セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
二度目に訪れたミスタメアの廃城は、ひどく静かだった。
崩れ落ちた外壁も、道を半ば塞ぐように散らばった瓦礫も、長い年月のあいだ風雨に晒されて朽ちた城門も、見たところ前回と何ひとつ変わってはいない。けれども、一度この場所の中へ入り、そこに棲むものたちと戦い、そして生きて戻った者の目には、同じ景色でありながら、どこか別の場所のようにも見えた。
それは単に、彼らがこの城を知ったからというだけではなかった。
前回とは、何かが違う。
セラリスは足を止め、まず正面の城門近くへ目をやった。
腐った大扉の下には、かつてキャリオンクローラーが潜んでいた。何も知らずに近づいた者を、長い触手で絡め取ろうと待ち伏せていた怪物である。今はもちろん、その姿はない。そこに残っているのは、黒く焼け焦げた床と、炎に炙られて変色した石だけだった。
さらに奥へ目を向ければ、前回の探索を終えて引き上げる際、退路を確保するために開け放っておいた正面扉が見える。
それもまた、開いたままだった。
「そのままですね」
ヴァレリアが声を落として言った。
その言葉に答えようとしたミハイルが、不意に目を細めた。
「……いや」
彼の声が変わった。
「誰かいる」
四人はほとんど同時に足を止めた。
以前なら、見つけたものを確かめようと、もう何歩か前へ出ていたかもしれない。しかし今は違う。立ち止まり、まず見る。瓦礫の陰、崩れた壁の向こう、門の左右、開いた扉の奥。それぞれが自分の受け持つ方向へ視線を走らせた。
そして、いた。
小さな影が四つ、扉の根元に集まっている。
コボルドだった。
犬のような頭を持つ小柄な亜人たちが、四匹そろって身を屈め、何やら苦労しながら作業をしている。しばらく様子を見れば、彼らが何をしようとしているのかはすぐにわかった。
「……杭ですね」
ダリヤが囁いた。
前回、開けた扉が何かの拍子に閉じてしまわないよう、彼ら自身が打ち込んでおいた杭だった。
その杭を、コボルドたちは抜こうとしている。
一匹が両手で杭を握って引き、もう一匹がその腰へしがみつくようにして後ろから力を貸している。三匹目は先の曲がった道具を石と杭の隙間へ差し込み、梃子にしようとしていた。残る一匹も周囲を警戒しているつもりなのだろうが、仲間の作業が気になって仕方がないらしく、何度もそちらへ手を出している。
幸い、まだこちらには気づいていない。
セラリスはその様子を見ながら、内心でわずかに感心していた。
やはり、城は変化している。
前回、入口にいたコボルド六匹を追い出し、キャリオンクローラーを焼き、城内のハーピイまで倒した。こちらが去ったあとも、その状態が永遠に放置されているはずはない。何者かが異変に気づいたのだ。そして今、四匹のコボルドが入口へ出てきて、侵入者が残した杭を抜こうとしている。
彼ら自身の判断なのかもしれない。
しかし、そうでない可能性もある。
誰かに命じられて、扉を元通りに閉じようとしているのではないか。
あるいは、侵入された痕跡を消そうとしているのではないか。
どちらにせよ、少なくともこの城の奥にいる何者かが、前回の出来事を認識し、それに応じて動き始めていると考えた方がよかった。
「どうします?」
ヴァレリアが囁いた。
視線だけをセラリスへ向ける。
「前みたいに【睡眠】で捕まえますか?」
ミハイルも小さく頷いた。
「それがいいと思います。逃げられて、中にいる奴に知らせられる必要もないし」
その言葉を聞いて、セラリスはほんの少しだけ彼を見た。
前回とは違う。
ミハイル自身も、それを理解していた。
最初にここへ来たとき、入口にいた六匹のコボルドは【睡眠】で眠らせ、縛り上げたあとに話を聞いた。彼らは城の入口を守っているだけで、中のことなどほとんど知らなかった。最終的には財宝の一部を受け取り、命まで取る必要はないと判断して解放している。
だが今回は、そのときとは事情が違っていた。
この四匹は、明らかに何らかの目的を持って入口へ来ている。一匹でも逃がせば、それだけで城の奥に警報が届く可能性がある。
「じゃあ私が縛ります」
ダリヤはそう言うと、腰に巻きつけてあるロープを確かめた。
ヴァレリアが思い出したように尋ねる。
「また切り分けるの?」
するとダリヤは、少し得意そうに首を振った。
「今回は大丈夫です」
ロープを引き出しながら、胸を張る。
「ロープワーク、覚えてきましたから」
「へえ」
「一本で四匹まとめて縛ります」
ミハイルが半信半疑の顔で彼女を見た。
「できるの?」
「できますよ」
「本当に?」
「訓練しました!」
ダリヤは、いささかむきになって言った。
