セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
ダリヤの問いを聞いた瞬間、若いグリーンドラゴンの態度は、露骨なほどに変わった。
つい先ほどまで、彼は洞窟の床へ大きな身体を伏せ、セラリスが提示した条件を慎重に吟味していた。人間を襲わないこと。家畜を奪わないこと。食料は野生の獣や、人里や街道を脅かす魔物から得ること。そして、それを守るかぎりセラリスは彼を殺さない。いくら若いとはいえ竜であり、つい先ほどまで敵として刃を交えていた相手である。その大きな頭を低くして話をしている姿には、妙なほど理性的なものがあった。
だが、財宝の話が出た途端、その理性の奥に隠れていたものが、鮮やかに表へ出た。
竜はゆっくりと身を起こした。
前脚をわずかに引き寄せる。
その動きによって初めて、腹の下へ敷き込まれるようにして隠されていたものが見えた。
金貨。
銀貨。
色とりどりの宝石。
金属製の杯らしいもの。
銀細工。
小さな装飾品。
決して伝説に語られる竜王の宝庫というほどではない。それでも、若い竜が一頭、自分の巣へ集めてきた財宝としては充分な量であった。
なるほど、とセラリスは思った。
バーグルから報酬として受け取ったものもあるのだろう。彼自身が以前から集めていたものもあるに違いない。それらを一つところへまとめ、自分の腹の下へ置いていたのである。
そして、それを見られたと悟った時の竜の目は、もう先ほどまでとはまるで違っていた。
「俺の腹の下にあるものは、俺の宝だ」
低い声が洞窟に響いた。
唸っているわけではない。
だが、その言葉には一切の曖昧さがなかった。
ダリヤが思わず半歩下がった。
「先の約束には入っていない。これを奪うなら、俺は戦う」
冗談でもなければ、値段を吊り上げるための脅しでもない。
本当に戦う。
一度は降伏し、命を助けられたばかりだというのに、財宝を奪われるくらいなら、もう一度命を賭ける。
それが竜という生き物なのだろう。
セラリスはソーンウォッチの切っ先を下げたまま、竜の腹の下から覗いている金貨をちらりと見た。
欲しい。
それは欲しい。
金貨はいくらあっても困らない。
弟子を育てるには金がいる。訓練場を整えるにも、食料を揃えるにも、武具を買うにも、旅をするにも、魔法の研究をするにも金がいる。将来、もっとしっかりした拠点を作ろうと思えば、石材も人夫も職人もただでは働かない。
強力な魔法の品を持っていることと、財布の中身が無限であることは、まったく別の話だった。
だからこそ、セラリスは少しだけ笑った。
「欲しいけど」
グリーンドラゴンの目が細くなる。
「君からは奪わないよ」
竜はしばらく彼女を見つめた。
「本当か?」
「本当」
「なぜだ」
セラリスは肩をすくめた。
「降参した相手と約束して、その直後に宝まで取り上げたら、次から誰も降参してくれなくなるでしょう」
その言葉に、ミハイルがなるほどという顔をした。
ヴァレリアも小さく頷く。
ダリヤだけは、いかにも名残惜しそうに竜の腹の下から覗いている金貨をもう一度見たが、さすがに何も言わなかった。
セラリスにとって、それは別に高尚な慈悲ではない。
約束というものは、守られると思われて初めて意味を持つ。
降参すれば命は助かると言っておきながら、武器を捨てた途端に殺す者がいるなら、次に出会った敵は最後まで戦うだろう。降伏したところで財産も何もかも奪われるのであれば、やはり命が尽きるまで抵抗するかもしれない。
そうなれば、こちらも余計な傷を負う。
戦いは長引く。
死ぬ者も増える。
ならば一度決めた条件は守った方がいい。
その方が、結局は安全だった。
セラリスは少し考え、ふと別のことを思いついた。
「それより、こうしよう」
竜の耳にあたる部分がわずかに動いた。
「何だ」
「これから私たちが君に相談したいことがあったり、力を貸してほしいことがあったら、その時は逆に私たちが君に金貨を払う」
その瞬間。
竜の表情が変わった。
今度は警戒ではない。
明らかな興味だった。
「いくらだ」
あまりに返答が早かったので、ダリヤが目を瞬いた。
セラリスは笑いそうになるのを少し堪えた。
「それは、その都度相談」
「決まっていないのか」
「仕事によって違うでしょう」
セラリスは指を一本立てた。
「ちょっと遠くの谷を見てきてほしい、っていう仕事と、命懸けで強い魔物と戦ってほしい、っていう仕事を同じ金額には出来ないよね」
グリーンドラゴンは黙った。
考えている。
その様子は、むしろひどく分かりやすかった。
金。
財宝。
食料。
そして、自分が受ける危険。
少なくともそれらについて、彼は非常に明快な価値観を持っているらしい。
友情だから助けてほしいと言えば、たぶん首を傾げる。
大義のためだと言えば、なぜ自分が、と言うだろう。
だが、これだけの仕事をしてくれ、その代わりにこれだけ払う、と言えば理解する。
やがて、グリーンドラゴンはゆっくりと頭を上下させた。
「いいだろう」
セラリスが微笑んだ。
「その時は力を貸してくれる?」
