『パン屋になりたいだけなんだが』   作:神楽 舞

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第三話 鞄を間違えただけなのに

 ごとり、と鞄の中で何かが動いた。

 

 ジェイコブ・コワルスキーは、テーブルの上に置いた革鞄を遠巻きに眺めていた。

 

 銀行から持ち帰ったそれが自分のものではないと気づいたのは、帰宅してからだった。大きさも色も似ていたし、あの騒ぎのあとである。取り違えたこと自体は、まあ仕方がない。

 

 問題は、中身だった。先ほどから動いている。

 

「……おい」

 

 呼びかけてみる。当然ながら返事はない。

 

 ジェイコブはしばらく鞄を睨んでいたが、放っておいて状況が好転するとも思えなかった。

 ニュートとかいう妙なイギリス人の顔を思い浮かべる。あの男なら、鞄の中に生き物の一匹や二匹を入れていても不思議ではない。

 

 銀行で散々追い回した、あの黒いやつかもしれない。

 

「ニフラー……だったか?」

 

 名前が合っているかどうかも怪しい。

 少し考え、ジェイコブは台所から木のスプーンを一本持ってきた。武器にするつもりはない。ただ、得体の知れないものへ素手を突っ込むよりはいくらかマシだろう。

 

 鞄の留め金にスプーンの先を引っかけ、少し押す。

 

 何も起こらない。

 もう少し――。

 

 ばたん、と勢いよく蓋が開いた。

 

「うおっ!?」

 

 ジェイコブは飛び退き、木のスプーンを胸の前に構えた。

 何も出てこない。開いた鞄は、何事もなかったかのように静まり返っている。

 

「…………」

 

 しばらく待ってから、恐る恐る近づいた。

 

「……は?」

 

 暗くて、よく見えなかった。

 ただ、自分の鞄ならパンの試作品が入っているはずの場所に、少なくともパンはない。それどころか、妙に奥行きがあるような気がする。もう少し顔を近づけようとしたところで、奥から甲高い鳴き声がした。

 

「うわっ!」

 

 今度こそ何かが飛び出した。

 小さい。速い。それ以上は分からなかった。

 

 ジェイコブの頭上を横切った何かが部屋の奥へ消え、その直後には別の影が飛び出す。慌てて振り返った頃には、最初の一匹が家具の裏へ潜り込んでいた。

 

「待て、待て待て!」

 

 鞄を見ると、また何か出た。

 

「おい!」

 

 もう一匹。

 

「ちょっと待て!」

 

 当然、待ってはくれない。

 狭い部屋の中を正体不明の何かが走り回り、食器が落ち、椅子が倒れた。ジェイコブは一匹を捕まえようと手を伸ばしたものの、するりと逃げられる。

 

「ニュート……!」

 

 今日会ったばかりの男の名前を、これほど恨めしく呼ぶことになるとは思わなかった。

 

「あんた、何飼ってるんだよ!」

 

 そのとき、床が揺れた。

 

 ジェイコブの動きが止まる。一度だけではない。もう一度、今度は先ほどより大きく揺れ、テーブルの上で食器がかたかたと音を立てた。

 

「……今度は何だよ」

 

 鞄の奥から、重い音が聞こえた。

 

 何かがいる。

 

 先ほどまでの連中とは違う。姿はよく見えない。ただ、大きなものがこちらへ近づいてきている。それだけは嫌というほど分かった。

 

「いやいや……」

 

 ジェイコブは後ずさった。

 

「それは無理だろ」

 

 次の瞬間、巨大な影が鞄から飛び出した。

 

 何が出てきたのか、まともに見る暇さえなかった。家具が吹き飛び、ジェイコブは反射的に頭を庇う。

 

 続いて、轟音。

 

 壁が砕けた。

 

「――っ!」

 

 木片と漆喰が部屋中に飛び散り、白い粉がもうもうと舞い上がる。咳き込みながら腕を下ろすと、そこにあったはずの壁には巨大な穴が開いていた。

 

 冷たい夜風が吹き込んでくる。

 

 穴の向こうにはニューヨークの夜。その中を、大きな影が遠ざかっていくのがかろうじて見えた。

 

「…………」

 

 呆然としている間にも、部屋を逃げ回っていたらしい何かが一つ、二つと穴へ向かい、それに続くように外へ飛び出していった。

 

「あ、おい!」

 

 声をかけてはみるがすでに遅かった。

 最後の影が夜の街へ消える。

 

 部屋に沈黙が戻った。

 

 ジェイコブは大穴を眺め、それからテーブルの上で口を開けている鞄を見る。もう一度、大穴へ視線を戻した。

 

「……大家になんて言えばいいんだ」

 

 そもそも今日、銀行で融資を断られたばかりである。パン屋を開くための金もないというのに、今度は壁だ。修理代がいくらになるのか、考えたくもない。

 