「前、この城で六匹縛ったとき、一本ずつ切ったでしょう。あれ、あとで使おうと思ったら短くて使いにくかったから」
それを聞いて、セラリスは思わず微笑んだ。
実際にやってみて、不便だった。
だから帰ってから練習した。
次に同じことが起きたときには、もっと上手くできるようにした。
それでいい、と彼女は思う。
冒険者として強くなるということは、剣を上手く振れるようになることだけではない。魔法を一つ多く覚えることでも、鎧を良いものへ替えることでもない。前に不便だったこと、怖かったこと、失敗したことを覚えておいて、次には少しでもましにする。それを積み重ねることが、結局は一番確実に命を守る。
セラリスは再びコボルドたちへ目を戻した。
四匹は相変わらず杭と格闘している。
互いに近い。
こちらには気づいていない。
【睡眠】を使うには、申し分のない状況だった。
「いいね」
セラリスは三人を見た。
「じゃあ、そのつもりで」
静かに手を上げ、短く呪文を唱える。
魔力が彼女の指先から形を持たぬまま広がり、気づかぬ四匹のコボルドを包み込んだ。
「【睡眠】」
最初の一匹は、杭を握った姿勢のまま、ふっと力を失った。
頭が前へ垂れ、その場へ座り込むように崩れる。
二匹目は、その背中へもたれかかったまま動かなくなった。
三匹目の手から、梃子に使っていた道具が落ちた。
石の上で乾いた音が鳴る。
最後の一匹だけが、その音に驚いたのか、はっと顔を上げた。
しかし遅かった。
何が起こったのか理解するより早く瞼が落ち、そのまま横倒しになった。
再び静寂が戻った。
けれども四人は、すぐには動かなかった。
眠ったから安全だ、と飛び出すことはしない。
セラリスが数を数えるように少し待つ。
コボルドたちに動きはない。
周囲にも変化はなかった。
そこで初めて、セラリスは手で合図した。
ダリヤが前へ出る。
その少し後ろをミハイルとヴァレリアが続き、セラリスは最後尾に残って、城門の奥と背後を交互に警戒した。
近づいて確認すると、四匹とも完全に眠っていた。
「よし」
ダリヤが腰を下ろし、ロープを取り出した。
「見ててください」
一匹目の腕を後ろへ回し、まず輪を作って手首へ掛ける。締めすぎれば後で傷めるし、緩ければ逃げられる。その加減を確かめながら結び、そこからロープを切らずに二匹目へ回した。
さらに三匹目。
四匹目。
途中には必要な場所だけ結び目を置き、腕だけでなく胴と足も拘束し、それぞれが勝手に転がったり、隣の者を踏み台にして動いたりできないようにする。
以前とは明らかに手際が違っていた。
ミハイルがしばらく黙って見ていたが、最後には感心したように言った。
「本当に一本でやった」
「だから言ったでしょう」
ダリヤは最後の結び目を締めると、そこを両手で何度か強く引いた。
緩まない。
コボルドの身体を軽く転がしてみても、拘束は崩れなかった。
「これなら解くときも楽です。ロープも短くならないし」
セラリスも横から手を伸ばし、一つずつ結び目を確かめた。
悪くない。
というより、前回と比べればずいぶん良くなっている。
「上達したね」
そう言うと、ダリヤはぱっと顔を明るくした。
「はい!」
その素直な喜びように、ヴァレリアまで少し笑った。
だが彼女はすぐ、地面に横たわる四匹のコボルドへ目を戻した。
「起こします?」
ミハイルが少し考えてから頷く。
「聞いておきたい」
「何を?」
「誰に言われて杭を抜いてたのか」
その一言で、三人の視線が自然に城の奥へ向いた。
開いた扉の向こうには、薄暗い大広間がある。
前回、この入口にいた六匹のコボルドは、自分たちは番人だから中のことは知らない、と言っていた。
それが今度は、四匹がここへ戻ってきた。
あるいは、戻されたのかもしれない。
そして彼らは、前回の侵入者が残した杭を、わざわざ抜こうとしていた。
誰かが命じたのだとすれば、その誰かは、少なくとも前回の探索がただの偶然ではなく、外から何者かが城へ入り込んだ結果なのだと理解している。
セラリスは、しばらく開いた扉の向こうを見つめていた。
闇そのものは、以前と変わらない。
けれども今では、その向こうにいる何かが、ただ漫然と棲みついているだけの存在には思えなかった。
こちらが一度手を入れたことで、向こうもまた動き始めたのだ。
そう考えると、同じ廃城でありながら、前とはまるで違う場所になったような気さえする。
セラリスは眠ったままのコボルドへ視線を落とし、それからもう一度、大広間の暗がりを見た。
さて。
誰が動き始めたのだろう。
そして、その何者かは、自分たちがもう一度ここへ戻ってくることまで予想しているのだろうか。
二度目のミスタメア城探索は、まだ城の中へ一歩も踏み込まないうちから、すでに前回とは違う冒険になり始めていた。