セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
セラリスは、曲がり角の向こうに待ち受けているものを、先ほど【魔術師の眼】が送り返してきた光景のまま、もう一度頭の中で組み立て直していた。
岩盤を荒々しく穿った、細く逃げ場のない通路。
その先にある、少しばかり広い洞窟状の空間。
そこには黒衣の魔術師と、まだ成竜にはほど遠いとはいえ、紛れもない一頭のグリーンドラゴンが待ち構えている。
竜は長い首をこちらへ向け、胸を大きく膨らませていた。
あれは威嚇の姿勢ではない。
こちらが角を曲がり、狭い通路から姿を現した瞬間に、あの場所いっぱいへ毒の息を吐きつけるつもりなのだろう。
グリーンドラゴンのブレス。
鼻を刺し、肺を焼き、まともに吸い込めば生き物の身体を内側から壊していく、塩素に似た有毒の気体。
しかも、その後ろには魔術師がいる。
セラリスだけが転生前の知識から、その男をバーグルだと知っていた。
竜のブレスで全員をまとめて弱らせ、まだ立っている者がいれば、その上から魔法を重ねる。
【火球】か。
【稲妻】か。
あるいは、もっと別の何か。
なるほど。
悪くない待ち伏せだった。
相手が普通の冒険者であるならば。
セラリスは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「向こうが、私たちが出てくるのを待ってるんなら」
三人が彼女を見る。
「出ていってあげようか」
ミハイルが怪訝そうに眉を寄せた。
「でも、出た途端にブレスなんですよね?」
「うん」
「じゃあ危ないんじゃ」
「だから、私たちは行かない」
「え?」
セラリスはそれ以上説明せず、短く呪文を唱え始めた。
空気がわずかに揺れる。
松明の光そのものが歪んだかと思うと、薄暗い通路の中に、新しい四人の姿が浮かび上がった。
セラリス。
ミハイル。
ヴァレリア。
ダリヤ。
姿だけではない。
鎧。
盾。
武器。
荷物。
松明。
今そこに立っている本人たちと見比べても、薄暗い地下では一目で偽物と見抜くことは難しい。
ミハイルは、自分と同じ顔をして自分と同じ剣と盾を持っている像をまじまじと見つめた。
「……妙な気分だな」
「黙って見てて」
ダリヤが小声でたしなめる。
「はい」
幻影のミハイルはもちろん返事をしなかった。
セラリスは四体の幻を、自分たちがこれまで進んできたときと同じように動かした。
先頭が警戒する。
後ろが続く。
曲がり角の直前で一度足を止める。
先を窺い、互いに頷き合い。
そして。
一気に四人揃って、角の向こうへ飛び出した。
その瞬間だった。
轟、とも、低い咆哮ともつかない音が洞窟の奥から響いた。
次の瞬間、黄緑色を帯びた濃密な気体が、狭い通路いっぱいへ向けて奔流のように噴き出した。
グリーンドラゴンのブレス。
待ち構えていた。
本当に。
幻影の四人は、逃げる暇もなく毒気に呑まれた。
しかし、それで終わりではなかった。
ほとんど間を置かず、そのさらに奥から赤い光が飛び込んでくる。
セラリスは、それを見た瞬間に何の魔法か理解した。
【火球】。
光が幻影の中央へ到達した。
轟音。
爆炎。
狭い洞窟と通路を炎が埋め尽くし、すでに充満していた毒気を激しく掻き乱した。
炎と黄緑色の気体が混じり合い、恐ろしい勢いで渦を巻く。
もし、あそこに本物の四人が立っていたなら。
ミハイルは思わず息を呑んだ。
「……本当に、あれを俺たちに食らわせるつもりだったのか」
声が低い。
ヴァレリアの顔も強張っていた。
「最初から、殺すつもりだったんですね」
「そりゃそうでしょ」
セラリスは淡々と答えた。
「あの人、私たちと話し合うためにドラゴンを待たせてたわけじゃないし」
毒と炎の中で、四体の幻影が揺らめいた。
一つ。
また一つ。
攻撃そのものによって傷ついているわけではないが、凄まじい炎と煙の中では像を保ち続ける意味もない。
セラリスが幻を消していく。
やがて最後の一体まで掻き消えた。
その直後。
洞窟の奥から、男の驚愕した声が響いた。
「幻影だと――?」
「今」
セラリスの声と同時に、本物の四人が動いた。
今度は幻ではない。
ミハイルとヴァレリアが先頭に出る。
ダリヤがその後ろ。
セラリスもソーンウォッチを構えたまま、角を越えた。
洞窟へ飛び込む。
一度ブレスを吐き切ったグリーンドラゴンが、驚いたように長い首をこちらへ巡らせようとしていた。
