セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
セラリスは、黄金の輝きをまだかすかに残しているソーンウォッチを右手に持ったまま、岩壁の際へ身体を伏せたグリーンドラゴンを見下ろしていた。
若いとはいえ、竜である。
成竜ほどの巨体も、何十年、何百年と生きた竜が持つ恐るべき経験も、まだこの個体にはないのだろう。それでも、人間の戦士が一人や二人でどうにかできる相手ではない。長い首の先には人間の腕ほどもある牙が並び、前肢には太い爪があり、翼を開けば小さな部屋ならそれだけでいっぱいになる。何より、つい先ほど幻影とはいえ四人まとめて呑み込んだ毒の吐息がある。
その気になれば旅人を襲い、家畜を奪い、周辺の農村を恐怖に陥れることもできる。
だから、降参したからといって、ではさようなら、とそのまま別れるわけにもいかなかった。
セラリスはまず、先ほど山腹の出口から逃げ去った黒衣の男について尋ねることにした。
「あの男は?」
グリーンドラゴンは一瞬だけ巨大な出入口へ顔を向けた。
すでにそこにはバーグルの姿などない。
外から差し込む昼の光と、遠くに見える山の緑だけである。
竜は忌々しげに鼻を鳴らした。
「バーグル。魔法使いだ」
ミハイル、ヴァレリア、ダリヤの三人が小さく反応した。
初めて聞く名前だった。
セラリスだけは、その名をずっと以前から知っている。
もっとも、それをわざわざ今説明する必要はなかった。彼女は何も言わず、竜の続きを待った。
「ある日、俺のねぐらに穴をあけて現れた」
グリーンドラゴンは片方の翼を少し動かし、自分たちのいる洞窟と、その奥へ繋がっている人工的な通路を示した。
この場所は、もともと地下城の一部ではなかったのだ。
竜が山中に持っていた洞窟へ、バーグルが地下側から穴を通した。
「勝手に?」
ダリヤが思わず聞いた。
「勝手にだ」
その返事には、ずいぶん時間が経った今でも、そのことを根に持っているのがよくわかる響きがあった。
「最初は食ってやろうと思った」
「でしょうね」
ダリヤが小さく呟く。
「だが奴は、金と食料を渡すから協力しろと言った」
ヴァレリアが首を傾げた。
「それで、受けたんですか?」
グリーンドラゴンは、逆に何が不思議なのかわからないという顔をした。
「悪い話ではないだろう。ここにいれば、獲物を探して遠くまで飛ぶ必要もない。食料は向こうから持ってくる。金も増える。たまに奴の敵が来たら追い払えばいい。それだけだと言った」
ミハイルが顔をしかめた。
「ずいぶん都合のいい話だな」
「俺もそう思った。だから受けた」
悪びれる様子はまるでなかった。
考えてみれば、竜にしてみればそれなりに筋の通った取引だったのかもしれない。
バーグルと冒険者とのあいだに何の因縁があるのかなど、このグリーンドラゴンには関係がない。餌をもらう。財宝も増える。その代わり、時々魔法使いの頼みを聞いて敵を追い払う。
人間の善悪ではなく、自分にとって得か損か。
少なくとも、最初のうちはそれで充分だったのだろう。
だが、竜はそこで低く唸った。
「結果は囮にされたがな」
洞窟の空気がわずかに震えた。
「奴は俺にブレスを吐かせ、自分は後ろから魔法を撃った。それで、お前たちが本物だとわかった途端、自分だけ消えて逃げた」
ダリヤが何とも言えない顔になった。
「完全に置いていかれたね」
「そうだ」
「怒ってる?」
「次に会ったら噛み砕く」
迷いのない返答だった。
ミハイルが小声で言う。
「まあ……そりゃ怒るよな」
「魔術師としては合理的だ」
そこでソーンウォッチが静かに口を挟んだ。
グリーンドラゴンの眼が細くなる。
「お前は奴の味方か、喋る剣」
「いいや。ただ、逃げる者が自分以外を置いていくのは珍しいことではないと言っただけだ」
「やっぱり性格悪いよね、あなた」
