セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
バーグルが逃げ、グリーンドラゴンとの話もひとまずまとまったあと、セラリスたちは来た道を引き返し、地下二階の集積場へ戻ってきた。
ダリヤの言い方を借りれば、目的は「襲う」ためだったのだが、実際には戦闘らしい戦闘にはならなかった。広間で瓦礫や古い道具を仕分けていたコボルドたちは、四人の姿を見るなり一斉に手を止め、まるで逃げ道を探すように周囲を見回してから、怯えた様子で互いに身を寄せ合った。
つい先ほどまでなら、彼らの背後にはバーグルという支配者がいた。逆らえば何をされるか分からない。その恐怖があるからこそ、瓦礫を運び、選別し、命じられた通りに働いていたのだろう。しかし今、そのバーグルはもういない。
「バーグルは逃げたよ」
セラリスがそう告げても、最初は誰も信じようとしなかった。
「御方が?」
「本当に?」
「戻ってくるぞ」
口々に上がる声には、疑いよりもむしろ恐怖が滲んでいた。もしこれが嘘で、彼らが自由になったと思って仕事を放り出し、あとでバーグルが戻ってきたなら、その時にどんな罰を受けるのか。それをよく知っている者たちの反応だった。
セラリスは急かさず、影武者として使われていた二体のうち一体が偽者の人間で、もう一体が魔法で作られた像だったこと、その両方を破壊したこと、さらに奥では本物のバーグルがグリーンドラゴンと組んで待ち伏せしていたが、それも失敗し、最後には透明になって山の外へ逃げたことを順に説明した。
ざわめきは次第に大きくなり、やがて年嵩らしい一匹のコボルドが仲間の陰から恐る恐る顔を出した。
「……もう、命令を聞かなくてもいいのか?」
「私から君たちに命令するつもりもないよ。好きなところへ行けばいい」
その言葉が広間へ落ちた瞬間、空気が変わった。
それまで張りつめていた糸が一斉に切れたように、コボルドたちは騒ぎ出した。寝床へ駆け戻る者、保存食らしい袋を抱える者、古びた毛布を丸める者、仲間を呼ぶ者、そして仕分け途中の品々から少しでも価値がありそうなものを拾って懐へ押し込もうとする者までいる。
忠誠心など、最初からなかったのだろう。彼らをここへ縛りつけていたものは、恐怖だけだった。
「みんな逃げるんですね」
ヴァレリアが、目の前の慌ただしい光景を眺めながら言った。
「まあ、あんな主人ならね」
セラリスも苦笑した。自分が同じ立場だったとしても、喜んで仕え続けたいとは思わない。
もっとも、コボルドたちはただ逃げるだけではなかった。自由になった礼なのか、それともせめて最後に何か役に立つことを言っておこうと思ったのか、先ほどの年嵩の一匹が荷物を背負ったまま振り返り、広間の奥へ続く通路を指した。
「御方の部屋、そっち」
「寝る部屋?」
「そう。鍵ある」
すると今度は、別の一匹が別方向の通路を指した。
「こっちは実験する部屋。危ないものある。触ると駄目なのもある」
その言葉を聞いた途端、ダリヤの目が明らかに輝いた。
「私室と実験室」
ミハイルが横目で見る。
「嬉しそうだな」
「そりゃ嬉しいでしょ。魔法使いの私室と実験室だよ?」
「危ないものがあるって言われた直後なんだけど」
「そこは調べればいいの」
セラリスがすぐに口を挟んだ。
「だからって、嬉しくなってすぐ触らないでよ」
「はい」
以前なら、宝があると分かった瞬間に手を伸ばしていたかもしれないダリヤが、今ではそこで素直に頷く。宝物がある。だからこそ罠を疑う。少しずつではあるが、彼女の中で順番が変わってきていた。
やがて、最後のコボルドまでが地下通路の向こうへ姿を消した。
あとに残ったのは、ゾンビだけだった。
彼らはバーグルが逃げたことも、コボルドが自由になったことも知らない。いや、おそらく知るという発想そのものがない。ただ瓦礫を拾い、籠へ入れ、運び、指定された場所へ置き、また元の部屋へ戻る。それだけを、誰に見られていようといまいと同じように続けている。
ミハイルは、骨ばった足取りで通路の奥へ消えていく一体を眺めながら言った。
「本当に、このまま働かせておけばいいな」
「定期的に様子を見る必要はあるけどね」
セラリスは答えた。
「バーグルがどんな命令を残したのか、全部分かってるわけじゃないし。もし変な条件が入ってたら困るから」
「それでも、自分たちで瓦礫を掘るよりずっと楽ですよ」
