セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
ミスタメア城から戻って、まだそれほど日も経っていないころだった。
スレスホールドのゴールド・ドラゴン亭は、その日も夕方になると、旅人と商人、それに町でひと仕事終えた者たちでにぎわっていた。炙った肉と煮込み料理の匂いが店いっぱいに漂い、酒杯のぶつかる音や、誰かの大声での笑いが絶え間なく聞こえている。
セラリスは店の隅の席で夕食をとっていた。
向かいにはミハイルが座り、その横にはヴァレリアとダリヤがいる。三人とも、ミスタメア城での冒険を終えてから多少は装備の扱いにも慣れてきていたが、それでもまだ冒険者としては駆け出しもいいところだった。
セラリス自身も、それをよくわかっていた。
だからこそ、彼女は食事の合間にも、何とはなしに店の中を眺めていた。
その視線が、壁際に立つ三人の若者で止まった。
一人は、まだ髭もほとんど生えていない少年だった。腰には長剣を下げているが、吊り方を見るだけでも、武器を身につけて歩くことに慣れていないのがわかる。もう一人は革鎧を着た少女で、腰に短剣を差し、背には短弓を負っていた。最後の一人は僧侶らしく聖印を首から下げていたが、鎧は持たず、杖と大きな袋だけを持っている。
三人は仲間ではないらしかった。
互いに話しかけるでもなく、ただ同じ壁の掲示板を眺めている。
ゴールド・ドラゴン亭の掲示板には、旅人や町の者が持ち込んだ仕事が貼られていた。
ペンハリゴン方面へ向かう荷車の護衛。
森で増えた狼の駆除。
帰ってこない木こりの捜索。
あるいは、誰が書いたのかわからないような汚い字で、「丘に古い穴あり、宝ありそう、仲間求む」とだけ書かれた紙まである。
冒険者のために作られた掲示板というわけではなかった。
そもそも冒険者という正式な職業があるわけでもない。
危険な仕事を引き受け、それで金を稼いで暮らしている者を、なんとなく皆がそう呼んでいるだけだった。
セラリスは少しのあいだ三人を眺め、それからフォークを置いた。
「ねえ」
呼ばれて、ミハイルが顔を上げた。
「なんですか、先生」
「あの三人、知り合いじゃないみたいね」
ミハイルもそちらへ顔を向けた。
「そうみたいですね」
「でも三人とも仕事を探してる」
「でしょうね」
「たぶん、あのままだとそれぞれ別の仕事を受けるわ」
ミハイルは、なぜそんなことを気にするのだろうという顔をした。
セラリスはそのまま続けた。
「あの剣の子は、どこかで同じような剣士を見つけて組む。革鎧の子は、似たような若い子と遺跡にでも潜る。僧侶の子は商隊護衛か何かに雇われる」
「まあ、そうなるかもしれませんね」
「そして運が悪いと死ぬ」
ミハイルは返事を止めた。
ヴァレリアもセラリスを見た。
言い方そのものは淡々としていた。
脅かしているわけでも、悲観しているわけでもない。ただ、危険なことを何も知らない者が、危険な場所へ行けば死ぬことがある。それを事実として口にしただけだった。
「ミスタメアでも思ったけど」
セラリスは水をひと口飲んだ。
「若い冒険者って、本当に何も知らないまま危険な場所へ行くのね」
ミハイルが少し困ったように笑った。
「俺たちも、先生に会う前は似たようなもんだったと思いますけど」
「だから言ってるのよ」
セラリスは即答した。
「あなたたちを見て余計に思ったの」
「それ、褒めてませんよね」
「褒めてないわ」
ヴァレリアが小さく笑った。
ダリヤも口元だけで笑っている。
だがセラリス自身は、わりと真剣だった。
若い者は知らない。
松明一本が消えることの意味を知らない。鎧を着たまま長く歩く辛さを知らない。戦いの最中に仲間が倒れたとき、誰がその仲間を運ぶのかも考えていない。扉を見れば開けたくなるし、宝箱を見れば触りたくなる。追い詰めた怪物が逃げれば、勝った気になって追いかける。
そういう失敗は、経験者にとっては笑い話になる。
だが、その笑い話になるまで生き残れなかった者も、おそらく少なくない。
「ねえ、親父さん」
セラリスが声をかけると、カウンターの向こうで酒杯を拭いていた店主が顔を上げた。
「なんだい」
「ここに来る若い冒険者って、仲間を探すときどうしてるの」
「どうって、そりゃ、声をかけるさ。顔見知りなら一緒に行くし、知らない奴なら酒でも一杯おごって話をする。昔からそんなもんだ」