「報酬に納得すればな」
「うん。それでいい」
むしろ、その方が健全だった。
友情。
義理。
恩。
使命。
そういう曖昧なものは、ある時には大きな力になるし、ある時には何の役にも立たない。
けれど、仕事と報酬なら少なくとも何を求めているのかが分かる。
この竜とは、もしかするとその方が長く付き合えるかもしれなかった。
ところが。
グリーンドラゴンはそこで少し首を傾けた。
「こちらも」
「うん?」
「ないとは思うが」
珍しく言い淀んだ。
「お前たちに相談したいことや、力を貸してほしいことが出来れば」
巨大な爪が、腹の下の金貨をわずかに掻いた。
「この財を分け与える」
ミハイルが目を瞬いた。
「俺たちにも?」
竜が怪訝そうに彼を見る。
「当然だ」
「当然?」
「仕事をさせるなら、報酬を払うのだろう?」
ミハイルは黙った。
ダリヤも。
ヴァレリアも。
そしてセラリスは、とうとう笑った。
「そうだね」
思っていたより話が早い。
いや、下手をすれば、話が通じるという意味ではそこらの人間よりよほどまともかもしれない。
自分が働けば報酬を貰う。
他人に働かせれば報酬を払う。
ただ、それだけだ。
けれど、その単純なことすら出来ない者はいくらでもいる。
報酬だけは欲しがるのに、他人へ払う時になると急に惜しむ者もいる。働かせることは当然だと思い、自分が働かされると不満を言う者もいる。
少なくとも、この若いグリーンドラゴンには、そういう妙なところはないらしい。
「じゃあ」
セラリスは手を差し出しかけた。
途中で止まった。
相手はドラゴンである。
人間の手。
それに対して、こちらは一抱えどころでは済まない巨大な前脚。
握手はどう考えても難しい。
少し考えた末、セラリスはそのまま手を軽く上げた。
「約束」
グリーンドラゴンは彼女の手を見た。
それから、大きな前脚を少しだけ持ち上げた。
「約束だ」
「うん。約束」
それだけだった。
契約書もない。
立会人もいない。
印章も押さない。
ただ、一人のエルフと、一頭の若い竜が互いに言葉を交わしただけである。
けれど、それで充分だった。
これでスレスホールド近郊の山中に、人間を襲わず、家畜にも手を出さず、野生の獣や人里を脅かす魔物を獲物とし、必要なら金貨で仕事を引き受け、逆に自分が困った時には財宝を報酬として人間やエルフへ助力を頼む、そんな妙に話の分かるグリーンドラゴンが一頭、住み着くことになった。
誰かが最初からそうしようと計画したわけではない。
大公国が政策として配置したわけでもない。
セラリスですら、バーグルを追ってこの洞窟へ入った時には、こんな話になるとは思っていなかった。
それなのに。
敵だった竜が、いつの間にか、場合によっては仕事を頼める相手になっている。
ダリヤが、その奇妙さに気づいたようだった。
「なんだか、ゴールド・ドラゴン亭の掲示板で仕事を探す時と似てますね」
ミハイルが首を傾げた。
「どこが?」
「頼みたいことがある人が、何をしてほしいか言って、引き受ける方が報酬を聞くでしょう」
「ああ」
「今度は相手がドラゴンなだけです」
ヴァレリアも少し考えてから、苦笑した。
「それに、こちらから頼むだけじゃなくて、向こうからも依頼が来るかもしれないんですね」
「そういうことになるね」
セラリスが答えた。
それは別に、何か大きな制度を作ったという話ではなかった。
そもそも冒険者たちは、一つの組織に登録され、誰かに仕事を割り振られて動いているわけではない。
宿屋の掲示板。
商人からの紹介。
知人からの頼み事。
村人が直接持ち込む困り事。
酒場で耳にした噂。
そうしたものを自分たちで聞き、自分たちで受けるかどうかを決め、必要なら報酬を交渉する。
今回も、それと何も変わらない。
ただ。
依頼する側、あるいは依頼される側の一方が。
若いグリーンドラゴンだった。
ソーンウォッチが、セラリスの手の中から静かに口を挟んだ。
「非常に合理的だ」
セラリスが剣を見る。
「珍しく素直に褒めるね」
「財宝を奪うために再戦し、どちらかが死ぬまで戦うよりは、はるかにな」
グリーンドラゴンも、同意するように低く鼻を鳴らした。
「その剣は話が分かる」
セラリスは竜を見る。
次に剣を見る。
「……あなたたち、気が合うんじゃない?」
「それは困る」
「なぜだ」
剣と竜の声が、ほとんど同時に洞窟へ響いた。
セラリスは一瞬黙った。
ミハイルが吹き出す。
ダリヤは口元を押さえた。
ヴァレリアまで肩を震わせている。
セラリスだけは、少し嫌な予感がした。
理屈を優先する。
契約を守る。
財宝に対する執着を隠そうともしない。
そのくせ妙なところで律儀である。
一振りの知性ある魔剣と、一頭の若いグリーンドラゴン。
考えてみれば。
確かに。
妙に似ているところがある。
「……ほんとに気が合うんじゃない?」
「違う」
「違う」
今度は声まで揃った。
セラリスは、ますます嫌な予感がした。
どうやら。
この一振りと一頭は。
本人たちが認めたがらないというところまで含めて。
思っていた以上に相性が良いのかもしれなかった。