 というより。

 

「俺が払うのか……?」

 

 それは違うだろう。

 ジェイコブは額を押さえた。

 

「ニュート…お前、絶対に弁償しろよ……」

 

 そのとき、すぐ後ろで何かが動いた。

 

「ん?」

 

 振り向こうとした、その瞬間だった。

 首の後ろに鋭い痛みが走った。

 

「痛っ!」

 

 反射的に手を伸ばす。指先に何かが触れたかと思うと、それはするりと逃れ、家具の陰へ消えていった。

 

「なんなんだよ、もう……」

 

 首筋を押さえる。どこを噛まれたのか自分では見えないが、指先にはわずかに血がついていた。

 

 今日は散々だ。そう思いながら一歩踏み出し、ジェイコブは眉を寄せた。

 

「……あれ?」

 

 熱い。

 

 首の後ろから肩へ、じわじわと妙な熱が広がっている。身体そのものも急に重くなり、足元がひどく頼りない。

 

 それでも、立てないほどではなかった。

 壁に手をつこうとして――やめる。

 そこに壁はなかった。

 

「……そうだった」

 

 さっき壊されたばかりである。

 

 仕方なく椅子の背を掴み、どうにか身体を支えた。気分は最悪だったが、倒れている場合でもない。壁には大穴が開き、ニュートの鞄から出てきた何かはニューヨークの街へ逃げてしまった。

 

 何が、何匹。

 そんなことは知らない。

 知りたくもない。

 

 ただ一つ分かるのは、全部あのイギリス人の鞄から出てきたということだけだった。

 

「……あいつ、どこにいるんだよ……」

 

 ニュートを探さなければ。

 少なくとも、この鞄をどうにかしてもらわなければならない。そう思ったところで、部屋の中に物音がした。

 

 ジェイコブは顔を上げる。

 ニュートがいた。

 

「ジェイコブ」

「……ニュート?」

「うん」

 

 数秒、ジェイコブは彼を見つめた。

 玄関を見る。ニュートを見る。

 もう一度、玄関を見る。

 

「……どうやって入ってきた?」

「え?」

「いや――」

 

 椅子を掴んでいた手を離し、無理やり身体を起こす。

 一歩踏み出した。床が傾いた。

 いや、傾いているのは自分だ。

 

「おっと――」

 

 足がもつれた。ニュートが手を伸ばしたが、間に合わない。

 ジェイコブはよろめいた勢いのまま棚の角へ頭をぶつけ、その場に崩れ落ちた。

 

「ジェイコブ!」

 

今度こそ、意識が途切れた。

 

 

 

 

 

     ◇

 

 

 

 

 

 ニュート・スキャマンダーは、床に倒れたジェイコブへ慌てて駆け寄った。

 

「ジェイコブ?」

 

 返事はない。

 まず頭を打った場所を確かめる。幸い、ひどい傷ではなさそうだった。もっとも、あれだけ派手にぶつければ、しばらく目を覚まさなくても不思議ではないが、問題はそれだけではなかった。

 

 さっきから様子がおかしかった。顔には汗が浮かび、呼吸も普段より浅い。身体を横向きにして調べると、襟のすぐ上、首の後ろに小さな噛み痕が見つかった。周囲は赤く腫れ、首筋に沿って炎症が広がっている。

 

「……マートラップか」

 

 なるほど。

 

 先ほどのふらつきも、おそらくこれが原因だろう、毒が回っている。ただ、思っていたより状態は悪くない。すぐに処置は必要だが、少なくとも今すぐどうこうなる様子ではなさそうだった。

 ニュートはジェイコブを楽な姿勢に寝かせ、そこでようやく部屋を見回した。

 

「…………」

 

 壁がない。

 正確には、一面だけ大きく失われている。

 家具は倒れ、食器は砕け、木片と漆喰が床を覆っていた。部屋の中央には、自分の鞄が蓋を開けたまま置かれている。

 

 何が起きたのか、だいたい想像がついた。

 ただ、何が逃げたのかまでは分からない。

 確認しなければならないが、その前にやることがあった。

 

 ニュートは杖を取り出した。

 

 軽く振る。

 

 床に散らばっていた木片が浮かび上がり、砕けた壁材が次々と元の場所へ戻っていく。大穴が端から塞がり、割れた食器は破片同士が繋がって元の形を取り戻した。倒れていた家具も起き上がり、散乱していたものがあるべき場所へ収まっていく。

 

 時間を巻き戻すように、部屋が元の姿を取り戻していった。

 壁が完全に塞がり、冷たい夜風が止んだ。

 ニュートは一通り室内を確認し、杖を下ろした。

 見た目だけなら、何事もなかったように見える。

 

 床ではジェイコブが気を失ったまま横になっていた。

 

「……弁償は、これでいいかな」

 

 

 

 

 