そのさらに後ろ。
黒いローブをまとったバーグルが、先ほどまでの余裕を完全に失った顔でこちらを見ている。
まさか。
同じ四人が、もう一度現れるとは思っていなかったのだろう。
「ドラゴンは私がやる!」
セラリスが叫んだ。
「三人は魔術師!」
「はい!」
ミハイルはほとんど言われると同時に盾を前へ出した。
「覚悟しろ!」
一直線にバーグルへ向かう。
そのすぐ後ろをヴァレリアが続き、ダリヤは正面から突っ込む代わりに少し横へ広がった。
魔術師が逃げるなら、その進路を塞ぐ。
バーグルの顔に焦りが走った。
つい今しがた【火球】を放ったばかりである。
そこへ鎧と盾を身につけた二人と、身軽なシーフが一気に距離を詰めてくる。
魔術師にとって歓迎すべき状況ではなかった。
ミハイルの剣が振られる。
バーグルは完全には避けきれなかった。
刃が黒いローブを裂き、その下の皮膚まで浅く切る。
深手ではない。
だがバーグルの顔に浮かんだのは、怒りより先に恐怖だった。
「この……!」
ヴァレリアのメイスが迫る。
バーグルは慌てて身体を捻り、辛うじて避けた。
その先では、ダリヤが出口側へ回り込もうとしている。
包囲される。
そう悟った瞬間。
バーグルはあっさりと戦うことを諦めた。
短い詠唱。
魔法が完成する。
「【透明化】」
男の輪郭が揺らいだ。
黒いローブ。
黒髪。
整った口ひげ。
端正な顔。
すべてが、水へ沈む影のように薄くなり、そのまま消えた。
「消えた!」
ミハイルが叫ぶ。
「動いてる!」
ダリヤは男のいた場所ではなく、床を見ていた。
洞窟の奥には、地下遺構の石壁とはまったく関係なく穿たれた、巨大な開口部がある。
人間のための出入口ではない。
竜が翼を畳み、身体を屈めれば通れるほどの大きさ。
おそらくグリーンドラゴンが山の外へ出入りするための穴なのだろう。
そこから昼の光が差し込んでいた。
そして、その出口へ向かって。
砂が跳ねる。
小石が転がる。
誰も見えないのに、足跡だけが生まれていく。
「外へ逃げてる!」
ミハイルたちが追おうとする。
だが透明となったバーグルは、もう体面も威厳も何もなかった。
足を滑らせそうになりながら。
壁へぶつかりそうになりながら。
それでも必死に走る。
山腹へ開いた巨大な出口から外へ飛び出し、そのまま遠ざかっていった。
バーグルは走りながら、歯を食いしばっていた。
こんなはずではなかった。
自分へ化けさせたドッペルゲンガーと、自分の衣服を着せたクリスタルスタチュー。
それで侵入者の力量を測る。
厄介なら、この洞窟まで誘い込む。
ここなら若いグリーンドラゴンがいる。
毒の息を通路いっぱいに浴びせ、その直後に自分が【火球】を撃つ。
普通の冒険者なら、それで終わる。
そのはずだった。
ところが。
あのエルフは、影武者へ何のためらいもなく【火球】を叩き込んだ。
こちらが用意した待ち伏せには、幻影だけを送り込んできた。
竜のブレスも。
自分の魔法も。
まとめて空振りさせられた。
そして最も腹立たしいことに。
自分は今。
逃げている。
バーグルの美しい顔が、屈辱と恐怖で歪んだ。
覚えていろ。
あのエルフ。
必ず。
必ず殺してやる。
ただ殺すだけでは足りない。
泣かせる。
辱める。
命乞いをさせる。
自分に逆らったことを後悔させてから殺す。
そんな憎悪を胸の中で膨らませながら、バーグルは山中へ姿を消した。
もっとも。
そのころには、セラリスはもう彼を追ってはいなかった。
逃げる魔術師より。
今、目の前に残っているものの方が危険だったからである。
グリーンドラゴン。
若い。
成竜ほど巨大ではない。
それでも、その体格は人間を圧倒するには充分だった。
長い首。
鋭い牙。
大きな爪。
折りたたまれた翼。
硬い鱗。
そして、今は吐き切ったとはいえ、再び使えるようになれば恐ろしい毒のブレス。
竜は、せっかくの待ち伏せを幻影ひとつで無駄撃ちさせられたことに苛立っているらしく、喉の奥から低い唸り声を漏らしながらセラリスへ首を向けた。
「小賢しいエルフめ……!」
「喋れるなら話は早いね」
セラリスはソーンウォッチを構えた。
その声を聞いて、剣がどこか楽しげに言った。
「使うのだろう?」
「うん」
セラリスは短く答えた。
「ここで出し惜しみはしない」
「ならば存分にやれ」
次の瞬間。
ソーンウォッチの銀色の刀身を覆うように、黄金の輝きが生まれた。
ただ光っているのではない。
