第1話:エクセルシオール
フロリダ州、ケープカナベラル宇宙軍基地。
夜明け前の湿った空気を切り裂くように、無数のサーチライトが漆黒の空を照らし出していた。光の交差する中心にそびえ立つのは、人類の次世代を担うとされる最新鋭の宇宙探査船『エクセルシオール』だ。
銀色に輝くその巨体は、眠れる巨獣のように静かに発射の時を待っていた。
発射台から少し離れた管制センターの奥、関係者以外立ち入り禁止のメインラボでは、一人の男がモニターの群れに顔を近づけ、高速で流れるデータ列を食い入るように見つめていた。
リード・リチャーズ。
若くして複数の博士号を持つ天才物理学者であり、このエクセルシオール計画のチーフ・エンジニアである。彼は無精髭を撫でながら、手元のキーボードを叩いてはため息をついた。
「何度シミュレーションを回しても、この数値のブレが気に入らない」
リードの呟きに応えるように、背後の暗がりから重々しい足音が響いた。
「当然だ。そのブレを生み出しているのは、君がスタークの言いなりになって導入した『あの部品』だからな」
振り返らなくとも、その声の主が誰かはわかっていた。リードの大学時代からの親友であり、このプロジェクトの共同設計者でもあるヴィクター・フォン・ドゥームだ。
彼は仕立てのいいダークスーツを着こなし、傲慢さすら感じさせる自信に満ちた笑みを浮かべていた。
「ヴィクター、トニー・スタークの技術支援がなければ、この船は形にすらならなかった。スターク・インダストリーズのメインフレームは完璧だよ」
「メインフレームはな。だが問題は、コスト削減とやらでスタークが下請けに回したオズコープ社の制御チップだ」
ヴィクターはモニターの一つを忌々しそうに指差した。
「俺が構築した対宇宙線用の高エネルギー・シールド展開プログラムは、ミリ秒の遅れも許されない。オズボーンの会社の三流チップでは、俺の完璧なコードを処理しきれずボトルネックを起こす可能性がある」
「オズコープのノーマン・オズボーン社長は、最近軍事産業で急成長している。彼の提供した部品は規定のテストをすべてクリアしているよ。それに、万が一遅延が生じても、僕の設計した冗長化システムがカバーする」
「君のその楽観主義には反吐が出るよ、リード。俺の頭脳が弾き出した計算式に、他人の妥協を混ぜ込まれるのは我慢ならない」
ヴィクターは舌打ちをした。
彼は東欧の小国ラトベリアの出身で、貧しい境遇から自らの圧倒的な知力だけを武器に這い上がってきた男だ。他者を下に見る傾向があるが、リードだけはその才能を対等なものとして認め、友人として接していた。
「心配ないさ、ヴィクター。宇宙空間に出れば、僕たちが人類で初めて『生の宇宙線』の嵐を観測することになる。君のシールド技術と僕の観測システムで、エネルギー革命の歴史を作るんだ」
リードが微笑みかけると、ヴィクターはふんと鼻を鳴らした。
「歴史を作るのは俺だ。君は助手として、隣で見ていればいい」
打ち上げの二時間前。
クルー専用のロッカールームは、独特の緊張感と、それを紛らわせるための喧噪に包まれていた。
「おいおい、本当にあの空き缶に乗るのかよ? 俺の親父が乗ってたポンコツのピックアップトラックの方が、まだマシな音がしてたぜ」
分厚いフライトスーツに身を包みながらぼやいているのは、ベン・グリムだ。
リードとは大学のルームメイト時代からの付き合いであり、元空軍のエースパイロットだ。屈強な体格と岩のように厳つい顔立ちをしているが、心根は誰よりも優しく義理堅い。
「文句を言うなよ、ベン。君の操縦技術がなければ、このプロジェクトは実現しなかった」
「お前のその『天才のひらめき』に付き合わされて、何度命を落としかけたか覚えてるか?まあいい、乗り掛かった船だ。地獄の底まで操縦してやるよ」
「地獄じゃなくて、星の海だろ!最高にクールなドライブになりそうだぜ!」
