セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
鑑定に出していた二本のポーションは、どちらも回復薬だった。
危険な毒でもなければ、飲んだ途端に妙な姿へ変わってしまうような怪しげな薬でもない。ただ傷を癒やすための、ごく実用的な魔法薬である。
その結果を聞いたとき、ダリヤは見るからにほっとした顔をした。
「良かった……」
思わず洩れたその声に、ミハイルが不思議そうに彼女を見る。
「何が?」
「正体のわからない薬を荷物の中に入れたまま歩くの、ちょっと怖かったから」
「飲まなきゃいいだろ」
「荷物の中で割れたらどうするの」
「飲み薬なんだから、身体にかかったくらいじゃ何も起きないんじゃないか?」
「そんなの、わからないでしょ!」
ダリヤは本気で言っているらしく、ミハイルは肩をすくめた。
セラリスはそんな二人のやり取りを聞きながら、受け取った薬瓶を一本ずつ確かめた。瓶は小さいが、戦いの最中には、その小さな一本が生死を分けることもある。
二本。
今の一行にはヴァレリアがいる。
彼女は僧侶として、以前よりもずっと頼れるようになってきていた。傷を癒やす祈りも使えるし、いざというときには仲間の命をつなぐことができる。
だからといって、回復薬が不要になるわけではなかった。
むしろ、治療を担当するヴァレリア自身が倒れたときにどうするのか。彼女が離れた場所にいるとき、すぐに駆けつけられないとき、あるいは治療の魔法を使うだけの余裕さえ与えてもらえないような状況になったとき、最後に物をいうのは、こういう単純な道具だった。
「誰が持つ?」
セラリスが尋ねると、三人は少し相談した。
結局、一本をミハイルが、もう一本をダリヤが持つことになった。
ミハイルは前衛である。敵の攻撃を受ける可能性は誰よりも高い。
一方、ダリヤは罠や通路を調べるために本隊から少し離れることがある。ヴァレリア一人に回復手段を集中させず、離れたところでも最低限の治療ができるようにしておくという意味でも、悪くない分け方だった。
「ヴァレリアが倒れたときにも使えるからね」
セラリスがそう言うと、ヴァレリアが少し眉を寄せた。
「私が倒れる前提なんですか?」
「誰でも倒れる前提で準備するの」
即答され、ヴァレリアは一瞬だけ言葉に詰まったあと、素直に頷いた。
「……はい」
ミハイルは薬瓶を厚めの布で包み、腰の荷物の中でも、転んだ程度では割れにくそうな位置へしまった。
ダリヤも同じように収納したが、セラリスがそれを見て言う。
「戦闘中に使うかもしれないものは、鞄の底に入れないほうがいいよ」
ダリヤは黙って鞄を開けた。
せっかく一度しまった薬瓶を取り出し、今度は手を伸ばせばすぐに届き、それでいて転倒しても身体の下敷きになりにくい場所へ収め直す。
セラリスは何も言わなかった。
言われたことを、その場ですぐ直す。
それもまた、大事なことだった。
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その日の午後、四人は訓練場の片隅に集まり、平らな石の上へ一枚の地図を広げていた。
もっとも、地図と呼ぶにはずいぶん粗末なものだった。
測量したわけでもなければ、縮尺が正確なわけでもない。最初の探索で自分たちが歩いた場所を、ダリヤが記憶をたどりながら描き起こしたものにすぎない。
それでも、何もないよりはずっといい。
正面入口。
大広間。
東西にあった部屋。
北へ伸びる廊下。
二つの寝室。
そして、ハーピイたちが棲みついていた食堂。
前回、彼らが歩いた範囲が、簡単な線と記号でそこに残されている。
ミハイルは腕を組み、その地図をしばらく眺めてから顔を上げた。
「それで」
視線をセラリスへ向ける。
「続きはどうしますか?」
セラリスは、すぐには答えなかった。
代わりに三人の顔を見る。
どうするか。
まずは自分たちで考えさせる。
それが最近の彼女のやり方だった。