「相手が使えるかどうかは?」
「そりゃ、見りゃだいたいわかる」
「若い子にも?」
主人はそこで少し黙った。
そして、口の端を上げた。
「若い奴には、わからんな」
「でしょう」
セラリスは満足したようにうなずいた。
そのとき、壁際にいた剣の少年が、掲示板から紙を一枚はがそうとした。
「ちょっと待って」
少年が驚いて振り返った。
「え?」
「それ、狼退治でしょう」
「そうですけど」
「一人で行くの?」
「いや、その、向こうで誰か雇おうかと思って」
「誰を?」
「まだ決めてません」
「狼が何頭いるかは?」
「五、六頭くらいだって」
「誰が数えたの?」
少年の口が止まった。
「え?」
「五、六頭って、誰が見たの?」
「依頼にそう書いてあるから」
「その依頼を書いた人が、自分で数えたのかしら」
少年は紙を見た。
当然、そこにはそんなことは書いていない。
店主が横を向いて笑いをこらえている。
セラリスは次に、僧侶の若者へ目を向けた。
「あなた、治癒の心得はある?」
「あります」
「鎧は?」
「まだ買えなくて」
「じゃあ、戦うときは前へ出ないほうがいいわ」
それから革鎧の少女を見る。
「あなたは罠を調べられる?」
「少しなら」
「鍵は?」
「普通の鍵なら」
「弓は使える?」
少女は背中の短弓を示した。
「一応」
セラリスは三人を見比べた。
「じゃあ、三人で行けば?」
三人とも黙った。
互いの顔を見て、それからまたセラリスを見る。
革鎧の少女が首を傾げた。
「知り合いじゃないんだけど」
「だから今から知り合えばいいじゃない」
あまりに当然のことのように言われ、三人は返事に困った。
セラリスは椅子から立ち上がり、少年の手にしていた依頼の紙を受け取った。
「狼退治なら、三人でも絶対安全とは言えない。でも一人よりずっとましでしょう。剣の人が前。弓の人が少し後ろ。僧侶は無理に戦わず、誰かが怪我したときのために残る」
三人は黙って聞いている。
「それから、追いかけすぎないこと」
「追いかけない?」
少年が聞いた。
「狼が逃げたら森の奥まで追わない。逃げるなら逃がしていい。暗くなる前に帰ってくる。死体を見つけてもすぐ触らない。他の獣が近くにいるかもしれない。それと、報酬をどう分けるかは出発前に決める」
「今決めるんですか」
「帰ってきてから揉めるよりいいでしょう」
そこで少年がためらいながら尋ねた。
「あの、あなたは?」
「セラリス」
三人の顔が変わった。
名前だけは知っていたらしい。
「えっ、もしかして」
「それはいいから」
セラリスは依頼の紙を返した。
「まず三人で話してみなさい。合わなかったら別の相手を探せばいいし、話してみないと何も始まらないでしょう」
三人は少し迷ったあと、同じ卓へ移った。
ぎこちなく名乗り合い、やがて依頼の紙を机の中央へ置いて相談を始めた。
それを見届けたセラリスは席へ戻った。
ミハイルが尋ねた。
「先生、こういうこといつもやってるんですか」
「別に」
「じゃあ、なんで急に」
「今思いついたから」
ミハイルは、よくわからないという顔をした。
セラリスはそんな彼を見て、少し考えた。
「こういうことよ」
「何がです?」
「作りましょう」
「何を?」
「訓練所」
ミハイルは目を瞬いた。
「訓練所、ですか?」
「そう。若い冒険者向けの」
ヴァレリアもフォークを置いた。
「冒険者を訓練するんですか?」
「そんな大げさなものじゃないわ。剣術学校を作るつもりもないし、冒険者になる資格を出すつもりもない。ただ、死ななくてもいいことで死ぬ人を少し減らしたいだけ」
ダリヤが顔を上げた。
「罠とか?」
「それも。扉を開ける前に見ること。暗い場所での動き方。松明を何本持っていくか。仲間が倒れたとき、どう運ぶか。逃げるときにどうするか。食料と水をどれくらい持つか。そういうこと」
ミハイルは少し考え、それから言った。
「それ、俺たちが先生に教わってることですよね」
「そうよ」
セラリスはあっさりとうなずいた。
「あなたたちだけに教える理由もないでしょう」
「でも、誰が教えるんです?」
「最初は私でいいわ」
「先生が?」
「暇なときだけね。あとは経験者に手伝ってもらえばいい」
ミハイルたちはまだ、その言葉が後にどういう形になっていくのか知らなかった。
セラリス自身も知らなかった。
その夜の彼女にあったのは、ただ、少しでも若い冒険者が死ににくくなればいい、という程度の考えだった。
