頭が痛い、首も痛い、ついでに身体がひどく重い。
ジェイコブ・コワルスキーはニュートとティナに肩を貸されながら、どうしてこんなことになったのかをぼんやり考えていた。
朝は銀行へ行っただけだった、パン屋を開くための金を借りる。それだけの予定だったはずなのに、融資には断られ、妙な生き物を追いかけ、妙なイギリス人と知り合い、その男と鞄を取り違えた。
そこから先は思い出したくない。特に壁。あれは本当に心臓に悪かった。
「着いたわ」
ティナの声に、ジェイコブは重い顔を上げた。
「……ここ?」
「そう」
「本当に入っていいの?」
「今さら気にするの?」
「女子寮なんだろ?」
「だから仕方ないって言ってるでしょう」
ニュートとティナが小声で言い合ってるのを間に挟まれながらジェイコブは思う。
それはそうなのだが、一応怪我人である。
早いところ休みたい、と同時に、女子寮など三十年近く生きてきて当然ながら縁のなかった場所である。こんな形で初めて足を踏み入れることになるとは思わなかった。
「ただいま」
「ティニー?」
奥から柔らかな声がした。
「おかえりなさい。遅かった――」
ぱたぱたと足音が近づいてくる。
そして、女性が姿を現した。
「まあ」
ジェイコブの身体は目を見開いて動きを止めた。
金色の髪に白い肌、柔らかな身体の線――そこまで認識したところで、彼女が下着姿であることに気づき、慌てて顔を逸らした。
「お、おい……」
危ない。今のは危なかった。
見るな。俺は紳士だ。なんだ彼女は女神か?ジェイコブ・コワルスキーは紳士である。
そう自分に言い聞かせ、何の変哲もない壁を凝視する。壁。いい壁だ。今日は壁には散々な目に遭わされたが、今この瞬間ほど壁の存在に感謝したことはない。
――でも、綺麗な人だったな。女神?
いや、見るな。
俺は紳士だ。俺は紳士。何度も頭の中で繰り返すのに、さっき一瞬だけ見えた姿がどうしても頭の片隅から消えてくれない。金色の髪、大きな瞳、柔らかな笑顔。
美しかった。
困ったことに、本当に美しかった。
「ふふっ」
背後で女性が笑った。
ジェイコブは壁を見つめたまま眉を寄せた。何だ。何かおかしかっただろうか。
「クイニー!」
ティナの声が飛ぶ。
「なあに?」
「服!」
「あら」
「男の人がいるのよ」
「そうね」
「そうね、じゃなくて!」
クイニーは自分の格好を見下ろしたものの、慌てる様子はなかった。それどころか姉と、その隣にいるニュートへ視線を向けて楽しそうに笑う。
「いいじゃないの、ティニー。うちに男性を連れて帰ってくるなんて。それも二人も」
「違うわよ!」
ティナの返事は早かった。
「そういうんじゃないの!」
「じゃあ、こっちの人はティニー?」
クイニーがニュートを見る。
「違う!」
「まだ何も言ってないわよ」
「あなたが何を言おうとしてるかくらい分かるわ!」
クイニーが目を丸くした。
「まあ。ティニーもレジリメンターになったの?」
「あなたの姉を何年やってると思ってるのよ!」
背後で姉妹のやり取りが続いている間も、ジェイコブは律儀に壁を見つめていた。
何となく分かった。この姉妹には割って入らない方がいい。
というより、今は振り向けない。
見るな。絶対に振り向くな。俺は紳士だ。
「ジェイコブ」
「はい!?」
突然名前を呼ばれ、思わず振り返りそうになった。寸前で耐える。
「もう見てもいいわよ」
「……本当に?」
「ええ」
そこで、別の疑問が浮かんだ。
……俺、名前言ったか?