     ◇

 

 

 

 

 

 ティナ・ゴールドスタインが部屋へ入ったとき、そこは妙なほど綺麗だった。

 ニュートを追ってここまで来たはずなのに、騒ぎがあった形跡がほとんどない。

 ただし、床に倒れている男を除けば。

 

「何があったの?」

 

 ニュートが振り返った。

 

「鞄を開けたみたいだ」

 

 ティナはテーブルを見る。

 問題の鞄があった。

 

 嫌な予感しかしない。

 

「中の生き物は?」

「まだ確認してない」

「まだ?」

「先に彼を見つけたから」

 

 ティナは床に倒れている男へ視線を移した。

 銀行にいたノー・マジ。ジェイコブ・コワルスキー。

 ただ魔法を目撃しただけでも十分問題なのに、今度は魔法生物にまで噛まれているらしい。

 

「何にやられたの?」

「マートラップだよ」

 

 ニュートはジェイコブの首筋を示した。

 

「毒が回ってる」

「治せるの?」

「うん」

 

 迷いなく答えたニュートをみて、ティナは少しだけ安堵した。

 

「なら早く治して」

「薬は鞄の中にある」

 

 ニュートが自分の鞄を見る。

 

「それと、何が逃げたのかも確認しないと」

 

 ティナは窓の外へ目をやった。

 ニューヨークの夜。

 

 そのどこかを、正体不明の魔法生物が走り回っている。

 頭が痛くなってきた。

 

「何匹?」

「分からない」

「何が逃げたの?」

「まだ分からない」

「あなた、自分の鞄でしょう?」

「あとで中を確認してみないことにはなんとも」

 

 ティナは額を押さえた。

 問題が一つずつ増えていく。

 無許可で魔法生物を持ち込んだ外国人。その生き物が逃走。ノー・マジが目撃。さらに負傷。

 どこから処理すればいいのか分からない。

 ニュートはすでに鞄へ向かっていた。

 

「待って」

 

 ティナが止める。

 

「何?」

「ここで入るつもり?」

「うん」

「駄目よ」

 

 ニュートが首を傾げた。

 

「どうして?」

「どうしてって……」

 

 ティナは部屋を見回した。

 誰かが入ってきたらどうするつもりなのか。

 ただでさえ事態は最悪に近い。これ以上、魔法界の存在を一般人の目に晒すわけにはいかなかった。

 それに、ティナはジェイコブを見る。床に寝かされたまま、まだ目を覚ます様子はないし、ここへ置いていくわけにもいかない。

 

「その人も治療するんでしょう?」

「うん」

「だったら連れていくわ」

「どこに?」

 

 答えようとして、ティナは少しだけ迷った。

 自分の住んでいる寮は女性用だ。

 しかも一人暮らしではない。

 

 妹のクイニーがいる。

 

 帰ったら説明しなければならないことが山ほど増えるだろう。

 外国人の魔法使いを連れ帰る。

 ついでに気絶したノー・マジまで連れ帰る。

 どう考えても面倒だった。

 

 だが、他に安全な場所が思いつかない。

 ティナは小さく息を吐いた。

 

「……私の寮」

「寮?」

「女子寮よ」

 

 ニュートが瞬きをした。

 

「僕も?」

「仕方ないでしょう!」

 

 思わず声が大きくなった。

 ティナは一度咳払いし、改めてジェイコブを見る。

 

「そこでこの人を治療して。鞄の中を確認するのも、それから」

 

 ニュートもジェイコブへ視線を落とし、素直に頷いた。

 

「分かった」

 

 二人でジェイコブを起こそうとする。

 そのときだった。

 

「……パン……」

 

 ティナの手が止まった。

 

「何?」

 

 返事はない。

 ジェイコブは目を閉じたまま、もう一度何かを呟いた。

 

「……仕込み……」

 

 ティナはニュートを見る。

 ニュートもジェイコブを見ていた。

 

「……この人、本当に大丈夫?」

「頭を打つ前は喋れてたんだ」

「そういう意味じゃないわよ」

 

 ニュートは少し考えた。

 

「彼はパン屋になりたいらしい」

「それは今どうでもいいの」

「本人には大事なんじゃないかな」

 

 ティナは何も言わなかった。

 言えば余計に疲れる気がした。

 

 ジェイコブの片腕を肩へ回し、ニュートと二人で身体を支える。

 まだ夜は長い。

 

 逃げた魔法生物が何なのかすら分かっていない。ノー・マジの記憶もおいそれと処理できなくなったし、ニュートのことも魔法議会へ報告する必要がある。

 考えれば考えるほど、頭が痛くなる。

 

「行くわよ」

 

 ティナはそう言って歩き出した。

 行き先は女子寮。

 

 そこにいる妹が、この面倒事を見て何と言うのか。

 それだけは、まだ考えないことにした。

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