ダリヤに異論はなかった。
この地下は、かなりの部分が一度土砂に埋もれていたらしい。それをバーグルはゾンビを労働力として使い、長い時間をかけて掘り返していた。本人は逃げたが、残された仕組みまで壊す理由はない。命令されたゾンビは瓦礫を運ぶ。もし残るコボルドがいるなら、報酬を払って選別を続けてもらってもいい。セラリスたちは時々様子を見に来て、危険物がないか確かめ、価値のあるものがあれば回収する。
考えてみれば、ひどく効率が良かった。
「なんだか」
ヴァレリアが半ば呆れたように言った。
「遺跡を探索しに来たはずなのに、いつの間にか管理する話になってません?」
「探索した後って、そうなるんじゃない?」
「そういうものなんですか?」
「少なくとも、何もせず放っておくよりはいいよ」
セラリスは冗談ではなくそう思っていた。一度安全になった場所をそのまま放置すれば、いずれ別のゴブリンやコボルド、盗賊、野獣、あるいはもっと厄介な怪物が住み着く。それなら、時折人が入り、内部を確認し、利用出来るものは利用した方がいい。
しかもミスタメア城はスレスホールドからそう遠くない。浅い区画だけなら、いずれ新人たちに実地で探索の基本を教える場所としても使えるかもしれない、とセラリスはそこで思った。
扉の前で止まること。角を覗く前に考えること。十フィート棒を使うこと。灯りと退路を切らさないこと。階段を見つけたからといってすぐに降りないこと。
実物の遺跡ほど、それらを覚えるのに向いた場所もない。
もっとも、その考えを今ここで口にすれば、ミハイルたちはきっと何ともいえない顔をするだろうから、セラリスは黙っておいた。
/*/
バーグルの私室と実験室は、彼自身がそこにいなくなったあとだからこそ、かえってその性格をよく物語っていた。
まず私室は、地下暮らしとは思えないほど贅沢だった。寝台は上等で、掛布も厚く、机も椅子もどこかの町からわざわざ持ち込んだらしい高級品だった。酒器には細かな装飾があり、食器にもそれなりの金がかかっている。地下へ潜んで暮らしているからといって、不自由な生活を受け入れるつもりはなかったらしい。
ミハイルが室内を見回しながら言った。
「結構いい暮らししてたんですね」
「逃げる時に全部持っていけるわけじゃないですからね」
ヴァレリアが答えた。
その隣の実験室は、まるで別人の部屋のようだった。
棚には薬品の瓶が並び、乾燥した植物、骨片、金属片、革袋、用途の分からない石、小さな箱、焦げた魔法陣の板、割れた器具、途中まで書かれた術式などが、秩序があるのかないのか分からない状態で置かれている。
「触らないで」
セラリスは入った瞬間に言った。
「分かってます」
ダリヤも今度は即答した。
こういう部屋では、鍵のかかった宝箱より、何の変哲もなく机の上に置かれた瓶の方が怖いことがある。失敗作なのか、完成した魔法具なのか、呪われているのか、ただの材料なのか、見ただけでは判別出来ない。
ダリヤは十フィート棒を使い、鏡を使い、床を見て、机の裏を見て、棚の脚元まで確かめた。引き出しも箱も、今まで以上に時間をかけて調べる。
その結果、持ち帰る価値があると判断されたものは、思った以上に多かった。
盾が一つ。
金属鎧が一領。
革鎧が一領。
一対の小手。
正体不明のポーションが六本。
いくつかの宝石。
そして、金貨三千枚。
ダリヤは目の前の金貨の山を見て、しばらく声も出なかった。
「……三千枚」
ようやく出た声が、少し小さい。
ミハイルが現実的なことを言った。
「持って帰る方が大変そうだな」
「嬉しい苦労です」
「そこは即答なんだ」
「当然でしょう」
セラリスも笑った。
グリーンドラゴンの腹の下にあった財宝には手をつけなかった。あれは彼のものだと約束した。それなら取らない。
しかし、これは違う。バーグルが置いて逃げたものだ。ならば遠慮する理由はない。
ただし、持てるだけ全部持って帰ろうとして動けなくなるような真似もするつもりはなかった。四人は金貨と装備を出来るだけ均等に分け、残りがあれば後日取りに来ることにした。
「無理して持って帰って、帰り道で走れなくなったら意味ないからね」
セラリスがそう言うと、三人とも素直に頷いた。
目の前に宝があるからといって、全部を今この瞬間に持ち帰らなければならないわけではない。その判断が当たり前に出来るようになってきたことを、セラリスは密かに嬉しく思った。
/*/