数日後、町の外れにある使われていない倉庫を一つ借りた。
その横の空き地に丸太を立て、低い柵を作り、縄を張った。
訓練所と呼ぶには、ずいぶん粗末な場所だった。
最初に来た若者は五人だった。
その中には、ゴールド・ドラゴン亭で狼退治の依頼を見ていた少年たちとは別の顔もあった。
剣を持った者が二人。
短槍を持った者が一人。
僧侶志望が一人。
そして、何となく冒険者になりたいというだけで来た少年が一人。
セラリスは彼らを並ばせて言った。
「最初に言っておくけど、剣の振り方は教えないわよ」
若者たちは少し拍子抜けした顔をした。
「剣術を習いたいなら、自分より剣の上手な人に習って。ここで教えるのは、生きて帰るために必要なことだけ」
その日の最初の訓練は、鎧を着て走ることだった。
若者たちは笑った。
その程度かと思ったらしい。
だが、町の外周を一周するころには、誰も笑っていなかった。
次には盾を持たせた。
さらに背負い袋を持たせた。
最後に、二人一組にして、一人が倒れたという想定で仲間を背負わせた。
「む、無理です!」
若者の一人が息を切らしながら言った。
「仲間が気絶したら置いて帰るの?」
「いや、それは」
「じゃあ運べるようになりなさい。持ち上げられないなら、二人で運ぶ方法を考える。毛布でもロープでも使えるでしょう」
ミハイルたちは、その訓練を横で見ていた。
最初のころ、自分たちも似たことをやらされたのを思い出しているらしい。
次の日には、倉庫の中を暗くした。
明かりは松明一本だけ。
ただ歩くだけなら簡単だった。
だが途中に扉を置き、曲がり角を作り、床には細い糸を張った。
扉を見つけて何も考えず開けた若者には、反対側に立っていたミハイルが木剣で肩を叩いた。
「痛っ!」
「今ので死んだと思って」
セラリスが言った。
「何でですか!」
「扉の向こうに何がいるか見ないで開けたでしょう」
「見えませんよ!」
「だから、見えないものがいると思って開けるの」
床の糸に気づかなかった者には、天井から藁袋が落ちた。
曲がり角から不用意に顔を出した者には、ダリヤが豆を投げた。
三日もすると、若者たちは扉を見ると立ち止まるようになった。
曲がり角では、いきなり顔を出さなくなった。
松明を持っている者が倒れたら、誰が次の明かりを出すかまで相談するようになった。
「それでいいの」
セラリスは満足そうに言った。
「臆病なくらいでちょうどいいわ。勇敢になるのは、生き残る方法を覚えてからでいい」
訓練所の噂は、すぐに町へ広がった。
一週間もすると、十二人が来るようになった。
毎日来る者もいれば、仕事のない日にだけ顔を出す者もいる。
セラリスも毎日教えたわけではなかった。
彼女がいない日はミハイルたちが手伝い、時にはゴールド・ドラゴン亭に泊まっている経験者が面白半分で顔を出して、縄の結び方や荷物のまとめ方を教えた。
店主も協力した。
掲示板の横に、新しい板を一枚つけたのである。
最初は白紙だった。
そこへ、店主が大きな字で書いた。
仲間を探す者は名前を書くこと。
それだけだった。
やがて、その横へ簡単なことが書き足された。
剣。
弓。
僧侶。
魔法。
鍵、罠。
護衛経験あり。
洞窟経験あり。
初めて。
細かい規則はなかった。
登録しなければ仕事を受けられないわけでもない。
誰かに許可をもらう必要もない。
ただ、仲間を探す者が名前を書き、同じように仲間を探している者がそれを見る。
それだけの仕組みだった。
ある日、若い剣士が二人、その板の前で話していた。
「僧侶が欲しいな」
「昨日まで名前があった奴、もう組んだらしいぞ」
「じゃあ、あっちの魔法使いに声かけてみるか」
「前衛二人に魔法使いか」
「盗賊技能持ちも欲しいな」
以前なら、剣士二人だけで出発していたかもしれない。
だが訓練所で、セラリスが何度も言っている。
一人で何でもできると思うな。
できないことを、できる仲間を連れていけ。
その考え方が少しずつ若者たちへ染み込んでいた。
「これは冒険者組合なのか?」
旅の商人が、ある日店主に尋ねた。
店主は酒を注ぎながら首を振った。
「そんな立派なものじゃない」
「では何だ?」
「知らんよ。若い奴らが仲間を探す板だ」
商人は店の隅を見た。
そこではセラリスが三人の若者を前にしていた。
「三人とも剣?」
「はい」
「僧侶は?」
「いません」