ベンを茶化すように割り込んできたのは、最年少クルーのジョニー・ストームだ。
金髪を遊ばせ、常に自信過剰な笑みを浮かべる彼は、天性のメカニックであり今回のサブパイロットを務める。スポーツカーとスリルをこよなく愛する彼にとって、この宇宙飛行は究極のエクストリーム・スポーツのようなものだった。
「調子に乗るなよ、火の玉小僧。宇宙空間で俺の邪魔をしたら、そのヘルメットに穴を開けてやるからな」
「おっと、怖い怖い。おじいちゃんの反射神経じゃ、最新のデジタル計器にはついてこれないんじゃないの?」
二人がいつものように口論を始めたとき、部屋のドアが開き、凛とした声が響いた。
「二人とも、そこまでにして。世界中が私たちの打ち上げに注目しているのよ。少しはプロらしく振る舞ってちょうだい」
スーザン・ストーム――ジョニーの姉であり、リードの恋人であり、遺伝子学のトップリサーチャーでもある彼女が、完璧に着こなしたフライトスーツ姿で現れた。
彼女の登場により、部屋の空気は一気に引き締まった。
「ごめんよ、姉貴。ベンがいじめるからさ」
ジョニーが肩をすくめる。
「リード、準備はいい?」
スーザンはリードの元へ歩み寄り、その手を優しく握った。
「ああ。君がいてくれるから、僕は何も怖くない」
「私もよ」
見つめ合う二人を、部屋の隅でスーツの最終チェックをしていたヴィクターが冷ややかな目で見つめていた。
ヴィクターもまた、密かにスーザンに対して並々ならぬ感情を抱いていたが、彼の高すぎるプライドがそれを表に出すことを許さなかった。
「イチャつくのは地球に帰ってからにしてくれ。時間が惜しい。さっさと船に乗り込むぞ」
五人のクルーはエクセルシオールのコックピットに固定されていた。
シートベルトが身体を締め付け、ヘルメット越しの通信からは管制室の慌ただしい声が絶え間なく聞こえてくる。
『こちらヒューストン管制。メインエンジン、点火準備完了。スターク・インダストリーズ製推進システムの出力、オールグリーン』
「こちらエクセルシオール、リード・リチャーズ。システムはすべて正常。いつでもいける」
『了解。カウントダウンを開始する。……10、9、8……』
ベンの太い指が操縦桿を強く握りしめる。ジョニーは興奮を隠しきれない様子で計器を睨みつけ、スーザンは目を閉じて深呼吸をした。
ヴィクターはただ無表情に、正面のメインモニターを見つめていた。
『……3、2、1。メインエンジン点火!リフトオフ!』
凄まじい轟音とともに、エクセルシオールは重力の鎖を引きちぎった。
かつて経験したことのないすさまじいGが五人の身体をシートに押し付ける。内臓がひしゃげるような圧迫感の中、窓の外の景色が猛スピードで青から紺へ、そして漆黒へと変わっていく。
機体の振動が歯の根を揺らしたが、ベンは見事な操縦で船体を安定軌道へと導いた。
「……メインブースター切り離し。軌道投入に成功した」
ベンの声とともに、船内を包んでいた暴力的な振動が嘘のように消え去った。 訪れたのは、絶対的な静寂と、無重力空間の浮遊感。
窓の外には、息を呑むほど美しい、青く輝く地球の姿があった。
「すごい……なんて美しいの」
スーザンが感嘆の声を漏らす。
「最高だぜ!これならいくらでもドライブできる!」
ジョニーが歓声を上げた。
しかし、リードとヴィクターの二人に余韻に浸る時間はなかった。
「景色を楽しむのは後だ。ただちに観測システムを起動する。予定時刻まであと二十分。太陽フレアの影響による高エネルギー宇宙線の嵐(コズミック・ストーム)がこの宙域を通過する」
リードの指示で、ヴィクターがコンソールを操作する。
「対宇宙線シールド、スタンバイ。エネルギー出力、規定値で安定している」
計画は順調だった。彼らは安全なシールドの内側から、宇宙空間を飛び交う未知の放射線データを採取し、地球へ持ち帰るはずだった。
だが、宇宙は彼らの計算を嘲笑うかのように、予期せぬ牙を剥いた。
ピピッ、ピピピッ!
