セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
ミスタメア城の修繕が始まって、まだ十日も経たない頃だった。
城の外側では、スレスホールドから呼ばれた石工たちが崩れかけた外壁を調べ、大工たちは雨漏りのひどい屋根をどこまで直すべきか相談していた。もっとも、セラリスは廃墟をすっかり新しい城に戻すつもりはなかった。危険な崩落だけは防ぐが、訓練に使えそうな壊れた扉や暗い廊下、瓦礫の残る部屋などは、むしろ残しておきたいのである。
その日の午後、城門近くで木材の寸法を測っていたセラリスは、見張りをしていたミハイルに呼ばれた。
「先生。ちょっと来てもらえます?」
声の調子が妙だった。
敵襲を告げる切迫したものではない。かといって、単なる来客でもなさそうである。
外へ出てみると、ミハイルとヴァレリア、それにダリヤが、城壁から少し離れた草地を見ていた。
そこには十数匹のコボルドがいた。
痩せていた。
最初に城で会った時より、明らかに汚れてもいる。腕や耳に包帯を巻いている者までいて、荷物もずいぶん減っていた。
セラリスが近づくと、その中の一匹が恐る恐る前へ出てきた。
見覚えがある。
地下二階の集積場にいたコボルドだった。
「戻ってきたの?」
セラリスが尋ねると、コボルドは気まずそうに耳を伏せた。
「山、駄目だった」
「駄目?」
「向こうはゴブリンの場所だった。追い出された」
後ろから別の一匹が口を挟む。
「北は大きい狼いる」
「川の方はオーク」
「洞窟はもう別の奴が使ってた」
どうやら自由になったのはよかったものの、自由になったからといって、都合よく安全な土地が空いているわけではなかったらしい。
山にも森にも、それぞれ先客がいる。
ゴブリンには縄張りから追い払われ、獣には仲間を襲われ、比較的安全な場所を探しているうちに、結局見慣れたミスタメア城の近くまで戻ってきたということだった。
ダリヤが小声で言った。
「世知辛いね」
ヴァレリアも同情するように眉を下げる。
ミハイルはしばらくコボルドたちを見ていたが、
「でも、ここも今は訓練所にするんだろ?」
と言った。
その言葉を聞いたコボルドたちが、ますます不安そうになる。
一匹が尋ねた。
「ここにも、住めない?」
セラリスはすぐには答えなかった。
追い払うのは簡単だった。
彼らはバーグルから解放した相手ではあるが、だからといって、セラリスが生涯面倒を見る義務があるわけではない。
けれど。
城壁。
地下。
訓練場。
これから維持しなければならない場所を思い浮かべる。
扉の点検。
通路の掃除。
訓練用の罠。
地下の照明。
瓦礫の管理。
ゾンビが運び出した発掘物の確認。
どれも誰かがやらなければならない仕事だった。
そして目の前には。
この城の構造をすでに知っている者たちがいる。
セラリスは少し考えたあと、尋ねた。
「働く?」
コボルドたちは揃って首を傾げた。
「……働く?」
「うん」
セラリスは城を指した。
「ここに住みたいなら、仕事をしてもらう」
少しの沈黙の後。
年嵩のコボルドらしい一匹が、警戒した様子で尋ねた。
「何をする?」
「城の管理」
「管理?」
「壊れたところがあったら教える。通路を掃除する。訓練用の仕掛けを用意する。終わったら元に戻す。地下で危ないものを見つけたら勝手に触らないで報告する」
コボルドたちは顔を見合わせた。
どうも、それほど恐ろしい仕事内容には聞こえなかったらしい。
そこで一匹が尋ねる。
「失敗したら?」
「直してもらう」
「殴る?」
セラリスが眉を寄せた。
「なんで殴るの?」
コボルドは逆に、不思議そうな顔をした。
「前の御方、失敗すると殴った」
「あれは雇ってたんじゃなくて、恐怖で働かせてただけでしょ」
「違うのか?」
「違うよ」
セラリスは言い切った。
「働いたら給料を払う」
今度こそ。
コボルドたちの空気が変わった。
「給料?」
「金貨?」
「食べ物?」
「食事も用意する。住む場所も城の一角を使っていい」
一匹が身を乗り出した。
「金貨も?」
「払うよ」
たちまち、ざわめきが広がった。
先ほどまで怯えていたのが嘘のようである。
ダリヤが呆れたように笑った。
「分かりやすいなあ」
セラリスには、それでよかった。
善意だけを頼りにするより、仕事には報酬があると最初から決めてしまった方が、よほど関係は長続きする。
「ただし、約束は必要」
セラリスが声を少し強めると、コボルドたちは静かになった。
「訓練に来た冒険者の物を盗まない」
何匹かが目を逸らした。
「人を勝手に攻撃しない」
さらに数匹が目を逸らした。
「あと、本物の殺す罠を仕掛けない」
そこで初めて、コボルドたちが揃って不思議そうな顔をした。