セラリスが言った。
ソーンウォッチは答えなかった。
否定するつもりはないらしい。
セラリスは小さく息を吐き、あらためて竜へ向き直った。
「じゃあ、バーグルがいなくなったとして。これからどうするつもり?」
「どうもしない」
グリーンドラゴンは答えた。
「奴がいなくなったのなら、俺にはもう関係ない。この穴はもともと俺のねぐらだ」
「まあ、そうなるよね」
話としては自然だった。
問題は、そのあとである。
この山は人里から何百マイルも離れた荒野ではない。
スレスホールドからも、それほど遠くない。
周辺には農地があり、村があり、街道には商人や旅人が通る。
この若い竜が、人間や家畜を手近な食料だと覚えれば、遠からず被害が出る。
そうなれば討伐隊が組まれるだろう。
そのとき死ぬのが竜だけとは限らない。
何人もの兵士や冒険者が死に、その最後に竜も殺されるかもしれない。
それならば、今ここで少し話をつけておいた方がいい。
セラリスはしばらく考えてから言った。
「金をくれてやることはできないけど」
グリーンドラゴンの片眼が、露骨に不満そうに細くなる。
「人間に危害を加えず、この辺りの野生の獣や、人を襲う魔物を狩って暮らすっていうなら、私もあなたを殺さない」
竜の視線が、セラリスの顔からソーンウォッチへ移った。
黄金の光はもうかなり弱くなっている。
だが、つい先ほど自分を岩壁まで吹き飛ばした一撃の痛みまで消えたわけではない。
「どう?」
セラリスが尋ねる。
グリーンドラゴンはすぐには答えなかった。
ただ腹を立てるのではなく、提示された条件を竜なりに吟味しているらしい。
「人間を食うな、と?」
「襲わない。もちろん食べない。それから、人間の家畜も勝手に持っていかない」
「家畜もか」
そこだけは、本当に残念そうだった。
ダリヤが口元を押さえる。
「牛とか狙ってたんだ……」
「野生の獣より簡単に捕まる」
「でしょうね」
セラリスも苦笑した。
「でも駄目。牛も羊も、人が育ててるならその人の財産だから」
グリーンドラゴンは大きく鼻から息を吐いた。
竜にとっては、山の中を歩いている鹿も、柵の中にいる牛も、食べ物という点ではさほど違わないのかもしれない。
「森の獣なら?」
「好きにしていいよ。ただ、狩り尽くして自分で困るほどは食べない方がいいと思うけど」
「魔物は?」
「人や旅人を襲うようなのなら、むしろ歓迎」
セラリスは即答した。
巨大な獣。
街道へ出て人を襲う怪物。
人里へ降りてきて家畜や農民を狙うようなもの。
そういうものをこの竜が獲物として狩ってくれるのであれば、周辺の安全という意味ではむしろ役に立つ可能性がある。
ヴァレリアも同じことへ思い至ったらしい。
「人を襲わないドラゴンが、周辺の危険な魔物を狩る……」
ミハイルも少し考えてから言った。
「それなら、逆に街道が安全になることもあるんじゃないか?」
「可能性はあるね」
セラリスは頷いた。
もちろん、ドラゴンを番犬のように扱えばいいというほど単純な話ではない。
竜には竜の意思がある。
人間の命令を聞く義務などない。
だが、この場で殺す必要のない相手を殺し、その結果として空いた縄張りへ別の怪物が入り込むくらいなら、話が通じる竜に一定の縄張りを維持させた方が、結果として周辺が安定する場合もある。
グリーンドラゴンは、まだ納得しきれないようだった。
「俺には何の得がある?」
セラリスは、ごく普通の顔で答えた。
「生きていられる」
一瞬。
洞窟が静まり返った。
ダリヤがさっと横を向いた。
肩が少し震えている。
ミハイルも、笑っていいのかどうかわからないような顔をしていた。
ヴァレリアだけは何とか真面目な表情を保っていたが、その視線がほんの少し泳いだ。
グリーンドラゴンは、まずソーンウォッチを見た。
次にセラリスを見る。
それから自分の身体へ目を落とした。
鱗の何枚かが砕け、まだ血が滲んでいる。
