セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
シャーレーン・ハララン男爵が、姪のアリーナから最初の報告を受けた時には、まだそれほど深刻には考えていなかった。
スレスホールド近郊のミスタメア城。
長く廃墟となり、怪物やならず者が入り込むことも珍しくなかったその城へ、かなり腕の立つエルフの娘が入り、内部の怪物を排除して冒険者の訓練所として使い始めた。
そこまでなら、辺境に近いスレスホールドでは、多少変わった話という程度で済む。
問題は、その後に続いた。
「……コボルドを雇った?」
書類から顔を上げたシャーレーンに、アリーナは少し疲れたような顔で頷いた。
「二十匹ほどです。もともと地下にいた群れですが、バーグルという魔法使いに恐怖で従わされていたようです」
「そのバーグルは?」
「逃亡しています」
「コボルドたちは?」
「一度は山へ逃げました。しかし周辺のゴブリンや獣の縄張りに入って追われ、結局ミスタメアへ戻ってきました」
そこまでは理解できる。
問題はその次だ。
「それでセラリスは、彼らを城の管理人として正式に雇用しました」
「正式に」
「はい。住居、食事、給与つきで」
シャーレーンはしばらく黙っていた。
「……給与」
「私も同じところで聞き返しました」
「そうか」
書類をもう一枚めくる。
そこにはさらに奇妙なことが書かれていた。
コボルドたちは赤い腕章を身につけ、城の通路や訓練設備を管理し、冒険者を殺さない模擬罠まで作っている。
城の丘の麓では、近隣農家から教えを受けながら畑を開墾し、小麦や野菜を育て始めた。
いずれは豚や牛まで飼いたいと言っているらしい。
シャーレーンはそこまで読み、静かに書類を置いた。
「アリーナ」
「はい」
「私はお前の報告を疑ってはいない」
「ありがとうございます」
「だが、これは本当にコボルドの話なのだな?」
「はい」
「人間の開拓民ではなく?」
「コボルドです」
「そうか」
また書類を取る。
まだ続きがあった。
そして、そこから先が本題だった。
「グリーンドラゴン……」
シャーレーンの声が低くなる。
「ヴァルザリオンという若い緑竜です」
「セラリスが服従させた?」
「一度戦っています。その後、互いに条件を決めて約束を結びました」
人間を襲わない。
家畜を盗まない。
山や森の獣、そして魔物を狩って暮らす。
必要があればセラリス側から報酬を払い、力を借りる。
逆にヴァルザリオンの側から依頼がある場合は、竜が自分の財宝から報酬を出す。
しかも最近では、近隣農家から月に一頭、牛を金貨で購入しているという。
シャーレーンはとうとう椅子の背へ身体を預けた。
「……竜が牛を買っているのか」
「はい」
「盗まずに?」
「代金を払っています」
「誰が仲介を?」
アリーナは答える前に、わずかに目を伏せた。
「セラリスです」
「だろうな」
不思議なことに、そこまで聞くと予想がつくようになっていた。
しかし。
最後の報告だけは、予想の外にあった。
「それと、最近はセラリスがヴァルザリオンに戦闘訓練をしています」
シャーレーンは瞬きをした。
「……何を?」
「戦闘訓練です」
「緑竜に?」
「はい」
しばらく。
部屋の中を沈黙が満たした。
「なぜ」
「本人によれば、『強いけれど戦い方が下手だったから』だそうです」
シャーレーンは両手を組み、その上へ額を乗せそうになった。
大公国の辺境を預かる領主として。
そしてカラメイコス教会の高位聖職者として。
これまで随分と奇妙な相談や報告を受けてきたつもりだった。
だが。
人を襲わないグリーンドラゴンが牛を購入し。
コボルドが給料をもらって城を管理し。
その竜をエルフの娘が鍛えている。
という案件に対応した経験はない。
やがてシャーレーンは顔を上げた。
「一度、本人と話そう」
アリーナが頷く。
「そうなさると思っていました」
「止めるためとは限らん」
シャーレーンは穏やかに言った。
「お前が見て、今のところ害より益の方が大きいと判断していることも理解している。しかし、これは私の領内で起きていることだ。報告書だけで済ませるには、少々……」
言葉を探した。
「珍しすぎる」
アリーナが少しだけ笑った。
「はい」
/*/
数日後。
セラリスはシャーレーン・ハララン男爵のもとへ招かれた。
正式な呼び出しではあったが、威圧的なものではない。
むしろ、話を聞きたいので来てほしいという程度の穏やかなものだった。
だからセラリスも、普段より少しだけ身なりを整えた程度で現れた。