「いいえ」
「じゃあ、なんで――」
恐る恐る振り返ると今度は淡いドレスをまとった彼女が立っていた。金色の髪が柔らかく肩へ落ち、大きな瞳がまっすぐこちらを見ている。目が合うと、彼女は柔らかく笑った。
美しい。
さっきもそう思った。だが、改めて正面から見ると、そんな一言では足りなかった。先ほどまでは離さなければならなかったのに、今度はその必要がない。そう思った途端、本当に目が離せなくなってしまった。銀行も、融資も、鞄も、壊れた壁も。首の後ろに残る痛みさえ、一瞬どうでもよくなった。ただ、目の前の女性だけが残った。
クイニーの笑みが、ほんの少しだけ変わる。頬に淡く赤みが差した。
「あら。あなた、本当に素直なのね」
「……何が?」
「なんでもないわ」
そう言って笑う彼女は、さっきより少しだけ嬉しそうに見えた。
絶対に何かある。
けれどジェイコブには、自分が何をしたのかさっぱり分からなかった。
「それでティニー、この人たちは?」
「ああ、そうだったわね」
ティナはまずニュートを示した。
「こっちはニュート・スキャマンダーさん。イギリスから来た魔法動物学者よ」
「どうも」
ニュートが小さく会釈する。
「それで、こっちがジェイコブ・コワルスキーさん」
自分の番だと思い、ジェイコブも頭を下げた。
「や、やあ」
「ジェイコブ……」
クイニーが名前を口の中で転がすように繰り返し、微笑んだ。
「素敵な名前」
「……ありがとう」
「それで、彼はノー・マジ」
ジェイコブは自分の顔が真っ赤になっているだろうことを想像して押し黙る。
するとティナの言葉にクイニーの表情が止まった。
「ノー・マジ?」
視線がジェイコブからティナへ移る。
「ティニー。あなた、ノー・マジをここへ連れてきたの?」
「分かってるわ」
「分かってるって……どういうつもり?」
先ほどまで姉をからかっていた声から、わずかに浮ついた調子が消えていた。
ジェイコブには意味が分からないが、少なくとも良いことではないと察することはできた。
「ちょっと待ってくれ。その……ノー・マジって何だ?」
「君のこと」
ニュートが答えた。
「俺?」
「魔法を使えない人間のことよ」
ティナが補足する。
「……あぁノーマジックってことか」
ジェイコブは頷いた。今日だけで覚えなければならない言葉が多すぎる。
その隣で、ニュートが小さく首を傾げた。
「ノー・マジ?」
「さっきも教えたでしょ、アメリカではそう呼ぶの」
「ああ…僕らはマグルって呼ぶ」
「マグル?」
今度はジェイコブが聞き返した。
「君のこと」
「俺、今日だけで呼び名増えすぎじゃないか?」
クイニーがくすりと笑った。
ティナはそれどころではないらしい。
「事情があるの。彼は魔法動物に噛まれてるし、それに――」
「噛まれた?」
クイニーの視線がすぐにジェイコブへ戻り、その目が首元を捉える。
「まあ、本当。痛そう」
「いや、大したこと――」
「痛いのね」
ジェイコブは口を閉じた。
まただ。
クイニーがくすくすと笑う。
「クイニー」
ティナの声音が低くなった。
「何?」
「勝手に読まないの」
「読んでないわよ。聞こえてくるんだもの」
「同じことでしょう」
「違うわ」
「人の頭の中に勝手に返事をしない」
「だって、返事をしないのも失礼でしょう?」
「普通は口に出したことに返事をするのよ」
ジェイコブは二人を交互に見た。
嫌な予感がした。それも、とびきり嫌な予感だ。
「……ちょっと待ってくれ。聞こえるって、何が?」
ティナが一瞬言葉に詰まり、やがて諦めたように息を吐いた。
「クイニーはレジリメンターなの」
「れじ……?」
「人の心が読めるのよ」
ジェイコブはゆっくりとクイニーを見た。
クイニーがにっこり笑う。
「こんばんは」
「もう挨拶しただろ」
「今度は頭の中に」
その瞬間、ジェイコブの脳裏に、ついさっきまで必死に唱えていた言葉が蘇った。
見るな。俺は紳士だ。綺麗だ。いや見るな。美しい。俺は紳士――。
クイニーの口元が、ぴくりと動く。
ジェイコブの顔から血の気が引いた。
「……まさか」
とうとう堪えきれなくなったように、クイニーが笑った。
「あなた、とっても紳士よ。ジェイコブ」
