セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
川の流れは、ひどく穏やかだった。
春先の陽光を細かく砕きながら流れていく水面には、岸辺の草と空の色とがゆるやかに映り込み、ときおり小さな魚らしい影が銀色の光を引いて横切っていく。その眺めをしばらく立ったまま見ていたセラリス・オブ・カラーリーは、やがて何を思ったのか岸辺へしゃがみ込み、身を乗り出すようにして水面を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、どう見ても若いエルフの娘の顔だった。
頬の線は細く、顎も華奢で、耳は人間のものよりはるかに長く尖っている。背でひとつにまとめた髪は、カラーリー族のエルフとしては珍しいほど深い黒で、額へこぼれた一房を指先でつまみ上げてみれば、日の光を吸い込むような艶があった。
そして瞳は、淡い金色をしていた。
「……カラーリー・エルフで、黒髪に金の目というのは、ずいぶん珍しいな」
そう呟きながら、自分の前髪をつまんだまま水面の顔を眺める。
転生前の自分には、もう白髪がかなり混じり始めていた。
風呂上がりや朝の洗面所で鏡を見るたび、頭の横あたりに増えていく白いものを見つけては、ああ、俺も本当に歳を取ったものだな、と妙に感慨深く思ったものである。若い頃には四十代も五十代もひどく遠い未来のことに思えていたし、まして自分が老眼を気にしたり、腰痛のために椅子から立ち上がるとき一拍置いたりするようになるなど、想像したこともなかった。
ところが、いま水面に映っている自分は、どう見ても十代後半あたりにしか見えない。
「まあ……悪くないな」
セラリスは立ち上がった。
その動作だけでも違いがわかる。
身体が軽い。
膝に引っかかるような感覚がなく、腰も痛まない。肩を回してみても凝りというものがまるでなく、遠くの木々の葉までくっきり見えるほど視界も澄んでいる。それだけでも十分に感動的だったが、何よりありがたいのは、かつてなら夜更かしの翌朝になるたび頭蓋骨の内側に詰め物でもされたように感じていた、あの鈍い重さがどこにもないことだった。
「若いっていうのは、こんなに素晴らしいことだったんだな……」
しみじみとそう呟いたあとで、セラリスはすぐに表情を引き締めた。
「いや、だからといって徹夜はしないぞ。今度こそ本当にやらない」
それだけは自分へ言い聞かせておく必要があった。
なにしろ一度、それで死んでいるのである。
二度目の人生まで同じような不摂生を繰り返し、また脳梗塞でも起こした日には、あの神様にどんな顔をされるかわかったものではない。おそらく呆れるどころか、もう助けてくれないような気さえした。
気を取り直し、セラリスは自分の状態を頭の中でもう一度確認した。
エルフ十レベル。
アタックランクG。
さらに転生時に与えられた、数々の強力な魔法装備。
この世界の普通の冒険者から見れば、ほとんど英雄と呼ばれても不思議ではないだけの戦闘力が、すでに自分にはある。
だが、それを理由に安心してしまうほど、彼女は楽観的ではなかった。
「能力も装備もかなり強力だけど、それでも、上には上がいる程度なんだよな」
むしろ、そこを間違えてはいけない。
人間の高レベル魔法使いもいる。
高位のクレリックもいる。
ドラゴンがいる。
人間より古く、強く、そして人間の常識など通用しない怪物もいる。
アーティファクトを持つ者がいて、国家そのものを敵に回しかねない存在もいて、そして何より、この世界には本当にイモータルが存在する。
自分は強い。
しかし、それは「かなり生き残りやすい」というだけのことであって、「誰にも負けない」という意味ではない。
そのくらいが、セラリスにはちょうどよかった。
「最初から何と戦っても絶対勝てるゲームなんて、面白くないからな」
呟きながら、彼女は街道へ戻った。
目的地はスレスホールドである。
この世界をゲームとして知っていた者なら、その名を聞くだけである種の安心感を覚える町だった。
冒険者の町。
若者たちが集まり、酒場で仲間を探し、誰かが耳にした噂話を頼りに近隣の洞窟や廃墟を目指し、そこで財宝を見つけたり、怪物と戦ったり、ときには何も得られないまま泥だらけになって帰ってくる。そして、ごくたまに、帰ってこない。