「……確かに、大きな得だな」
「でしょう?」
セラリスは平然と頷いた。
竜はしばらく考え、それから山腹へ開いた巨大な出口へ顔を向けた。
「山には獣がいる。森の奥には、俺でも食い応えのあるものがいる。人間を襲わなければ、お前は俺を狩りに来ないのだな?」
「少なくとも私は来ない」
「他の人間は?」
「約束を守っている限り、事情は説明する」
そこまで言って、セラリスは一つ付け加えた。
「でも、人の町の上をわざと低く飛んだり、村の近くで吠えたりして脅かさないでよ。何も食べてなくても、それだけで討伐隊が出るかもしれないから」
「人間は臆病だな」
「ドラゴンが頭の上を飛んでたら普通は怖いよ」
「俺はまだ小さい」
「人間から見れば充分大きい」
グリーンドラゴンは、それにはどうも納得がいかないらしかった。
自分より大きな竜を知っているからこそ、自分を小さいと思っているのだろう。
だが人間の尺度で見れば、まったく意味のない主張だった。
やがて竜は、長い首をゆっくり下げた。
「分かった」
セラリスは急かさず、その続きを待った。
「人間は襲わない。家畜も盗らない。山や森にいる獣と、人間を襲うような魔物を狩る」
一度言葉を切る。
「その代わり、お前も俺を殺さない」
「うん」
「約束だな?」
「約束」
グリーンドラゴンはしばらくセラリスの顔を見つめていた。
竜が人間と同じ意味で約束を考えるのかどうかはわからない。
けれども少なくとも、この個体は自分の言葉を取引として扱っているようだった。
やがて、それまで全身に入っていた力を少し抜き、床へ身体を伏せる。
ソーンウォッチが小さく言った。
「ずいぶん寛大だな、セラリス」
「そう?」
「竜を一頭、生かして残した」
セラリスは肩をすくめた。
「話が通じるんだから、殺す必要ないでしょ」
それを聞いたミハイルが、何かを思い出したようにゆっくり頷いた。
入口で捕らえたコボルドもそうだった。
敵として出会った。
だから殺す。
それが必ずしも一つにつながるわけではない。
戦わなくても済む相手なら戦わない。
戦ってしまったあとでも、相手が降参し、こちらへ害を加えないと約束するなら、そこで終わりにすることもできる。
必要なのは、敵を倒したという結果ではなく、自分たちが無事に帰り、そのあとも余計な危険を増やさないことなのだ。
ヴァレリアも、伏せた竜を見ながら何か考えているようだった。
先ほどまで命を奪い合っていた相手と、いまは言葉を交わしている。
冒険というものは、単純に剣を振るうだけではないのだと、少しずつ理解し始めているのかもしれない。
そのときだった。
ダリヤがグリーンドラゴンを見ながら、ふと思いついたように口を開いた。
「ところで」
竜が片眼を向ける。
「何だ」
「バーグルから貰ってた金って、どこにあるの?」
グリーンドラゴンの表情が変わった。
ほんの少し前まで、降伏した竜の顔をしていたはずなのに。
目が細くなる。
首が僅かに上がる。
前肢が床へ置き直される。
それだけで、急に「財宝を守るドラゴン」の顔になった。
ミハイルが即座にダリヤを見る。
「お前な」
「だって気になるでしょ!」
「今やっと話がまとまったところだぞ!」
「話がまとまったから聞いたんじゃない!」
「そういう問題か?」
ダリヤは譲らなかった。
「バーグルから金を貰ってたって、自分で言ったんですよ。どこにあるか気になるじゃないですか」
少しの沈黙。
セラリスも考えた。
そして。
「それはそう」
普通に頷いた。
「先生まで!?」
ミハイルが振り返る。
グリーンドラゴンは、今度こそ明らかな警戒を込めて、セラリスとダリヤを交互に見た。
先ほどまで命を守るために黄金の剣を気にしていた眼が、いまは別の意味で鋭くなっている。
どうやら竜という生き物にとって。
命の次に話が難しくなるのは。
財宝のことらしかった。