「罠なのに?」
「うん」
「殺さない?」
「訓練だから」
「でも罠は、殺すために作る」
年嵩のコボルドが真剣に言う。
セラリスは頭を抱えたくなった。
「ここでは違うの。矢なら尖ってないもの。落とし穴なら底に藁を敷く。落石は軽い砂袋。毒は色水。掛かったら分かるけど、死なないようにする」
コボルドはしばらく考え、
「難しいな」
と言った。
「慣れて」
ダリヤが吹き出した。
ミハイルも笑っている。
ところが数日後。
コボルドたちは、この仕事について驚くほどの才能を見せ始めた。
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「これ、誰が考えたの?」
セラリスは地下の訓練通路で足を止めた。
目の前にあるのは、いかにも怪しい宝箱だった。
誰が見ても怪しい。
鍵穴の周囲には妙に目立つ細工があり、箱の前の床板には細い糸まで見えている。
訓練生なら、まず間違いなくそちらを警戒するだろう。
だが。
セラリスは横の壁を見た。
「こっち?」
隠れていたコボルドが、得意そうに顔を出した。
「宝箱の罠を調べてる間、後ろを見る奴少ない」
本当の仕掛けは背後だった。
箱の罠そのものは囮。
訓練生が箱に集中すると、背後の小穴から色粉が飛んでくる。
「……いやらしい」
セラリスが感心したように言うと、コボルドの耳が少し立った。
「褒めてる?」
「すごく褒めてる」
実戦を知っている。
しかも。
弱者として生き残ってきた者の発想だった。
力で正面から勝てない。
だから相手の注意をずらす。
人数を誤認させる。
逃げ道を残して追わせる。
音を使う。
暗がりを使う。
そういう知恵について、コボルドは人間の兵士よりよほど詳しかった。
セラリスが求めていたのは、まさにそれである。
整った訓練場で剣を振るだけでは身につかない。
冒険者として、生きて帰るための感覚。
やがてコボルドたちには、革で作った赤い腕章が配られた。
ミスタメア城の管理人であることを示すものだ。
訓練生には最初に必ず説明する。
赤い腕章を付けたコボルドは職員。攻撃禁止。
この説明に、新しく来た若者は大抵同じ反応をした。
「……コボルドが職員?」
「そう」
セラリスは平然と答える。
「訓練中、分からないことがあれば聞いていいよ」
すると横にいたコボルドが腕を組み、
「罠の答えは教えない」
と付け加える。
「教えたら訓練にならないからな」
新人冒険者は、たいていそこでさらに混乱する。
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アリーナがその状態を実際に見に来たのは、それからしばらく経ってからだった。
城外には新しい建物の基礎が作られ始め。
城内では大工が危険な床を補修し。
赤い腕章をしたコボルドたちが、梯子を担いだり、ランプの油を補充したり、訓練用の箱を運んだりしている。
アリーナはしばらく、その光景を黙って眺めていた。
そして。
「セラリス」
「なに?」
「廃城にコボルドの集落を作ったの?」
「違うよ」
セラリスは即座に否定した。
「職員宿舎」
アリーナが目を閉じる。
「言い方を変えても、コボルドが二十匹近く住んでいることは変わらないでしょう」
「でも全員、正式に雇ってるよ?」
「そこが一番おかしいのよ」
セラリスには、何がおかしいのかよく分からなかった。
仕事がある。
働ける者がいる。
住む場所を必要としている。
なら雇えばいい。
少なくとも、バーグルのように恐怖で支配するよりは、ずっと簡単である。
その時。
通路の奥から一匹のコボルドが走ってきた。
「セラリス!」
「どうしたの?」
「東の訓練部屋、床が少し沈む。下に空洞あるかもしれない」
セラリスの表情が変わる。
「誰も入れてない?」
「止めた。扉に赤い札つけた」
「よし。あとで一緒に調べよう」
「分かった」
コボルドは、それだけ言うとまた走っていった。
アリーナが、その背中を見送る。
「……ちゃんと管理人をしているのね」
「でしょう?」
セラリスは少し得意そうだった。
「この城について、私たちより詳しいところもあるし」
アリーナは苦笑した。
結果だけを見れば。
怪物に占拠されていた廃墟は。
冒険者の訓練施設へ変わりつつあり。
かつて恐怖に支配されていたコボルドたちは、そこで給料をもらって働いている。
地下では、いまだにゾンビが命令されたまま瓦礫を運び続けている。
さらに山には、人を襲わないという約束をしたグリーンドラゴンのヴァルザリオンまでいる。
およそ普通の領主や神官が考えるような治安回復とは、何かが違う。
だが。
少なくとも。
以前より人が死ににくい土地になっていることだけは。
アリーナにも否定できなかった。