のケースを持ち上げ、ニュートも隣に置いていた革のトランクを取った。

 似たような大きさで、似たような色。

 そして何より、二人ともついさっきまで別のことに夢中になっていた。

 

「じゃあな、ニュート」

「じゃあ、ジェイコブ」

 

 二人は反対方向へ歩き出した。

 ジェイコブはパンのことを考えていた。

 ニュートは酵母のことを考えていた。

 だから、どちらも気づかなかった。

 持っているケースが、入れ替わっていることに。

 

 

 

 

 

     ◇

 

 

 

 

 

 一人になっても、ニュートの思考はしばらく酵母から離れなかった。

 肉眼では見えない。それでも確かに生きていて、食べ、増え、環境によって活動を変える。

 顕微鏡。

 もし、それほど小さな生物が存在するのなら。

 魔法生物にも――。

 そこまで考えたところで、ニュートは足を止めた。

 予定より随分時間を使っている。

 

「……いけない」

 

 本来の目的へ戻らなければ。

 さて、予定通りに――。

 

「あなた」

 

 背後から女の声がした。

 ニュートが振り返ると、一人の若い女性がこちらを見ていた。険しい表情には見覚えがある。どうやら先ほどの銀行にいた女性らしい。

 

「さっき一緒にいたノー・マジは?」

 

 ニュートが僅かに眉を寄せた。

 

「……ノー・マジ?」

「ノー・マジック。魔法を使えない人」

「ああ。マグル」

「マグル?」

「イギリスではそう呼ぶ」

 

 聞き覚えのない言葉に戸惑ったが聞いてみればマグルのことらしい。

 女性は一瞬だけ妙な顔をしたが、今は呼び方の違いについて話している場合ではないようだ。

 

「そう。そのマグル。どこにいるの?」

「ジェイコブ?」

「名前まで聞いたの?」

「うん、友達さ」

「どこへ行ったの?」

「帰ったよ」

「帰したの?」

「……うん」

 

 女性の眉間に皺が寄った。

 

「記憶処理は?」

 

 ニュートの思考が止まった。

 銀行。

 ニフラー。

 ジェイコブ。

 パン。

 胡桃。

 発酵。

 酵母。

 微生物。

 顕微鏡。

 そして。

 

「……あ」

 

 女性の顔が引きつった。

 

「まさか」

「忘れてた」

「忘れた!?」

 

 通行人が何人か振り返った。女性は慌てて声を落としたものの、その目はまったく落ち着いていない。

 

「どうして忘れるのよ!」

「話してて」

「何を?」

「パンと……微生物」

「何?」

「目に見えないくらい小さい生き物が――」

「今それはどうでもいい!」

 

 ニュートは口を閉じた。

 少し納得がいかなかった。

 どうでもよくはない。かなり興味深い話だったのだ。

 とはいえ、それを説明したところで目の前の女性が喜ばないことくらいは分かった。

 

「ノー・マジに魔法生物を見られて、記憶も消さずに、その……微生物?の話をして帰したの?」

「……そうなるね」

「そうとしかならないわよ!」

 

 

 

 

 

     ◇

 

 

 

 

 

 女性の名は、ポーペンティナ・ゴールドスタイン。

 当然ながら、話はパンや微生物では済まなかった。

 銀行で起こした騒ぎ、ノー・マジへの対応、そしてニュートがニューヨークへ持ち込んだもの。ティナにとって、どれも見過ごせる話ではなかったらしい。

 いくつかのやり取りを経て、ニュートは自分のトランクを開くことになった。

 留め具へ手をかけ、蓋を持ち上げる。

 

「…………」

 

 ニュートは固まった。

 中には見慣れた光景が――ない。

 代わりに、パンがあった。

 丸いパンに、編み込まれたパン。それから胡桃入り。どれも丁寧に詰められている。

 ティナも横から中を覗き込んだ。

 

「何これ」

 

 ニュートは無言で一つ手に取った。

 見覚えがある、というより、さっき食べた。

 

「……ジェイコブ」

「何?」

「取り違えたみたい」

「何を?」

「トランク」

 ティナの表情がゆっくりと変わった。

 

