ごとり、と鞄の中で何かが動いた。
ジェイコブ・コワルスキーは、テーブルの上に置いた革鞄を遠巻きに眺めていた。
銀行から持ち帰ったそれが自分のものではないと気づいたのは、帰宅してからだった。大きさも色も似ていたし、あの騒ぎのあとである。取り違えたこと自体は、まあ仕方がない。
問題は、中身だった。先ほどから動いている。
「……おい」
呼びかけてみる。当然ながら返事はない。
ジェイコブはしばらく鞄を睨んでいたが、放っておいて状況が好転するとも思えなかった。
ニュートとかいう妙なイギリス人の顔を思い浮かべる。あの男なら、鞄の中に生き物の一匹や二匹を入れていても不思議ではない。
銀行で散々追い回した、あの黒いやつかもしれない。
「ニフラー……だったか?」
名前が合っているかどうかも怪しい。
少し考え、ジェイコブは台所から木のスプーンを一本持ってきた。武器にするつもりはない。ただ、得体の知れないものへ素手を突っ込むよりはいくらかマシだろう。
鞄の留め金にスプーンの先を引っかけ、少し押す。
何も起こらない。
もう少し――。
ばたん、と勢いよく蓋が開いた。
「うおっ!?」
ジェイコブは飛び退き、木のスプーンを胸の前に構えた。
何も出てこない。開いた鞄は、何事もなかったかのように静まり返っている。
「…………」
しばらく待ってから、恐る恐る近づいた。
「……は?」
暗くて、よく見えなかった。
ただ、自分の鞄ならパンの試作品が入っているはずの場所に、少なくともパンはない。それどころか、妙に奥行きがあるような気がする。もう少し顔を近づけようとしたところで、奥から甲高い鳴き声がした。
「うわっ!」
今度こそ何かが飛び出した。
小さい。速い。それ以上は分からなかった。
ジェイコブの頭上を横切った何かが部屋の奥へ消え、その直後には別の影が飛び出す。慌てて振り返った頃には、最初の一匹が家具の裏へ潜り込んでいた。
「待て、待て待て!」
鞄を見ると、また何か出た。
「おい!」
もう一匹。
「ちょっと待て!」
当然、待ってはくれない。
狭い部屋の中を正体不明の何かが走り回り、食器が落ち、椅子が倒れた。ジェイコブは一匹を捕まえようと手を伸ばしたものの、するりと逃げられる。
「ニュート……!」
今日会ったばかりの男の名前を、これほど恨めしく呼ぶことになるとは思わなかった。
「あんた、何飼ってるんだよ!」
そのとき、床が揺れた。
ジェイコブの動きが止まる。一度だけではない。もう一度、今度は先ほどより大きく揺れ、テーブルの上で食器がかたかたと音を立てた。
「……今度は何だよ」
鞄の奥から、重い音が聞こえた。
何かがいる。
先ほどまでの連中とは違う。姿はよく見えない。ただ、大きなものがこちらへ近づいてきている。それだけは嫌というほど分かった。
「いやいや……」
ジェイコブは後ずさった。
「それは無理だろ」
次の瞬間、巨大な影が鞄から飛び出した。
何が出てきたのか、まともに見る暇さえなかった。家具が吹き飛び、ジェイコブは反射的に頭を庇う。
続いて、轟音。
壁が砕けた。
「――っ!」
木片と漆喰が部屋中に飛び散り、白い粉がもうもうと舞い上がる。咳き込みながら腕を下ろすと、そこにあったはずの壁には巨大な穴が開いていた。
冷たい夜風が吹き込んでくる。
穴の向こうにはニューヨークの夜。その中を、大きな影が遠ざかっていくのがかろうじて見えた。
「…………」
呆然としている間にも、部屋を逃げ回っていたらしい何かが一つ、二つと穴へ向かい、それに続くように外へ飛び出していった。
「あ、おい!」
声をかけてはみるがすでに遅かった。
最後の影が夜の街へ消える。
部屋に沈黙が戻った。
ジェイコブは大穴を眺め、それからテーブルの上で口を開けている鞄を見る。もう一度、大穴へ視線を戻した。
「……大家になんて言えばいいんだ」
そもそも今日、銀行で融資を断られたばかりである。パン屋を開くための金もないというのに、今度は壁だ。修理代がいくらになるのか、考えたくもない。
というより。
「俺が払うのか……?」