「やめてくれ!」
終わった。
ジェイコブは顔を覆った。
「クイニー!」
「だって可愛いんだもの」
「やめなさいって言ってるでしょう!」
ティナが妹を叱るが、クイニーは楽しそうだった。
ジェイコブは慌てて何も考えないようにする。
何も考えるな。無だ。無になれ。
クイニーは綺麗だとか、笑った顔も可愛いとか、名前までいいとか、そういうことは絶対――。
「ありがとう」
「頼むから拾わないでくれ!」
また笑われた。
ティナが額を押さえる。
「クイニー。本当にその辺にして」
「はあい」
ようやく素直な返事が返ってきた。もっとも、その表情を見る限り、反省しているようには見えない。クイニーが少し屈んで、ジェイコブの顔を覗き込む。
「でも、本当に大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「無理して格好つけなくても素敵よ、ジェイコブ」
近い。
非常に近い。
反射的に背筋を伸ばそうとして、先ほど身体が傾いたことを思い出し、やめた。その判断まで聞こえたらしい。クイニーの口元がまた緩む。
駄目だ。
この人には勝てない。
会ってまだ数分なのに、ジェイコブは早くもそう悟り始めていた。
◇
その後、今日はまだパン一個しか食べていないことをクイニーに知られたことでジェイコブとニュートは急遽、夕飯の席にお呼ばれすることとなった。
紳士たるもの食事の席ではナプキンを忘れてはならない。そんなことをフワフワと考えながら、ジェイコブはティナに勧められるがままに食事の席へと着く。
ティナはというとジェイコブを椅子へ座らせると、クイニーに簡単な事情を説明し始めた。
その隙に、ニュートが革鞄を持ち直した。誰にも気づかれないように――少なくとも本人はそう思っているらしい――静かに扉へ向かう。
「スキャマンダーさん」
ぴたり、とニュートの足が止まった。
「あなたはパイ? それともシュトゥルーデル?」
ニュートがゆっくり振り返る。
「……え?」
「どっちがいい?」
「いや、その……」
ニュートの目がわずかに泳いだ。
何も言っていないのに、逃げようとしていたことまで知られている。ようやく先ほどのジェイコブと同じ目に遭ったらしい。
「僕は……ど、どちらでも」
「そう?」
クイニーはイラズラがお気に召したのか楽しそうに笑った。
そのやり取りを、ジェイコブは少し離れたところからぼんやり眺めていた。
正確には、クイニーを眺めていた。
パイ。
シュトゥルーデル。
どちらも悪くない。
でも――シュトゥルーデルがいいなあ。
「あなたはシュトゥルーデルね?」
「……うん」
ジェイコブはクイニーを眺めたまま、素直に頷いた。
数秒遅れて気づく。
「…………」
クイニーの口元が上がっている。
「また読んだ?」
「だって、とってもはっきり聞こえたんだもの」
「俺、何も言ってないだろ」
「だから聞こえたのよ」
「やっぱりやりづらいな、それ……」
「私は楽しいわ」
また笑う。
そのたびにジェイコブの調子が狂う。
何も考えなければいい。
無だ。
無になれ。
クイニーは綺麗だとか、笑うともっと綺麗だとか――。
「ふふっ」
「……頼むから笑わないでくれ」
「ごめんなさい」
全然悪いと思っていない顔だった。
クイニーは軽やかな足取りで台所へ向かうと、杖を取り出した。
ジェイコブは何となくその姿を目で追う。
そして、次の瞬間。 別の意味で目が離せなくなった。
杖が軽く振られる。
棚がひとりでに開き、食材や調理器具が次々と飛び出してきた。小麦粉の袋がふわりと浮かび、必要な分だけが器へ落ちる。卵が宙へ舞い、誰も触れていないのに殻が割れた。ボウルの中では材料が混ざり始め、その傍らではリンゴが浮かび上がる。
するすると皮が剥ける。
続いて刃物が動き、薄く、均一な厚さに切り分けていく。
ジェイコブの目が変わった。
「……ちょっと待って」
「なあに?」
クイニーが振り返る。
「今の、どうやった?」
「今の?」
「リンゴ!」
思わず声が大きくなった。
「全部同じ厚さだ」
「そうね」
「そうねって……!」
ジェイコブは立ち上がりかけ、首の後ろに走った痛みに顔をしかめた。それでも目は調理台から離れない。