そうして四人は、今度こそミスタメア城を後にした。
誰一人として傷を負っていない。
回復薬は一本も使わなかった。
ヴァレリアの癒しにも頼らなかった。
事前に決めていた撤退条件には最後まで一つも引っかからず、それでも無理をせず、全員が自分の足で帰ってきた。
セラリスは城を離れる前に、一度だけ廃墟を振り返った。
最初に足を踏み入れた時には、もっと小さな探索になると思っていた。
コボルド。
ゾンビ。
地下。
バーグル。
グリーンドラゴン。
そして、財宝。
思っていたよりずっと深いところまで来たし、思っていたよりずっと大きなものに触れた。
それでも、四人そろって帰る。
そこだけは、最初に決めた通りだった。
/*/
スレスホールドへ戻ったあとは、鑑定である。
まず、東の暖炉の奥から見つけた、妙に保存状態の良かった短剣。
やはり単に錆びていなかったわけではなかった。
刃には、はっきりと魔法の力が宿っていた。
ダガー+1。
ダリヤは短剣を手に取ると、軽く振ってみた。
「やっぱり魔法のだったんだ」
「そうみたいだね」
次は、地下通路にぽつんと落ちていた一足のブーツ。
妙に傷みが少なかったことから、誰もその場で履こうとはしなかった。持ち帰って鑑定した結果、その用心は正しかった。
正体は、トラベリング&リーピングブーツ。
移動と跳躍を助ける魔法の靴である。
説明を聞いたダリヤは、自分の足元とブーツを交互に見た。
「……これ、私にすごく合いません?」
「私もそう思う」
セラリスは即答した。
偵察し、先を見て、必要なら素早く戻る。探索役であるダリヤには、ほとんど理想的な品だった。
次に、バーグルの部屋から持ち帰った防具。
盾はシールド+1。
金属鎧はプレートメイル+1。
革鎧はレザーアーマー+1。
それだけでも、三人にとっては十分すぎるほどの収穫である。
そして、一対の小手。
鑑定した者がその能力を説明した瞬間、ミハイルの顔が変わった。
身につけた者に、人間離れした怪力を与える。
オーガ・パワー・ガントレット。
「怪力?」
ミハイルは小手を見た。
「どのくらい?」
「実際に試してみればいいよ」
セラリスは少し楽しそうだった。
「ただし、最初は物を壊さないところでね」
「俺が壊す前提なんですか?」
ダリヤがすぐ横から言った。
「握手しないでね」
「しないよ」
「絶対?」
「しないって」
ヴァレリアまで笑った。
/*/
最後は六本のポーションだった。
これは一本ずつ、慎重に鑑定した。
回復薬が二本。
透明化のポーション。
巨大化のポーション。
ESPのポーション。
そして、最後の一本。
その正体を聞いた瞬間、四人の表情がそろって変わった。
毒。
ダリヤは反射的に瓶から少し離れた。
「……危なっ」
ヴァレリアも顔をしかめる。
「飲んで確かめなくて、本当に良かったですね」
「だから、正体の分からない薬は飲んじゃ駄目なんだよ」
セラリスは毒の瓶へ誰が見ても分かる印をつけ、他のポーションから完全に分けた。
「これは間違って使わないように、厳重に保管」
全員に異論はなかった。
/*/
装備の分配は、思ったより早く決まった。
ダリヤには、レザーアーマー+1、ダガー+1、そしてトラベリング&リーピングブーツ。
どれも偵察と探索、そして素早く動くことに向いた品である。
新しい革鎧を着て、腰へ短剣を差し、最後にブーツを履いたダリヤは、しばらく自分の姿を眺めてから、満足そうに言った。
「……一気に冒険者っぽくなった」
ミハイルが首を傾げる。
「今までも冒険者だっただろ」
「そういう意味じゃないの」
「どういう意味だよ」
「なんか、こう……ちゃんと拾った魔法の装備が揃ってきた感じ」
「それは分かるような、分からないような」
言葉にしきれなくても、嬉しいのは明らかだった。
ヴァレリアには、プレートメイル+1とシールド+1。
もともと前衛で盾を構え、仲間を守る役目を担っていた彼女にとっては、ほとんど理想的な強化だった。
「二つも、私がもらっていいんですか?」
少し恐縮したように尋ねる。
「使える人が使うのが一番だよ」
セラリスは答えた。
「ダリヤにプレートメイルを着せても仕方ないでしょう」
「動けなくなります」
ダリヤが即答する。
「それに、ミハイルにはこっちがあるしね」
セラリスがオーガ・パワー・ガントレットを見る。
剣を振るう。
盾を支える。
扉を押し開ける。
仲間を引き上げる。