「……最後の部分だけは、本当に避けたいな」
だからこそ、自分は転生特典をこれほど生存性に偏らせたのである。
勝てなければ逃げる。
怪しければ調べる。
不明なものには触らない。
そして帰還手段を必ず残しておく。
冒険者としては地味な方針かもしれないが、それでよかった。
街道を歩きながら、セラリスはこれからのことを考え始めた。
「シャイリング・セレモニーで冒険者を選んだ若者たちと組むのも、ありかな」
成人の儀式を終え、これから自分の道を選ぼうとしている者たちなら、まだ十分な経験もないだろう。
腕が未熟なのは問題ではない。
むしろ、セラリスにとってはその方がよかった。
「育てればいいんだよな」
自分なら前衛もできるし、魔法も使える。多少の探索なら自分でこなせるし、危険を察知する装備もある。
ならば、新米冒険者を何人か連れて、実地で経験を積ませる余裕くらいはあるはずだった。
思えば転生前、TRPGを遊んでいた頃も、初心者を卓へ連れていくことは嫌いではなかった。
最初はルールすらよくわからず、どのダイスを振るのかさえ迷っていた人間が、何回か遊ぶうちに状況を読むようになり、自分なりの判断をし始める。その過程を眺めるのは、熟練者同士だけで最適解を出し合う卓とはまた違った楽しさがあった。
「三人くらいがいいかな。戦士、クレリック、それからシーフ……」
そこまで考えて、セラリスは首を振った。
「いや、クラスだけで選んだら駄目だな。まず性格を見よう」
こちらの方が大事だった。
それもまた、長年の経験で身についた判断である。
能力値の高い戦士よりも、勝手に宝箱を開けない者の方が信用できる。
優秀なシーフよりも、一人で先行しない者の方が生存率は高い。
強力な魔法を持つ魔法使いよりも、「俺ならいける」と言って単独突撃しない者の方が、長い目で見ればはるかに価値がある。
「強さは後から育つけど、慎重さっていうのは……なかなか育たないんだよな」
その言葉には、妙に重い実感がこもっていた。
何人ものキャラクターが、能力不足ではなく判断ミスで死ぬところを見てきたからである。
もっとも、今すぐ仲間を見つけなければならないわけでもない。
セラリスは背負っている荷物を少し持ち直し、その中身を頭の中で確認した。
「金がなくなったとしても、リュートがあるし」
演奏技能。
歌唱技能。
それもまた、転生時に取っておいたものだった。
戦闘には何の役にも立たないが、だからといって無駄ではない。
酒場の片隅でリュートを弾き、何曲か歌えば、食事代と一泊分くらいの金は稼げるかもしれない。野宿するための道具は揃っているが、だからといって毎晩好き好んで野宿する必要もない。
「冒険者だからって、四六時中ダンジョンへ潜っていなきゃいけないわけじゃないしな」
一週間くらい町で過ごしたっていい。
その間に地元の噂を聞き、周辺の地図を集め、信用できる道具屋を探す。
寺院の場所も確認する。
医者がいるなら、その評判も調べておく。
衛兵隊長がどんな人物なのかを知っておくのも悪くない。
そして何より、死者蘇生が可能な高位クレリックが、どこにいるのかを調べておく。
そこでセラリスの顔が急に真剣になった。
「これは重要だ」
自分で生存率を高めることと、死んでしまったあとの保険を用意しておくことは、まったく別の問題である。
蘇生が可能な世界なら、蘇生を前提に危険へ突っ込む必要はないが、利用できる保険として把握しておかない理由もなかった。
そんなふうに、この先必要になりそうな情報を頭の中で並べながら歩いていたとき、不意に、まったく別の名前が浮かんだ。
バーグル。
その瞬間、セラリスの足が止まった。
「……そういえば」
彼女はしばらく街道の真ん中で黙っていた。
やがて眉を寄せ、記憶をひとつずつ探るようにして考え始める。
「バーグルって、十四歳くらいで見習い魔法使いを殺して……それから、ほとんど独学みたいな状態で経験を積んで、最終的には十五レベルの魔法使いにまでなっていなかったか?」
口に出してみると、妙に引っかかる。
ゲームとして遊んでいたときには、悪役だからそういうものだと深く考えもしなかった。
しかし、いざこの世界が現実になり、レベルというものが実際の修練と経験の積み重ねなのだと考えると、どうにも妙だった。
自分の場合は説明がつく。