「毎回同じ厚さにできるのか?」
「できるわよ」
「何個でも?」
「たぶん」
「百個でも?」
クイニーが目を瞬く。
「そんなにリンゴがあるなら」
「すごいな……」
ジェイコブは呆然と呟いた。
今度はボウルを見る。
「混ぜる速さは?」
「速さ?」
「変えられる?」
「ええ、もちろん」
「一定にできる?」
「できるわ」
「途中から速くしたり?」
「それもできるけど……」
クイニーの顔に、少しずつ戸惑いが浮かび始める。
ジェイコブは気づかない。
「じゃあ時間は? 例えば五分だけ混ぜて止めるとか」
「できると思うわ」
「温度は?」
「ジェイコブ?」
「温度だよ。生地の温度を一定に――」
そこでようやく我に返った。
クイニーがこちらを見ている。
「…………」
先ほどまでの勢いが、急速に萎んだ。
「あー……ごめん」
「どうして謝るの?」
「いや……急に喋りすぎた」
クイニーは少し不思議そうにしたあと、柔らかく笑った。
「パンのこと?」
「……うん」
「やっぱり」
「読んだ?」
「読まなくても分かるわ」
ジェイコブは照れくさそうに頭を掻いた。
「パン作るのが好きなのね」
「好きっていうか……」
そこで一度、言葉を探す。
「パン屋になりたいんだ」
それを口にするときだけは、不思議と言葉に詰まらなかった。
「自分の店を持ちたい。今日も、その金を借りるために銀行へ行ったんだ」
「そうだったの」
「ああ。まあ、駄目だったけど」
クイニーの表情が少しだけ曇る。
ジェイコブはすぐに手を振った。
「いや、いいんだ。まだ諦めたわけじゃないから」
その言葉に嘘がないことは、クイニーには確かめるまでもなかった。
ジェイコブの視線が、また宙を舞う材料へ向かう。
「でも、すごいな……魔法って。こんなことができるなら、毎回同じ条件を作れる。混ぜ方も、温度も、時間も……発酵だって――」
「発酵?」
「ああ。パンは生き物みたいなもんだからな。こっちの都合だけじゃ膨らんでくれないんだ」
その言葉に、別の場所から視線が飛んできた。
「生き物?」
ニュートだった。
いつの間にか部屋を出ることを諦めたらしく、革鞄を傍らに置いている。
「……そこに食いつくのか?」
「今、生き物って言ったよね」
「みたいなもんって言ったんだよ」
「どういう意味?」
「いや、それは――」
「ジェイコブ」
クイニーが呼んだ。
「何?」
振り返る。
目が合った途端、ジェイコブの勢いがまた少し落ちる。
クイニーが楽しそうに笑った。
「シュトゥルーデル、できたわよ」
「……ワォ」
皿がふわりと宙へ浮かび、目の前まで運ばれてくる。
焼き上がったばかりの甘い香りが鼻をくすぐった。
ジェイコブはそれを見る。
クイニーを見る。
またシュトゥルーデルを見る。
「食べていい?」
「もちろん。そのために作ったんだもの」
一口。
ジェイコブは黙った。
もう一口。
クイニーがじっとこちらを見ている。
「どう?」
「……美味い」
今度はちゃんと口に出した。
「本当?」
「ああ。すごく美味い」
クイニーの顔がぱっと明るくなる。その反応を見て、ジェイコブも自然と笑った。
「読めば分かるんじゃないのか?」
「分かるわよ」
「じゃあ、聞かなくてもいいだろ?」
「口で言ってもらうのは別だもの」
それはずるい。
そう思った瞬間、クイニーの頬にほんのり赤みが差した。
ジェイコブは固まる。
「……それも聞こえた?」
「ええ」
「本当にやりづらいなあ」
「私は楽しいわ」
クイニーはそう言って笑った。
ジェイコブはもう一口シュトゥルーデルを頬張り、誤魔化すように皿へ視線を落とした。
美味い。
悔しいくらい美味い。
それなのに頭の片隅では、すでに別のことを考えていた。
同じ厚さに切れる。同じ速度で混ぜられる。温度も調整できる。
だったらパンならどうなる。
発酵は。窯は。大量に作るなら――。
「ジェイコブ」
「……何?」
「またパンのこと考えてるでしょう?」
クイニーが笑った。
「あなた本当に好きなのね」
ジェイコブは少しだけ照れくさそうに鼻を擦った。
「ああ」
それだけは、心を読まれるまでもなかった。