「……じゃあ、あなたのは?」

 

 ニュートは答えなかった。

 答える必要もなかった。

 自分のトランクが今どこにあるのか、二人とも理解した。そして、その中に何がいるのかも。

 

「ジェイコブが持ってる」

 

 ティナは目を閉じ、深く息を吸った。

 

「あなた今日、何ならちゃんとできたの?」

 

 ニュートは少し考えた。

 

「ニフラーは捕まえた」

「逃がしたのもあなたでしょう!」

 

彼女が叫ぶと同時に、『姿くらまし』で先ほど別れた路地に飛ぶことになったのは言うまでもないだろう。

 

 

 

     ◇

 

 

 

 

 

 その頃、ジェイコブ・コワルスキーはそんなことなど何も知らず、自宅へ帰り着いていた。

 疲れてはいる。それでも寝るにはまだ早いし、帰り道から頭の中は今夜の試作でいっぱいだった。

 ニュートは最初のパンを好んだ。胡桃入りは食感が気になるらしい。なら刻み方を変える。砂糖はひとまず保留にして、牛乳も試してみたい。発酵時間も少し変えれば、また違った仕上がりになるかもしれない。

 銀行に融資を断られた日の夜くらい休めばいい。普通ならそう考えるのかもしれないが。

 

 ジェイコブにはまだ店がない。

 

 なら今できるのは、いつか店を持てた日のために、少しでも美味いパンを作ることくらいだった革のケースをテーブルへ置き、留め具を外す。

 

「さて……」

 

 胡桃をどのくらい細かくするか。

 そんなことを考えながら蓋を開けたところで、ジェイコブの手が止まった。

 パンがない。

 しばらく中を見つめてから蓋を閉じ、もう一度開いてみる。

 やはりない。

 

「あいつか……」

 

 少し考えれば理由にはすぐ気づいた。ニュートも似たような革のトランクを持っていたから、別れ際に取り違えたのだろう。

 なら明日、返してもらえばいい。

 パンの方は――まあ、構わない。

 食べたければ食べればいい。ニュートは美味しいと言ってくれた。それも、ジェイコブが味を尋ねる前に。銀行では見向きもされなかったパンを、あの変なイギリス人は二つも食べてくれた。

 

 店はないし看板もない。金だってもらっていない。

 

 それでも考えてみれば、あれが自分のパンを食べてくれた最初の客みたいなものなのかもしれない。そう思うと、全部食べられていたとしても、案外悪い気はしなかった。

 問題があるとすれば、パンの方ではない。

 ニフラーはニュートのトランクへ入れられていた。

 そして今、自分の目の前にあるのは――。

 ごとり、と音がした。

 ジェイコブの思考が止まる。

 静まり返った部屋で、しばらくトランクを見つめた。

 聞き間違いだと思いたかった。

 

 ごとん。

 

 今度は、はっきりと内側から何かがぶつかった。

 ジェイコブはゆっくりとトランクから手を離した。

 今日一日の出来事が頭をよぎる。黒い生き物。床に積み上がった金品。そして、それを何の躊躇もなくこのトランクへ押し込んだニュート。

 明日は仕事だ。パンも焼きたい。

 今日はもう十分、変なものを見た。

 頼むから、これ以上は勘弁してほしい。

 そんな願いなど知ったことかとばかりに、留め具がひとりでに、かちり、と外れた。

 ジェイコブは動かなかった。いや、動けなかった。

 今日一日で嫌というほど学んだのだ。こういうとき、だいたい碌なことは起きない。

 やがてトランクの蓋が、ほんの少しだけ持ち上がった。生まれた暗い隙間の向こうで、何かが動いている。

 ジェイコブはそれを見なかったことにするように天井を仰いだ。

 

「……オー・マイ・ゴッド」

 

 誰に聞かせるでもなく呟き、恐る恐るトランクへ視線を戻す。

 蓋は、先ほどよりも開いていた。

 

「ああ、神様……」

 

 今度のそれは、ほとんど祈りだった。

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