荷物を運ぶ。
怪力は戦闘だけでなく、探索でもいくらでも役に立つ。
ミハイルは小手を装着し、恐る恐る拳を握った。
「……変な感じだ」
「何か持ち上げてみる?」
ダリヤが周囲を見回す。
「人じゃないものにしてくださいね」
ヴァレリアが念を押した。
「分かってるって」
そんなやり取りを、セラリスは少し笑いながら見ていた。
回復薬二本は、誰か一人の所有物にはしなかった。
一行全体の緊急用。
透明化、巨大化、ESPも同じである。その場で最も必要な者が使う。
毒だけは完全に別管理。
そこには誰からも異論が出なかった。
/*/
金貨三千枚と宝石は、鑑定や売却にかかる費用を差し引いたうえで、四人で公平に分けることになった。
もちろん、セラリスも自分の分を受け取った。
ミハイルが少し意外そうな顔をする。
「先生も取るんですね」
「取るよ」
「いや、取らないと思ってたわけじゃないですけど」
「お金は必要だからね」
訓練場。
石造りの小屋。
消耗品。
旅費。
食料。
薬。
弟子たちの訓練。
魔法の研究。
これから先、何をするにしても金は要る。
強力な魔法具を持っているからといって、財布の中身まで勝手に増えるわけではない。
ダリヤが少し得意そうに言った。
「財宝に罪はない」
セラリスが笑う。
「覚えてたんだ」
「大事なことですから」
「そこだけは覚えるの早いよね」
/*/
その夜、ゴールド・ドラゴン亭の一室で、三人は新しく手に入れた装備をもう一度並べていた。
ダリヤの革鎧と短剣とブーツ。
ヴァレリアの鎧と盾。
ミハイルの小手。
机の上には共用のポーション。
最初にミスタメア城へ向かった時とは、ずいぶん違っている。
ミハイルは普通のプレートメイルに盾と剣。
ヴァレリアも普通のプレートメイルと盾とメイス。
ダリヤは革鎧とショートソード。
それだけだった。
今は、魔法の鎧があり、魔法の盾があり、魔法の短剣があり、魔法のブーツがあり、怪力を与える小手まである。
装備だけを見れば、あの頃とはまるで違う。
けれど、セラリスにとって一番大きく変わったものは、そこではなかった。
入口で違和感があれば、無理に進まない。
敵がいたからといって、必ず殺さなければならないとは考えない。
眠らせて捕らえ、話が出来るなら情報を取る。
戦わなくていい相手は逃がす。
階段があっても、すぐ降りない。
箱があっても、すぐ開けない。
宝が見えても、まず周囲を確かめる。
待ち伏せされているなら、相手が望む場所で相手が望む戦いをしない。
そして、退く条件を先に決める。
何かを得ることより、まず帰ることを考える。
三人はまだ若い。
強くなったと言い切るには、経験も足りない。
それでも、生き残るための考え方だけは、少しずつ身体へ染み込み始めている。
そのうえで、新しい装備まで手に入れた。
だからこそ、セラリスは三人を見回して言った。
「次からは、装備が良くなった分だけ気をつけてね」
ミハイルが首を傾げる。
「強くなったのに?」
「強くなったから」
その答えの意味に、ダリヤが先に気づいた。
「ああ。もっと行けるって思っちゃうから?」
「そう」
ヴァレリアも少し苦笑する。
「また『もう一部屋だけ』ですね」
「うん。それが一番怖い」
まだ行ける。
もう少し。
あと一つ。
せっかくだから。
そういう言葉が、人を一番深いところへ連れていく。
強い剣があれば、もっと戦えると思う。
良い鎧があれば、もっと耐えられると思う。
回復薬があれば、あと一回くらい大丈夫だと思う。
そうやって限界を一つずつ先へ延ばしているうちに、気がつけば帰るだけの余力がなくなる。
「装備が良くなったからって、危なくなくなったわけじゃないからね」
セラリスが静かに言うと、三人は今度こそ真面目に頷いた。
誰も冗談にはしなかった。
ミハイルは自分の小手を見た。
ダリヤは新しいブーツの爪先を軽く動かした。
ヴァレリアは盾の縁を指でなぞった。
そして、少し間を置いて、誰からともなく笑った。
ミスタメア城で得たものは、金貨だけではなかった。
魔法の品だけでもなかった。
危険な時に、進まないこと。
戦わなくていい時に、戦わないこと。
欲しいものが目の前にあっても、帰れるうちに帰ること。
そして、誰も欠けずに、また同じ卓を囲むこと。
その方が宝より大事だということを、三人はようやく頭で聞いただけの教訓ではなく、自分たち自身の経験として少しずつ理解し始めていた。