それは違うだろう。
ジェイコブは額を押さえた。
「ニュート…お前、絶対に弁償しろよ……」
そのとき、すぐ後ろで何かが動いた。
「ん?」
振り向こうとした、その瞬間だった。
首の後ろに鋭い痛みが走った。
「痛っ!」
反射的に手を伸ばす。指先に何かが触れたかと思うと、それはするりと逃れ、家具の陰へ消えていった。
「なんなんだよ、もう……」
首筋を押さえる。どこを噛まれたのか自分では見えないが、指先にはわずかに血がついていた。
今日は散々だ。そう思いながら一歩踏み出し、ジェイコブは眉を寄せた。
「……あれ?」
熱い。
首の後ろから肩へ、じわじわと妙な熱が広がっている。身体そのものも急に重くなり、足元がひどく頼りない。
それでも、立てないほどではなかった。
壁に手をつこうとして――やめる。
そこに壁はなかった。
「……そうだった」
さっき壊されたばかりである。
仕方なく椅子の背を掴み、どうにか身体を支えた。気分は最悪だったが、倒れている場合でもない。壁には大穴が開き、ニュートの鞄から出てきた何かはニューヨークの街へ逃げてしまった。
何が、何匹。
そんなことは知らない。
知りたくもない。
ただ一つ分かるのは、全部あのイギリス人の鞄から出てきたということだけだった。
「……あいつ、どこにいるんだよ……」
ニュートを探さなければ。
少なくとも、この鞄をどうにかしてもらわなければならない。そう思ったところで、部屋の中に物音がした。
ジェイコブは顔を上げる。
ニュートがいた。
「ジェイコブ」
「……ニュート?」
「うん」
数秒、ジェイコブは彼を見つめた。
玄関を見る。ニュートを見る。
もう一度、玄関を見る。
「……どうやって入ってきた?」
「え?」
「いや――」
椅子を掴んでいた手を離し、無理やり身体を起こす。
一歩踏み出した。床が傾いた。
いや、傾いているのは自分だ。
「おっと――」
足がもつれた。ニュートが手を伸ばしたが、間に合わない。
ジェイコブはよろめいた勢いのまま棚の角へ頭をぶつけ、その場に崩れ落ちた。
「ジェイコブ!」
今度こそ、意識が途切れた。
◇
ニュート・スキャマンダーは、床に倒れたジェイコブへ慌てて駆け寄った。
「ジェイコブ?」
返事はない。
まず頭を打った場所を確かめる。幸い、ひどい傷ではなさそうだった。もっとも、あれだけ派手にぶつければ、しばらく目を覚まさなくても不思議ではないが、問題はそれだけではなかった。
さっきから様子がおかしかった。顔には汗が浮かび、呼吸も普段より浅い。身体を横向きにして調べると、襟のすぐ上、首の後ろに小さな噛み痕が見つかった。周囲は赤く腫れ、首筋に沿って炎症が広がっている。
「……マートラップか」
なるほど。
先ほどのふらつきも、おそらくこれが原因だろう、毒が回っている。ただ、思っていたより状態は悪くない。すぐに処置は必要だが、少なくとも今すぐどうこうなる様子ではなさそうだった。
ニュートはジェイコブを楽な姿勢に寝かせ、そこでようやく部屋を見回した。
「…………」
壁がない。
正確には、一面だけ大きく失われている。
家具は倒れ、食器は砕け、木片と漆喰が床を覆っていた。部屋の中央には、自分の鞄が蓋を開けたまま置かれている。
何が起きたのか、だいたい想像がついた。
ただ、何が逃げたのかまでは分からない。
確認しなければならないが、その前にやることがあった。
ニュートは杖を取り出した。
軽く振る。
床に散らばっていた木片が浮かび上がり、砕けた壁材が次々と元の場所へ戻っていく。大穴が端から塞がり、割れた食器は破片同士が繋がって元の形を取り戻した。倒れていた家具も起き上がり、散乱していたものがあるべき場所へ収まっていく。
時間を巻き戻すように、部屋が元の姿を取り戻していった。
壁が完全に塞がり、冷たい夜風が止んだ。
ニュートは一通り室内を確認し、杖を下ろした。
見た目だけなら、何事もなかったように見える。
床ではジェイコブが気を失ったまま横になっていた。
「……弁償は、これでいいかな」
◇