ダリヤがほとんど間を置かずに口を開いた。
「油瓶を補充して、次に行きましょう」
ミハイルが笑った。
「また油か」
「効いたでしょ?」
「効いたけどさ」
「キャリオンクローラーもハーピイも、油がなかったらもっと危なかったんだから」
ダリヤにとって、最初の冒険から得た最大の教訓の一つは、どうやら油が単なる灯火用の燃料ではなく、立派な武器になるということだったらしい。
「私は多めに持っていきたい」
「重くなるぞ」
「命より軽いです」
きっぱりと言われ、セラリスは思わず少し笑った。
覚えたな、と彼女は思う。
しかも、ただ前回うまくいったから同じことをしようとしているわけではない。自分たちの力だけでは足りない部分を、道具で補えるということを理解し始めている。
ヴァレリアは、地図の上に描かれた食堂のあたりをじっと見ていた。
「私は、あまり間を空けないほうがいいと思います」
セラリスが視線を向ける。
「理由は?」
「対策される前に」
ヴァレリアは答え、それから少し考えるように言葉を継いだ。
「……もう遅いかもしれませんけど」
ミハイルも、先ほどまでの軽い表情を消した。
「コボルドは出ていった。キャリオンクローラーはいない。ハーピイも倒した」
「それだけ変わっていれば」
ヴァレリアが続ける。
「廃墟の奥に、考えることのできる何かがいるなら、さすがに気づきますよね」
「その可能性はあるね」
セラリスは頷いた。
「だったら、何日も空けてから行ったら」
ダリヤが地図の入口を指でなぞる。
「罠を増やされたり、入口を塞がれたり、別の見張りを置かれたりする?」
「あり得る」
「じゃあ、早く行こう」
ミハイルが言った。
そこでセラリスが口を挟む。
「ただし」
三人の視線が集まった。
「前と同じ廃墟だとは思わないこと」
ミハイルが眉を寄せる。
「どういうことです?」
「一度調べた場所だから安全だ、って考えない」
セラリスは地図の入口を指した。
「キャリオンクローラーがいた場所に、別の怪物が入り込んでるかもしれない」
少し指を動かす。
「コボルドがいた場所には、別の見張りが立ってるかもしれない」
さらに。
「私たちが開けた扉や、固定した場所に細工されてるかもしれない」
そして最後に、ハーピイのいた食堂を指差した。
「ハーピイの死体を食べに、何か別のものが来てる可能性もある」
ダリヤが露骨に嫌そうな顔をした。
「……一度掃除した場所が、そのまま綺麗に残ってるとは限らないんですね」
「そういうこと」
ゲームの地図なら、一度倒した敵はそれで消えることがある。
一度踏破した場所は、安全地帯のように扱えることもある。
だが、ここはそうではない。
怪物は歩く。
獣も歩く。
人間も、亜人も、自分で考えて動く。
誰かがいなくなれば、その空いた場所へ別の誰かが入り込むこともあるし、侵入者が来たと知れば罠を増やす者だっている。
時間が経つということは、世界の方もまた動くということだった。
セラリスは地図から顔を上げた。
「それから、今回の目的を決めよう」
ミハイルが少し意外そうに尋ねる。
「全部調べる、じゃないんですか?」
「それじゃ広すぎる」
「じゃあ?」
「前回の続きから、探索範囲を少し広げる」
セラリスは食堂の先、まだ何も描かれていない空白部分を指した。
「まだ見ていない場所を調べる。でも、何があっても最深部まで行こう、とは考えない」
ダリヤがすぐに頷いた。
「また撤退条件を決めます?」
「もちろん」
それを聞き、三人は地図を囲んで相談を始めた。
前回は、誰かが大きな怪我をしたとき、大きな魔法をもう一度使わなければならなくなったとき、想定していなかった敵が出てきたとき、そうした状況になれば撤退を考えると決めていた。
今回は、ヴァレリアがまず口を開いた。
「回復薬を一本使ったら、帰るのはどうでしょう」
「いいね」
セラリスはすぐに頷いた。
ダリヤも続ける。
「油を半分以上使ったときも?」
「それもいい」