シャーレーンは、彼女が部屋へ入ってきた時から注意深く観察していた。
若いエルフの娘に見える。
少なくとも外見だけなら、領地を脅かす怪物や、秘密結社の首領には見えない。
しかし。
その腰には魔法の力を感じさせる剣があり。
アリーナの報告が正しければ、この娘は若いグリーンドラゴンを木剣で叩き伏せることができる。
見た目だけで判断するのは危険だった。
「セラリスだね」
「はい」
「私はシャーレーン・ハララン。この地方を預かっている」
「アリーナから聞いてます」
「そうか」
シャーレーンは向かいの椅子を示した。
「堅苦しい尋問をするつもりはない。座ってくれ」
セラリスが腰掛ける。
アリーナも少し離れたところに座った。
シャーレーンは、まず最も簡単なところから始めた。
「ミスタメア城を冒険者の訓練所として使いたいそうだね」
「はい」
「独立した領地を作るつもりは?」
セラリスは少し驚いたような顔をした。
「ないです」
答えがあまりに早い。
「領主になりたいわけでも?」
「全然」
「では、なぜ城を?」
「便利だから」
シャーレーンが一瞬黙る。
セラリスは続けた。
「スレスホールドから近いし、廃墟そのものを探索訓練に使えるでしょう。地下もある。全部綺麗に直さなければ、本物のダンジョンに近い状態で訓練できるから」
「普通なら、城を手に入れれば修復したがるものだと思うが」
「全部直したら訓練にならないので」
シャーレーンはアリーナを見た。
アリーナが小さく頷く。
報告どおりらしい。
「それで、若者を育てている」
「はい」
「何のために?」
これは少し重要な質問だった。
セラリスは考えた。
「死なないようにするためです」
シャーレーンの表情がわずかに変わる。
「強い冒険者を作るためではなく?」
「強くなるのも大事です。でも、その前に帰ってこないと意味ないでしょう?」
セラリスは、城で教えていることを簡単に話した。
扉を開ける前に聞き耳を立てる。
天井を見る。
床を見る。
怪しい場所へ顔を突っ込まない。
十フィート棒を使う。
戦わずに済むなら交渉する。
退く条件を先に決めておく。
回復魔法があるから傷を負ってよい、とは考えない。
シャーレーンは、途中から質問を挟まず聞いていた。
そして話が終わると、
「なるほど」
と静かに言った。
「アリーナがお前の訓練所を評価する理由は分かった」
「ありがとうございます」
「だが」
当然。
次がある。
「コボルドたちについて聞きたい」
セラリスは頷いた。
「彼らをここへ留めることを強制してはいないのだね?」
「してないです」
「辞めたいと言えば?」
「辞めてもいいですよ」
「住居は?」
「仕事を辞めるなら職員用の場所は返してもらいます。でも、別に捕まえたりはしません」
「給与は?」
「払ってます」
「食料も?」
「はい」
シャーレーンは少し考えた。
「……本当に雇用なのだな」
「だから最初からそう言ってますけど」
アリーナが横から口を挟んだ。
「叔父上、私も最初は同じ確認をしました」
「そうだったな」
シャーレーンは苦笑した。
「ただ、本人から聞いておきたかった」
それから。
とうとう。
避けて通れない話題へ入る。
「ヴァルザリオンについて」
「あ、ヴァル」
シャーレーンは、その呼び方だけで何とも言えない気分になった。
「……親しいのか?」
「それなりに」
「グリーンドラゴンだが」
「そうですね」
「一般的には、人間に友好的な種族とは言えない」
「うん」
「不安にはならないのか?」
セラリスは少し考えた。
「善良だとは思ってないですよ」
その答えに。
シャーレーンは少し安心した。
「でも、約束は守ってる。人も襲ってないし、家畜も盗んでない。牛もちゃんと買ってる」
「その牛の話も聞いている」
「最近は血抜きした肉の方が好きみたいです」
「そこまで聞いてはいない」
「内臓も洗ってある方が――」
「そこはよい」
アリーナが横を向いた。
肩が少し震えている。
シャーレーンは咳払いした。
「問題は、なぜその竜を鍛えているのかということだ」
セラリスはきょとんとした。
「強い方がいいから」
「誰にとって?」
以前アリーナにも聞かれた質問だった。
「ヴァル本人にも。それに周辺にも」
「説明してくれ」
「ヴァルは山の魔物を狩ってるでしょう?」
「聞いている」
「だったら戦い方が上手い方が、強い魔物が来た時も生き残れる。それに、私が仕事を頼む時も安心できる」
「仕事」
「偵察とか、危ない魔物の追い払いとか」
シャーレーンは額へ手を当てた。
「つまり、お前は」
