セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
次にヴァルザリオンのもとへ牛を届けた時、セラリスはいつもの一頭とは別に、もう一頭分の代金を用意していた。
血を抜き、内臓を取り分け、腸まできれいに洗った牛が運び込まれると、若いグリーンドラゴンはすっかり馴染みになった食事を前に、満足そうに鼻を鳴らした。
近頃では、牛を担いでくるコボルドたちにも驚かなくなっている。
むしろ彼らの姿を見ると、
「今日は内臓もあるのだろうな」
と確認するほどだった。
「あるよ。ちゃんと洗ってある」
「よい」
ヴァルザリオンが機嫌よく答えたところで、セラリスは本題を切り出した。
「それで、追加でもう一頭持ってくるから、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
竜が肉へ伸ばしかけた首を止めた。
「仕事か?」
「うん。ミスタメア城の上空を何回か旋回してくれる?」
ヴァルザリオンはしばらく黙った。
難しい要求ではない。
むしろ、あまりにも簡単だったらしい。
「お安い御用だが、そんなものでどうするのだ?」
セラリスは洞窟の外、ミスタメア城のある方角を指した。
「コボルドたちが農業を始めたでしょう?」
「聞いている」
ヴァルザリオンも、最近になって麓の景色が変わっていることには気づいていた。
「小麦や野菜が育ち始めて、今度は豚や牛まで飼いたいって言ってるんだけど、そのせいで今までより食べ物が増えた」
「それが?」
「ゴブリンとかが来るようになった」
話は単純だった。
これまでは、ミスタメア城周辺にわざわざ近づく理由のなかった山のゴブリンたちも、丘の麓に畑が広がり、食料が蓄えられていることに気づき始めた。
夜中に畑へ入り込む者。
収穫物を盗もうとする者。
まだ小規模ではあったが、このまま家畜まで飼い始めれば、いずれ襲撃を企てる集団が出てもおかしくない。
「だから」
セラリスは続けた。
「ここがグリーンドラゴンの縄張りでもあるって示してくれれば、そういうのは怖がって近づかなくなるかなって」
ヴァルザリオンは、その説明を聞いてから少しだけ考えた。
そして。
「いいだろう」
あっさり承諾した。
「あいつらがいれば、新鮮で美味い牛が食えるからな」
「そこなんだ」
「重要だぞ」
「まあ、そうだね」
少なくとも利害関係は非常に明確だった。
コボルドたちの生活が安定すれば、牛を運ぶ手も確保できる。
畑や牧畜が発展すれば、周囲の農家との取引も増える。
そしてヴァルザリオンには、定期的に処理の行き届いた牛が届く。
竜にとっても、コボルドの集落を守る理由は充分にあった。
「じゃあ、明日お願い」
「何度回ればよい?」
「三、四回くらいかな。あと、できれば鳴いて」
「鳴く?」
「咆哮」
ヴァルザリオンが、いささか誇らしげに首を持ち上げた。
「それなら任せろ」
どうやら、そこは得意分野らしい。
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翌日。
ミスタメア城の上空に、大きな影が現れた。
最初に気づいたのは、丘の麓で畑仕事をしていたコボルドだった。
「竜!」
声が上がる。
何匹かが反射的に畑へ伏せかけたが、すぐに別のコボルドが叫んだ。
「ヴァルザリオンだ!」
緑色の翼が大きく広がり、若いグリーンドラゴンがミスタメア城の上空を悠々と旋回している。
一周。
二周。
高度を少し下げ。
三周目。
その時だった。
ヴァルザリオンが大きく首を反らした。
そして。
咆哮。
腹の底へ響くような竜の声が、丘と森へ一気に広がった。
城壁の上で作業していた大工が手を止める。
畑にいたコボルドたちは揃って空を見上げる。
少し離れた農地では、牛が驚いて鳴き、農夫たちも何事かと顔を上げた。
さらに遠く。
森の中。
こちらの畑を窺っていたゴブリンの小集団が、一斉に身を縮める。
一匹が空を見た。
緑の竜。
その下にある城。
そして、竜は逃げるでも通り過ぎるでもなく。
明らかに。
そこを自分の場所であるかのように回っている。
「……竜の巣?」
誰かが呟いた。
その日のうちに。
ミスタメアの丘へ近づくのをやめる者は多かった。
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ヴァルザリオンはそのまま飛び去ることはしなかった。
翼を大きく広げ。
城の中庭へ。
どん。
と着地した。
地面が軽く震える。
訓練中だった若い冒険者たちが一斉に固まった。
「……ドラゴン」
誰かが呟く。
赤い腕章をつけたコボルドたちは、もう事情を聞いている。
むしろ少し得意げですらあった。
「ヴァルザリオン」
一匹が説明する。
「ここの山の竜」
「知り合いなのか?」
「セラリスの知り合い」
新人冒険者たちの視線が、今度はセラリスへ向いた。
彼女は何でもないことのように手を振った。
「今日は仕事を頼んだだけだから、攻撃しないでね」
「攻撃しませんよ!」
ミハイルが遠くから叫んだ。
誰が好き好んで、城の中庭へ着陸したグリーンドラゴンに剣を抜くというのか。
ヴァルザリオンはそんな人間たちをほとんど気にすることなく、城門を抜けた。
その巨体では通りにくい場所もあるため、外へ回り。
丘を下る。
目的は。
畑だった。
小麦の若い穂。
豆。
野菜。
石を積んだ畑の境界。
建築途中の豚小屋。
そして。
そこを働き回るコボルドたち。
ヴァルザリオンは首を伸ばし、しばらく興味深そうに眺めていた。
「これがお前たちの畑か」
年嵩のコボルドが胸を張った。
「そうだ」
「食えるのか?」
「まだ」
「そうか」
竜は少し残念そうだった。
セラリスが横から言う。
「勝手に食べちゃ駄目だよ」
「食わん」
「本当に?」
「俺は野菜より牛の方がよい」
「それなら安心」
その答えに、周りのコボルドまで頷いた。
ヴァルザリオンは畑の端まで歩き。
匂いを嗅ぎ。
作りかけの家畜柵を見て。
最後にもう一度、山と森を見渡した。
そして。
翼を広げる。
「これでよいか?」
「充分」
「牛を忘れるな」
「忘れないよ」
大きな羽ばたき。
風が畑を撫で。
コボルドたちの服をばたばたとなびかせる。
ヴァルザリオンは地面を蹴り。
一気に空へ上がった。
もう一度だけ。
ミスタメア城の上を大きく旋回し。
そのまま山腹のねぐらへ戻っていく。
その姿を見送りながら。
ミハイルが、何ともいえない顔で呟いた。
「これ、もう城の警備みたいになってません?」
セラリスは首を傾げる。
「警備じゃないよ」
「違うんですか?」
「牛一頭で縄張りを主張してもらっただけ」
ダリヤが横から言った。
「それを警備っていうんじゃない?」
「そうかな」
結果として。
それ以降。
ミスタメア城の畑へ手を出そうとするゴブリンは、目に見えて減った。
山の噂は早い。
あの廃城にはコボルドが住んでいる。
それだけなら。
奪える相手だった。
だが。
あの廃城の上をグリーンドラゴンが飛ぶ。
この一文が加わるだけで。
話はまったく別のものになる。
そしてセラリスは。
牛一頭という報酬で。
城壁よりもよほど効果のある看板を。
空に掲げることに成功したのだった。