ミハイルは少し黙って考えてから言った。
「逃げ道が一つでも塞がれたら、一度戻って確認する」
セラリスの顔に笑みが浮かんだ。
「それ採用」
三人の判断が、前より明らかに早くなっていた。
しかも、以前のように漠然と「危なくなったら帰る」と言うのではない。
何が起きたら危険と判断するのか。
どこまで消耗したら帰るのか。
何を失ったら、それ以上進まないのか。
それを具体的に考え始めている。
「じゃあ、まとめるよ」
セラリスは地図の上へ指を置いた。
「油を補充」
「はい」
「松明も補充」
「はい」
「ロープ、杭、十フィート棒」
「あります」
「回復薬はミハイルとダリヤ」
二人は、それぞれ自分の荷物へ手をやって確かめた。
「ヴァレリアは前より治療を頼れるようになったけど、それを当てにして無茶をしない」
「はい」
「それから」
セラリスは三人を順番に見た。
「前回うまくいった作戦が、今回も同じようにうまくいくとは思わないこと」
ミハイルが苦笑した。
「油も?」
「油も」
ダリヤが少し不満そうに口を尖らせる。
「でも持っていきます」
「それは大賛成」
油が効かないなら、別の方法を考えればいい。
火に強い敵もいる。
液体を浴びせにくい敵もいる。
空から襲ってくる敵もいれば、魔法を使う敵だっている。
そのたびに、持っている道具と、覚えている知識と、その場の地形を使ってどうにかする。
最初から、すべての敵に通じる答えなどない。
だからこそ、考え続ける。
それが冒険するということなのだろうと、セラリスは思っていた。
ヴァレリアが地図を畳みながら尋ねた。
「いつ行きます?」
セラリスは少し考えた。
休息は十分に取れている。
装備の補修も済んでいる。
消耗品は今日のうちに買い足せる。
三人とも体調に問題はない。
「明日の朝」
ダリヤの顔がぱっと明るくなった。
ミハイルも迷いなく頷く。
ヴァレリアだけは、ほんの少し緊張したような顔をしたが、それでもすぐに、
「はい」
と答えた。
セラリスは三人の顔を眺めた。
最初にミスタメアの廃墟へ向かったときとは、もうずいぶん違って見える。
あのときは、町からわずか三マイルしか離れていない街道を歩いているだけなのに、セラリスが空や周囲の森まで警戒していることを、不思議そうに見ていた三人だった。
今では、敵がこちらの行動を見て対策してくる可能性を考える。
必要な消耗品を自分たちから補充しようとする。
撤退条件まで、出発前に決める。
強くなったというには、まだ早い。
剣技が飛躍的に上達したわけでもない。
魔法の力が突然増えたわけでもない。
それでも、冒険者としては確かに前へ進んでいた。
セラリスは内心で、ひどく満足していた。
そして最後に、自分の荷物も確認する。
ハンドアクス+1・リターニング。
剣。
弓。
魔法の道具。
十分な呪文。
必要なものは揃っている。
けれども彼女が本当に確かめていたのは、自分の装備ではなかった。
三人をどこまで見守るだけで済むか。
前回は、自分が手を出さなければ危なかった場面が何度もあった。
今度は、その回数が少しでも減るかもしれない。
セラリスは、そう思った。
自分が敵を倒すことよりも。
自分が強いところを見せることよりも。
この三人が、自分たちで考え、自分たちで危険を避け、自分たちの力で帰ってこられるようになること。
それこそが、今の彼女には何より嬉しかった。
明日の探索で、どんなものが待っているのかはわからない。
前と同じ敵がいるかもしれないし、まるで違う何かがいるかもしれない。
こちらが考えている以上に、廃城の奥の何者かが準備を整えている可能性だってある。
それでも。
最初にあの城へ向かったときの三人とは、もう違う。
セラリスは畳まれた地図を見ながら、静かにそう思った。
今度は、前回より少しだけ。
自分が手を出さずに済むかもしれない。
それはセラリスにとって、どんな新しい魔法を覚えることよりも嬉しい、彼らの成長の証だった。