少し言葉を選ぶ。
「領内にいるグリーンドラゴンを、将来的な戦力として育てているのか?」
セラリスは考えて。
「そう言われると、そうなるのかな」
アリーナが小さくため息をついた。
シャーレーンも同じ気持ちだった。
しかし。
奇妙なことに。
理屈そのものは成立している。
人を襲わない。
家畜を盗まない。
周辺の魔物を狩る。
報酬次第では頼み事も聞く。
その竜がさらに戦上手になれば。
少なくとも現在の関係が続く限り、地域にとって大きな危険というより、強力な抑止力になり得る。
問題は。
その関係がいつまで続くか。
「ヴァルザリオンが約束を破ったら?」
シャーレーンが尋ねた。
セラリスの表情が変わった。
それまでの少しのんびりした雰囲気が消える。
「私が止めます」
即答だった。
「必要なら?」
「殺します」
静かな声だった。
迷いはない。
シャーレーンはそこで、初めてこのエルフの一面をはっきり見た気がした。
甘いわけではない。
コボルドを殺さず。
竜とも話し。
敵にさえ逃げ道を与える。
だが。
約束を破り。
守るべき者へ危害を加えるなら。
そこで線を引く。
「分かった」
シャーレーンはゆっくり頷いた。
「少なくとも、私が想像していたより考えているようだ」
セラリスが少し不満そうな顔をする。
「何も考えてないと思われてた?」
アリーナが即答した。
「行動だけ聞くとそう見える時があるの」
「ひどいなあ」
シャーレーンは思わず笑った。
それで。
少し空気が和らいだ。
「いずれ、私自身もミスタメアを見に行こう」
「いいですよ」
セラリスは簡単に答えた。
「コボルドたちにも言っておきます」
「歓迎されるだろうか」
「大丈夫だと思います。赤い腕章をつけてるコボルドは職員なので、間違えて攻撃しないでくださいね」
「……私が注意される側なのか」
「初めて来る冒険者には全員言ってるので」
「そうか」
本当に。
普通の訪問先ではなかった。
/*/
数日後。
シャーレーンが実際にミスタメア城を訪れた時。
城門で最初に彼を迎えたのは。
赤い腕章をつけ。
腰に小さな工具袋を下げたコボルドだった。
「ハララン男爵?」
「ああ」
「セラリスから聞いてる。こっち」
そう言って。
当たり前のように先導を始める。
シャーレーンはその背中を見つめ。
同行していたアリーナへ小声で言った。
「……本当に職員なのだな」
「ですから、そう申し上げました」
城の中では。
若い冒険者が十フィート棒で床を確かめながら進み。
別の部屋ではコボルドが模擬罠を直し。
丘の麓では、人間の農夫とコボルドが並んで畑を見ている。
書類で読んだ通りだった。
いや。
実際に見ると。
書類以上に奇妙だった。
そして。
その時。
上空から。
大きな翼音が響いた。
シャーレーンが顔を上げる。
緑色の巨体。
グリーンドラゴン。
ヴァルザリオンが悠々と城の上空を一周し、そのまま中庭へ降りてきた。
警護の者たちが緊張する。
だが。
セラリスだけは。
「あ、ヴァル」
と手を上げた。
ヴァルザリオンは彼女の前へ首を下ろした。
「セラリス」
「なに?」
「次の牛はいつだ」
シャーレーンは黙った。
セラリスは指を折って考える。
「あと六日くらい」
「遅い」
「月一って約束でしょ」
「金貨を追加する」
「農家にも都合があるから駄目」
「二枚追加する」
「そういう問題じゃないって」
グリーンドラゴンとエルフが。
牛の納期について。
真剣に交渉している。
しばらくして。
シャーレーンが隣のアリーナへ言った。
「アリーナ」
「はい」
「お前の報告を疑っていたわけではない」
「分かっています」
「だが」
ヴァルザリオンが、
「なら三日早くしろ」
と言い。
セラリスが、
「四日なら農家に聞いてみる」
と答えている。
シャーレーンは遠い目をした。
「ここまでそのままだとは思わなかった」
アリーナは、少しだけ笑った。
「私も最初はそうでした」
シャーレーンはもう一度、ミスタメア城を見渡した。
怪物の巣だった廃城。
そこで訓練を受ける若い冒険者。
給料をもらって働くコボルド。
丘の麓に広がり始めた畑。
そして。
金貨で牛を買うグリーンドラゴン。
普通ではない。
どう考えても普通ではない。
だが。
以前より人は死ななくなった。
街道を襲う怪物も減った。
コボルドも人間も、少なくとも今は争っていない。
シャーレーンは静かに息を吐いた。
「……当面は」
アリーナが叔父を見る。
「このまま様子を見ることにしよう」
そして、少しだけ苦笑した。
「私も、何を止めればよいのか分からなくなってきた」