「罠を見る人は?」
「いません」
「明かりは?」
「松明を持っていきます」
「何本?」
三人が黙った。
「一人二本くらい?」
「何日潜るつもりなの?」
「一日です」
「本当に一日で出られる保証は?」
また三人が黙った。
旅の商人は笑った。
「なるほど。あのエルフが組合長か」
「本人にそういうと嫌がるぞ」
「なぜだ」
「組合なんて作った覚えはないって言うからさ」
店主も笑った。
実際、セラリスには組合を作ったつもりなどなかった。
冒険者を管理しようとも思っていない。
誰が冒険へ行くかは本人が決めればいいし、どんな仲間と組むかも本人たちの自由だった。
ただ、知らない者同士が話すきっかけを作り、少しだけ知識を教える。
危ない仕事なら、経験者と一緒に行けと言う。
それだけだった。
しばらくすると、経験者の側からも声をかける者が出てきた。
「お前ら、北の洞窟へ行くのか?」
「はい」
「俺もそっちに用がある。入口までは一緒に行ってやる」
あるいは、
「初めて商隊護衛するなら、最初の一回くらい俺たちと組むか?」
そんなことを言う者も現れた。
誰かが制度を決めたわけではない。
報酬の取り決めもその都度違った。
だが、若者だけで危険な場所へ飛び込むより、一度でも経験者と歩いた方がいい。
そんな認識が少しずつ広がっていった。
ゴールド・ドラゴン亭では、いつの間にかそれを「先達をつける」と呼ぶようになった。
セラリスが名づけたわけではない。
若者たちが勝手にそう呼び始めただけだった。
そんなある夕方のことだった。
訓練所から戻ってきたセラリスは、店の前で見覚えのある三人を見つけた。
あの日、狼退治の依頼を見ていた三人だった。
剣の少年は腕に包帯を巻いていた。
革鎧の少女は泥だらけだった。
僧侶の若者はひどく疲れた顔をしている。
だが三人とも自分の足で立っていた。
「どうだった?」
セラリスが尋ねた。
少年が少し誇らしそうに笑った。
「八頭いました」
「五、六頭じゃなかったの?」
「だから先生の言った通りでした。あの数、ちゃんと数えたんじゃなかったみたいです」
革鎧の少女が言った。
「二頭逃げました」
「追った?」
「森に入ったからやめました」
「えらい」
セラリスは即座に言った。
少女は少し嬉しそうな顔をした。
「前だったら追ってたと思う」
「追わなくて正解。狼を全滅させるのが目的じゃなくて、村へ来なくするのが仕事でしょう」
「はい」
僧侶の若者が腰の革袋を叩いた。
「報酬ももらいました」
「よかったじゃない」
「それで、これから三人で分けようと思って」
「ちゃんと最初に決めた通りに?」
三人が頷いた。
「じゃあ問題ないわね」
少年が少し照れたように言った。
「次も、三人で何かやろうって話してます」
セラリスは三人を見た。
「そう」
「でも次は、もう一人くらい欲しいなって」
少女が言った。
「魔法使える人とか」
「それなら中の板を見れば?」
「はい」
そして三人は、一緒にゴールド・ドラゴン亭の中へ入っていった。
最初に見たときには、互いの名前さえ知らなかった三人だった。
今では三人並んで歩いている。
セラリスは、その後ろ姿をしばらく見ていた。
冒険者という職業があるわけではない。
誰かが資格を与えるわけでもない。
何級、何等と順位をつける者もいない。
農家の四男が剣を持って町へ出てくれば冒険者になり、金のない魔法使いが護衛仕事を探せば冒険者になり、僧侶も盗賊も、時には貴族の子供さえ、危険な仕事を引き受けて生きているなら、いつの間にかそう呼ばれるようになる。
だからこそ、誰も最初から守ってはくれない。
何を持っていけばいいかも。
どこで引き返すべきかも。
誰と組めばいいかも。
誰かが教える決まりはない。
ならば少しくらい、教える場所があってもいい。
英雄になる方法などではなく、ただ、生きて帰るために知っておいた方がいいことを。
セラリスにとって、それは大したことではなかった。
後にそれがどう呼ばれるようになるのかも、どれほど広がるのかも、この時点では誰にもわからなかった。
ゴールド・ドラゴン亭の壁に一枚の板が増え、町外れの倉庫で若者が走り回り、経験者がたまに顔を出して口を挟む。
ただ、それだけだった。
けれど、その年のスレスホールドでは、冒険へ出た若者が帰ってこないという話が、それまでよりほんの少しだけ減った。
セラリスには、それで十分だった。