突如として、コックピット内にけたたましい警報音が鳴り響いた。メインモニターが真っ赤なアラート表示に切り替わる。
「何だ!? 何が起きてる!」
ベンが叫んだ。
「レーダーに巨大な熱源反応!あり得ない、観測予定のコズミック・ストームじゃない! 未知の宇宙線の雲が、信じられない速度でこちらに接近している!」
リードがコンソールを叩きながら叫ぶ。想定していたレベルを遥かに超える、規格外のエネルギー波がエクセルシオールに迫っていた。
「ヴィクター!シールドを最大出力で展開しろ!」
「言われずともやっている!」
ヴィクターの手がキーボードを乱舞する。
「……くそっ!シールドが展開しない!」
「なんだと!?」
「言っただろう! オズコープのクソ忌々しいチップが過負荷で焼き切れたんだ!システムが命令をバイパスしようとしているが、間に合わない!」
ヴィクターの額に焦りの汗が浮かぶ。彼の完璧な頭脳をもってしても、物理的なハードウェアの破損はどうすることもできなかった。
「ベン、回避マニューバだ!軌道から離脱しろ!」
「やってる!だが推進器の反応が鈍い。スタークのメインフレームも高エネルギーの干渉でエラーを吐いてやがる!」
ベンの怒号が響く。
「リード、船体の外壁温度が急上昇しているわ!このままじゃ機体が持たない!」
スーザンが青ざめた顔で報告する。
「手動で隔壁を閉鎖しろ!ジョニー、補助ブースターを無理やり点火させろ!少しでも軌道をずらすんだ!」
全員が必死で足掻いた。しかし、巨大な宇宙の津波の前では、人類の最新技術など木の葉のようなものだった。
直後、すべてを飲み込むような強烈な閃光が船内を包み込んだ。
「あああああああっ!!」
未知の高エネルギー宇宙線が、エクセルシオールの装甲を透過し、五人の細胞レベルにまで直接突き刺さった。
視界が真っ白に染まる中、リードは自分の身体がゴムのように際限なく引き伸ばされ、千切れていくような感覚に襲われた。あまりの激痛と異常な感覚に、意識が遠のきそうになる。
「いやっ……なにこれ……!」
すぐ隣のシートでは、スーザンが絶対的な恐怖に顔を歪めていた。彼女の肉体は輪郭を失い、次第に透明に透けて、空間そのものに溶け出していくように見えた。
「熱い、熱いっ!!」
ジョニーの絶叫が響き渡る。彼の毛穴という毛穴から灼熱の炎が噴き出し、コックピット内の温度が異常なスピードで跳ね上がっていく。防護服が焦げ、彼自身が小さな太陽のように燃え盛っていた。
さらに背後からは、分厚い岩盤が砕けるような異音が鳴り響いた。
「ぐおおおおおっ……!」
ベンだ。彼の皮膚の下で筋肉と骨が急激に硬化し、オレンジ色の岩のような物質へと変質していく。凄まじい質量を持った自らの身体が、彼自身をシートごと押し潰そうとしていた。
そして、ヴィクター。 彼は一人、コンソールにしがみつき、最後までシールドの再起動を試みていた。
「俺の……俺の計算が……こんな三流の部品のせいで……!」
ヴィクターがオズコープ製のインターフェース・パネルを強引に引き剥がした瞬間だった。限界を超えた計器の内部でプラズマが暴走し、大爆発を起こした。
「ヴィクター!!」
リードの絶叫が響く。
爆炎と超高圧の火花が、ヴィクターの顔面を直撃した。彼のヘルメットのバイザーが粉々に砕け散り、肉が焼ける生々しい音が響く。
ヴィクターの悲痛な叫び声は、直後に起きた二次爆発の轟音にかき消された。
船の後方モジュールを接続していたジョイントが、宇宙線のエネルギー負荷に耐えきれず完全に破断したのだ。
ガガガガァンッ!!
凄まじい衝撃とともに、ヴィクターがいた後方のシステムモジュールが、メインのコックピットから切り離された。
「ヴィクター!ヴィクタァァァッ!!」
リードはシートベルトを引きちぎらんばかりに身を乗り出したが、厚い防弾ガラスの向こう側で、制御を失ったモジュールが漆黒の宇宙空間へと弾き飛ばされていく。
あっという間に遠ざかり、闇の中に消えていく親友の姿を、ただ見送ることしかできなかった。
「リード!船が……コントロールが効かない!落ちるぞ!!」
ベンの悲痛な叫びが、リードを絶望的な現実へと引き戻した。
宇宙線の直撃を受け、全ての動力を失ったエクセルシオールのメインモジュールは、無慈悲な地球の重力に捕らわれていた。
窓の外の景色が激しく回転し、漆黒から再び青へ、そして大気圏突入の摩擦による真っ赤な業火へと変わっていく。
計器類は完全に沈黙し、船内には死を待つばかりの不気味な静けさと、ごうごうと燃え盛るプラズマの轟音だけが響き渡る。
「スーザン……ジョニー……ベン……」
激しいGと、細胞が書き換えられるような耐え難い苦痛の中、リードの視界は急速に暗く狭まっていった。
(ヴィクター……すまない……僕が……間違って……)
燃え盛る鉄の棺桶と化したエクセルシオールは、巨大な火球となって地球へと真っ逆さまに墜落していく。 天才科学者の野心も、親友の命も、すべてを奪い去りながら。
リード・リチャーズの意識は、底知れぬ暗闇の底へと完全に落ちていった。