ティナ・ゴールドスタインが部屋へ入ったとき、そこは妙なほど綺麗だった。
ニュートを追ってここまで来たはずなのに、騒ぎがあった形跡がほとんどない。
ただし、床に倒れている男を除けば。
「何があったの?」
ニュートが振り返った。
「鞄を開けたみたいだ」
ティナはテーブルを見る。
問題の鞄があった。
嫌な予感しかしない。
「中の生き物は?」
「まだ確認してない」
「まだ?」
「先に彼を見つけたから」
ティナは床に倒れている男へ視線を移した。
銀行にいたノー・マジ。ジェイコブ・コワルスキー。
ただ魔法を目撃しただけでも十分問題なのに、今度は魔法生物にまで噛まれているらしい。
「何にやられたの?」
「マートラップだよ」
ニュートはジェイコブの首筋を示した。
「毒が回ってる」
「治せるの?」
「うん」
迷いなく答えたニュートをみて、ティナは少しだけ安堵した。
「なら早く治して」
「薬は鞄の中にある」
ニュートが自分の鞄を見る。
「それと、何が逃げたのかも確認しないと」
ティナは窓の外へ目をやった。
ニューヨークの夜。
そのどこかを、正体不明の魔法生物が走り回っている。
頭が痛くなってきた。
「何匹?」
「分からない」
「何が逃げたの?」
「まだ分からない」
「あなた、自分の鞄でしょう?」
「あとで中を確認してみないことにはなんとも」
ティナは額を押さえた。
問題が一つずつ増えていく。
無許可で魔法生物を持ち込んだ外国人。その生き物が逃走。ノー・マジが目撃。さらに負傷。
どこから処理すればいいのか分からない。
ニュートはすでに鞄へ向かっていた。
「待って」
ティナが止める。
「何?」
「ここで入るつもり?」
「うん」
「駄目よ」
ニュートが首を傾げた。
「どうして?」
「どうしてって……」
ティナは部屋を見回した。
誰かが入ってきたらどうするつもりなのか。
ただでさえ事態は最悪に近い。これ以上、魔法界の存在を一般人の目に晒すわけにはいかなかった。
それに、ティナはジェイコブを見る。床に寝かされたまま、まだ目を覚ます様子はないし、ここへ置いていくわけにもいかない。
「その人も治療するんでしょう?」
「うん」
「だったら連れていくわ」
「どこに?」
答えようとして、ティナは少しだけ迷った。
自分の住んでいる寮は女性用だ。
しかも一人暮らしではない。
妹のクイニーがいる。
帰ったら説明しなければならないことが山ほど増えるだろう。
外国人の魔法使いを連れ帰る。
ついでに気絶したノー・マジまで連れ帰る。
どう考えても面倒だった。
だが、他に安全な場所が思いつかない。
ティナは小さく息を吐いた。
「……私の寮」
「寮?」
「女子寮よ」
ニュートが瞬きをした。
「僕も?」
「仕方ないでしょう!」
思わず声が大きくなった。
ティナは一度咳払いし、改めてジェイコブを見る。
「そこでこの人を治療して。鞄の中を確認するのも、それから」
ニュートもジェイコブへ視線を落とし、素直に頷いた。
「分かった」
二人でジェイコブを起こそうとする。
そのときだった。
「……パン……」
ティナの手が止まった。
「何?」
返事はない。
ジェイコブは目を閉じたまま、もう一度何かを呟いた。
「……仕込み……」
ティナはニュートを見る。
ニュートもジェイコブを見ていた。
「……この人、本当に大丈夫?」
「頭を打つ前は喋れてたんだ」
「そういう意味じゃないわよ」
ニュートは少し考えた。
「彼はパン屋になりたいらしい」
「それは今どうでもいいの」
「本人には大事なんじゃないかな」
ティナは何も言わなかった。
言えば余計に疲れる気がした。
ジェイコブの片腕を肩へ回し、ニュートと二人で身体を支える。
まだ夜は長い。
逃げた魔法生物が何なのかすら分かっていない。ノー・マジの記憶もおいそれと処理できなくなったし、ニュートのことも魔法議会へ報告する必要がある。
考えれば考えるほど、頭が痛くなる。
「行くわよ」
ティナはそう言って歩き出した。
行き先は女子寮。
そこにいる妹が、この面倒事を見て何と言うのか。
それだけは、まだ考えないことにした。