剣そのものに秘められていた力が解放され、魔力が刃の表面から溢れ出している。
金色の炎をまとったような長剣。
洞窟の中が、それだけで少し明るくなった。
グリーンドラゴンの目が細くなる。
竜は愚かではない。
むしろ、多くの獣よりはるかに賢い。
そして生き物として、自分を殺しうるものに対する感覚も鋭い。
だからこそ。
黄金の光をまとったソーンウォッチを見た瞬間。
グリーンドラゴンは悟った。
先ほどまで考えていたほど、自分は優位ではない。
だが。
気づくのが少し遅かった。
セラリスが踏み込んだ。
速い。
巨大な竜が首を動かし、その姿を目で追おうとしたときには、もう銀と金の光が振るわれていた。
狙いは首を斬り落とすことではない。
刃と、そこへ集中させた魔力を、竜の身体へ叩き込む。
轟、と重い衝撃が洞窟に響いた。
黄金の閃光。
グリーンドラゴンの身体が横へ弾かれる。
爪が石床を深く削った。
それでも勢いを止めきれず、巨大な身体が岩壁へ激突する。
洞窟そのものが低く震えた。
「ぐ……!」
竜の喉から呻き声が漏れた。
鱗が何枚か砕け、そこから血が滲んでいる。
セラリスは追撃できる姿勢を崩さなかった。
ソーンウォッチが今解放している力は、平時の一撃とは比較にならない。
転生前のゲームの尺度で考えるなら。
若いグリーンドラゴン程度の生命力では、何度も受けられるような威力ではない。
もちろん。
竜にはそんな数字など見えない。
だが、数字よりもっと直接的に理解できた。
今の一撃は。
ひどく痛かった。
骨まで響いた。
次をまともに受ければ、かなりまずい。
さらにその次。
そこまで考える必要すらないかもしれない。
ブレスは今すぐには吐けない。
目の前のエルフは、自分が思ったより速い。
逃げるために背を向ければ、あの剣の間合いから抜ける前に斬られる可能性が高い。
そして。
セラリスが黄金の剣を、もう一度ゆっくり持ち上げた。
グリーンドラゴンは、自分の誇りと命を天秤にかけた。
竜である以上、誇りはある。
自分より小さなエルフに屈服するなど、本来なら認めがたい。
だが。
死ねば終わる。
その判断にかかった時間は、ごく短かった。
「待て!」
セラリスの剣がぴたりと止まった。
黄金の切っ先は、竜の鼻先からほんのわずかしか離れていない。
「何?」
「降参する!」
後ろでバーグルを取り逃がした三人が振り返った。
ミハイルは、グリーンドラゴンとセラリスを交互に見ている。
「……ドラゴンって、降参するんだな」
ダリヤも今回は静かに頷いた。
「死にたくなければ、するんじゃない?」
「賢明だ」
ソーンウォッチが口を挟んだ。
グリーンドラゴンの目が、ぎょっとするほど大きくなった。
「剣まで喋るのか?」
「そこ、驚くところなんだ」
ミハイルが妙な親近感を覚えたように呟いた。
セラリスは笑いそうになるのを堪えた。
だが、まだ剣は下ろさない。
「本当に降参する?」
「する。だから、その剣を下ろせ」
「先に約束」
竜が黙る。
「逃げない」
「……分かった」
「ブレスを吐かない」
「分かった」
「私たちを襲わない」
グリーンドラゴンは一瞬だけ不服そうな顔をした。
その目が、黄金色に輝くソーンウォッチへ向く。
剣先が、ほんの少しだけ動いた。
「分かった! 誓う!」
「よし」
そこで初めて、セラリスは剣先を下げた。
完全に構えを解いたわけではない。
けれども、次の一撃をすぐに叩き込む意思はないことだけは伝わったらしい。
グリーンドラゴンも、ゆっくりと首を下げた。
バーグルには逃げられた。
だが、少なくともここには、彼より長くこの地下にいた可能性のある一頭のドラゴンが残っている。
殺してしまえば、それで終わりだ。
生かしておけば。
聞ける。
バーグルのこと。
地下のこと。
コボルドのこと。
ゾンビやスケルトンのこと。
この城のさらに奥に何があるのか。
そして何より。
四人は、まだ誰一人として傷を負っていない。
回復薬は一本も使っていない。
ヴァレリアの癒しも使っていない。
最初に決めた撤退条件は、まだ一つも満たされていなかった。
セラリスは、黄金の光が少しずつ収まっていくソーンウォッチを手にしたまま、目の前のグリーンドラゴンを見上げた。
予定していた冒険とは、ずいぶん違うところまで来た。
けれども。
まだ帰れる。
まだ余裕がある。
そして、目の前には新しい情報源がいる。
ならば。
次にすることは、戦うことではない。
話を聞くことだった。