神様から与えられた転生特典によって、最初からエルフ十レベルの能力を持っているのだから、普通ではない成長過程を経ていても不思議ではない。
だが、バーグルはどうなのだろう。
少年時代から急激に力をつけ、その後も各地で悪事を働きながら妙にしぶとく生き延び、何度危険な状況へ追い込まれても逃げ続け、最終的には高レベル魔法使いへ到達する。
「……経験値の増え方、おかしくないか?」
セラリスの金色の目が、すっと細くなった。
そこまで考えたところで、あり得ないはずの考えが、妙に自然な形で頭へ浮かんでしまった。
「まさか……」
反射的に周囲を見回す。
街道には誰もいない。
それでもセラリスは、なぜか声を落とした。
「バーグル、実は転生者だったりしないだろうな」
しばらく、自分で口にした言葉を吟味するような沈黙があった。
やがて彼女は首を振った。
「いやいやいや、そんなわけないだろ」
常識的に考えれば、そうである。
自分が転生したからといって、原作で目立っていた人物が片端から転生者であるはずがない。
しかし、その一方で、あの異常な成長速度と妙な生存力が頭から離れない。
「でも、あいつの成長速度を考えると……」
再び黙り込む。
考えても答えなど出るはずがない。
結局、セラリスは数十歩ほど無言で歩いたあと、たいへんあっさりした結論へ到達した。
「会ったら確認すればいいか」
もちろん、真正面から「お前、転生者か」と尋ねるつもりはなかった。
そんなことをすれば、相手が転生者だった場合にはこちらも同類だと明かすことになるし、違った場合には単純に頭のおかしなエルフだと思われるだけである。
「まずは、何か向こうの世界にしかない言葉へ反応するか試してみるかな」
そう考えて、最初に浮かんだ単語があった。
「日本……いや、これは露骨すぎるな」
もう少し自然なものを考える。
「徹夜セッション……」
そこでセラリスはまた足を止めた。
「もっと露骨じゃないか」
自分で言って、自分で笑った。
いくら何でも、悪名高い魔法使いに会って最初に「徹夜セッション」という言葉を投げかけるエルフなど、世界中を探してもそうはいないだろう。
そんなくだらないことを考えているうちに、街道の先にスレスホールドの町並みが見え始めていた。
周囲より少し高い場所に建物が集まり、道を行き交う人影も増えている。
セラリスは歩調を緩めず、肩に掛けたリュートの位置だけを少し直した。
「まあ、バーグルのことは後でいい」
まずは宿を取る。
その次に温かい食事を食べる。
それから町の様子を見て、冒険者がどこに集まっているのかを確かめ、新しい仲間になりそうな者がいるか探してみる。
イモータルへ至る道がどれほど長いのか、今の彼女にはまだわからない。
だが、少なくとも人間よりはるかに長い寿命を持つエルフとして生き直した以上、最初から焦る必要などなかった。
「時間をかけて行けばいい」
百年かかるなら百年かければいい。
二百年必要なら二百年歩けばいい。
大切なのは、途中で無理をして死なないことである。
そう考えてから、セラリスはふと思い出したように笑った。
「……まあ、バーグル転生者説については、そのうちちゃんと検証しよう」
そんなことを真剣に考えながら、セラリス・オブ・カラーリーはスレスホールドの入口へ向かった。
世界を救うためでもなければ、魔王を倒すためでもない。
偉大な王になるためでも、伝説に名を残すためでもなかった。
まず考えているのは、今夜どこへ泊まり、何を食べ、どこで情報を集め、そして誰となら一緒に冒険へ出ても無事に帰ってこられそうかという、ひどく地道なことばかりである。
しかし、その地道さこそが、長いあいだTRPGという遊びと付き合い続けてきた人間なりの知恵だった。
大きな冒険も、英雄譚も、イモータルへ至る試練も、まず今日の宿を確保し、生きて明日を迎えなければ始まらない。
だからこそ、セラリスの新しい人生における最初の目的は、驚くほどささやかなものだった。
安全な宿を見つけること。
信用できる仲間を探すこと。
そして、無事に次の冒険から帰ってくること。
イモータルを目指す長い旅の第一歩としては、あまりにも地味だったかもしれない。
けれどそれは、危険な迷宮で生き残るためには豪胆さより準備の方が大切だと知っている、古参TRPGプレイヤーらしい、じつに彼女らしい始まりでもあった。